甘やかな月 エピソード2
8
 
 
 
まんじりともせずに朝を迎えたわたしは、いつの間にか寝入ってしまっていた。
窮屈なソファでの睡眠は深いものではなかったのだろう。日の明るい光が顔を照らすと、夢がぷつりと途切れるように、目覚めた。
リビングの時計は九時過ぎを指している。
ふらりと立ち上がったわたしは、寝足りない頭のまま、バスルームに向かった。何も考えずに、熱過ぎるほどのお湯を浴びた。
すとんとしたパイル地のワンピースに着替え、肌を調えた後で、キッチンに移った。
小鍋でロイヤルミルクティーを淹れる。煮詰める間に、パンケーキを焼いた。薄いものを二枚。できたものにジャムとバターを乗せる。
まだシャワーの火照りの残る体のまま、わたしはそれらを食べて、熱いミルクティーで喉に流した。
ちょっとテレビを見て、時間を確認する。十時ちょっと。そろそろ出かける準備に入ろう。十一時には時任さんがここに現われる。とても美容院へ行く時間はないが、丹念にブローすれば誤魔化すこともできるはずだ。
キッチンを片付け、二階の自分の部屋に入った。
ここまでのわたしの行動は、きっと慣性だ。
時間に遅れないように気をつける習慣をわたしは持っていたし、それらに追われる間は、あまり余計な頭を使わないという癖。約束を破ることが難しい性格。誰かの指示をもらうことになれた生活を、わたしは長く続けてきたこと。
きっとそれらの慣性。坂を物体が転がるような当たり前の、慣れた毎日。
それが、今のわたしを救っている。
 
 
時任さんは十一時前にはもう迎えに現われた。紺地のスーツに色を控えたストライプ柄のネクタイ。見慣れた、似たような彼のいつもの装い。それはしっくりとき過ぎて、まるでこのまま生まれてきたようにさえ思える。
例えば、学生服を着たような彼は、想像がつかないように。
夕べ別れるときには、ぼんやりと上の空であったわたしが、彼の到着前には既に準備を整え終えていることに、ちょっと虚を突かれたようだ。そんなような表情をしている。言葉にはしないが。
きっと、わたしのずるずると進まない仕度にはっぱをかけるつもりで、彼は早くに現われたのだろう。
互いにいつものように、会話も少なく車に乗る。これもほぼ習慣になったように、わたしが当然のようにハンドルを握った。
そのドライブの間、彼は時折、わたしへの今日の忠告などを口にする。おとなしくしていること。余計なことは話さないこと。言われるままにしていればいいこと。
そんな、こちらの気持ちなど全く考慮しない彼の言葉が、続く。
わたしは運転に集中しつつも、冬には珍しいほどのからりと晴れた空や、街並みなどに注意を向けたりした。
視線を運ぶたびに、自分のツイードのワンピースの、淡いピンクが目に入る。ルームミラーに映るわたしの首には、派手でない程度の小さな雫型をしたダイヤのネックレスがある。耳元にも同じく、雫を模したイヤリング。そして下ろしたての足元のパンプス。
全て、丹羽社長が時任さんを通して、わたしに与えたカードで買ったもの。彼の好むように、目障りにならないように。
そのカードをわたしに渡すとき、時任さんはにやりと口を歪めて笑ったのを覚えている。そしてこんなことを言った。
「プリティーウーマンみたいじゃないですか」
おかしそうに、どこか嘲るように。
あるとき彼に訊いたことがある。どうして丹羽社長は、わたしなど小娘を妻にしたがるのか。家と土地ほしいのなら、それらを奪えばそれでいいのではないかと思う。
例によって、時任さんは何かをくしゃくしゃと噛みながら、気味の悪いことを言った。
「あなたにまず最初に目を付けたのです。それからあなたの父親に近づいた。
社長は長く遊んできた人です。ずっと面倒を見てきた女もいます。けれど、そういった玄人の女にはもう飽きたのでしょう。
老後をこれから迎えるに当たり、若くて可愛い夫人がほしくなったようですよ。世間知らずで、一見純粋そうな、自分の好みに染めやすい。

わたしにすれば、そんな若い女を選ぶのが迂遠に思いますね。手間も金もかかる。頭も身体も成熟した女の方が、ずっといい。
しかし、ああいう立場の男にとっては、それもまた大きな愉しみのようです」
 
丹羽家に着くとすぐに、お手伝いの女性に離れの和室に通された。この襖を前に、時任さんはどこへやらへ行ってしまった。
おかしなことに、あんな人でもいないと不安を感じる。
二十畳もあるだろう室内には、大きな黒檀の机をぐるりと人々が囲んでいた。掛け軸の掛かる床の間を背にしたのは、今日で会うのが二度目の社長。その斜向かいに三十過ぎだろう、痩せぎすの男性がいる。その向かいには三人の女性。わたしより幾つも年上に見えた。彼女らはいずれも、競い合うように色の濃い服を着ている。
足を踏み入れた途端に、彼らのじろりとした十個の瞳がわたしに向けられた。
社長が、わたしを自分の隣りに招いた。
席に着くと、濃い整髪料の臭いが鼻を突いた。きついその臭いは、わたしには不快だった。
彼が斜めに座る男性を、浩二郎という丹羽家の長男であることを告げる。その浩二郎さんは、ちょっと顎を引いただけで、わたしへの挨拶にしたらしい。
「娘たちだ。長女の祥子、次女の桐子、三女の結子だ」
彼女たちも、挨拶のような、視線を投げただけのような、いい加減な興味をわたしに示した。端から、対等に扱われていないのを感じる。
父親が遅くに妻に迎えるという、奇妙な背景を持つ小娘。それが彼らの中でのわたしに過ぎないのだろう。
しょうがないと思う。それが自然な反応だろう。わたしだって、同じ立場であれば似たような視線を、父の後妻になるという女性に向けたかもしれない。
だらだらと社長の紹介のようなものが続く。浩二郎さんが彼の持つ別の会社の社長をしていること。娘たちにはブティックを経営させていること、末の結子さんは別で、美容関係の店を持たせていること。
不意に彼が、わたしを見た。
「お前も、卒業後に店をやってみるか? 興味があれば、金は出してやる」
彼のその吐息さえ感じるほどの距離に、わたしは肌が粟立った。
 
紹介の後で、食事になった。贔屓の料亭の板前を呼んだのだという。
昼には重いほどのしっかりした内容で、わたしの箸はじき止まってしまった。元より、空腹など感じていないのだ。
これからお品書きを見ても、お造り、焼き物、中皿……、うんざりとするほど続く。
ひどく居心地の悪い思いで、手元のお茶を飲む他は、促され、社長を始め、子供たちの空いたグラスにビールを注ぐのが、わたしの役目になった。
子供たちはわたしの存在など考慮せず、互いの思いを話している。わたしという厄介者が増えることで、社長である父からもらうべき遺産の額が減るのを案じているのだ。
だから今のうち、彼らは生前贈与という形で、はっきりと分けてほしいと言う。
「兄さんはお父さんの跡を継ぐのだから、それを配慮してよ。幾らでも儲けようがあるじゃない」
「お前らの店の赤字分は、いつだってうちが補填してやっているだろうが」
「それは別よ」
そんなやり取りに、社長は気分を害したのか、既にそれらの手配はできていると、ぶつっとした口調で告げた。
「由良のことは、心配するな。お前たちの悪いようにはしない。わしも半分も持っていかせる気はないからな。さあ、その話はおしまいだ」
彼はそう打ち切り、空いたグラスをわたしに突き出した。わたしはそれにビールを注ぐ。彼の左手が、テーブルの下でわたしの膝に触れた。這うような指先が、スカートの内側を、こっそりと遊ぶように動く。
湿った指の怖気のふるう仕草。ビールの瓶がかちかちとグラスに当たり、音を立てた。
このときになって、衝撃のように哀しみが襲う。
スカートの内側を彷徨う、密やかな指の動き。行きつ戻りつするその感触。湿ったその温もり。
空々しい子供たちの会話。
それらに、自分の立つ場所、持つべきリアルが、否応もなく目の前に突きつけられる。
嫌。
ビール瓶を持つ手の甲に、涙が落ちた。ぽつりぽつりと、流れていく。いつの間に泣き出したのだろう。あっという間に、それは隠しようもないほど露になっていた。
「おい、どうした?」
社長の声に、顔も上げられない。ねっとりと耳元にささやく声が続いた。「わかった、わかった。もう悪戯はしない」
きついきつい整髪料の臭い。
「……ちょっと、お手洗いに」
わたしはハンカチで顔を覆い、立ち上がった。どうしても、この場にいたくない。息ができないほどの拒絶感。それに突き動かされるように部屋を出る。
「変な子」
「何、あれ?」
そんな声が背中に聞こえた。そんなものどうでもいい。どうでもよかった。
 
どうして、ガイは来てくれなかったのだろう。次の、次の満月。そう彼は言った。約束してくれたのに。
その約二ヶ月が終わっても、ガイは来ない。
「どうして?」
あの和室から離れた、冷えた女性用化粧室。わたしはその壁にもたれた。寒さなど、感じなかった。
どうしてガイは来なかったのだろう。彼は「僕たちは再び会える」と言った。「あなたは僕の妻だと」。「レディ・ユラ」だといって、笑った。
どうして?
何があったのだろうか。彼に何かあったのだろうか?何か理由があるのだろうか? 来られない訳が。
愛していると、幾度もささやいてくれた彼の声。その甘い愛撫をわたしは確かに、受けた。忘れられないほどに、何度も、何度も。
それをわたしは信じている。目を閉じれば、すぐに彼の面影やくれたあの温もりが甦るのだ。
彼を、深く愛している。ガイでないと、嫌。どうしても嫌。
「待ってみよう」
そう言葉にしてみることで、不思議と勇気が湧く。もう一度待ってみるのだ。きっと彼は現われてくれる。そうして「お嬢さん」と、耳に心地のいい、優しいあの声をくれる。
きっと、そう。
どうして一度くらいで、あきらめたように悲しくなったのだろう。必ず迎えに来ると、誓ってくれたではないか。ガイが来られない、何か理由があるのだ。
「そうだわ」
つぶやくことで、それがわたしの中で、確信に変わる。幾度もわたしは「そうだわ」とつぶやいた。落ち着くまで、涙が頬で乾くまで。
鏡に映る、涙の跡が顕著なわたしの顔。ハンカチを湿して、涙の跡をぽんぽんと化粧が剥げないように拭った。赤い目は誤魔化しようがないけれど。
そうして鏡に向かい。ほんのりとぎこちのない笑顔を作ってみる。大丈夫、大丈夫と、胸で繰り返しながら。
どうかなってしまいそうな自分を、立て直すのだ。
「由良さん、気分が悪いのですか?」
化粧室の外から大きな声が聞こえる。時任さんだ。社長に様子を見てくるように、命じられたのだろう。
わたしはそれにちょっと苛ついた。頬の内側をやんわりと噛んだ。



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