甘やかな月 エピソード2
6
 
 
 
一方的な電話を切ると、わたしはもう一度眠ることをあきらめた。嫌な声を聞いた後では、後味の悪い夢を見そうだったからだ。
夢ならガイの夢を見たい。
彼と離れている今、夢でしか、彼とは会えないのだから。夢でだけでも、甘えていたい。
冬の外気は冷たいものの、十日も放っておいた家の中の空気は澱んでいるように感じる。わたしは窓を開け放し、空気を入れ替えながら、掃除を始めた。
身を屈めて床を拭き、掃除機を抱える。こういった作業は久しぶりで思いの他、新鮮だった。
この数ヶ月、ガイのそばで過ごしたあの日々、わたしは自分の寝室さえ片付けてはいけなかった。
あるとき、ベッドのシーツを癖で整えた。それだけで、気づいたアリスは、ころころと笑ったのだ。「おかしなお嬢さま、アリスの真似をなさったのでございますか?」と。その反応に、わたしは目を見張ったのだった。
常識の違い、それから、わたしにどうしても足りない貴婦人としての資質を痛感した……。
久しぶりの掃除は楽しかった。体が暖まるまで窓を拭いたり、キッチンを整えたり、忙しく動き回った。花のない風景がひどく殺伐として感じる。後で花を買ってこよう。
リビングやキッチン、そして自分の部屋。わたしの動線のあちこちに花を飾りたい。ふと視線を置いた先にいつだって花の存在があってほしい。
それはわたしを和ませてくれるだろう。ガイと離れている間、花を絶やさずに過ごそう。小さな切花でも、名も知らない安い花でもいい。
そんなことでも、あちらでの生活にほんの僅か、つながりを持てるような気がするのだ。
こんなささやかな取り決めを幾つか。それを支え、もしくは楽しみに、わたしは満月の日を待つのだ。彼の来てくれる夜を。
 
時任さんが訪れたのは、掃除の後で、わたしが飲むお茶を選んでいるときだった。幾つかの缶から一つを選んだとき、玄関のベルが鳴った。
何の用だろう。
渋々と彼を招じ入れた。さきほど掛けてきた電話で彼は文句ばかりを並べ、一方的に切った。しかし、会話の中で、こちらに来るようなことを、彼は言っていたのかもしれない。わたしはあまり真剣に、話を聞いていなかった。
掃除を終えたばかりのリビング。そのソファに、彼は断りも入れず掛けた。以前と同じような印象。スーツを隙なく身に着け、細いタイプの眼鏡の奥の瞳は、きつく光っている。
アタッシュケースはもう持っていない。あれは父に見せる何かが入っていたのだ。父のない今、必要などないのだろう。ぽんぽんと、苛立つのか、癖なのか、自分の膝の辺りを指で打っている。
自分だけ楽しむために淹れかけた紅茶だったが、しょうがなく茶葉を増やし、彼にも淹れる。種類は何でもいいと思った。きっとわたしも芯から楽しめないだろうし、彼にも味などわからない。
テーブルに乗せたカップから湯気が上がる。
彼と向き合う形で、以前の父のお気に入りの一人掛けのソファに掛けた。彼にも勧め、自分でも一口飲んだ。
「ああ、ディンブラか。いい香りだ」
伏せたわたしの瞼が、意外な彼の言葉にぴくりと反応する。確かにわたしは、ディンブラの茶葉を選んでいた。
目が合うと、にこりともせずに、「紅茶は好きでね」と言う。
それから彼はカップを置いて、両の指を組み、脚に乗せた。眼鏡のレンズ越しに、しっかりとわたしの目を見据える。
それから、こんなことを前置きした。「あなたには、少々同情しているが」と。
「二十歳前のお嬢さんには、荷が重いということも承知している。そりゃ、嫌でしょう。五十歳過ぎの男との縁組だ。夢も希望もない。しかも、幾人も小姑がいて、結婚後もあなたの立場などごく小さいでしょう。苦労をしに行くようなものだ」
彼の言葉を聞きながら、わたしは紅茶を飲み、スカートのひだに触れたり、別のことを考えたりしていた。
彼の話には興味がなかった。
それは以前の彼の知るわたしならば、涙ぐんでそれを聞いたかもしれない。けれど、わたしは既にガイの妻なのだ。ただ静かに、気を落ち着けて、彼の迎えを待ちたいのだ。それだけしかない。
到底、時任さんの話を聞き入れる場所などないのだ。
言葉も返さず、うなずきも相づちもないわたしの様子に、彼はちょっと首を傾げる。
「あなたは、どこか雰囲気が変わったようですね。……まあいいでしょう。帰って来てくれたのだし。
しかし、今後は頼みますよ。わたしに何の連絡もなく遠出などしないこと。外出の際は、わたしが送り迎えをします。短大への通学はもちろん、遊びに出かける際も必ず連絡を下さい。
あなたがここのところ行方不明で、わたしは社長からこっぴどく叱責を受けた。あんな目はもう懲り懲りだ。今後、あなたの行動を監視します。それから、結婚式の準備もそろそろ…」
そこでやっと、目の前でぱんと手を打たれたように、わたしは我に返ったようになる。
くどくどしいほどの監視を行うという彼の意思と、その後に続いた結婚式の準備という言葉。
これを受けて、ようやくわたしは首を振った。
「結婚は、嫌です」
それだけは、どうしても受けられない。絶対に嫌だ。
彼はカップを取り上げ、一口飲んでから、
「何を今更」と、眉をひそめた。その彼に対して、わたしははっきりともう一度繰り返す。「結婚はできません」と。
彼は膝に戻した手を軽く打った。
もののわからないわたしに、諭すつもりなのか、もしくは脅してうなずかせる気なのか。じいと据えたまま、瞳をわたしから逸らさないのが不快だった。レンズを通すと彼のその目はひどく冷たい。整った顔立ちはその目とあいまって、酷薄に感じられる。
こんな表情を持つ彼と、わたしはどうして同じ空間にいるのだろう。いなくてはいけないのだろう。
「どうやって、何も持たないあなたが暮らしていくつもりです? あなたは父親の金を一銭も動かせない。この家も土地も、全てこちらのものだ。その処置を待ってやっているのは、あなたが社長との結婚をのんだからだ」
彼の口調は思いの他、淡々として冷たさがなかった。しかし、その内容は反面、なんて嫌な響きを持つのだろう。その差が気味の悪いほどだった。彼はその落差の効果を狙ったのだろうか、わたしを怖がらせるために。
わたしはすっかり怯えていた。背筋をじわじわと嫌な感覚が這うのを感じる。彼の前から逃げ出したい気持ちを、何とか押し込め、ようやっと口を開いた。
「わたしは、結婚をのんでなんかいないわ」
「あなたがのまなくても、あなたの叔母さんがのんでくれましたよ、あなたの留守の間に。彼女は未成年のあなたの代理人となっている」
「そんな……、馬鹿な。本人に確認もしないで」
損得に敏いあの叔母さんなら、うなずける判断だった。きっと、叔母はそれで、何がしか得をするのだろう。
けれど、それでは、わたしは全くの蚊帳の外で、自分の人生さえも決められないのだろうか。
それでは、あたかも……、
目の前の彼は、ジャケットの内ポケットからチョコレートの箱を出した。マーブルのそれを幾つか口に放り、噛んだ。

「売られたようなものでしょうね」

咀嚼の途中でそんなことを言う。そして、金沢の叔母がこの家の権利書、実印など重要なものは全て手に入れていると付け加えた。
「あなたは無一文だ。悪いことは言わない。わたしの言うとおりに行動しなさい。ここを出て、どこで暮らすというのです? その保証人は? 当座の生活費は? そして誰があなたを雇ってくれます? 世間はあなたの知っているよりずっと厳しい」
突きつけられた数々の事実に、目がくらみそうだった。彼の言うことは正しい。わたしはこの家を出た外の暮らしを知らない。父の庇護の元、ぬくぬくと暮らしてきただけだ。世間知らずの、お嬢さんでしかない。
ぽりぽりと、彼がマーブルチョコを噛む音がする。
「あなたのためにもなる。意に沿わない結婚でしょう。しかし少々窮屈だが、生活は保障される」
確か、そのようなことを以前、父の会社の経理をしてきた矢島さんが口にしていた。一つの選択肢ではあると。
わたしは彼に訊いてみた。矢島さんはどうしているのかと。
「ああ、彼はあなたのお父さんのものだった会社の、今副社長をしていますよ。内部事情に詳しい、キャリアのあるあんな人材は有用です。以前からの社員をよくまとめているようです」
「そう」
それを聞いても、心は波立たなかった。しょうがないのだと思う。それぞれ抱えるもの、守るものがある。感傷や感情だけではきっと生きていけない。
わたしも、きっと何かを乗り越え、ガイのことを好きになった。
ねえガイ、あなたは今、何をしているの? 堪らなくそれが知りたい。
「お嬢さん」
時任さんが言う。おかしいほどに、ガイがわたしを呼ぶ「お嬢さん」とは違う。
突き放すようなその呼びかけの後で、彼はわたしに「今からつくるべきものをつくっておけばいい」と言った。例えば、未来の夫の深い愛情、または信頼。それはきっと今後のわたしの力なるという。
「あなたの方が社長の小姑連よりきれいだ。それに若い。わたしの言うように動けば、あっさりとあなたは、大きなものを手にできるでしょう」
そうなったわたしに、この人は利用価値があると踏んでいるのだろう。だから、こんなことを言う。
そんな気持ちで、わたしは彼を初めて見返した。急に返ってきたまなざしに、彼はちょっと口の咀嚼を止めた。そうしてまた噛んだ。
「そんなきつい目をしなくても、しばらくは、わたしはあなたの味方です。
お嬢さん、今はのめるものはのんで、手に入れる時だ。それが、あなたの将来の選択肢の数になる。
その中から選んで、必要のないものは、そのときとっとと捨てればいいじゃないですか。何も手にしていないあなたには、わからないかな」
今は我慢をして何かを集め、それが貯まったら必要のないものは捨てればいいと言っているのはわかる。けれど、彼の話は、よくわからない。
それでは、まるでわたしが彼の社長すら、時が満ち、必要のないころには捨てていいということになる。都合よく……。
「もう一杯、紅茶をもらえますか?」
彼がカップを差し出した。わたしはティーポットからお茶を注ぎながら、瞳を伏せた。
伏せながら、ぶくぶくと胸の奥から泡のようにある意図が生まれてくるのを感じる。怒りに似た、けれど冷たいあきらめの色をした何か。
それはふくらみあっという間に、わたしの心を支配する。
 
まだ、わたしの時は満ちない。
では、わたしはそれまでこのまま従順に瞳を伏せ続けていよう。誰かが作った好まない型の中に、無理に埋められていくのは嫌。
時が満ちたら、あっさりと捨てよう。不要なものを都合よく。彼の言うように。



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