彼女の視線

主人公亮のミステリー。探偵の登場

 

 

 

ラウンジの壁の時計が鳴り止んだ。
しばらくの沈黙。誰もが深沢さんの謎に、ちょっとばかり余韻をもっているようだ。
亮は飲み終えたビールの缶をぎゅうっと潰した。
「次は僕が話そうかな」
にこりとしながら言うと、篤子ちゃんが亮の顔をのぞき込んだ。
黒目がちの瞳を瞬かせて、「あれを話すの？」と問う。
亮は「そう、あれ」と答えた。
「ふうん。楽しそうね」
そりゃあ、ね。
あれこれと皆が、自分の出した謎に頭をひねる様を眺めるのは楽しいだろう。
「はいはい、打ち合わせはその辺にして。話して下さいよ」
パンパンと手を打ち、オーナーがほんのりと赤くなった顔で急かした。
亮がぺろりと唇を舐めた。
「何だか猫みたいで、亮君可愛い」
香坂さんが首を傾げて亮を見た。こちらも少し酔いが回ったのか、頬がうっすらピンクに染まっている。
ちょっぴり色気を感じて、亮はぱちりと目をしばたいた。
 
 
「何ヶ月か前のことなんだけど」
亮が話し出す。
茶色の液体の入ったグラスを傾ける藤堂さん、クラッカーをかじる深沢さん、メンソールの煙草をどこか恥ずかしそうに口に挟んだ香坂さん、ぷしゅっと音を立てて新しい缶ビールを開けたオーナー。
それぞれ、何かを期待しているのが取れる。
篤子ちゃんは当事者のようなもので、顛末を承知している。だからか、リラックスしたようにビールを飲んでいる。
コチコチコチ、と時計の秒を刻む音まで聞こえそうだ。
「バッテリーが上がって困っていた女の子を、助けてあげたんだ」
夕暮れ時の大学の駐車場。エンジンがかからず、ぎゃあぎゃあと悲鳴のような音をさせていた。
女の子だった。
周囲に誰もおらず、ちょっと考えた末、亮は手伝ってやることにした。
自分の車のバッテリーをつなぐ。電気が流れ、彼女の車が正常なエンジン音を立て始めた。
「ルームランプ、付けっ放してるとなるんだよ」
礼を言う女の子に亮はそう言った。汚れた手を拭くように渡してくれたハンカチを、遠慮せずに受け取った。手を拭ってからしまったと気づいた。べとりと油汚れがついた。
「どうぞ。捨ててくれて構わないから」
か細いような声だった。
くるんとした髪の、目の細い彼女が少し笑った。亮の好みとは違うが、可愛い子だと思った。
それだけのこと。
それから数日がたった。
授業が終わり教室を出るとき、学食で昼食をとっているとき、または帰りの駐車場で車にキーを挿すようなとき。亮は視線を感じるような気がした。果たしてそうで、さっと向けた視線の先に、女の子の姿があった。
どこかで見たような、ぼんやりとした認識。しばらく記憶をひねって思い出した。
「ああ、あの子か」
数日前のハンカチの女の子だった。
 
 
一度亮の方から彼女に気づいた。少し先を行く彼女に亮は、ちょっと手を挙げた。ハンカチの詫びのつもりでもあったし、知らない仲でもなかったし。
彼女はこちらを見た。少し小首を傾げ、ふいっと顔を逸らした。
ここで一区切りし、亮はビールを飲んだ。別に間の効果をねらった訳でもなく、単にしゃべって喉が渇いただけだ。
「恥ずかしがり屋なのね、彼女。それにしても、亮君もてるんだ、可愛い顔しているものね」
香坂さんがふわりと紫煙を吐く。
きれいに煙草を吸うな、と亮は思う。勝手なもので、煙草を吸う女性はあまり好きではないが、小早川の小母さんのように体の一部のようであったり、この香坂さんのようにきれいに、少しはにかむように吸う姿は許せるような気がする。
「おいおい、自分がもてるって自慢だけか？」
深沢さんが突っ込んだ。のろけ混じりの謎を披露したことなど、棚に上げている。
「まあ、まあ。誰しもいい時期というのはあるものですよ。このわたしだって、学生時代は鳥類の研究にいそしんで、そのストイックなまでの姿が、なかなかに女性に好……」
オーナーの話をすうっと切り取って、藤堂さんが、
「亮君のお話はまだ続きがあるようですよ、皆さん」
と、軌道を修正する。
亮はそれにうなずいた。
僕がもてるのは事実だけど、こんなところで自慢したって、つまんないじゃないか。
 
 
「彼女を仮に〔Ａ子〕にするけど」
亮が続けると、篤子ちゃんが隣りでクレームを付けた。
「何だかわたしみたいで、気になるんだけど」
「いいじゃない。便宜上のことなんだから、誰も若女将のことだなんて思わないよ」
亮がＡ子の視線を感じるようになって数日たった。授業が終わった彼に、彼女が「ちょっと、いいですか？」と声をかけてきた。
友人と昼食の待ち合わせをしていた亮は、面倒くさがりながらも付き合った。
「あんまり、時間ないよ」
人気のなくなった教室で、彼女が亮に気持ちを打ち明けた。
「わたしと、付き合ってほしいんです」と彼を見つめる。
「悪いけど、そういうのちょっと困るんだ」
それだけ言うと、亮は彼女を残して教室を出た。こういう場合のせりふは決めてある。「僕は好きじゃないから」というパターン2もある。今回のパターン1の方が優しいと、亮は考えている。
そのことがあった後も、Ａ子の視線は消えなかった。気にしないようにしていた亮だったが、視界の端に彼女の姿ちらりと入ると、少々うんざりとした。
そこで、篤子ちゃんの登場となる。
彼女は女子短大に通う学生でもある。時間や予定が合えば、一緒の車で通学することもあるし、どちらかがどちらかを拾って帰ることもある。
帰りに食材などをまとめ買いしたいときに、篤子ちゃんはよく亮に荷物運びを頼むのだ。
「それで、僕は若女将に（僕の彼女）の振りをしてもらうことにしたんだ」
篤子ちゃんを大学に連れてきて、授業を隣りに座って受けてもらったり、学食でパフェを奢ったりした。それとなく学内を連れ回し、Ａ子に篤子ちゃんの存在を見せ付けるようにした。
効果は絶大だった。Ａ子のこちらに向ける視線に敏感に気づいた篤子ちゃんは、「じっと、わたしのこと見てた。切なそうで、何だか申し訳なくなっちゃった」と亮に伝えた。
これでＡ子はあきらめて去るだろうと、亮は踏んでいた。
しかし、彼女の視線は変わらずひっそりと亮に向けられた。
そして、アクションは彼の車に向けられた。生卵がフロントガラスの上で、ぐちゃりと潰れていた。
 
 
「恋する女の子は怖いですねえ」
オーナーが腕を組み、首を振りながら言う。「わたしも学生時代は……」と、過去の栄光を話そうとするのを、深沢さんが遮った。
「それの、どこが、謎なんだ？　俺にはやっぱり自慢にしか聞こえない」
「ふふ。自慢には聞こえないわよ。でも、何が不思議なのかもわからない……」
香坂さんの言葉に、藤堂さんもうなずいた。「ストーカーに遭っただけとしか思えないですね」
亮はここで口を開く。
「どうして彼女は僕の車に卵をぶつけたのか？　それが僕の謎。これには実は面白い謎があったんだ。単なる嫌がらせではないんだ」
「ほお、謎ですか」
藤堂さんがうんうんとでも言うように何度もうなずいた。何やらつぶやいている。思考が始まったらしい。
これに倣って、深沢さんも文句を収めた。顎をつまんで考え込んだようだ。
香坂さんは亮をちらりと見て、「ヒントは？」などと笑った。
オーナーは亮に質問攻めだ。
「学年も一緒？　面識は？」
「さあ、学年は知らない。面識なんかないよ。駐車場で会ったのが初めて」
「可愛い子なんでしょ。何で振ったのかなあ？」
最後には余計なつぶやきも混じった。
わかるかな。
亮は楽しかった。にやにやしていたのだろう。篤子ちゃんがそんな亮に、「自分で解いたみたい」とちゃちゃを入れた。
「いいじゃない、別に。特許がある訳じゃないし」
と、亮はうそぶいた。
どういう頭の構造をしているのか、これを解いたのは、実はみーくんなのだ。
 
 
フロントガラスの生卵を発見してから、Ａ子の存在に亮は圧迫感を覚えるまでになった。車を汚されるのも、もうご免だった。
彼女がやったという証拠はない。けれど、これまでの経緯を考えると、彼女じゃないという方に無理があるだろう。
そんなことを、小早川の家で夕飯を囲んでいるときに口にした。
相変わらず眠そうな目元をしたみーくんは、「ふうん」と亮の話を最後まで穏やかに聞いてくれた。
「あんた、もてんのねえ」
絹子小母さんは亮の髪をくしゃっと混ぜておかしがった。亮は「止めてよ」と小母さんから身をよじった.
「僕がもう一度、そんな気はないって、はっきり言った方がいいのかな。」
ちょうど晩御飯はギンダラの煮付けだった。亮がぷっくりとした身を口に入れ、飲み込もうとしたとき、みーくんが言った。
「どっちに？」
変なことを聞いたような気がした。
「どっちって、どういう意味？」
亮が彼を見ると、味噌汁の油揚げを箸でつまんでいた。亮の視線にちょっと笑う。
「あれ、僕にはＡ子は二人いるように聞こえたんだけど」
みーくんは彼女のことを〔Ａ子〕と呼んだ。これに篤子ちゃんはなぜだか、ちょっと渋い顔をした。
みーくんの説明は、こうだった。「まず、お前がバッテリーを分けてやった子を〔Ａ子〕だとする。彼女は颯爽と現れた亮に恋をした」
そこで笑った。
「そして、お前に気持ちを伝えてきた方を〔Ｂ子〕としようか。どうも僕には、（か細いほどの声）のひっそりとお前を見つめ続ける〔Ａ子〕が、いきなり思いを打ち明けてくるというのが、ちょっと腑に落ちないんだ。もっと、段階を踏みそうな気がする。なら、別人と考えた方が、すっきりしないか？」
「別人？」
亮は彼の方へ身を乗り出した。
みーくんは皿のギンダラを、箸でちょうど半分くらいに分けた。
「双子なんじゃないのかな、〔Ａ子〕は」
〔Ａ子〕の気持ちを知った〔Ｂ子〕が、〔Ａ子〕を装って亮に告白をした。だがあっさりと、亮には振られてしまう。
〔Ａ子〕には内緒の行動だったんじゃないかな、とみーくんは言う。
「だって、その後も亮は〔Ａ子〕の視線を感じているし」
「じゃあ、僕の車に生卵をぶつけたのは？」
「それは、やっぱり〔Ｂ子〕の方だろうね。篤子ちゃんの登場に、彼女は怒ったんじゃないかな。見せ付けるようにしたんだろう？　〔Ａ子〕の気持ちを思うと頭にきて、卵を投げつけた」
みーくんは箸で分けたギンダラを、ぱくりと食べた。
「〔Ａ子〕は二人いて、しかも途中、彼女たちは摩り替わるんだ。こう考えたら、辻褄が合うだろう」
亮は彼の言葉にあ然として、しばらく声が出なかった。
初めて〔Ａ子〕と会った駐車場。夕暮れの中突然現れた亮に、彼女はひどく戸惑うような、恥ずかしそうな様子だった。ごく小さな声で礼を言われたのを、はっきりと覚えている。
その彼女が数日後、亮を呼び止め、あんなにはっきりと思いを打ち明けた。
亮の中で〔Ａ子〕の影がずれ出した。一度、こちらから手を挙げたときも、亮など知らないかのように、顔を逸らした。
確かに、印象は違った。
「篤子ちゃんの存在を見て傷つきはしただろうが、あきらめられないのかな。まだお前を見続けているんだろう？」
亮は彼の問いに上の空で答えた。「ああ」と答えたのか、「うん」と言ったのか。
みーくんの手が亮の頭に伸びた。小母さんのようにくしゃりと亮の髪をかき混ぜる。
「お前、もてるんだなあ」
 
 
意見が出尽くして、焦れた様子の深沢さんが、
「もう、答えを聞きましょうよ」と残りの三人を見た。香坂さんはあっさりうなずき、オーナーも倣った。
「そうですね、何か見落としているんだろうけれど……。それがわからない」
藤堂さんはどこか悔しそうにうなずいた。
ミステリーファンとしては忸怩たる思いがあるのだろう。
亮はにんまりとする。なかなか難易度は高かったようだ。
答えを口にした。
「ああ」というため息のような声が聞こえた。深沢さんの、「やっぱり自慢じゃないか」と苦笑も混じる。
たっぷりとした間の後、香坂さんが亮を見た。
「Ａ子さんは、それからどうしたの？」
亮はそれに、ふふんと笑っておいて答えなかった。「あ、ずるい」彼女が軽くにらんだ。
「もう付きまとわないよう、言っただけだよ」
知らない振りでやり過ごそうとした亮だったが、後日、変わらず向ける視線の主に、自分から近づいた。
彼女はびくびくと亮を見た。
以前、彼を呼び止め告白した彼女とは明らかに様子が違った。
本当だ、みーくんの言った通りだ。
できるだけやんわりと、ひよこでも扱うように、ちょっとばかし彼女と話した。彼女は「ごめんなさい」と言って、去った。
亮の「友達になら、なれるよ」という言葉に、彼女は弱く首を振ったのだ。
彼にはこれ以上の言葉は浮かばなかったし、これ以上の譲歩もできなかった。
何だか彼女は涙ぐんでたみたいだった。でも、しょうがないか。
それ以来、視線を感じることはなくなった。
「なかなか面白い謎でしたよ」
藤堂さんがにっこりとした。
「解けなかったのが、いかにも残念ですがね」
「どういたしまして」
亮は煙草に火をつけた。
僕だって、自分で解いた訳じゃないよ。
亮は煙草に火をつけた。
壁の時計がぼーんぼーんと鳴った。




   

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