ふわり、色鉛筆
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やはり、パートを辞める踏ん切りは、付けられずにいた。
家とパート先を往復するだけの、以前の生活に戻っただけのような日々が続く。
バススタッフをしていたときは、家事や睡眠を切り詰め、時間のない中、きりきりと動いていた。ただ、元に戻っただけなのに、随分と時間に余裕が生まれたように思えるのが、不思議だ。
時間や感情、雰囲気…、形のない物は、人がどのようにそれらを受け止めるかで、重さも色合いも、何もかもが違ってくるのだ…。そんなことに改めて気づき、ちょっと感心したりもした。
『紳士のための妄想くらぶ』を辞め、空いた時間を、わたしは原稿を描くことに使った。使うことの稀だったワッフルメーカーなんかを引っ張り出してきて、その合間に、総司のおやつを手作りしてあげる気分にもなる。
この日も、パートから帰れば、洗濯物を畳み、夕飯の段取りをつければ、ダイニングテーブルに途中の原稿を広げた。
これまでは、夜中、夫の目を気にしながら、こそこそと原稿を仕上げていた。照れ臭さと説明が面倒であるのとで、夫へは「友達と一緒にフリーマーケットに手作り絵本を出す」と脚色交じりの言い訳をしていたが、それも止めた。
実際、時間も足りず、そして、漫画を描くのは結構スペースを取る作業だ。言い訳しつつ、隠れて進めるのには、限界もあった。
それに、素人ながら、漫画を描いてお金を得ようと思うのだ。真剣に、わたしはそう考えている。これから、どれだけそんな生活が続くのか知れないが、夫にもある程度の理解はほしい。
「パパ、ごめん、総司見てて」
幼稚園から帰った総司を、夕飯まで見てもらうのは、もう日課になっている。声をかけると、夫はソファからあくびをしながら立ち上がり、
「パパとお外に行くか?」
おもちゃをひねくり回している総司へ誘う。毎日のことで、手持無沙汰なのだろう。「アイス買ってやるぞ」と、わたしのバックから、財布を抜き出すのが見えた。アイスにつられて、総司がおもちゃを放り出す。
わたしは、子供を抱き上げた夫へ、
「チョコとか、お腹に溜まるの駄目。夕飯食べなくなる」
「ふうん。総司、何が食いたい?」
「ガリガリ君…」
首をのけぞらせながら、総司が言う。その言葉にちょっとどきっとした。誰かさんが、好物のそのアイスキャンディーをわたしに買ってくれた記憶は、まだまだ新しいのだ。
ほどなく夫が総司を連れ、家を出て行った。
わたしが外にフルタイムで働きに出ることには、まったくいい顔をしない彼が、イベントで売る同人誌を作るため、漫画を描くことには、これといった反対もしなかった。「へえ」と、ちょっと面白そうな顔をしただけだった。
「同人誌」とか、「イベント」、といった特殊な世界のことを、よく理解していないところもあるだろう。内職に近いもの、のような感覚なのかもしれない。
わたしが稼ぐことが、彼は不満なのではない。外で、以前の彼のように働く妻が嫌なのではないか…。そんなことを、ちらりと思うことがある。
それはそれで構わない。理由はそれぞれ違えど、絶対に妻は家にいてほしいと、譲らない男性だって、少なからずいるだろう。
夫の場合は、どんな訳があるのか。プライドかもしれない、見栄かもしれない、または束縛めいたものかもしれない…。それらの中に、多分、答えに近いものはあるのだろう。
どうであれ、わたしの仕事が、彼にとって「内職」の域を出ない限り、納得し、原稿を描く時間を捻出することに協力してくれるのであれば、とてもありがたい。それ以上の、何の要求もないのだ。
冷え過ぎた室内のエアコンを切り、窓を開けた。狭い庭の向こうから、夫の声が聞こえた。話の相手は、隣りの安田さんの奥さんだ。放し好きな人だから、つかまってしまったのだろう…。
「パパ」と総司の焦れる声が聞こえた。彼も、適当にかわせばいいのに…。ちらりとそう思ってすぐ、人声はしなくなった。
意識を原稿に向ける。
広げているのは、次のイベントに桃家さんと出す、合同誌のもの。頼まれた、彼女の小説の挿絵はもう仕上げてあった。これは自分の漫画だ。タイトルこそ未定だが、最終段階に入っている。
今回からチャレンジするBLは、わたしにとって初めて書くジャンルになる。ネタからネームから、そして仕上げまで…、すべてが新鮮で面白い。
舞台は幕末、キャラには、なじみのある有名志士たちが登場する。これは、いろはちゃん情報による、人気のある時代背景を、参考にさせてもらった。
あさましく思わないこともないが、より多くの人に手に取ってもらえるよう、新参でBLを描くのだ。なら、ジャンルだって、人気があり、盛り上がっているところを思いきって狙うのが、目的に適う気もする。
「人気の設定ということは、もちろん、それだけ、描く人口も多いということです」。
いろはちゃんからは、そう注意ももらっていた。確かに、ラーメン激戦区エリアに、ぽっと出の新参店が出店するようなものだろう。それは、覚悟の上だ。
人の目に触れる機会が増えるは、何よりの魅力だし、メジャーなジャンルということは、違う見方をすれば、誰もが親しみ易いということでもある…。
「描いてみる。駄目もとで」
と、そんな声が気楽に出たのは、少々錆びつつも、やっぱり昔取った杵柄のお陰だろう。珍しくもない設定であるのなら、そこに目新しい切り口なり、工夫を加えればいい…。物語やネームをひねくり回すのは、好みなのだ。
六時少し前に、夫と総司が帰ってきた。玄関の音を聞き、わたしはペンを置いた。そろそろ夕飯の支度にかかろう。
お茶を飲みにキッチンに入ってきた彼が、グラスを持ちながら、わたしの原稿をひょいとのぞき込んだ。
首をかしげている。
ちょうど描いていたシーンはキャラ同士が、抱擁を交わすところ。「見ないでよ」と、照れ臭くて、慌てて紙を伏せて隠した。手早く片付けてしまう。
「何で? 上手いのに」
「もういいの、見ないでよ」
夫の背を押し、リビングに押し返す。
「もうちょっと女の子を可愛く描かないとな。あれじゃ、男にしか見えないだろ。男と男が抱き合うって、何の罰ゲームだよ」
そういう読み物のジャンルがあるんだよ、驚かせてみたくて、そんなせりふが、つい口元まで出かかった。けれど、夫がつないだ次の言葉に、わたしはそれをのみ込んだ。
 
「うわ…、気持ちわる」
 
ノーマルな反応だろう。彼が、責められるレベルでもない。口にする人も、きっと多くある。わかっているから、「…そうだね」と、気持ちがこもらないまま、相槌が打てた。
でも、冷静にそう思う一方、心の別の場所で、ふつふつと怒りに似た感情が泡立ちそうになるのだ。
その気持ちの悪い漫画を、わたしは頭をしぼって懸命になって描いて、家のため、生活費を稼ごうとしている。
そのわたしも、やっぱり気持ちが悪いのかな?
 
ねえ?
 
 
 
その同人誌即売会は、東京某所で開催された。三日連続のイベントで、選考により参加許可の下りたサークルは、そのいずれかの日に会場にスペースをもらえることになる。
今回のイベントでは、桃家さんと合同誌を出すことになり、一日都合をつけて、売り子を買って出た。
桃家さんは、当日、待ち合わせに、わたしが果たして現れると、一瞬ぱっと顔をほころばせた。が、すぐにそれを引きしめ、真面目な顔で、
「無理しないでいいのに…。ご主人が、銀のシガレットケースを探して、お困りにならない? お書斎のいつもの長椅子に、雅姫さんの刺繍道具の入ったバスケットが、置き去りになってはいない?」
あははは…。
どこからそんな設定をひっぱり出してくるんだろう(しかも、どこかで聞いたようなやつ…)。ゴージャスな人は、思考も、ちょっと浮世を離れているようだ。
彼女の個人秘書の景山さんに手伝ってもらい、本の搬入を済ませた。
夏本番前の季節だ。会場はそれなりに空調が効いているとはいえ、人いきれですぐにむっとしてくる。簡単な設営を終えれば、もう暑さを感じ出す。
椅子に座り、ここに来る途中、街頭で配っていたうちわを出してあおいでいると、隣りの桃家さんがごそごそと足元の、年季の入った、『MICHIKO・LONDON』のロゴのバックを探っている。
何かを取り出し、わたしへ差し出した。布地で、畳んだ服のように見える。柄が、彼女の着ている、小花とバラがぎっしりあしらわれたものにそっくりだ。ただ色が違うだけで…。
「はい、今日のユニフォームを支給するわね。トップスは着替えにくいし、スカートだけでいいわ。ほら、わたしの後ろで、ささっとぱぱっと、ドリーミーなあなたに変身しちゃいなさいよ」
 
変身?
 
ドリーミーなわたし?
 
「ほら」、「早くしないと、始まって、お客が来ちゃうでしょ」と、当たり前のような口調で、やたらと急かす。
「…でも、汗かいて汚しちゃうとまずいし…、それに…、ねえもう年だし、似合わないから(趣味じゃないし)、こんな可愛いの…」
「同人に一人でカムバックした、若干憂い顔の雅姫さんに似合う色をと、特にセレクトしてきたの。汗なんか気にしないでよ。わたしたちの仲じゃない。ニキビと汗は青春のシンボルでしょ?」
「いや、だから、年だから、ね?」
「イベントは、萌えと自称年齢で通る場でしょ。よって、二十四歳以上の人間はいないのよ」
「あははは…」
まあ的を射た彼女の意見に押され、半ば面倒にもなり、折れた。
まあ、いっか。
彼女のスペースだし。わたしは、今日は、彼女のところの売り子だ。
若干憂い顔のわたしに似合う色だという、スカートを受け取る。ちなみに淡いブルーだった。はいているバギーの上からスカートを重ね、パンツの方を落とした。
季節がらか、浴衣を可愛らしく着ているサークルさんもちらほら目につく。可憐に広がる花のようなティアードスカートも、そうそう奇抜でもないようだ。椅子に座っていれば、上の黒のカットソーしか見えないし…。
そうこうしているうちに、開場になった。わっと喧噪が、辺りに広がり始める。
「隣りに人がいると、気分が違う」
わたしにお仕着せのユニフォームを着せ、ご満悦の桃家さんが、ぽつりともらす。彼女は昔から、いつも一人の、個人サークルの印象が強かった。それが彼女の意に適っているのだろう。ポリシーなのかもしれない。
一人サークルのメリットは、本を作るときも売るときも、マイペースに、気楽なことだ。
けれども、
売れた喜びも、売れなかったがっかり感も。そして、このお祭りのような環境の独特の匂いも。みんな一人で味あうのだ。
気ままの裏側で、それはほんのちょっとさみしい。
今回は、初の合同誌記念もあって、わたしの描いたイラストを元に、彼女がポスターを起こしてくれた。それを持ち、わたしは桃家さんへ声をかけた。
「ちょっと宣伝に立とうか。人が来るよ」
「そうね」
どうせなら、今のこの時間を楽しもう。
 
 
本は売れた。
前もって、ブログでイベントの告知と合同誌の宣伝をしておいたのが、大きかったよう。「ブログで見ました」と、声をかけてくれるお客も珍しくない。
まったく、こんな「今どきの当たり前」をわたしに教えてくれた、いろはちゃん様様である。
午前の終わりには、多めに刷った(今のわたしにしては)本が、三分の一ほどに減っていた。快挙と言っていい。初のBLジャンル、ということもあり、涙ぐむほどに感激し、気分がふわふわと浮き立つのだ。
わたしの浮かれっぷりを横目に、ごくマイペース、長年の桃家スタイルを崩さない彼女は、
「大した部数じゃないじゃない、昔を思えば、屁みたいなものでしょ?」
と渋い顔だ。
「だって、嬉しいんだもん」
「情けない。あの『ガーベラ』の雅姫さんっていったら、「クールジェンヌ」で通って、同人じゃ、あなたのファンも大勢いたのよ。それが、百もいかない数、本がはけたからって、へらへらデレデレ…。ああ、情けない。相棒の千晶さんも、きっと今頃、あなたの豹変に、草葉の陰で泣いてるわよ、悔しがって」
だから、千晶は元気だって。
それにしても、「クールジェンヌ」…? は?
スペースには頻繁にお客が現れ、途切れることがない。申し訳ないが、スケッチブックへ書き込みするなどは、お断りさせてもらった。とても対応の時間がない。
おそらく、これまで『雅姫』や『ガーベラ』など意識もしないだろう、若い女の子たちもが、本を手に取ってくれるのだ。舞台背景が幕末であると知れば、「カップリングは何ですか?」と、問いかけてくれる。
明らかに、「ジャンル買い」、「カップリング買い」をしてくれる人が、少なからずあるのだ。人気のジャンル効果の手応えを、このときしっかり感じていた。
「はい、午前のおやつの支給」
うちは売り子の待遇がいいの、と『MICHIKO LONDON』のバック(保冷機能付き?)からあずきバーを取り出してくれた。
「ありがとう」
遠慮せずに、礼を言ってもらう。熱気でもわもわするから、冷たい物はとってもありがたい。
交代でそれを食べていると、お客が前に立った。
「いらっしゃいませ」
あずきバーを急いで飲み込み、声をかける。そのとき、「あ」と桃家さんが、わたしのティアードスカートを引いたのが、不思議だった。
「あの…」
若い女性だ。二十代半ばに見えた。黒地に赤い菖蒲が印象的な浴衣姿だった。しっとりとした黒髪のボブを揺らし、お客は合同誌を指し、
「この中の、幕末モノのBL、カップリングが『高杉(晋作)×土方(歳三)』だって、聞いたんですが、間違いないですか?」
変な問いかけだと思ったが、好み以外の本は絶対に買いたくない、といった人もある。「はい」と答えた。
彼女は指先で本の表紙をなぜながら、くっきりとアイラインで縁取った目をわたしに戻す。その瞳を見て、わたしは『王家○紋章』という少女漫画に出てくる、ヒーローのトラブルメーカーの姉を連想していた。
 
「おたくから、挨拶が、まだないんですが…」
 
はい?
聞き間違えだと、思った。
また、桃家さんがスカートを引いた。
意味がわからないまま、前の女性に訊き返した。
「ごめんなさい、何でしょう?」
「おたく、新参そうだから、教えておきますね」
彼女は顎を引き、緩く腕を組んだ。こちらから目を逸らさずに、話し出す。ちょっと芝居がかった仕草と思った。
一方わたしは、唇をぽかんと開きながら、彼女の話を聞いた。どうやら、彼女はわたしが初参加したこのBLジャンルでの大手サークルさんであり、その作品のメインカップリングが、わたしも描いた『高杉×土方』だという。
彼女の自己申告だが、何でも「『高×土』スキーを増やしたのは、うちの『サクラ塾』(サークル名)だ!!」なのだ、そうだ。
「皆さん、功績あるうちに遠慮されて、同じカップリングは、控える方が多いようです。それでも描きたいという人は、事後でも事前でも声をかけてもらっています」
かぶっている、生意気だ、ということらしい。
「はあ…」
「こういった人気ジャンルは、参加サークルが乱立し、日本人らしい礼儀も乱れがちです。行き過ぎれば、ジャンル全体の雰囲気も悪くなるでしょうし。うちのような重鎮が、きめ細かに目配りして、ジャンルを把握しておかないと、のちのち厄介なことにもなりかねません」
だから、挨拶しに来い、か。
彼女の言い分は、わかるような、わからないような…。
こんな風に高圧的に、縄張り意識みたいなものを剥き出しにされる方が、ジャンルの雰囲気が悪くなりそうだが…。
自分で自分に「功績ある」、「重鎮の」、「きめ細やかに」…などと修飾する人も珍しい。先ほどから、桃家さんがスカートを引く意味も、何となく読めてきた。
あまり関わりにならない方がよさそうだ。こちらが新参であるのは、確かだし…。
ぺこりと頭を下げた。別に苦でもない。
「ご挨拶が遅れました。よろしくお願いします」
「わかればよろしい」
頭の上に「ふん」と鼻息のような音がする。
「上下の別は、はっきりしないとね、乱れの元」
「もらっていくわね、一冊」と、当たり前のように本に手を伸ばすから、驚いた。とっさに手が出た。
やっぱり彼女の理屈は、わからない。
自分だけの本なら(それでも嫌だが)ともかく、今回は桃家さんと共同で出した本だ。他の新刊・在庫も売るというから、スペース代は彼女に負担してもらっている。その埋め合わせに、せめてもと、今日は売り子を買って出ている。
訳のわからない理屈で、一冊抜かれるのは、許せないのだ。
思わず、本をつかんだ彼女の手を止めれば、「雅姫さん」とやんわり声がした。隣りの桃家さんだ。まだ、あずきバーをお上品に食べていた。シャリシャリかじりながら、首を振る。持っていかせろということらしい。
腹は立つものの、気づけばスペース回りには、「すわトラブルか?!」と遠巻きに人だかりもできていた。これ以上は、みっともない。桃家さんにも迷惑だ。
手の力を抜けば、止めた手の甲が、ばちんと蚊でも叩くように打たれた。
「身の程を知れ」
本と彼女が消え、ぽつんと落として行った捨て台詞が、かんかんと鳴る下駄の音と一緒に残った。
しばらくは、お客も様子をうかがうように、前に立つことはなかった。今の出来事に、あ然としてしまって、椅子にへたり込んだ。
「ごめん、本…」
「いいの。気にしないで。あの人厄介よ。同人界でも有名。スジ者絡みらしい噂は、本当よ」
「え」
○○組の二次組織の関係者というから、怖くなる。
桃家さんが、自分の頬へすっと斜めに線を描いた。描いたのが指ではなく、あずきバーの先でだったので、アイスが付き、ちょっとおかしかった。
「ふうん」
それでか。何となく納得してしまう。理不尽な言い分だったけど、『エジプトの彼女』に、それを押し通す迫力は感じた気がする。整った目鼻の、美人だったからなおさら。
面倒だな、と少し肩の辺りが重くなった。手応えのある、このジャンルで頑張って行こうと思った矢先なのに…。
「本家の○○組の組長が、パパと知り合いでね。うちに来たとき、お供に彼女のお父上がそばに…」
と、ぼそりと言い添えた。ちらりとも自慢げでないのが、『本物』のすごいところだと思う。あのゴージャスなリムジーンと、お屋敷、人を舐めた個人秘書を思い出せば、突飛な話でもない。
ははは…。
一体、どんな世界に住んでいるのだろう、この人。
「知らん顔で、適当にご機嫌取ってればいいわよ。当たらず触らずで、ね」
「うん、そうする」
桃家さんの言葉に頷きながら、こういった真にアッパーな人は、決して言わないのだろう、と思う。「身の程を知れ」などとは。
彼女の言う通りだ。それこそ年の功で、やり過ごせばいい。そんなこと容易いくらいに、心臓も、面の皮も厚くなっているのだから。
またお客が戻り始めた。
昼食も摂れない忙しさに、先ほどの出来事は頭の隅に追いやられていく。
「そろそろ交代で、食べようよ。アンさん先どうぞ」
「雅姫さんこそ、そろそろ鯖寿司タイムじゃないの?」
「何で鯖寿司…」
と、そこで、通路の人をかき分け、何かが何者かがやって来るのが見えた。さっきの『エジプトの彼女』だ。まっすぐに、こちらへ向かってきている。
また、何の難くせかと、身構えた。こっちの本を読んでの、言いがかりかもしれない…。
ほどなくスペースの前にたどり着く。
こっちが声をかけるより早く、彼女が切り出した。
「申し訳ありませんでした!」
 
は?
 
きれいな黒髪のボブを揺らしながら、派手に床に跪くから、鯖寿司どころじゃない。
「お宅様が、あの高名な『ガーベラ』様の御片割れのクールジェンヌのお方とは、露ほどにも気づかず…、先ほどは、厚顔な恥ずかしいばかりの言動を。ご本尊を拝んだことがなく、まさかこの場に『クールジェンヌの君』が…。ここにお詫びを申し上げます」
「いや、いや、いいです。あの、止めて下さい(『クールジェンヌの君』も)」
さっきよりもっともっと恥ずかしいよ、それ。人も見てるし。
彼女を止めようと、効果もないのに両手を前に差し出して、やや振ってみせる。
「そろばん塾のお姉さんに教えてもらって以来の、ファンだったんです、ずっと、ずっと。昔っから、友達の少ないわたしの、唯一の心の拠りどころでした!! っかぁーっ!」
言い切って、気持ちよさ気に風呂上りの冷えたビール後のように喉を鳴らす。やっぱり効果はないけど、もう両手を振るしかできない。
さっきはスカートを引いて注意を促してくれた桃家さんが、涼しい顔をしてスケッチブックにポップを書いていた。「『スペース・やくざ 〜哀しみと野良猫を抱いて眠る夜〜』残りわずかです!!』と。知らん顔で。
「止めて、立って。お願い。もう全然気にしてませんから。ハハハ…ハ」
「ここに、仁義を切らせていただきます」
そこで彼女は顔を上げ、膝に袂を抑えた手を置く。わたしをすっとした瞳で見据えた。
 
へ?
 
「これよりは、雅姫姐さんと呼ばせていただきます」
 
嫌です。





          


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