不倫は息抜き?
 宿泊客 深沢さんのミステリー

 

 

 

「結婚して、五年になります」
深沢さんが話し出した。
ビールの残りを確かめるように、缶を少し振る。
「妻との間に一人息子がいる、まあ、ごく平凡な家庭です。仕事柄あちこち回るんで、帰りは遅くなりますね」
邪魔するのを恐れてか、誰も相槌も打たない。
それぞれビールを口に運んでは、ただ聞いた。
「妻はそれについて何にも言わないし、俺も仕事のことは、あんまり彼女に話しません」
そこで、香坂さんが言葉を挟んだ。
「あなた、浮気しているんでしょう?」
一瞬の間の後、深沢さんが笑った。
「その通り。すごいな、女の勘ってやつか」
亮は香坂さんを見た。ふんわりと笑っている。
彼女がそんな笑みを見せると、ほのかにまぶしく。
自分の目がどうかしたのかと、亮は目をこすった。
「失礼だけど、そういうタイプに見えたのよ。ごめんなさい」
「そんなに、軽そうに見えるのかな」
「ううん、そうじゃないの。ただ、複数の人に情をかけそうに見えたの」
深沢さんは、彼女の言う意味を図りかねているようだ。顎をつまんで首を傾げた。
「まあ、いい意味ではなさそうだな」
彼はその忙しい日常の中、ひっそりと奥さんに秘密を持った。
相手は営業先の病院の看護師。
「そう頻繁に会うわけじゃない。週に一度くらいか」
それに、香坂さんが冷やかすように、
「それは、多い方ね」
「そうか? 彼女は寂しがり屋でね」
彼はふっと笑った。彼女のことでも思い出しているのだろうか。
「俺と会わない日は、猫でも抱いているようだよ」
何だか、のろけのようだな。
ちょっと、馬鹿馬鹿しい。
「それで?」と、亮は促した。
「ああ、そうだな」
深沢さんはうなずいて、先を続けた。
 
 
家庭には彼女と会った名残を、持ち込んでいないつもりだという。
石鹸の匂いをさせて帰宅することもなければ、スーツに長い髪をくっつけたまま、妻に触れさせることもない。
携帯の扱いもきちんとしたもので、彼女からの履歴などはその都度削除する。
「デート代も、別で口座を持ってるんだ。特別賞与や出張費なんかをプールしてある」
「面倒くさいな」
深沢さんの細心が、亮にはたまらなく面倒に思える。
そんなことまでして、浮気をしたいものかな。
「遊びにも、ルールはあるんだよ。自分だけ楽しめばいいというものじゃない。妻には知らないでいてもらいたいしな」
彼は諭すような調子で言う。
そうじゃなくて。
そこで、また気だるい声が優しく割り込んだ。
「亮君は、深沢さんがそこまでして、なぜ浮気をするのか、わからないのよね」
「ねえ?」と見つめられ、亮は煙草を口にくわえたまま、「そうだよ」と答えた。
ちょっとだけ、どきりとした。これまで、亮は自分を「亮君」などと呼ぶ人を知らない。
たいていが「亮」と呼び捨てるし、そうでなければ兄嫁のように「亮ちゃん」。篤子ちゃんは二つばかり年上の彼を、「亮さん」と呼ぶ。そう親しくない友人は「河村」となる。
「それは、なあ……」
深沢さんは言葉を選ぶように、
「結婚となると、付き合っているときのように、ただお互いを見ていればいいという訳じゃない。生活や仕事、諸々あって、俺みたいに外に息抜きをほしがるやつも、中にはいるんだ」
僕のことを、純情少年とでも思っているみたいな説明だな。
そう思ったが、「ふうん」と答えておいた。
要するに、ずるいだけじゃないか。
「まあ、深沢さんはそうやって、たまにアバンチュールを楽しんでいたということですね」
オーナーが古臭い表現で、話を戻した。
深沢さんが続ける。
「これだけ注意を払っているのに、どういう訳か、彼女と会っていることを妻に気づかれているようなんですよ。ミスを犯したつもりもないし……。でも、きっと気づいているんです。どうです、不思議でしょう?」
これが、彼の持ち出した謎らしい。
 
 
いろんな意見が出た。
オーナーは、
「探偵にでも頼んだんじゃないですか? 『うちの主人の素行がおかしいんです』とか言って」
奥さんの言葉の部分に、声音を使って話すのが笑える。
これに深沢さんは首を振った。
「あれ、頼むと高いんですよ。費用が馬鹿にならない」
篤子ちゃんは、彼女らしいことを考えたようだ。
「寝言でつい、もれちゃったとか。そうじゃなければ、うっかり奥さんの名前を呼び間違えたとか?」
これに深沢さんはちょっと笑う。
「そんな程度なら、いくらでも言い逃れられる。会社の女の子の名前だとか、ラジオで流れていて耳に残ったとか」
「その言い訳、とってもためになるわ。覚えておかないと」
篤子ちゃんの誰にとでもない言葉に、皆が笑った。
亮も考えた。探偵に調査を頼んだのでもなければ、深沢さんがもらしたのでもなさそうだ。
トレイのグレープフルーツをつまんだ後にビールを飲んだ。ぐっと渋さが口に広がる。
ふと見ると、壁の時計は十一時になろうとしている。
屋外からは、相変わらず強く叩く霰の音が聞こえた。
ぱらぱらと、だけど静かに。
「やっぱり携帯かな。着信やメールの履歴は消していても、彼女の画像でも残っていたとか。それを奥さんに見られて……」
「そんなミスはしない。第一、カメラで撮ったりなんかしないよ」
ここまで三人の意見が出たが、いずれも深沢さんはあっさりと否定した。
それなりに彼も、模索を繰り返してきたのだろう。
深沢さんのミスではないのなら……。
「うんん……、じゃあ、こういうのは、どう?」
香坂さんが言う。何かしら小さなことで感づかれ、奥さん自身が夫の後をつけたのではないか。彼女がそれを言うと、
「違うね。手のかかる子供もいるし、無理だ」
と、これも否定された。
残るは藤堂さんの意見のみとなった。
このささやかな謎解き大会の趣向を振った彼は、実に嬉しそうに顔をほころばせている。
自分で言ったように、「胸が躍る設定」なのだろう。小さな謎ではあるが。
その藤堂さんが、深沢さんにある質問をした。
「相手の女性は、一人暮らしなのではないですか?」
深沢さんがうなずく。
「ええ、そうです」
「それは羨ましいですよ、深沢さん」
オーナーのにやけた言葉に、深沢さんもつられて笑う。
「確かに部屋にも行けるし、時間に自由がきくから、いいですよ」
「ふむ」と一つうなずいて、藤堂さんが言った。
「なら、私は解けたように思いますよ」
 
 
藤堂さんは、こう説明した。
「多分深沢さんに、浮気を疑われるミスはないのでしょう。なのに、奥さんには感づかれてしまう。それは、どうしてか?」
ここでちょっと言葉を区切り、皆の顔を見回す。小説に出てくる探偵を気どっているようだ。
もったいぶらないで、早く言ってよ。
「簡単なことですよ。きっと奥さんは、ある種のアレルゲンに反応しやすい体質なのでしょう」
「アレルゲンって、何?」
「アレルゲンとはアレルギーを引き起こす原因となる物質のことですよ。花粉アレルギーなら、花粉がそれに当たる」
「つまり」と、藤堂さんは、続ける。
奥さんは深沢さんが浮気相手の女性と接触した際に微量に付着したアレルゲンに反応することで、彼が特定の場所にいたことを知ったのではないか、と。
「でも、アレルギーを引き起こさせるような人って、いるのかしら?」
香坂さんが首を傾げた。
「猫や犬などをペットとして飼っていれば、アレルゲンが付くでしょう。ペットアレルギーというのもあるのですよ。それに、深沢さん自身が相手の飼うペットに触れれば、衣服にアレルゲンの付く可能性は非常に高まる。それに奥さんが反応した」
深沢さんはちょっと虚をつかれたようで、
「どうして彼女がペットを飼っていると、わかるんです?」
「彼女はあなたに会わない日は、猫でも抱いていると、始めにあなた言ったでしょう? そして先ほど、彼女が一人暮らしで、あなたは女性の部屋に行くと言った」
深沢さんは手を額に当てた。謎が解けてすっきりしたというより、呆然としているように見える。
「なるほど」
つぶやきも、辛うじて口にしたように、亮には聞こえた。
藤堂さんはにこりと笑った。
「私は医者ですから、こういったアレルギーの症例を知っています。今回は皆さんにハンディーがありましたね」
「なるほどねえ、アレルギーか。そんな浮気発見装置があったのなら、おちおち遊べませんね」
オーナーが、腕を組んで唸った。
「確かに、それなら一発だ。自分の体にしっかりと証拠が出るのだから」
深沢さんは額にまだ手を置いたままだ。衝撃が去らないのだろうか。
「確かに、妻は軟膏を塗っていました。しかし、猫アレルギーか……」
猫を彼女から離す方法でも考えているのかな。亮は彼を見ながら、そんなことを思った。
藤堂さんは目を伏せ、ちびりとウイスキーを舐めた。
「気をつけた方がいいですよ。猫のアレルゲンはなかなかに消えない。強いものですからね。何しろ、猫がいなくなった後でも、部屋にかなりの期間残るといいます」
「ああ」
うめくようなささやくような声に重なるように、ラウンジの壁掛け時計が、ぼーんと鳴った。



       

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