甘やかな月 エピソード2
5
 
 
 
わたしに与えられた、僅かなガイとの別れの猶予の時間。
それをどうやって過ごしたのか、後になって思い起こしてみると、それは霞のように曖昧に朦朧としていて驚くのだ。
きっと彼のそばに寄り添い、そのジャケットの肌触りを指で感じたこと。彼の纏うふわりとした煙草の香り。または、際限なく繰り返された口づけと、甘いささやき。眠るのが惜しくて、怖くて、抱いてほしいとせがんだこと。そして彼の瞳に映る自分の影を認めること……。
それらに酔うように、感覚を麻痺させていたのだろう。
月のめぐる感覚をぼんやりと、けれど冷静に把握してもいた。
ほぼ二ヶ月程度の別れ。
多分、ちょっとした空疎。
多分、他愛もない別離。
けれど、それはとてつもない大きさと重さをもって、わたしに圧し掛かり、押し潰していく。
 
夜更けに、ガイがわたしに合図をした。瞳が合い、それで彼の意図を全て了解する。
深夜、彼について出た邸のテラスは、柔らかい月光に照らされていた。ウィンザーに到着してすぐのころに、広く取られたスペースに、わたしが遊んだ雪の残骸が残っている。棒切れで手を作った小さな雪だるま。それらが幾つも見える。
ガイがわたしの手を握った。それはもう、感覚がないほどに冷えていたのだ。コートにくるんだ体を彼に寄せる。互いの吐息が白い。
腕を回してくれた彼が、寒くないかと問いかける。それにどう答えるか、ちょっと思案したときに、
「見えた」
彼の小さな声が上に聞こえた。彼を見上げるように、わたしは夜空を仰いだ。
それは以前見た光景だった。以前よりも星が多く見え、満月が嫌というほどに輝くのを認める以外は、同じ。
女性の首を飾る繊細なネックレスのようにくねり、それは存在した。ちかちかと内部の照明の煌きがもれて輝いて見える。
不思議と恐ろしさはなかった。あれに乗って、わたしは元の世界に帰る。ただ、その事実を、はっきりと突きつけられただけ。その事実は寒さも忘れさせる。呼吸すら、しばし止める。
いつ伸びたのだろう。
ガイのすぐそばにいつかの縄梯子が下りていた。革の手袋をした彼がそれを掴んだ。片方の腕でわたしの腰を抱く。
「目をつむっているといい。気分が悪くなるかもしれない」
彼はそんなことを言った。頭を自分の胸に強く押し付けるようにする。それでもわたしは僅かに目を開け、最後のときを見守ろうとした。
ぐらりと周囲が歪むのを感じた。上るのではなく梯子はどこかに移動していると感じた。
それを理解すると共に、めまいが襲う。気が遠くなるような、強い眠気のような。
めまいを押さえるために、堅く目を閉じた。その瞬間、意識が失せた。
 
目が覚めたのは、まぶたを通して感じるまばゆい光と、紅茶の香りのせいでだ。
見覚えのある列車のサロンだ。わたしは長椅子に横になっていた。ガイの脚に頭を乗せていた。
銀器や花が飾られたチェスト、布張りの長椅子にどっしりとした猫脚のテーブル。そこから立ち上る紅茶の香り。
窓には何も映らず、やはり真っ暗な闇だけ。
起き上がったわたしに、ガイが紅茶を飲むように言った。落ち着くからと。
「あなたは前にも、同じことを言っていたのよ。覚えている?」
「そうでしたか?」
彼は唇だけで笑った。ほんの少し端を上げる皮肉げな笑み。それは彼に似合わない。彼には目の端にも笑みをにじませていてほしい。それは、彼の端正な顔立ちを柔らかく和ませて、いつもわたしを魅入らせるのだ。
わたしはカップを手に取り紅茶を飲んだ。これは何の種類になるのだろう。わたしの知識の範囲では、それはウバ茶に酷似している。やや渋みのあるこくと、ほのかなメンソールの香気。やはり熱く、舌が焼けそうだ。
わたしは紅茶を啜りながら、ガイにシンガの面倒をしばらく頼むこと、煙草を吸い過ぎないようにすること、たまにはわたしを思い出してほしいこと、そんなことらを話した。努めて、ごく軽い調子で。
「いつだって、あなたのことを思っている」
彼の真っ直ぐな瞳、真っ直ぐな言葉。それに抑えた涙がにじんでくる。取り繕った落ち着きの仮面が、あっさりと剥がれる。
「ガイ、わたしを迎えに来てくれてありがとう。本当に嬉しかったの。わたし……、あなたのそばにいられて、幸せだった。……ありがとう」
「お嬢さん、僕たちはまた会えるのですよ。あなたは僕の妻だ。最後みたいなせりふは止めなさい」
「きちんと、言いたかったの。あなたにお礼を。わたしを見つけてくれて、ありがとう」
涙は静かに流れた。泣きじゃくるのではなく、冷静でいたい。苦しいほどの理性で押さえるのだ。別れのぎりぎりの切なさと、痛みを。
少し笑ったつもり。彼に楽な気分でいてほしいから。なぜなら、彼は目を細めた辛そうな表情をしている。わたしに残酷な別れを強いると、胸を痛めているのだろうか。大好きな、優しいガイ。
「大丈夫よ、ガイ……」
「平気だから」と言いかける前に、彼の腕が伸びた。引き寄せて、きつく抱きしめられる感覚と、温もり。大好きな、瞬間。
「愛してるわ」
彼の胸にささやいた。
「僕こそ、あなたとめぐり会えて幸せだった。これからも僕に、その幸せをくれるでしょう?」
「ええ」
繰り返すささやきと、誓いの言葉。そして熱い抱擁と口づけ。
その果てに何があるのだろう。何が待つのだろう。
 
「抱いていてあげる。だから、眠りなさい、お嬢さん」
何が最後だったのだろう。
指を絡めたこと? 
瞳を閉じたこと?
その瞼に感じた彼の唇の感触?
「愛している」。確かにそう聞こえたガイの声?
全てが消えて、幾つかの幕間のようなおかしな夢を見た。
荒唐無稽な夢の中で、わたしはしっかりと自分を意識しており、あれこれと予定をめぐらせているのだ。温室でバラを切ること。コーンド・ビーフを厨房で試してみること。新しい衣装のデザインや割ってしまった陶器の修理をアトウッド夫人に頼まなくてはいけないこと。
それらを順序良く、一日の流れとして立てた。コーンド・ビーフを仕掛けてから、バラを切り、飾る。衣装のデザインを相談した後で、修理の件も持ち出してみる。
ああ、お茶の時間はどうしよう。書斎が暖かいかしら? お夕食のころには、朝に仕掛けたコーンド・ビーフが出来上がっているだろう。
早く起き出さなくては。ガイより先にベッドを抜け、化粧室のバスに入らないと……。
 
 
うっすらと目を覚ます。
低い天井が見えた。天蓋のないシンプルなベッド。羽根布団に掛けたリネンのベッドカバー。花柄のクッションと枕。
「ああ」
窓から差し込む明るい朝日は、フローリングの明るい床を、ぴかぴかと光らせる。
やんわりと体を起こした。わたしはクリーム色の衣装を身に着けていた。コルセットが苦しくないように緩められている。
両手で髪をかき上げた。まとめた乱れ髪が、ぱさりと肩に落ちてくる。指のリングのダイヤが光った。
衣装、リング、髪の形……。それらを残して、わたしの周囲から、全てが消えていた。
壁の大きな花瓶に挿したミニバラのドライフラワー。書架の並んだ文庫本。集めていた香水の瓶……。
ここはなじんだわたしの部屋だ。家の二階にある、ベランダの付いた……。
「わたしに……、ただの由良に戻ったんだ」
 
わたしは手早くシャワーを使い、普段着に着替えた。クローゼットの一番手前にあったワンピースを着た。
がらんとしたキッチンはひどく冷えた。温かな飲み物がほしくて、お湯を沸かし、紅茶を淹れた。
マグカップにたっぷりのミルクティーを、時間を掛けてゆっくりと飲む。途中空腹を感じて、ジャムを挟んだサンドイッチを作って食べた。
頭は空っぽで、思考にまとまりがない。つらつらと散文的なことを考えるだけだ。家を掃除することや、かさついた肌を保湿パックしたいこと、もう一度ベッドに潜り込もうかとも思う。
感情が抜け落ちていた。
食べたいものを考え、したいことを決め、ほしいものを求めるだけ。
そんな空虚なわたしを、電話のベルが呼んだ。誰だろう。誰でもいいけれど。
指に付いたジャムを舐めながら、受話器を上げた。
耳に響いたのは男の声。低いちょっとかすれた声は言う。
「由良さん、帰って来たんですか? 十日も連絡もせずに、一体あなたはどこに消えていたんです?」
名乗りもしないで、男はなじるようにそんなことを言う。
その声、トーンの調子に、じわりじわりとある人物が頭に浮かんだ。
そこでようやくわたしは、覚醒するように感情を取り戻した。軽くそれに頬の内側を噛んだ。
「わたしですよ、由良さん。時任です」
あの眼鏡の奥の冷たい瞳、スーツとアタッシュケースの彼だ。
わたしの嫌いな、彼。



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