甘やかな月 エピソード2
7
 
 
 
わたしは月日を、指折り数える思いで過ごしている。
あと幾日眠れば、ガイに会えるのだろう。あと幾日こんな日常を越えれば、わたしはあの懐かしい日々に戻れるのだろう。
わたしをふうわりと包んでくれた、あの優しい日々に。
 
「そこを左の方が、早いですよ」
赤信号に停まったときに、助手席に座る時任さんが言った。視線を向けると、ちょっと顎を前に突き出して示している。
彼の手には、近くのコンビニで買ったポップコーンの袋がある。指でつまんでは、ひっきりなしに口に運んでいる。
くしゃくしゃと、彼の咀嚼する音。
わたしは彼の言葉の通りに、左にウインカーを出した。
自動車免許は、短大へ入学とほぼ同時に取得していた。あまり、これまで乗る機会がなく、ペーパードライバーに近い状態だった。そんなわたしに、いきなり運転の練習をさせるのは、彼だった。
「社長が、若い新妻に運転させるのを好むようです。何かに出かける際の送迎を、きっとあなたにさせるでしょう。上手くなっておくに越したことはありません」と、そんなことを言って、自分は助手席に居座り、あれこれと指示を出す。そんなとき、大抵彼は何か頬張っている。マーブルチョコのときもあれば、ポップコーンのときもある。
冷たい横顔で、始終口を動かす彼を乗せ、これまでいろいろと車を走らせてきた。通学もそう、彼の言う用事で出かける際もそう。ごくたまに友達と会う場合もそう。
行きも隣りに彼が、何かを咀嚼しており、帰りにも何かを口に含んでいる。
くしゃくしゃくしゃと。
堪らなく不快であったその音が、今ではあまり気にならなくなってきている。そして、わたしが出かけない場合も、必ず毎日、少しでも家に顔を出す。それほどに彼は、わたしの生活に侵入している。
わたしにとって、こちらで過ごしたひと月は「時任」というこの異物に、慣れる期間だったように思う。
「時任さんは、よほど暇なのね。わたしに付き合ってばかりで。他のお仕事はないの?」
こんな皮肉を口にできるほどになっている。
彼は、わたしが嫁ぐという「丹羽経済会」の代表である社長の秘書だ。自身では、「便利屋ですよ。社長の」と、そんなことを言っている。
一度、その社長とは会った。彼の邸でのごく簡単な挨拶だった。びっしりと頭を白いものが覆っている他、どこといって奇異でもない。普通の年配にさしかかった男性だった。銀行にも、市役所にも、学校にでもいそうな。
その社長は、わたしにはどうでもいいようなことしか訊ねなかった。短大での勉強のことや、習いものの数など、好きな食べ物は何か。
叔母が用意した友禅の振袖を着たわたしは、うつむいてばかりだった。帯がきついこと、正座が長く続き、そろそろ足の先が感覚をなくしていることばかりに気を取られていた。
じきにこの世界から消えるわたし。
目の前の、わたしを欲しているのだというこの随分と年嵩の男性のことなど、微かな嫌悪感の他に、何を思えばよいのか。
そしてわたしの隣りで、せいぜい名流夫人を気取る叔母。
恨みも憎しみもない。とうに彼らへの気持ちは、かさかさに乾いたものになっている。
ほしいだけわたしから何かを獲ったのなら、もういいでしょう。全部あげる。
そうして、ときが満ちたなら、わたしはあなたたちを捨てるの。
いいでしょう? それくらい。
 
ぽつぽつと雨がフロントガラスを打ち始めた。時折雪が混じるそれは、ガラスの上で次々に砕けて、流れていく。
「さあね、これも仕事です。さて、次の角で右折してください。それで着く」
彼はそんな風に会話を切って、指をちょっと右に曲げる。
大きな交差点の向こう、彼の指差す方には、ショールームに飾られた衣装の端が見えた。
これから向かう先は、わたしのウエディングドレスの打ち合わせのブライダルサロンだ。今日で二回目だ。パリから新しい衣装のサンプルが届いたのだという。その新着を待ってドレス選びに入ることになる。
「あなたもスナップの一枚は、ほしいでしょう?」
まるでわたしの保護者のような顔をして、彼はスーツのポケットからデジカメを取り出した。それで試着をしたわたしを撮ってくれるという。
わたしはそれに、答えなかった。当たり前に、ほしくなどない。
夏を前に行われるというホテルでの挙式。何かの丹羽側のレセプションを絡めたパーティーになるのだという。式とは名ばかりで、ほぼ新妻のお披露目でしょうと、時任さんは言う。
社長の考えでは、わたしの着る衣装のイメージは、夏らしく涼しげなものがいいのだとか。どことなく大人びたものを選ぶように言われているらしい。
その招待客の選択や式の準備に忙しげな彼は、時にその煩雑をぼやくのだ。
ねえ、時任さん。
でも、そんなもの、本当に実現するのかしら。
 
 
「ごめんね。行けそうもないの。残念だけど……」
わたしは缶の紅茶を飲みながら答えた。
気の置けないはずの短大の友人たち。彼女たちは学内のカフェテリアで、旅行のパンフレットを広げる。バリへの卒業旅行を考えているのだとか。
「日程の変更は無理だけど、由良の都合が悪いのなら、どこか国内でも……」
「そうそう。行こうよ」
そんな風に誘ってくれるのは嬉しい。彼女たちは、わたしの俄かな境遇の変化を理解してくれていた。通学など、わたしの最近の行動に必ず付きまとう時任さんの存在は、ひどく目立ち、隠し通せるものではない。
「みんなであの『眼鏡』を説得してあげるから」
彼は、彼女たちには『眼鏡』のニックネームで通っている。
けれど、わたしはやはりそれを、胸が痛みつつも、曖昧にやんわりと断った。
「ごめんね。…やっぱり、厳しいと思う」
きっと時任さんは卒業旅行の件にいい顔をしないだろう。それは彼に言うまでもない。じろりとこちらを眼鏡の冷えた瞳で眺め、「身をわきまえろ」とでも言いたげに「無理でしょう」とあっさりと口にするだろう。
しかし、わたしが誘いを断ったのは、それが理由ではない。
正直なところ、あの彼の冷たい視線の先にいることに慣れ過ぎて、怯えも恐れも感じないのだ。もちろん彼の立場や感情など、あまり忖度もしていない。落ち着き払った彼が、わたしのことで困るのを見るのは、却ってちょっと胸が躍るくらい。
わたしが旅行を断ったのは、満月の日が近いから。彼女たちの旅程にちょうど前後する。
申し訳ないのだけれど、もうガイのことしか考えられない。何を置いても、何を犠牲にしても、あの人に会いたくて、恋しくて、本当に胸が痛むほどに焦がれている。
もうすぐ会える。
それを思うだけで、じわりと幸せが心に満ちる。緩やかに、月が満ちていくように、わたしの気持ちも円を描くように、まあるく満ちる。
 
 
その宵の入り口は雨が降った。じくじくといつまでも続き、わたしはそんな癖などないのに少し爪を噛んだ。
月が雲間に隠れてしまう。早く、雨が上がらないかしら。月はいつごろきれいに円を描の姿を見せてくれるのだろう。
キッチンの窓から、目を外の景色に凝らす。庭の葉を茂らせた潅木が邪魔で、ここからは上手い具合に夜空が望めないのだ。
「明日社長宅での昼食会です。お子さん方も揃う。くれぐれも格好は…」
クラムチャウダーを煮た鍋をかき回すわたしの背中に、時任さんが言い募る。新しく買った、あのきちんとしたワンピースを着ろだの、前もって美容室に行っておけだの……。
わたしはそれに上の空で答えた。はいと言ったのか、うんとうなずいたのか、自覚がない。
「由良さん、ぼんやりとして、大丈夫でしょうね?」
厳つい声で彼が念を押した。わたしの様子が心配らしい。明日の十一時に迎えに来るという彼に、構わず、多く作り過ぎたクラムチャウダーを食べないかと誘った。
たまに彼はここで夕食を共にする。煮込み料理は多く作ったほうがおいしい。独り身の彼も、案外当てにしている節もあるようだ。
「ねえ、パンを切るから。少し、座って待っていて」
この彼との味気ない夕食も最後かと思うと、妙な感慨があるから不思議だ。わたしが消えた後の後始末を彼がどうつけてくれるのか。
それを考えると、どこか、申し訳ないような。おかしいような。
誰かの期待を裏切るというのは、どんな形であれ、心を苛む。
 
夕食を食べた後で、じき彼は明日の件をくどく念を押して帰った。
わたしはキッチンを片付け、部屋を整理し、いつかのようにリビングのソファに掛けた。
膝を抱き、そのときを待つのだ。
いつしか雨は上がった。
わたしはふらりと窓辺に寄った。カーテンを開けたフランス窓に掌を当て、夜空を見上げる。雲間にきらりと月影が見える。それはすっきりとしたきれいな円を持ち、じきにその優雅な姿を現していく。
見惚れるように、わたしはその間違いのない光景に見入った。
月の近くにたなびく雲影。
時に瞳を閉じ、またはそれを瞬き、見つめる。
 
いつまで待つのだろう。いつになったら、現われるのだろう。
澄んだはずのわたしの心が、時間の長さに焦れと微かな苛立ちを生じ始めた。
それは十二時を過ぎ、やんわりと雲が月の姿を覆い出すころには、涙に変わっていた。
「どうして……?」
足元からつま先、頭の芯まで氷水に浸ったように冷えた。どうしてガイは現われないのだろう。
「どうして…なの…?」
 
その約束の宵、朝になるまでわたしは待った。
けれど、ガイは現われてくれなかった。



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