ふわり、色鉛筆
13
 
 
 
電話が鳴ったのは、九時を幾らか回った頃だった。ケイタイを見れば、着信はいろはちゃんから、となっている。
「ちょっと外に、ごみ出してくるね」
お風呂上りで寛いでいる夫へ声をかけ、まとめたごみ袋を手に、外に出た。外気は、室内に比べ、やや低いかどうか、というほど生ぬるい。庭に置いたポリ容器に、ごみ袋をしまいながら電話に出た。
いろはちゃんからは、前もって『夜にお電話しても、構いませんか?』というメールが来ていた。都合のいい時間を知らせたOKのメールを返しておいたから、わたしも、彼女の連絡を待っていたところだった。
いろはちゃんは仕事で、今日のイベントは来られなかったのだ。代わりに、友人に同人誌の買い物を頼んであったという。
『コーリンしましたね!! ありがとうございます!!』
早々に、そんなセリフが通話口から飛び出した。
コーリン? 
続いて、『神が〜』、『神の〜』と彼女流の同人枕詞が続くから、「降臨」だと意味が取れた。大げさな表現には慣れたものの、やはりおかしくて照れ臭いものだ。
仕事帰りに友人から本を受け取って、カフェで読書会をしてきたという。
『あ、作家さんに失礼のないよう、ちゃんとカバーは付けて読んでますから。リラックマの、オフ本にぴったりのやつ持ってるです、アウトドア同人用に』
「アウトドア」という言葉に、相当ミスマッチな「同人」という単語の組み合わせも、同人のオーソリティーの彼女がさらりと口にすると、当たり前のフレーズに聞こえてしまう。
「もう読んでくれたの? こちらこそありがとう」
どうだった? と初BL本の出来をうかがえば、『萌えの塊みたいな神作品でした…』と、吐息混じりに返ってくる。お世辞もたっぷり入ろうが、目利きの彼女の言葉に、非常にほっとする。
『幕末BLは、一次二次、もう、大勢の書き手さんが手がけられたジャンルですから、描き尽くされたのかな、感も少々あったんです、実は。でも、雅姫さんの作品は、またそれらとは違った角度を描かれていて…、読みふけりました。
硬派な土方が、高杉への思いの陰で、絶対の盟友近藤勇を、裏切ってしまう過程とか、理性と感情がないまぜになった理由とか…、その説得力には、ただただもう、言葉を失いました。
目新しさのないカップリングだからこそ、幕末BLモノに無限の可能性を感じつつ、また、ストレートに描き手を選んでしまう残酷さも知りました…』
「ははは。どうもありがとう。いろはちゃんに褒めてもらうと、本当に嬉しい」
『キャラの艶っぽさが、また堪りませんでした! クールな土方はもちろんのこと、天然に描かれた高杉が、わたしのド・ストライクでした!! 友達に三冊頼んだんですけど、そのうち一冊とられてしまって…。彼女、幕末は好みじゃないとか言っていたのに、雅姫さんの神絵を見て、やられちゃったらしいです』
三冊一度に買ってくれたお客…。売り子が忙しくて、お客とは会話もそう持てなかったが、多分、あの子かな、というぼんやりとした見当はついた。
「お友達にもよろしく。ありがとうって」
そこでいろはちゃんが、「あ」と思い出したように、
『その友達が見たらしいんですが、あの夜叉神咲耶さんが、スペースに凸してきたとか…』
ヤシャガミサクヤ…?
『サークル『サクラ塾』の、ですよ』
ああ、それで思い出した。
くっきりアイラインの美人で、いきなり仁義を切ってきた彼女だ。「姐さんと呼ばせてくれ」とか、あの後も何度もせがまれて、ほとほと困った。
いろはちゃんいわく、その夜叉神咲耶さんは、癖ありで同人でも有名らしい。
『ジャンル大手さん、というのももちろんあります。でも、派閥を作るタイプの親分肌の方のようで、子分サークルさんもいますし…。ジャンル内のボス的な存在らしいですよ。目をつけられて、活動しづらくなって、泣く泣くジャンル移動をしたサークルさんもいるとか…』
形だけでも、和しておくのが賢いやり方だ、といろはちゃんは説く。
あれは、和したことになるんだろうか。「目をつけられた」ことには変わりないだろう、別な意味で…。
「そうだね。挨拶したら、わかってくれたみたいだし」
『サークルさん同士のコミュニティーは、わたしども読み専にはちょっとうかがい知れない部分もありまして…、BLに進出されることをお勧めしたのはわたしなのに、ジャンル内を説明不足でした。嫌な思いをおさせして、すみません…』
「いやいや、いろはちゃんは、まったく関係ないの。気にしないで。それに…」
深刻そうに、責任もないのに詫びられるから、こっちがいたたまれない。それで、イベントでの夜叉神咲耶さんとのあれからの顛末を、ちょこっと話しておいた。
『え、あの親分夜叉神咲耶さんが、雅姫さんを「姐さん」と? すごい!! それ、ニュースですよ。『イ・ロ・ハ便り』にスクープいただきました!!』
「ははは。相手があるから、名指しは、ちょっと困るな…」
『もちろん、トゲがないよう記事にフェイク入れます』
ごみをしまったポリ容器の上に腰を下ろした。
生育のまばらな芝の上に、総司の外遊びのおもちゃが転がっている。それをつま先でいじりながら、彼女の楽しげな声を聞いた。
気温は生ぬるいものの、外は風が感じられて、やはり気持ちがいい。電話を切った後も、すぐには家に入ってしまうのが、もったいないような気持がした。
この辺りは新興の住宅街だから、若い世帯が多く、さすがに風呂上りの夕涼みに出ている人もない。実家の方は、ここよりまだのどかな地域のため、今も夜の散歩などで、夏に外で風を受ける風習が残っていたことを思い出す。
総司のおもちゃを拾うとき、またケイタイが鳴った。すぐのことで、いろはちゃんだと思った。さっき言い忘れたことがあったのだろう。
決めつけて電話に出れば、意外な声が耳に届く。沖田さんだった。
そういえば、前に会ったとき、連絡先を訊かれて、この番号を教えてあったっけ…。
『雅姫か?』
どこからかけているのだろう。人声も何もしない。家だろうか…。そんなことをちょっと考えながら、「うん」と答えた。
何の用かと問う前に、『本、さっき見た』と、声が返る。
見た? 
何の何を?
返事がないのをどうとったのか、小さな笑い声がする。
『今日、イベントで売ってただろ? ひらひらのスカートはいて』
 
は?
 
驚きに絶句した。何で、沖田さんが、今更わたしの同人誌なんか読んでるの?! 
仕事か、彼の趣味かで判断が迷う。専務の彼に、仕事は考えにくそうだし、かといって趣味というのも腑に落ちない。
何せ、モノはBLだ。今は消えちゃった、某グラビアアイドルが好み、のようなことを、当時言っていたのをふと思い出す。
しかし、時は人をいかようにも変え得るもの…。
そこで、『ひらひらの〜』のフレーズが耳に引っかかってくる。問い返すまでもなく、桃家さんから「ユニフォーム」と支給された、『桃家』のあのスカートのことだ。
「見たの?」
『いや、俺は行ってはない。視察に行った者に聞いたんだ。本もそいつから買った』
忙しく、お客の風体をチェックしていたわけでもないが、出版社風な人物がいたようには思えない。今は昔の沖田さんたちのように、いかにもなスーツ姿で会場に現れることはないのかもしれない。
『電話してて、いいのか?』
「ほんのちょっと前、いろはちゃんと話してたところ」
『ふうん』
「読んだの?」
『読んだ。読み易…』
「八万円」
思わず、彼の言葉を遮って、声が出た。そこから続くはずの寸評なりを、黙って聞いていられなかった。恥ずかしさで、電話を当てた耳が熱かった。
『何で八万もするんだよ。払ったぞ、定価は』
「時価なの」
『何が、時価だよ』
耳に大き過ぎない笑い声が、長く伝わる。『払えっていうなら、払うけど…』。
『面白かった。登場人物も、とっつき易い有名人だし、物語に惹きつける起伏も理屈もある。難は、そう、短いとこだな。急に、突き放すように幕が下りたって感じだ。説明不足もある。あと、お前にはわかったことでも、読み手が知らないこともある。それを当然としてさぼるな』
簡単に言ってくれるが、限られた時間で、三十八ページの読み切りを描くというのは、そう楽な作業ではなかった。粗もミスもあろうとは思う。わたしは、特に筆が早い方でもないし…。
言い返す代わりに、心の中でぶつぶつそんなことを愚痴っていると、
『これで、食うんだろ? だったら、人の意見は聞け。耳に痛くても』
もう十分耳に痛いことを言う。
「聞いてる」
『今回のやつでBLは、続けて出せるな』
「うん、また描くつもり。そんな感想ももらってるし…。いろはちゃんも、そう言ってくれた」
『あんまり時間を置くな、次、すぐ描け。いいな?』
言われなくとも、ネタは練れている。ただそれを、ネームに起こして作品に仕上げるには、また時間がかかるのだ。
不意に、「気持ちわる」と言った、夫のつぶやきが耳に甦った。原稿をダイニングに広げていれば、また彼が目にし、そういった言葉をもらすかもしれない…。
そんな想像に、もやもやとした気分が込み上げ、沖田さんへの返事が遅れた。
 
『描くと決めたら、千晶は早かったぞ』
 
その声は、おもむろに、ぱちんとこちらの頬を打ったようなものだった。抑えながらも、声に怒気が混じるのがわかった。
彼女とは違う。
千晶には漫画に専心できる時間があり、作業をサポートしてくれるアシスタントや、最新の機器もそろえているはず。その上、類まれで豊かな才能と、これまでの大き過ぎる実績があるのだ。
「一緒にしないで。何でもそろってて、何でも持ってるあの子と、簡単に比べて言わないでよ」
言いきった後で、八つ当たりな感情が、このとき、沖田さんに対してはじけたのが妙に照れ臭く、
「馬鹿」
と、場違いに言い足してしまう。
何が馬鹿なのか、きっと自分の馬鹿さ加減が恥ずかしかったのだろう。今の環境の一つ一つを選んできたのは、誰でもない、自分なのに。
馬鹿は、わたしだ。
詫びるのもきまりが悪く、つい黙り込んだ。
ほどなく耳に、当たり前の声音で、
『昔から、俺はお前の絵が好きだった』
 
え。
 
そのセリフに、虚をつかれた。
ちょっとだけ、笑みが出た。お世辞だろうと思った。気を悪くしたわたしをなだめるような、そんな程度の。
『プロ意識に欠けてて、面倒くさがりで、気づけばよそ見してるような…。そんなお前が描くものの方が、俺はずっと好きだった』
『気づかなかったか?』と、何でもないようにつないだ。
十三年も昔、かつて沖田さんは、『ガーベラ』を担当する編集者だったが、その視線は、千晶へ注がれていたはずだ。実力も努力も他を寄せ付けない、何よりプロ志向の強い彼女にこそ、スカウトとしての注意も注目も向けているのだと、わたしは思い込んでいた…。
「…千晶は?」
そう問うわたしの声は、疑いにわずかな拗ねが混じる。
『『ガーベラ』として売れないのなら、千晶を押そうと決めたのは、三枝さんだ。スター性があるって。俺はあの人の子飼いだから、従うさ』
返事のしようもなく、「ふうん」と返した。
『きつい言い方だが、お前にやる気は見えなかった、だろ?』
千晶ほどにプロを目指すことにのめり込めなかった、当時の自分を思い出す。漫画だけに日々を費やすことに、飽きたのもあるだろう、プロとして描いていく不安も自信の揺らぎもあった。
そして、自分が抱える女としての悩みに、切実に向き合い始めたのは、それらに原因があったのだろうか、なかったのだろうか…。
『やる気が見えなかった』というわたしにすら、沖田さんは幾つか読み切りの話を持ってきてくれたし、描かせてもくれた。
その長くない後で、漫画を描くことを辞める決断をしたとき、その理由が結婚だと告げたとき、この人は、あっさりわたしを解放してくれたのを思い出す。甘えもし、世話になり、骨を折らせたはずなのに。
「お前が人妻? 笑わせんなよ」と。はなむけの言葉は、人をコケにしたようなものだったっけ…。
いつの間にか、過去を辿っていた。ややぼんやりとした耳に、『ガーベラ』という音が届いた。
「え?」
『まったく、相変わらずだな。人の話を聞け。腹でも下してんのか?』
「聞いてる。それに下してない」
そっちこそ、相変わらずじゃないか。
彼は、まだ同人で『ガーベラ』のネームバリューはでかい、と言った。『雅姫の名前があるだけで、本はそこそこ売れる』と。
『でも、いつまでも名前の威力も効かない。わかるだろ? だから、コンスタントに、少々無理をしても描いた方がいい。有卦に入ってるジャンルだしな。BLを描く雅姫のイメージを、できるだけ早く浸透させるんだ。昔のファンで、BLに抵抗がなければ付いてくるだろうし、新規の客にも、「何か知らないけど、過去の超大手が描いたBL」という付加価値が付く。他より、断然有利なはずだ』
さすが、少女マンガ担当の元編集者。言葉に、説得力も重みも感じる。いちいちもっともなそれらに、わたしは知らず、さっきまでのわだかまりも、妙な意地も忘れて、「うん」と相槌を打っていた。
『幸い、お前の絵は、BLに向くな。誌面に映える』
え。
彼の言葉に、ぷっとふき出した。ちょうど同じようなセリフを、妹のいろはちゃんからもらっている。彼女のそれは、確か『BL映えがする』だったはず。
それを告げると、苦笑しながらも、
『まあ、あいつは現役の読み手だ。狙うターゲット層だろうし』
「すごく色々教えてもらって、助かってる。もう、勝手も全然昔と違うし…」
 
『まだ遅くない』
 
その声は、不思議と耳の奥で響いた。短い音が、ふんわりとわたしの中でこだまするのだ。
『まだ間に合う。だから、描け』
嬉しいのだろうか、消えない響きは、涙を呼んでくる。
「うん…」
頷くだけの、ごく簡単な返しだ。涙の色は淡いはず、ささいなはず。
だから、『泣いているのか?』と、探るように問われたとき、ちょっとした驚きと、電話越しに泣く自分に、羞恥が胸をかすめた。
『おい?』
しつこいな。
『雅姫?』
うるさいな。
焦れても照れ臭くても、涙はなかなかに引いてくれない。
多分、彼のくれた『まだ遅くない』という言葉が、わたしを感激させたのだろう。嬉しかったのだ、返す言葉に詰まるほど。誰も言ってくれないことだからこそ、身にしみたのだ。
心の芯にまで。
そして、単純な喜びだけでは測れない、心のどこかを、まるで逆に触れるようなやるせない思いも感じている。それが、涙を引かせないのだ。
「沖田さんが、変な励ましを言うから、びっくりしたの」
『びっくりして泣くのかよ、お前』
「泣くの」
『…何かあったら、電話して来いよ。力になれるかもしれない』
「何かって?」
『「アタシのチンコ忘れないで><」なんて、メールしてくる奴に用があるくらいなら、だ』
「あははは、あれ、忘れてないの?」
『忘れられるか。おい、本当に、何でもいいから、言ってこい、な?』
「…うん、ありがとう」
返事には、辛うじてお礼を添えられた。優しさが、また涙を誘う。喉の奥の熱い気配に、わたしは手早く電話を切った。「じゃあ」と。
そっけないほどのそれを、慌てていたとはいえ、切った後で、礼儀知らずだったと悔やんだ。
耳からケイタイを離し、思いがけず長く戸外にいたことを知る。
玄関に向かうとき、ふと、芝生を振り返った。片した、総司のおもちゃを見るつもりだった。
そのとき、目の端に人影が映った。視線を辿る。そこには隣家の壁があり、すぐ上の窓に人のシルエットが見えた。姿で、隣りの安田さんの奥さんだ、と認める。
リビングの灯りが、外までぼんやりともれている。目が合ったのがわかった。途端、じゃっと乱暴に、急いでカーテンを引かれ、合わさった視線が途切れた。遮光のカーテンなのだろう、それで彼女の影はもううかがえない。
やや意表をつかれたような気もしたが、じきそこから、思いが離れた。迷惑をかけられた訳でもない。他人が、自分の家で何をしようが勝手だ。案外、あちらは、目が合ったつもりもないのかもしれない。
家に入りながら、指先で涙の跡をぬぐう。
リビングの夫が、わたしの仕草に怪訝な顔をしたが、知らんふりで、そのまま、
「お風呂に入るね」
と逃げた。
話したくなかった。一人になりたかった。
湿った浴室の、温くなった湯に肌を浸し、ほっとしている自分がいる。気持ちが緩んだのと同時に、また涙が目ににじむ。両手で顔を抑えた。
涙をそのままに、耳に、あの声をよみがえらせてみる。
 
『まだ遅くない』。
 
嬉しかったのだ。
そして、
わたしは、同じ声が、切なかったのだ。





          


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