ふわり、色鉛筆
11
 
 
 
控え室に戻ると、タマさんの姿があった。
ぬれ髪をタオルで拭い、下着をつけてから羽織ったバスローブを落とした。服を着るわたしとは逆に、タマさんは支度に脱いでいる。
追い返されたらしく、社長のわめき声はもう聞こえないが、ついさっきまで響いていたのだ。彼女だって耳にしたに違いない。店の様子からか、騒ぎの元凶がわたしであることも、何となく悟るのだろう。
問わない、触れないながらも、わたしを見る目が、これまでとはちょっと違う。距離を置くようにも、また探るようにも感じられた。
生乾きの髪を、手櫛でかき上げていると、「スミレちゃん」と小さく呼ぶ。
声がして顔を上げれば、バスタオル一枚になった彼女が、鏡を見ながら口紅を直していた。「近くは駄目よ」と言う。
「主婦が、家族に黙ってこんなところで稼ごうと思ったら、普段の生活圏から出ないと。パートの帰りに近所でもう一稼ぎ、なんて横着しちゃ駄目よ。どこに、どんな目があるかしれない」
タマさんの言葉に、今更ながら、ぞっとした。社長は彼女の示唆するように、パート帰りのわたしの跡でもつけさせたのかもしれない。最初の方こそ人目を気にし、緊張して通ったが、慣れるうち、その警戒心も緩みがちだったのは否定できない。
「うん…」
「ここでの勤めがばれても、わたしたちはしばらく気まずいだけ。でも、知った家族はどう? …傷つけちゃ、駄目よ」
返事のしようがなく、わたしはうつむきながら、うんと小さくうなずいた。
「どういう理由であれ、ここで働くのを決めたのは自分でしょ、今の時分、売られた訳でもなし。なら、その責任は負わないと、いい大人なんだし…」
タマさんの言葉はいちいちもっともで、頭の後ろを、げんこつでゴツンとやられたような気分だった。わたしはこういった仕事への見方も甘く、舐めていた節がある。そこを、彼女はきっと見抜いていたのだろう。
いい年をして、今更「初めてだから」、「素人の主婦だから」といった言い訳は、みっともないだけだ。
「そうね、ありがとう」
タマさんからは、それに返しもない。指名が入った呼出し声に、ほどなく彼女は部屋を出て行った。多分、もう会うこともないだろう、その背中を黙って見送った。
自分が彼女の年になったとき、同じほどの重みのある言葉を、必要なとき、必要な誰かに語ることができるのだろうか、といぶかしく思う。
着替えを終えて、スタッフルームに顔を出した。スガさんに今日のことを詫び、ここでの勤めは、これで終わりにしたい旨を切り出した。とてもじゃないが、続けられる状況ではない。
「急ですみません」
「そんなに急いで結論出さなくても、と言いたいけど…、まあ、無理よね」
あっさりと解放してくれた。こういった職場では、人の出入りも激しいのだろう。
スガさんは、ごま塩っぽくヒゲの剃り跡が残る顎を撫ぜながら、「あれ」と、窓の外をちらりと目で示した。外には、沖田さんが待っているはずだ。
「旦那じゃないでしょ?」
「え」
すんごい慧眼に、ぽかんと開いた口がふさがらない。
「そんな、驚かないでよ。さっき、スミレちゃん、びっくりするばっかりで、一度もあの旦那に謝らなかったじゃない。言い訳もしないし。すぐぴんときた。ふふ、いい男よね、ちょっと味見したくなるタイプ」
「へ?」
「あれ、彼氏?」
「は?」
「あれ、違うの?」
「まさか、昔の、…知人です」
「昔の男ね、はいはい」
どんな顔をしたのだろう。スガさんはそれ以上の問いを省き、今日までの給金の入った袋を渡してくれた。
礼を言って受け取ると、意味ありげに笑いながら、
「彼に謝っておきなさいよ、ちゃんと」
「へ?」
「お疲れ様、またね」
そこは男を感じさせる大きな手のひらで、部屋の外へ押しやるように、わたしの肩をぽんと叩いた。
狭いエレベーターに乗り、一階まで降りる。ビルのほんの前に、沖田さんがズボンのポケットに手を突っ込み、手持無沙汰に立っているのが見えた。スーツなので、仕事中らしく見える。
わたしがそばに行くと、気配に振り返った。やはり、まだむっとした怒った顔をしている。黙って手首をつかみ、往来へ引っ張った。
「ちょっと…」というわたしの声と、彼の、「お前な…」がかぶさった。
薄暮時にも早い時間、裏路地の看板には早々とネオンが灯されている。呼び込みが立ち、独特の声音で通行人へ声を投げている。その人々の視線を感じたが、それどころでもなかった。
彼がどうしてこの場にいるのか、わたしにはまったく意味がわからない。その上「夫」と言い現れ、挙句にこの仏頂面とくる。
「あの、沖田さん…」
その声にか、ふと彼が足を止めた。やはり手首はつかんだままだ。「ちょっと」と振りほどこうとして、気づく。沖田さんはわたしの声に足を止めたのではなかった。
『のぞき穴』という店の看板に、身を隠している(隠れていないが)、社長の姿が見えた。こっちを凝視している。そのぎんぎんな視線は、まっすぐにわたしへ向かっていた。
それを受け止めかね、わたしは反射的に、沖田さんにつかまれた手首ごと顔に当てた。気味の悪さに、肌が粟立った。
「雅姫、あれ何だ?」
沖田さんが小声で訊く。わたしは指の関節を噛み、「社長」と答えた。
「シャチョー?」と、カタカナ英語のような音で問い返す。
「月、幾らもらってたんだ?」
そんなことを、低い押し殺した声で訊くのだ。まあ、アノ店の後でコレだ。自然、わたしという女が、そういう生き方をするように見えてしまうのかもしれない。
わかる気はするが、不機嫌に、単にパート先のスーパーの社長だと答えた。
「単なるパート先の社長が、何で?」
と、彼の声がまだ疑わしげなので、社長とのいきさつをはしょって(ナンのくだりとイタリア帰りなど…)教えた。
「ふうん」
そんなやり取りをしている間に、社長がなお、ぎんぎんな目のまま、こちらとの距離を詰めてきていた。
 
どうしよう。
 
「ちょっと待ってろ」
沖田さんはわたしの手を放し、社長の方へ歩を進めていく。彼が、社長を相手に何をする気なのか、気になって、わたしも数歩後を追った。
「あんたは、あの女の何なんだ? 店の経営者か? あの破れボウズの仲間か?」
から始まり、「わたしの知った女なんだ。あんな店で働くなど、許せない。女と話をさせろ…」と、なぜここにいるのかの説明もなく、要領を得ずくだくだしいばかりだ。
「こんな不埒な副業が、家の者にばれてみろ、大事になるぞ。だから、わたしと話を…」
社長のそれ以上の声を遮り、沖田さんはあっさり、
「若菜の夫です。迎えに来たんですが、何のご用でしょうか?」
と、ここでもまた嘘をつく。
その返しは、予想外であったらしい。社長はむっつり黙り込み、抗弁を言いあぐねるように唇をもじもじと動かしている。そして、目は確認するように、わたしをまたじろじろ見るのだ。
その仕草が気持ち悪く、視線から逃れるように、沖田さんの背に隠れた。ごく短い会話を終え、沖田さんはわたしへ振り返った。
「さっさと帰るぞ」
と、再びわたしの手首を、ちょっと乱暴なほどにつかんだ。「痛い」と振りほどきたかったが、どこかにまだある社長の視線を意識もしていたため、おとなしく従う振りをしていた。
 
路地を外れ、ようやく手が解かれた。取り戻した手首は、やんわり赤くあとがついていた。
「ちょっと話せるか?」
その声はまだ硬い。
時間はまだあった。本来なら、バススタッフをもう一時間ほど勤めることになっていたはずだ。わたしも、彼がなぜ、あの店にやって来られたのか、知りたかった。「夫」だと偽った訳も、聞きたいと思った。
商店街とは筋の違う方に、駐輪所を兼ねた小さな広場があった。「じゃあ」と、駅前を何となく歩き、そちらへ足が向いた。
「暑いな」
西日が照るその場所は、子供ですら姿がまばらだった。高校生らしい女の子が、二人話し込んでいる。車止めが、出入り口にぽんぽん配置されていた。ベンチにちょうどよく、そこにわたしが腰をもたれさせれば、すぐ彼が、
「何か冷たい物、買ってくる。逃げるなよ」
と走って行った。広場を出てほどなく、コンビニがあったはず。
わたしはバックから、帽子を出しそれをかぶった。日除けと、気まずい出来事の後で、これから彼と過ごす、短い時間の照れ隠しもあった。
小さなビニール袋を提げ、沖田さんは本当にすぐ戻ってきた。「ほら」と突き出してくれた物に、思わず笑みが出た。『ガリガリ君』だった。
わたしがちょっとした驚きで、受け取りかねていると、差し出したグレープ味を、自分の取ったソーダ味に替えてくれた。
そんなのじゃ、ないのに。どっちだって、いいのに。
値頃なアイスキャンディーに、ほっと気持ちが和んだ。
さっそくかじりつく彼を見ながら、わたしも封を開けた。舌に冷たい角を触れさせれば、これをよく食べた、昔のイベント会場の暑い匂いが、時を経て、ふっと鼻の奥に甦りそうに思う。
「まだ好きだったの? これ」
「好きなものは、変わらないだろ」
「いい年して」
「年は余計だ」
半分も食べた頃、彼が声を落とし、「正直に言ってくれ」と切り出した。
「ん…?」
隣りのわたしへ視線を向け、すぐにそれを戻す。ガリガリ君の残りを一口に頬張った。苦い物でも飲み込むように、喉にやり、
「誰にも言わない。お前…、あの店で、身体を売ってたのか?」
 
へ?
 
思いもよらないところから、いきなりボールを投げられたような問いだった。瞬時、意味を受け止め損ね、わたしは、ほんのちょっとあぜんとした。
すぐ意味を把握し、ガリガリ君を唇に当てながら彼を見れば、伏せがちな目でわたしをうかがっている。
 
そんな訳ねえよ。
 
喉の奥にぷつぷつ込み上げる笑いを押し込め、
「だったら、どうなの?」
言葉を発しない代わりに、食べ終わったアイスの棒を、彼の歯が、ぎりぎり噛む気配がした。その棒に、彼の意識しない『一本当り』の焼き印が見えた。それを見ながら、この人は、人生のあちこちで運のいい人なんだろうな、とちょっと思う。
「いろはちゃんと、今後つき合うなって言いたいのなら、もうお宅にもお邪魔しないし、連絡もこっちからはしな…」
「そんなこと、言ってるんじゃないだろ!」
大きくはないが、はっきりとした怒声が、彼の側に向いた頬をぴしゃりと打つ。はっとするのをやり過ごし、怒ったせいで、彼が足元に落としたアイスの棒を拾い上げ、
「当たってるよ」
と、彼に差し出した。そして、ついでにきっぱりと、身体など一度も売ったことがないと否定した。あの店のシステムを、簡単に説明しておく。
それを聞く彼が、まるで門外漢らしく、目を丸くしているから、
「沖田さん、風俗行かないんだね」
「行かねえよ」
「専務は行けないか…」
「専務は関係ねえだろ」
「あははは」
そこで、今度はわたしが彼に問う。どうして、わたしがあの店に勤めていることを知ったのか…。
それに彼は、「うん…」とちょっと言いよどんだ。
「何?」
「うん…、ちょっとお前に話したいことがあって、パート先のスーパーまで行ったんだ。時間も空いてたし、仕事中なら、いるだろうと思った」
彼には、前に会ったとき、子供も手が離れ出し、普段夕方頃まで、近所のスーパーでパートをしていることは告げてあった。でも、そのスーパーの名前であるとか場所は、教えていなはず。
変な顔をしたのだろう、彼はそれに、わたしの住所から近いスーパーは三軒で、そう距離もないから、三軒とも確認するつもりで足を運んだら、一軒目で当たりだったのだとか。
「ふうん」
「四時頃かな、ちょうどお前が自転車で出てきて、声をかけようと思ったら、あれが見えた」
「あれ?」
「さっきのシャチョー」
ああ。
そこで話がつながった。わたしの跡をつける様子の社長を見て、沖田さんもその跡を追ってきた。そうして、あの『紳士のための妄想くらぶ』にたどり着いた訳だ。
自転車だが、商店街は人手が増える時間帯で、その上わたしは、ほどなく駅の駐輪所に自転車を停め、こそこそあの路地に向かう。なので、徒歩で追うのも、それほど困難でもなかったらしい。
「旦那と名乗ったのも、そう言えば、店からお前を連れ帰るのに、都合がいいと思った。あのシャチョーを納得させるのにもな」
「ああ」
なるほど、そういうことか。
確かに、夫役の沖田さんの登場がなければ、あの社長は簡単には引き下がってくれなかっただろう。今も、『のぞき穴』の看板の陰からこっちをぎらぎら見た、あの粘ついた視線を感じそうで、うすら寒くなる。
「お前、もうパート辞めろ。あのまま引っ込んでいるか? あのシャチョーが。いい身分の男があんな事するなんて、相当お前にのぼせてるぞ。シャチョーの様子を見て、俺はてっきりそういう仲かと…」
「止めてよ」
わたしは沖田さんをにらんだ。スガさんにも言ったが、社長の「持ち物」、それこそお手当ての付く『ラマン(愛人)夫人』に収まる覚悟があるくらいなら、最初っから、面倒なバススタッフの仕事なんかしていない。誰にも知られず、もちろん、自分を傷つけることも避けたい…。そういった条件を満たしていると思えたのが、あの仕事だった。
何も持たないようで、わたしには、案外失うものがあることに気づく。
確かに、沖田さんの言う通り、社長の今後の出方は気になった。おかしな人は元々だが、今日の行動といい、エスカレートしそうで怖い。
「お土産のバック、返したんで、逆恨みされたのかな…、プライドを傷つけたとか。もらっとけばよかった?」
「一緒だろ。雅姫が受け取ってれば、それはそれで、あっちなりにゴーサインと取ったかもしれない」
「もっと若い子狙えばいいのに。何でわたしかな…」
そうぼやけば、「人の趣味なんて、様々だろ」と沖田さんは、そう言い、わたしの帽子のつばを、指でぴんと弾いた。表情は、もう緩んでいる。
彼はまた、パートを辞めた方がいいと繰り返した。「シャチョーとの接点は絶つべきだ」と。
それに、わたしは返事を返せなかった。
今と同じほどの距離の、拘束時間の…、と条件を挙げれば、すぐに働ける場など、きっとそうない。今の職場に未練はない。あるのは、そこで得られる収入にだ。
大した金額でもないが、そのパートの給金と貯金をいじましく切り崩し、生活している。簡単に辞めることには、大きなためらいがあった。
どこかでフルで働ければ一番いいのだが、夫が不平を鳴らすのが目に見えていた。それで喧嘩になったことも幾度かある。何だっていい、彼の仕事が早々に決まってくれれば、わたしの肩の荷も、うんと楽になるのに…。
食べ終えたアイスの棒を唇にあてがい、長くもないもの思いの間、つい視線は下を向く。
「…金に困ってるのか?」
「うん…、まあ、ね」
沖田さんを相手に、見栄を張っても仕方がない。夫がリストラに遭い、一年ほどになるのだと打ち明けた。
「そうか…」
今度は彼が黙った。
「なかなか決まらないみたい。わたしはもう、何でもいいんだけどね、でも、本人はそうはいかないだろうし….。沖田さんの目にも、そんな風に映るんだ…」
「いや、そういうんじゃない。ただ、お前が、らしくもなく、本の売り上げを気にして、うちのいろはの言うことなんか聞いてるし…。それでつい、気を回した。雅姫、次BLも描くんだってな?」
「何で知ってんの? 沖田さん」
びっくりして問えば、いろはちゃんが「雅姫さんのBL!!」、「神の御手なるBL!!」と大興奮してくれていたという…。
ははは。
しかし、さすが元少女向け漫画編集者(同人ヘッドハンターとも)。『BL』なんて単語が、さらりと出てくるところがすごい。そんな四十男性、そうそういないと思う。
「お前、やおい嫌いじゃなかったか?」
「そんなことないよ、描いてなかっただけで…。勢いあるんだって、あのジャンル」
「知ってる、うちだってBL専門のレーベルを…」
そこで、わたしのケイタイにメール着信のメロディが鳴った。
好きな漫画を描いて、それが売れて家計の足しになるのなら、ぜひそうしたいのだ…。そんなことを、ケイタイをバックから取り出しながら、事故に遭ったネコを見るような目でわたしを眺める、沖田さんに告げた。
「本を作るお金がほしくて、あの店で働いていたの。食べたり、着たりの、生活のお金じゃないの…」
メールは、スガさんの名を表示している。もしや、社長絡みのことで、店に迷惑をかけたのか、と胸が押されるような気がした。
「ごめん」
沖田さんの前だが、断ってメールを確認する。
「誰だ? 家の人か?」
「ううん、さっきのスガさん…」
そこには、『また機会があれば、気軽にお小遣い稼ぎに使ってね』とあり、下に続く。辞めたさっきの事情を考えれば、いたわりのある文句に感じた。どんな店であれ、スガさんのお陰で、辛くなくあの仕事ができた。本を出すに必要なお金も稼がせてもらえたのだ。
感謝以外の感情は、わたしにはない。
だが、
その下が問題だった。
 
『アタシのチンコの味、忘れないでね><。スミレちゃん』
 
あの、海坊主オネエ…。
ふと気配を感じれば、沖田さんが、『チ○コメール』をのぞき込んでいた。彼の頬の辺りが引きつっている。声にはならなかったが、唇の動きが「くわえたのか?」と言ってるのが読めて、我ながら情けない。
馬鹿。
「雅姫、まさか…」
「冗談、ああいう人なの、スガさんは。わかるでしょ、オネエのことは男同士」
「知るか」
「あははは」
慌ててケイタイを閉じた。
どれほどの後か、沖田さんが、「事務系の仕事なら、一つ紹介できる」と言う。気持ちは嬉しいが、家庭のことがあり、わたしが通える範囲ではない。贅沢を言っていられる身でもないのに、申し訳なかった。
この申し出のために、今日敢えて出てきてくれたのだろう。
「ごめんね、せっかくのいい話なのに…」
「いや、お前が無理なら構わない。どうかと思っただけだから」
「ありがとう」
暑いばかりだった西日が、不意に雲間に隠れた。生ぬるい風が辺りを漂ったと思えば、ぽつんと手の甲に大粒の雨が落ちた。
背後で高校生の女の子の、夕立を気にする明るい声がする。しまい忘れていた手のケイタイを、バックに落とそうとしたとき、その手がつかまれた。確認するまでもなく、この日、何度かわたしの手首をつかんだ、彼の手だ。
やはり、いつかの記憶通り、よく日に焼けている。健康的で、強くて、しなやかな手。長く見ていたくないと思った。
顔を上げれば、真剣な目が、こちらへ注ぐ。つかんだ手を、ぎゅっと意味を込めるかのように力を加えた。あんな店でもう稼ぐな、と低い声が叱るように言うのだ。
「二度とするなよ」
「しない。…多分」
「あ? 多分? 今度はぶん殴るぞ」
旦那でもないくせに、偉そうに。
ややそっぽを向き、わたしは口の中で「しない」とつぶやいた。
雨が強まる中、彼の薄いブルーのシャツに、ぽつんぽつんと不規則な水玉ができていく。つかまれた手首を取り返し、立ち上がる。
「帰る」
「ああ」
何となく彼を見た。雨粒で前髪がぬれ、そのしずくがこめかみを伝っていく。涙のようだと思った、ほんのちょっとそう思った。
もう上がり始めた雨の中、並んで広場を出る。そのとき、どうしてだろう、タマさんの言葉がふと頭に響いた。彼女は、『紳士のための妄想くらぶ』のような店で働くのなら、それを決めた己の責任で、家族に知られるような、迂闊な真似はしちゃいけない、と言っていた。
「傷つけちゃ、駄目よ」と。
多分、雨粒が見せた、まやかしの涙からの連想だろう。
そして、思う。
ほんの隣りを行く彼を、上目でうかがってみる。わたしがあの店で働くことを知って、彼は傷ついたのだろうか。
ふと、いたずら心に訊いてみたくなる。けれどもすぐに、その気は削がれてしまう。訊いて、答えをもらって、どうしようというのだろう。
 
仮に、そうだとしても。
また、そうでないとしても。
 
わたしはそれらに返す言葉を、きっと、探しあぐねるのだ。





          


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