ふわり、色鉛筆
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『ご覧になりました? ブログ、スンゴイことになっていますね!!』
 
そんな書き出しのメールが、いろはちゃんから送られてきた。先日、彼女を煩わせ、ネットでの宣伝用に作ってもらったブログのことだ。
毎日バタバタと過ぎ、そのままチェックもせず、放置してあったのだ。彼女のメールに、思い出したように、朝の時間にちょっとパソコンでのぞいてみた。
毎度、大げさな表現の多いいろはちゃんのことだから、とタカをくくっていたが…、
コメント欄には、わたしの年齢をやや超えた数のメッセージ表示されていた。比較がないまでも、それは多いように思う。
時間がない中、ざっと斜めに、それぞれを見ていく。
以前、いろはちゃんづてで、わたしが同人を再開したことに、多少なり反響があったことは聞いている。でもそれはやはり、いろはちゃんフィルターの、うんと補正の効いたものだと思っていた。
しかし、実際こうして、読み手側の、わたしにとって決して小さくない反応を目にするのは、ちょっとしたショックだった。まるで、思いがけず、季節外れに静電気にばちっと指を刺激されたように。
もらったメッセージのほぼすべてに、『ガーベラさん時代からの〜』に似たセリフがあるのにも、驚かされる。
『雅姫さま、いつかお帰りになるのを、首を長くしてお待ちしておりました。ガーベラさんが、もう好きで好きで。新刊を追っかけ、毎度イベントで長時間並びました。ああ!! 青春でした()〜』
あんなに昔なのに…。
サークルを解消して、もう早十三年だ。わたし自身ですら、同人を再開しなければ、思い出として、過ぎゆく時間に任せ、埃を積もらせていただろう。
昔とはどこかは違う。千晶もいない。
でも、またわたしはペンを持ち、ストーリーを描き始めている…。動き出すことで、思い切り息を吹きかけたように、降り重なった埃は払えただろうか。
ふと、メッセージの数々を目で追いながら、千晶に連絡してみようと気持ちが動いた。簡単でいい、時候の挨拶のハガキの片隅に、一人でもまた描いていることをちらっと書き添える程度の、そんなお知らせはしておきたい…。
 
『連絡ぐらいしてやれよ』。
 
誰かの偉そうな声が甦った気がしたが、単なる錯覚だろう。あるある。よくある。
ふっと、心に彼女が浮かんだのだ。沖田さんに注意されたからではない。
すべてのコメントを確認し終え、慌ただしく、お礼のお返事を記事に更新する。個別にお返事はし辛いが、せめて、ありがたい気持ちはやはり述べて伝えたい。
あの頃のわたしたちのことを、記憶の片隅にでも、残しておいてくれたことが、こんなに時を経て、ただもうくすぐったいほどに嬉しく、ありがたいのだ。
 
わたしにとっても、『ガーベラ』は、青春そのもの。
 
せめて、どんな形であれ、気持ちと夢のあるものを描きたい、とそう願った。
 
 
パートの短い昼の休憩の間に、桃家さんにメールを返しておく。
彼女がスペースを獲った次のイベントで、合同誌を出す予定がある。その簡易な打ち合わせだ。
こっちの懐事情を察してくれているのか、お金持ちの余裕なのか、または桃家さん独自の流儀なのか、彼女からは、
『製本は、わがままを言い申し訳ないが、信頼の置けるいつもの印刷所に頼みたい。なので、費用はこちらですべて負担させてもらう』
という旨のメールが来ていた。
他、『雅姫さんには、表紙もお願いする上心苦しいが、以前のお言葉に甘えて、わたしの小説用に、小さな挿絵を描いてもらいたい』などとも。
製本代を、いかがわしい店で、スリリングに稼いでいる身としては、彼女の恩を着せない申し出は、実にありがたい。でも、何の抵抗もなく、わたしはそれに断りのメールを打っていた。
同人活動をやる上での、わたしのささやかな信条もあるが、それとは別に、彼女に製本代を持ってもらう理由もない。
四年ほどやった、昔の『ガーベラ』時代も、あれこれどんぶり勘定なところはあったが、経費と売り上げだけは、すっぱりと二分していた。わたしたちの相性もあっただろうが、だからか、お金の件で千晶ともめたり、気まずくなったことは一度も、かけらもない。
金銭の曖昧さは、少額であっても、それが負い目になったり、または不満につながり易いもの。嫌なことだが、それで、せっかく上手く回っていた売れっ子のサークルさんが、内輪もめで喧嘩別れに至るのを、幾つか見たこともある…。
お金のことは、後腐れがないのが、気持ちも楽だ。桃家さんへは、申し出はありがたいことを告げた後、合同誌の経費は、単純に二分割しようと持ちかけた。
『友達同士で、お金の貸し借りは苦手で、ごめんね。イラストなら、ほしいだけ描かせてもらうね』と。
この返事は、飛ぶように返ってきた。
 
『そうよね、友達同士でお金の貸し借り変よねえ、そうよねえ。午睡の後で、ついうっかりしていたわ、ごめんなさい。じゃあ、印刷所の見積もり出たら、遠慮なくお見せします』
 
咀嚼したビキニパンを喉にやりながら、おかしさに頬が緩んだ。桃家さんを可愛らしい人だと思った。
メールを打ち終え、昼食のビキニパンを食べれば、ほどなく昼休みは終了だ。休憩室を兼ねたロッカールームには、わたしの他パート従業員が二人いた。その一人は、山辺さんだ。
悪口ギリギリの噂話をし合う彼女らを置いて、「お先に」と、いつも通り先に部屋を出た。その、ドアを閉め際に、
「ちょっと、いやらしい人ね、高科さん。前に社長のお呼びがかかってから、鼻高々で。わたしら下々の者とは口も利かないって風ね」
「わかるわ、ああいう人が、愛人になるタイプよね。『像の威を借る』何とかって…」
聞こえよがしに、わたしへの当てこすりを交し合う声が耳に届いた。しっかり聞こえてしまったが、言い返す気も起きない。ただ、『像じゃねえよ』と苦笑しながら、ドアを閉めた。
離れてちょうど正面に、社員の小林君が、こちらをうかがいながら、もじもじして立っているのが目に入った。パート連中が居座っているから、昼の休憩に入り辛くて困っているのだろう。
何となく気が向いて、後ろ手にドアをこんと叩いた。そうして、
「社員さんがお昼入るから、そろそろ交替した方がいいんじゃないですか?」 
と声をかけた。
それに、言語でもない、何やら猫が踏まれたような、「ンニャギャアッ」というような声が返ってきて驚いた。「ンニャギャアッ?」と、ちょっと首をかしげるが、わたしの要らぬおせっかいに、怒っているのは伝わる。
ほどなくドアの奥から大きな声で、
「もう社長夫人面して。たかだか期間限定の、しょうもない愛人のくせに」
「みっともない女ってああいうのをいうのね。いい気になって。自分は表通りを歩けない、ラマン夫人なのにね」
「何よ、『ラマン』って?」
「あら、知らない? 昔、あたしが見た、エッチな映画に『愛人 ラマン』っていうのがあったの。結構話題になったんだけど…。ちょっと、山辺さん、誤解しないでよ、ポルノじゃないわよ、ポルノじゃ。文芸作品よ、エッチだけど。あのタイトルが、ぽんと浮かんで…」
「へえ、ラマン夫人、いいじゃない」
「でしょ? ラマン夫人に決まりよ」
何が、決まりだ。突拍子もない話の流れに、ぷっとふき出しかける。
あれ、と小さな自分の変化に目を瞬いた。ちょっと驚いたのだ。
短い昼休みに、以前から、居心地の悪さを感じることはあった。誰かの悪口を聞かされることにも、それに同意を求められることにも、不快に思いつつ、うんざりと耳を塞ぎ、やり過ごしてきた。聞き苦しいうるささから距離を置き、逃げていたのだろう。平気の振りをしていただけ…。
辛いのとはやや違うが、息のしにくい場所だった。
今、明け透けに自分の悪口を聞かされているのに、動揺もないし、腹も立たない。どうでもいいや。と、思うばかり。
まさか、耐性が付いて居心地がよくなったのでもなし…。
そんなことより、頭を悩ませる問題は、他にあるのだ。今なら、桃家さんと作る合同誌の件だ。その内容で、実は迷っている。
彼女が書くのは専らBLで、今度もそれを書くのは決まっている。なら、わたしもそれに合わせ、BLモノを描いた方がいいのかも…。あっちのジャンルは読み手を選ぶから。でも、どうだろう、そっちでも描きたいネタはあるが…、わたしが描いても、需要があるのかしらん?……。
ほら、
そっちに気持ちをシフトしていた方が、楽しい。前を向いていられる。
変わったのは、多分わたし。より、ふてぶてしくなったのだ、きっと。
そうなることが、悪いことだけだとは限らない。それは、気持ちが強くなることでもある。そうなれたのは、他に、よりいい自分の居場所があり、それを知っているからだろう。
持ち場のレジに戻りしな、小林君とすれ違った。
「まだいるの?」
休憩室を目で指して訊くから、おせっかいとは思いながら、
「はっきり言ったら? 迷惑だって。あっちは休憩時間オーバーしてるんだし。社員でしょう」
「高科さん、言ってくれたら、助かるな。あの人たち、何か怖い」
心なし、首を傾げたりするから、甘えた仕草に見えた。ふと、彼が、わたしが密かに勤める『紳士にための妄想くらぶ』の常連客であり、そこで『超熟ミセス』のタマさんを、熱く指名していることを思い出す…。
お腹では、「あんたの好きな『超熟』ラインじゃない」と突っ込みながら、
「時給以上の仕事はしません」
「高科さん、ちょっとアネゴっぽく見えるから、つい頼っちゃうんだよなあ…」
「まさか…、どこが?」
半笑いで、熟女好きの彼を追い払った。
 
夕飯の片づけを終えた、八時過ぎ。もう少しすれば、夫が総司と一緒に風呂に入ってくれる。一日の終わりまであとちょっとの、こんな時間はひと段落ついたような、ほっとした気持ちになる。
よいしょと、キッチンの椅子に掛けた。ケイタイを取り出し、メール画面を開いた。送る相手はいろはちゃんだ。自他共に認める、現代の同人ツウの意見がどうしても聞いてみたかったのだ。
今度の桃家さんとの合同誌で、わたしはBLを描くべきか、否か。
正直、描く気はある。お金を払ってくれる読み手にとっても、合同誌なら、カップリングの統一感があった方が、好みもあるし、親切ではないかとも思う。
ただ、需要があるのか、どうか。要するに、わたしが描いて、読んでくれる人があるのか、ありていに言えば、売れるのかどうか…。彼女の読みが知りたかった。
その辺りをちこちこ文にしてみるが、上手く表現できずにまどろっこしく、苛々してくる。思い切ってクリアを押し、直接電話することにした。出られないならそれでいいし。特に急ぎの用でもなし、またこっちからかけ直せばいいことだ…。
ぷつっと呼び出し音が切れ、通話が始まった。
「あ、もしもし、いろはちゃん? ごめんね、今、平気?」
メールはよくし合うが、それで事が足り、電話はあまりない。互いに、生活への遠慮があるためもある。
『おう、雅姫か、どうした?』
 
え?
 
女の子には野太い声が返ってきて、ぎょっとなる。すぐに背後から、「兄貴の馬鹿!! 人の電話に出ないでよ、勝手に! 信じられない。デリカシーないな、もう!!…」と、いろはちゃんらしい声が、ぎゃんぎゃん元気に聞こえた。
沖田さんか…。
妙齢の妹の電話に出ないであげてよ。ああ、びっくりした。
もぎ取られたのだろう、「あっち行っててよ」と罵る声の後で、いろはちゃんに代わる。
『雅姫さんですか?! すみません、すみませんお耳汚しを! 愚兄が、血迷ったオロカな振る舞いを…』
「あははは…、そんな、気にしないで。お兄さん、電話に出ちゃうなんて、お年頃のいろはちゃんが心配なのかもね」
『違いますよ、きっと雅姫さんだからです。自分の方がよく知っているみたいな、先輩風ですよ。恥ずかしい思い込みをして。本当に、残念な兄が申し訳ありません。大体、あの兄が、雅姫さんとお知り合いというのが、そもそも間違い…』
「ははは…。あのね…、いろはちゃん、ちょっと教えてほしいんだけど…」
続きそうな沖田さんへの愚痴をやんわり遮って、用件を切り出した。
いろはちゃんは、相槌もなく、わたしの話をじっくりと聞いた後で、
『ぜひ、お描きになるべきです』
短く断言した。何だか厳かな声で、ちょっとした神託が降りたように聞こえた。
「そう思う?」
『はい、やっぱりBLジャンルは勢いがありますよ。雅姫さんが描かれるんなら、話題性もあるし…』
と、そこで彼女はわずかに言葉を溜めた。「こんなの、元『ガーベラ』さんでいらっしゃる雅姫さんには、釈迦に説法で、おこがましいんですが…」、そんな仰々しい前置きをし、わたしの描く絵が、BL映えのする線だと思っていたという。
 
BL映え…。
 
よそで聞いたら、きっとおかしかったに違いない。けれど、いろはちゃんの口から、こうして耳にすると、不思議な安定感が備わり、世の中にはいろんな言葉があるのだと、別な角度で謹聴できてしまうから、わたしも勝手なものだ。
『せっかく、BL書きのアンさん(桃家さんのPN)と合同誌をおやりになるんだから、無理のない、絶好の機会だとは思います』
暗に、彼女は、本としてはカップリングを統一した方がいいと、注意してくれているようだった。
「そう…。でもね、たとえば、いろはちゃんだったらBL読む?」
『読みますよ! もちろん。わたしは雑食ですから、何でもイケます。あ、でも、ナマモノは勘弁ですけど。雅姫さんのBLなら、三冊は買わせていただきます。保存用、読む用、観賞用とに。うは、嬉しい。興奮してきた〜!』
「あははは、ありがたいお言葉。あのね、わたしがBL描いたりしたら、今まで買ってくれていた人が、離れちゃわないかって、ちょっと思ったりもするの」
『う〜ん、それは、あり得ますけど…。BLは、読み手を選びますからね。でも、断言します、新たなファンは増えます。きっと今以上に』
「え」
BLを描くことは、これまで『ガーベラ』も知らず、わたしの本も買わない層の人たちが、興味を持ち手に取ってくれる機会を作ることだ…、と彼女は説いてくれる。
なるほど。
説得力のある話に、思わず聞き入ってしまった。
『でも、ご心配は案外無用かもですよ。同人ファンは、わたしみたいな、ノーマルもBLも、どっちもイケるくちが多いですから、あははは』
「ありがとう。本当にためになった! 目からウロコが落ちた」
厚く礼を言い、電話を切った。
よし、描いてみよう。
オトコとオトコの恋愛を。
 
 
その日、そろそろパートの上がりかけの頃、どういう風の吹き回しか、急遽、社長の店舗巡回視察が行われた。
午後四時近い時間だ、スーパーは混み始める。社長は、接客するわたしたちを、見覚えのあるようなないような秘書の女性を伴わせながら、遠巻きに眺めている。
やりにくいったらないが、それで呼出しを受けたり、注意をされることもなく、彼らは帰って行った。
社長の顔を見れば、嫌でも、贈られた意味不明のブランドバックを思い出す。それについても、個別で何を問われることもなかったので、ほっと胸をなでおろす。偉い人の、ほんの気まぐれだったのだろう。
定時にダッシュで店を出れば、そのまま自転車をこぎ、今度は次の仕事へ向かう。この後は、二時間の予定で、例のバススタッフを務めるシフトになっている。
たった二時間であるが、時給が高く馬鹿に出来ない。こつこつ通えば、じき数万円の副収入になるのだ。
ただ、これで得たお金は家計に回さず、同人活動の経費に使うことに決めている。どうしてだろう、同じ給金であるのに、湯気の立つバスルームで、わたしが半裸になって稼ぐお金で、総司におもちゃやお菓子を買い与える気持ちにならなかったのだ。
このお金でもって、同人誌を作り、それで儲けた売り上げでなら、たとえば焼肉でも食べさせたい気になるのに…。意固地な気持ちの偏りの意味が、自分でもよくわからない。
控え室には、ナナコちゃんがいた。漫画雑誌を読んでいて、「読んでいいよ、ナナコ読んだから」と回してくれる。千晶が描いている雑誌とは別の本だ。
「ありがとう」
ぱらぱらページをめくるうち、指名がかかった。バスタオルがきつく身体に回っているのを確認し、持場へ向かった。
決まりきった手順だ。磨りガラスの向こうには、お客が座ってこちらを見ている。見える訳ではないが、そちらへは背を向け、シャワーの湯を身体に当てていく。何度もやるうち慣れてきて、緊張もなく、夕飯のメニューや同人誌のBLネタに気持ちがいっていたりする。
そろそろ時間かな…。
覚えた感覚で、ちらっと磨りガラスへ目をやった。目に映った気味の悪い光景に、手の中のシャワーヘッドが滑り落ちそうになる。
磨りガラスにぺたりとへばりつき、こちらを見ている。こんなお客は稀にあった。そういうときは、バスルームの『ヘルプボタン』を押すことになっている。押せば、スタッフルームのアラームが鳴り、ボーイが来てくれることになっていた。
ボタンに手を伸ばし、突起に指を置いた。そこで、ガラスがどんどん叩かれた。ぎょっとして驚き、ボタンに力が入る。遠く、アラーム音が鳴るのが聞こえた。
まだ、お客はしつこくガラスを叩く。気持ちが悪いが、怖いもの見たさだ。顔を置背けつつ、曇った磨りガラスの向こうをよく見た。
 
え!?
 
パート先の、社長だった。
 
あまりに意外で、シャワーヘッドが、今度は手から滑った。バスタオルまでもがぬれた重みで足元に落ち、慌てて乾いたバスローブを身体に巻きつけた。
ボーイが廊下をやって来る音がする。一人ではないようだ。ほどなく、磨りガラスの向こうの小部屋のドアが開いた。ボーイ二人に、社長が、慇懃だがしっかりと引き立てられるのが見えた。「他のお客様のご迷惑になります」。お客の迷惑行為へのまず、第一段階の常套句だ。
それで効かない場合は、「リスク対応専門家」と呼ばれるスペシャリストが呼び出されるらしい。そこまでのトラブルを、わたしはこの店で経験したことがなかった。
部屋を出された社長が、廊下でわめくのが聞こえた。
「あの女を出せ! わたしは、知っているんだ。こんな店で働かせて、許されると思ってるのか! あの女を出せ! 話があるんだ。知った女なんだ!」
通気の悪い廊下を、大声が響く。その声に、寒くもないのに火照った身体を寒気が走る。
どうして、社長にここがばれた? 
意味のわからない展開に、わたしはうろたえて、腕を抱きながら、唇を噛み続けた。
どうしよう。
 
どうしよう…。
 
そこで、ノックが三度。返事もできないでいると、「あたし」と声がした。スガさんの声に、ロックを解き、ドアを開けた。
黒地に般若柄のシャツの彼は、こわもての顔に坊主頭と相まって、どこぞの筋の「リスク対応専門家」そのものに見えた。
「大丈夫? あれ、スミレちゃんの知り合い?」
手短に、パート先の社長であると説明した。「ふうん」とスガさんは太い腕を組み、
「今、スタッフルームに監禁してるんだけど、女を出せ、説明させろって、うるさいのよ。何? あれとデキてるの?」
わたしはぶるぶる首を振った。デキてる度胸と柔軟さがあれば、ここで働かずに、社長からお手当てをもらってやり繰りしている。
「ま、そうよね」
スガさんはふふっと笑う。「追い返しといてあげる」と言うから、「すみません、お願いします」と返した。
「あのね、スミレちゃん、びっくりさせるけど」
彼の言った次の言葉は、本当にわたしをぼうぜんとさせた。「旦那さんが来てるの」と。
「迎えに来たんですって。会いたくなかったら、こっちも帰すけど」
どうして?
言葉が出ない。
次々に事が起こり過ぎ、その一個一個がまた壮絶で、頭がついていかないのだ。
立ち尽くすわたしの様子に、スガさんがうかがうように、声を落とし、
「訳あり? 何だったら、立ち会うわよ」
それに答えも返せず、わたしは夫がどこにいるのかをたずねた。今、ボーイが案内して、空いている二番ボックスに待ってもらっているという。
噛み続けている唇に、感覚はない。
「ともかく、着替えなさいな。ね?」
スガさんの勧めに何とか頷き、バスルームを出た。スタッフルームのドア越しに、社長の怒鳴り声がする。「わたしの知った、わたしの関係のある女なんだ。だから、女と直接話をさせろ!」。
もう、嫌。
聞き苦しくて、思わず顔をおおった。
控え室へ戻りしな、肩をつかまれた。その力が、強引に振り向かせる。
振り返された、そこにあった姿を前に、わたしは、今度こそ驚きに心臓が止まるのではないかと思った。
 
沖田さんだった。
 
「どうする?」
と、スガさんが、わたしの脇をちょんとこづいた。「ご亭主とこのまま帰る?」と訊くから、仰天する。
ご亭主?
誰が?
誰の?
ぼうぜんと立ったままのわたしの頬を、初めて見る「ご亭主」が、ぱちんとそこそこ痛くぶった。
 
「さっさと着替えてこい。帰るぞ」





          


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