僕の一日

亮の毎日と、篤子ちゃんの毎日





そもそもからが面倒な話だった。

 

大学からの帰り、よくあるように、亮は近所の小早川の家に寄った。

平屋の古びた木造住宅の玄関をがらりと開け、庭に面した長い廊下を行けば、居間になる。

十一月も中ごろになればコタツも出されており、亮はそこに寝転んで、本を読んだりテレビを見たり、うたた寝をしたりする。

時間が合えば篤子ちゃんがいて、彼女お手製のおやつを食べたり。夕飯時までごろごろして、こちらで夕食をとることも多い。

午後の八時半を回って、玄関の開く音がした。

その音を聞くと、条件反射で空腹を感じるような気がする。

ぱたぱたと足音が近づいて、篤子ちゃんが帰ってきた。

セミロングの髪をまとめ上げた着物姿の彼女。亮には見慣れて、新鮮でも何でもない。

「ご飯にするわね。食べていくでしょう?」

「うん。何作るの?」

煮込みハンバーグだという。彼女の料理は何でもうまいが、中でも煮込みハンバーグは、亮の大好物だ。

篤子ちゃんが着物から普段着に着替えて、料理を始めた。居間に続いたキッチンからいい匂いがしてくるころ、再びがらりと玄関の開く音。

現れたのは、これまた着物姿の絹子小母さんだ。結い上げた髪もその着物の着こなしも、仕草も、篤子ちゃんよりはるかに様になっている。

若女将は可愛いんだけど、色気がイマイチなんだよな。

小母さんはコタツに入ると、長く伸ばした亮の脚をちょっと蹴った。

「ねえ、亮」

「何?」

話があるようなので起き上がる。小母さんは煙草に火をつけて、ふうっと息を吐いた。

そして、決め付けるように「あんた、暇でしょう?」と続ける。

「何?」

「篤子ちゃんに付いていってあげてほしいのよ」

「どこへ?」

亮はキッチンの匂いに気を取られながら訊き返した。

小早川の家は旅館を営んでいる。絹子小母さんが女将。そしてこの家に嫁いできた篤子ちゃんは、新米若女将だ。

旅館〔花のや〕は、ここ花滝温泉の数ある旅館の中では規模の小さな旅館になる。部屋数は八室しかないが、他に離れに〔李寮〕という料亭を構えている。こちらが好評で、宿泊客のほかに地元の常連客も多い。

一見しとやかでやり手の美人女将、と絹子小母さんは評判だ。

その〔花のや〕の仲居さんに、お客さんへの粗相があったという。

折り悪く女将が不在で、場を任されていた篤子ちゃんも、あたふたとして、きちんとお客さんの怒りを解かないまま見送ってしまったらしい。

報告を聞いた絹子小母さんが、彼女に、そのお客さんの家に出向いて謝ってくるように命じたという。

ここまで聞くと、亮にも話が見えた。見えはしたけれど、

「みーくんに頼んだらいいじゃない。何で僕なの?」

「仕事が忙しくて、難しいのよ。平日に一日空けるのは。先様は平日じゃないと、都合が悪いらしいから」

みーくんとは小母さんの息子であり、つまり篤子ちゃんの夫になる。

「貧乏予備校だからな、みーくんのところは」

亮が言うと、三度目のがらりという音が、玄関の方から聞こえた。

 

 

皿の中にはふっくらしたハンバーグにブロッコリーやジャガイモ、きのこが入っている。とろみのあるソースに絡まったそれらを、亮はがつがつと口に運ぶ。

副菜のきんぴらや和え物などにも箸をつけた。小食で食べあぐねている篤子ちゃんの皿にまで手を出し、口の周りを茶色くさせる。ぺろりと舌で舐めた。

「お前は、猫みたいなやつだな」

食事を終えて、煙草を吸っていたみーくんが、亮を見て笑った。ダイニングの椅子に片足を立ててそこに肘をつく。仕事着のスーツのままだ。

みーくんはいつもこんなだ。

亮が彼を頭に浮かべるとき、必ず彼はそんな姿勢だ。眠そうな目元が特徴の、まあ、ハンサムといえないこともない。

同い年の亮の兄とは幼なじみで仲がよく、その縁で小さなころから遊んでもらったり、受験のときは勉強も見てもらったりしてきた。

すぐに亮を殴りたがる兄より、穏やかに亮の話を聞いてくれ、必ず役に立つことを言ってくれるみーくんの方が、一緒にいて心地がいい。

食事を終えると、もう十時になる。小母さんはすでにお風呂に行った。キッチンでは篤子ちゃんが、鼻歌まじりに洗い物をしている。

〔花のや〕に出ている二人も帰宅は遅いが、みーくんはもっと遅い。たいてい九時半を過ぎる。

彼は友人と予備校を共同経営していて、授業の傍ら雑務が多く、拘束時間も長ければ、休みも少ない。

「頼むよ、亮。篤子ちゃんと一緒に行ってやって。一人では行かせられないから」

「大丈夫だって、若女将はもう二十歳なんだから。結婚もできるっていうのに、たかだか京都にどうして一人で行けないの?」

亮だって、篤子ちゃんを一人で行かせるのは、酷だと思っている。おっとりとしたところのある彼女は、亮には頼りなく見える。道に迷い、途方に暮れる様が目に浮かぶようだ。

しかし、すんなり引き受けるのはちょっぴり癪で、ごねてみた。

バイト代ぐらいもらわないと。

みーくんはあっさりと、亮が思う以上のお金をくれた。

実は小母さんからも、幾らかもらうことになっている。案外な収入に驚きながらも、亮はそんなもんか、という顔をしておいた。

「お前なあ……」

みーくんが、苦笑いをする。こつんと頭を小突いた。これが兄の喬なら、張り倒されるところだ。

「とにかく、頼むよ」

「わかったよ。連れて行くだけでいいんだね?」

「うん、帰りは遊んでくればいいよ。篤子ちゃんも気が重いだろうし」

その遊興費も込みということか。

みーくんは十二歳下の篤子ちゃんにめろめろだ。心配で仕方がないのだろう。

今回の件では、篤子ちゃんに落ち度があるようだし、〔花のや〕は絹子小母さんが社長で女将で、完全に小母さんのテリトリーなのだ。

何よりあの小母さんに逆らえる人は、ちょっといない。

亮は面倒だとは思いながらも、篤子ちゃんにうまい弁当でも作ってきてもらおうと考えた。

 

 

出かける前日、こちらの地域には少し早い初雪があった。

それもちらりと路面を白くしただけで、すぐに溶けた。

当日、亮は朝食をとって、早目に家を出た。外はきんと冷えて、吐く息が白い。

よく晴れた晩秋の透明な空気。

町を貫いて流れる川には、朱色の橋が架かる。山を背景にした景観は、なかなかに美しい。両サイドは遊歩道になっており、観光客がカメラを手に渓流を眺める姿がよく見られる。

亮の家も小早川の家も、その観光地のど真ん中にある。

小早川の家に着くと、ダイニングではみーくんが、寝ぼけた顔で新聞を読みながら朝食を食べていた。眠そうな目が、ほとんど寝ているようだ。

スクランブルエッグにふわふわのマフィン。シンプルなサラダにコーンポタージュ。

みーくんが食べる傍らで、篤子ちゃんが催促しておいた今日のお弁当を詰めている。

亮は勝手に、コーヒーサーバーからカップにコーヒーを注いで飲んだ。

「ちょっと待って、亮さん。詰めたら、着替えるだけだから」

「ひひ、よ」

亮は皿の卵焼きをつまみ食いする。ほお張りながら答えた。

みーくんも食べ終わるころには、少し目が開いてきて、

「お前、タイヤ、スタッドレスに換えてたっけ?」

「昨日換えたよ」

篤子ちゃんが身支度に寝室に行くと、みーくんは「篤子ちゃんに運転させるなよ」と、亮に釘を刺した。

みーくんも、彼女の運転技術が不安らしい。

「わかってるよ」

しばらくして、彼女が戻ってきた。ツイードのワンピースを着て、コートを手に持っている。他に大き目の紙袋。挨拶が終わったら、楽な服に着替えるのだという。

お弁当と先方への手土産を持って、小早川の家を出たのは、九時半ごろ。

天気もよく快調に進んで、おしゃべりをしながら順調にドライブは続いた。

目的のお宅に着いたのは、お昼時を避けて午後二時を少し回ったころあいだった。

緊張した篤子ちゃんが家の中に消え、亮は路肩に停めた車の中で居眠りをして待った。殊のほか時間がかかった。

一時間もして、戻ってきた彼女は、持参した手土産より大きな袋を持っていた。じゃがいもやら玉葱やらを、もらったのだという。

案外な歓待を受けたらしい。

用が済めば気が楽で、高速道路も使わず、日本一大きな湖の周辺を観光したり、お茶を飲んだりした。

 

 

ゆっくりと流れていた時間が、急に早まりだしたのは、一体いつからなのだろう。

あんなに晴れていた空が曇り始め、ぱらぱらと霰がフロントガラスを叩いた。

「おかしいわね、何だか急に暗くなって。とっても短い休暇が終わったみたい」

篤子ちゃんの言葉に、亮は返事をしなかった。普段、休みをゆっくり取れない彼女の心情を、天気にたとえたのだと思ったのだ。

(みーくんと来れたのなら、よかったね)

亮は胸のうちでそんな言葉を言った。

彼女はそれが聞こえたかのように、

「亮さんと一緒でも、悪くないわよ」

と言った。







          

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