ふわり、色鉛筆
14
 
 
 
先日もらった電話での、沖田さんからの言葉には、耳に痛いものもあった。
『時間を置くな、次、すぐ描け』。
『描くと決めたら、千晶は早かったぞ』。
『コンスタントに、少々無理をしても描いた方がいい』
『いつまでも名前の威力も効かない』…。
そのせりふたちを忘れがたいのは、正しいからだと、心が告げているように思えた。
気ばかりが、変に急いた。
けれども、どう毎日の時間のやりくりをしても足りない。次作には、幕末という時代背景を、前以上に描き込みたかったため、その調べもものもある…。
解決策は、睡眠時間を削ることぐらいだった。その無理の反動は、間もなく身体に現れてきた。
いつものパート、持場のレジに、これまでのように立っていたときのことだ。お客の多い、忙しい時間帯は気が張っていいが、ぽかっと空いた暇な時間は、立っているのすら辛い。
何とかやり過ごしてきたが、あるとき、堪らない立ちくらみに襲われた。
「あなた、顔、真っ青よ。大丈夫?」
サカキとヤクルトを買った老婦人に気遣われ、「ええ…」と、うっすら笑顔で答えつつも、裏腹に足に力が入らず、ふにゃりとその場にしゃがみ込んだ。
こめかみから、冷たい汗が顎へ落ちるのを感じた。吐き気こそないが、むかむかと気分も悪かった。
立ち上がろうと、カウンターに指を掛けた。ない力で踏ん張ったところ、肩から背へ人の腕が回されるのを感じた。
ぎょっとするが、力が出ない。目ばかりを動かし、腕が誰のものであるかを確かめる。浅い紺の作業着だ。男性とわかる。胸に黄色い『ヤマザキ産業』という縫い取りがあった。首を回せば、手に何かを持っていた。
『ロリータ・フェニックス・ジャポンDX』…。
嫌な予感がした。
社長だった。
社長は社員を大声で呼び寄せ、
「おい、お前、手を貸せ。足にじかに触るな。靴だ、靴を持て。靴と言ったろ、どうしてストッキングの脚に触る!」
社長に上半身を担がれ、脚を店長に持たれ、わたしはそのまま休憩室に運ばれた。横になれるような設備もない。スチール椅子に掛けさせてもらい、社長が『ロリータ〜』と一緒に買った(らしい)、『おーいお茶』2リットルを、とにかく飲むように勧められた。大きなペットボトルなので、ボトルの下部分を店長が支えてもらう。
何口か飲むとすっきりとした。むかつきも楽になる。
「病院は行かなくていいですか?」
店長が心配げに聞いてくれる。原因は、無理な寝不足がたたったことのはず。わたしは面倒を詫びた後で、病院は様子を見てそれから、自分で決めて行くと答えた。
「今日はこのまま、早退していいですよ。レジにはわたしか、小林君に入ってもらいますから」
店長は壁のシフト表を見ながら、明日も大事を見て、休んでも構わないと言ってくれた。
「あの…」
わたしはそこで、以前から喉まで出かかって、結局飲み込んでいた、パートを辞めたい意思を口にした。厚意を受け、明日休みをもらえば、また言い出しにくくなりそうだった。
社長もいるし、変なタイミングではあったが、無理は続けられないと、若くもない身体が訴えているようだった。
今は、漫画を描くことを優先したい。
「それは、店でのイジメが原因ですか?」
社長の手前もあり、普段以上に生真面目に店長が問う。小林君辺りから、耳にはしていたのだろう。何の手も打ってはくれなかったが。
まあ、イジメらしきもの?はあったが、それを話すと厄介だし、辞める理由はそれではない。
わたしは首を振って、「皆さんには仲良くしてもらった」と、舌が苦くなるような嘘をついた。
「う〜ん、店に慣れて、お客さまにも対応のよかった高科さんに辞められると、痛いですよ…。う〜ん」
まんざら、社長の手前のお世辞だけとは言い切れない口調と表情に、急なことだし申し訳なくなる。でも、辞める気持ちは固いのだ。
「子供のことや、家庭のこともありますので…、すみません、急に」
「ご主人、就職決まられたんですか? なら、辞められるのも、願ったりで、何よりですが。リストラに遭われたと聞いていましたから…。他人事ではないと、胸がふさがれる気持ちがしましたよ。雇用者に非のない急な解雇は、経済的も精神的にも、非常に家族に負担を強いられる、残酷な企業上層部の経営判断ですよねえ。まったく…」
社長を意識した、リストラへの明らかな予防線めいた言葉に、はは…と曖昧に返した。
当の社長は、一店長のめぐらせた予防線など、いっかな見えないようで、
「リストラ…?」
と、わたしへともやもやした目を向ける。きっと、その瞳の奥の中では、わたしがバススタッフのアルバイトをしていた事情が、簡単に結びつくのだろう。さっきからわたしの顔へ風を送ってくれていた、『ロリータ〜』を持つ手が、ふと止まっている。
社長は、『紳士のための妄想くらぶ』で、沖田さんと顔を合わせていたのだ。彼は、自分をわたしの夫だと、偽っていた…。それら経緯に、どきりとする。あの『夫』が、本当の夫でないと知られれば、ややこしいことになりそうだ。
社長は、店長を下げた。
にわかに二人きりになり、また胸が押されるような気がした。あの日、この人が、『のぞき穴』の看板からわたしをガン見していた様子を、嫌でも思い出してしまう…。
社長は胸のポケットから、折りたたんだ茶封筒を出した。わたしへ差し出し、受け取れ、と言う。
厚い封筒の中身は、検めるまでもなく紙幣だとわかる。それでも、返すきっかけにと、中を見た。多分、三十枚はあろう一万円札の束が入っていた。冊のふちが、泥で汚れているのは、何の演出なのだろう。
「そんな苦労をしているとは、知らなかった。どうして知らせなかった?」
封筒を返すわたしの手を止め、「これで、子供にピカチュウでも買ってやりなさい」と言った。
「受け取れません、いただく理由もありませんし…」
「そっちになくとも、こっちには理由がある」
更に、封筒を押し返すわたしの手を、社長は、握るようにぎゅっとつかんだ。
「月に百万渡す。それで、わたしの世話にならんか?」
 
は?
 
「あんな店で不特定多数の安い客に、スケベな妄想を売るくらいなら、悪いことは言わない、わたし専属になりなさい」
 
へ?
 
まだやや頭のぼんやりも残る。想像を絶した申し出に、拒絶の言葉もすぐには浮かばなかった。
「亭主のことを気にしているのだろう。だが、成功したわたしの眼力が、残念ながら、あの男はうだつが上がらないと見切ったのだよ。黒目の下が開いていた。ああいう三白眼は、わたしは嫌いだ。自分勝手で奢侈に溺れ、家庭を顧みない…。以前見た三白眼の男は、そういう特徴を備えていた、これは確かだ」
それは、その男の特徴だろうが。三白眼はこじつけ…。
突っ込みどころがあり過ぎて、言葉を失う。この人、沖田さんが日本人なら子供でも知る、大手出版社の専務だと知ったら、どんな顔をするのだろう。
「えてしてそういった手合いは、女房に苦労をさせてものうのうと。そのくせ、独占欲だけはいっちょ前なのだ。一目でぴしりと見抜いた」
ははは。
沖田さん、今頃くしゃみを連発してるんじゃないかな。
社長は、抗うことを忘れているわたしに、その気があると取ったのか、
「あんたのために部屋も用意しよう。線路沿いの、訳あり安アパートが、わたしたちのような世を忍ぶ者には風情があって、いい。そう思わないか? 折り畳みのちゃぶ台とツードアの冷蔵庫を買おう。隣りか下の部屋には、勝てないボクサーの若者が住んでいるはずの…」
あんた、アホか。
そこでわたしも正気に戻り、一人妄想に調子に乗る社長から、手を取り返した。床に落ちた封筒を拾い、突き返す。
「お断りします」
立ち上がり、ロッカーの荷物を取り出した。ここで着替える訳にもいかず、それを腕に抱えたまま、出口へ社長に背を向た。
ドアを閉める間際、
「なぜだ?」とつぶやく声を耳が拾った。
こっちこそ、「なぜわたし?」と問いたい。
「なぜ気づかない。女の愚かさか?」
いや、愚かなのはお互い様のような…。あれこれおかしくて、失笑が口元に浮かんだ。その軽い笑いは、次に拾った声に、かき消された。
「早晩壊れる家庭なら、既に壊れているのだ」
 
え…。
 
 
懸案のパートの問題も片が付き、帰路、自転車をこぐペダルは軽かった。
得ていた定期の収入が、今後途絶えるのは痛いが、時間が出来たことは大きい。明日、空いた時間で、調べものに、図書館にも足を運んでみよう…。
原稿に向ける意欲にも力が入る気がした。
そうだ、ペースはぐんと落ちるが、余裕ができた今、本格にペンを入れた原稿も描いてみたい。どうだろう、筆の速度を優先した方がいいのか、仕上げのきれいさを取った方が読み手に親切なのか…。
そんなことを思いめぐらせていれば、もう家に着く。車もない空いた駐車スペースに自転車を停め、キーを探った。
ドアを開け中に入る。すぐに夫が留守であることに気づいた。就職活動もあろうし、出かけることもある。おかしなことではない。
時計を見れば、まだ二時に間があった。
むっとするリビングの窓を開け、風を通す。部屋の散らかりが目についたが、少し横になってから、とソファに寝転んだ。
昼下がりの明るい部屋。カーテンを通して入る風が、思いがけずひんやりしている。いつもとは違った風景が、知らない場所のようで、ちょっと落ち着かない。
一人でそうしていると、くるくると思いが回る。社長から切り出された、「月に百万渡す。それで、わたしの世話にならんか?」、というトンデモな申し出。
何でわたしなんだろう、と今でも不思議だ。
でも、百万か…。
わたしなんかには、とても融通できる額ではない。それが毎月…。
大きいな…。
でも、
ないな。
と、思い出し笑いと共にけりがつく。
スーパーの冷房の効き過ぎに慣れた身体には、温い部屋が気持ちがいい。ついうとうとしてしまった。
目が覚めたのは、ドアが開く音。廊下をこちらへやって来る夫の足音だ。
「あれ、帰ってたのか?」
寝ているわたしを、ちょっと怪訝そうに見た。夫はシャツにジーンズの普段着だった。手ぶらであるのが、ふと目についた。ハローワークで資料くらいもらわないのか、と発しない心の声がする。
「具合でも悪いのか?」
「ううん、平気。あのね、パート辞めてきた」
「え?」
「だから、パートを辞めてきたの。言ったでしょ? 同人の方、専業で頑張ってみようと思って。だったら、その時間ももっと…」
「大丈夫なのかよ」。
わたしの言葉を遮って、夫が問う。その声に、若干なじる響きがあるのを感じた。むっとするのを抑え、家計に関わることで、相談くらいすべきだったか…、と己を振り返る。
同人の資金作りとはいえ、いかがわしい店で働いていたことも、その場を社長に抑えられ、沖田さんに救ってもらったことも、夫には内緒にしてきた。彼は何一つ知らない。
使えるお金がほしくて、無理もしんどさもあったが、通り過ぎた今では、「喉もと過ぎれば何とやら」の心境で、自分の何を売った訳でもなく、大したことでもなかったような気もしている。わたしはきっと、性根の図太い女なのだろう。
最後の日、『紳士のための〜』の控え室で、タマさんに刺された釘のような言葉を思い出すのだ。「ここでの勤めがばれても、わたしたちはしばらく気まずいだけでも、知った家族はどう?」。
夫が知ったら、きっとショックなはず。嫌な気分になるだろう、怒るだろう、わたしを軽蔑するに違いない…。
ごめんねと、黙って詫びつつ、知られていないことに、ひっそり安堵の息をつく。
身体を起こし、着替えの入ったバックを探る。まだパートのユニフォーム姿のままだ。これは、近いうちクリーニングして返却だ。
「同人頑張るから。あのね、言ってなかったけど、実は昔もやってて…」
「しっかりしてくれよ」
 
え?
 
「まったく…、頼むぞ」
夫は吐き出す口調で言い、わたしが立った後、ソファにどさりと倒れ込んで長くなる。大あくびをしながら、パートを辞めたのなら、「これから、幼稚園から帰る総司の園のバス停までの迎えは、お前がやってくれよ」と、付け足した。
それは、ママが多い中、男の彼が出迎えに混じるのは、いい気がしなかっただろう。求職中で面白いはずがないのもわかる。
理解はできても、分担していたはずの家の仕事を、パートを辞めたと聞けば、すかさず放り投げるようにわたしへ投げて寄越す夫に、ふつふつと腹立ちがふくれそうになる。
パートと同人の原稿の二つの他、手抜きながらも家事をこなし、時間をやり繰りし、無理に無理をしてきた。漫画への情熱もある。が、今は純粋に好きだけで描いてはいない。趣味で描く余裕などは、わたしにはない。
そんなこと、知っているはずなのに…。
黙ったままのわたしに、さすがに気まずいものを思うのか、夫が、
「総司も、やっぱりママのお迎えが嬉しいって。それに、やっぱり俺が毎日あの場に顔出すの、精神的にしんどいよ」
と、そう取り繕うのに、返事を返す気になれなかった。
「一人二人、しつこく飲みに行こうって誘う母親もいてさ、ごまかすのにちょっと参ってたんだよ。子供の手前、そんなにそっけなくもできないし…」
夫は、派手なタイプではないが、見た目がいい。それで、昔からそれなりにもてる人だった。なまじ、でまかせとも言えない。以前の職場では技師だったから、仕事では作業着が常だ。地味なそれが、彼にすっきりとよく似合っていた…。
着替えを持って、リビングを出た。着替えたら、そのまま総司の迎えに出ようと思った。
 
「しっかりしてくれよ」。
 
それは、わたしが言いたくて、でも言えずに、長く飲み込んできた言葉だ。なのに、夫は、あんなに容易く口にできるのだ…。
リビングに戻り、バックを取った。ついでに、ユニフォームのクリーニングにも回るつもりだった。もの言いたげな夫を置いて、家を出る。
ポーチのところで、宅配便業者とかち合った。一抱えにはやや小さい段ボール箱を渡される。わたしか夫か、いずれかの実家からだと思った。だが、送り主の名には、なんと、いろはちゃんの名と住所が記載されている。
『野菜』と、種別の欄に書いてあった。
 
『野菜』?
 
重くもないが、そう軽くもない。足元に置き、ガムテープを裂き、中を開けてみた。新聞紙をかぶせた下に、まずつやつやしたトマトの姿がのぞく。他、ナスやゴーヤーも見える。サイズこそちょっと小さいが、トウモロコシも入っていた。
首をかしげた。
同人を通して知り合ったいろはちゃんには、年下なのにあれこれいろいろ世話になり、仲良くしてもらっている。しかし、こんな風にいきなり、前触れもなく野菜を送ってくれる意味がわからない。
手紙でも入っていないかと、箱を探るが、特に見当たらない。もう一度送り状を見直す。そこで、気づく。
彼女じゃない。いろはちゃんの書く字を見たことがあるが、丸味のある優しい字だった。こんな角ばった硬い字ではない。
では、
なら…、
答えは一つだ。沖田さんが送ってくれたのだ。妹のいろはちゃんの名を使ったのは、わたしに家庭があることを配慮してくれてのことだとは、想像がつく。
でも、なぜ?
実家が、ある地方だと聞いたことがあった。そちらから送ってもらった野菜を、お金に困っているわたしにも、思いついて回してくれたのかもしれない…。
どうしよう、お礼をどうしようか。
そんなことを考えながら、ちょっと箱を探ってみた。隠れていた底に、バナナまでが一房あった。トロピカーナのタグが見えた。
箱を抱え、玄関先に移した。物音に、夫がリビングから顔を出す。
「野菜もらったの、知り合いから。置いておいて、後で片づけるから」
それだけ言って、家を出た。
送迎のバス停に向かいながら、沖田さんに電話をする。出ない。忙しいのだろう、と切ってすぐ、ケイタイが鳴った。
表示は沖田さんだった。
出れば、前置きもなく、軽くなじる声だ。
『スリーコールくらいで、切るなよ』
忙しいと思ったのだ。
わたしは野菜が届いたこと、びっくりしたこと。それから礼を言った。
「でも、急にどうして? もしかして、いただきもの?」
『そう見えるか?』
彼は嬉しそうにちょっと笑い、あの野菜は、自分が作ったのだと告げた。
 
は?
 
今度は本当にびっくりした。
「あ、バナナは別。あれは隙間にちょうどぴったりだったから」
再会した沖田さんは、専務で、可愛い妹とあの瀟洒な分譲マンションに住み、うちが売っぱらったハイブリッド車のうんと高いグレードの車に乗る、悠々自適に見えるシングルだ。
某グラビアアイドルのファンで、仕事のかたわら、イベントでは濃厚エロ同人誌をむさぼって読んだりしていたが、それも昔のこと。今の彼には関係がない。
ともかく、野菜を作るイメージなどどこにもないのだ。しかも、あんなピカピカの立派な品々を作るのは、相当のコツなり手間がかかるだろう。
驚きに、黙ってしまえば、
『びっくりしたのか? 入居のとき、ベランダに温室を作ってもらったんだ。トマトやナスなんかはそこで、背の高いトウモロコシは、マンションの菜園を借りて作ってる』
前に一度お邪魔したときは見えなかったが、話題のゴーヤーときゅうりのグリーンカーテンも、以前から取り入れているのだとか。
エロから、エコへ…。
ふと、彼のきれいに焼けた腕を思い出すが、ゴルフが理由だとばかり思っていたが、案外「家庭菜園焼け」なのかもしれない。
『趣味だよ、ちょっとした実益を兼ねた。自前のあれを食うようになって、いろはも花粉症が軽くなったようなことを言ってるし…』
「へえ、すごいね。あのね、トマトは高くてめったに買ってないから、実は助かった」
『味はいいと思う。元気出せ、な?』
「ありがとう」
礼を言えば、もうバス停に着く。シーソーのみが遊具の小さな公園前のそこには、既にママたちが四、五人集まっていた。夜勤の上りか、男性の姿もあった。久しぶりの光景に、違和感がわく。以前は、ほぼ毎日、総司を迎えに、当たり前にわたしがあの中に混じっていたのに。
前の通りを向こうから、子供を乗せた園のバスがやって来る。
言葉が尽き、わずかな間の後で、沖田さんの声がした。
『シャチョーはあれから、何か言ってこないか?』
それで、わたしはパートであった今日のいきさつを、はしょりながら伝えてみた。笑い話のつもりだった。
「百万だって、月のお手当て。でも、住まわせてくれる部屋が、社長の好みで、沿線の訳あり安アパートになるみたい。世を忍ぶ、みたいなのがいいんだって、あははは。隣りには、若い連敗のボクサーが住んでる…」
 
『馬鹿か、お前は』
 
低い怒声が、こちらの話を遮り、耳朶を殴ったかに思えた。
え。
『へらへら笑いやがって』
「何で怒るの?」
『お前な、金で自由になる安い女だって、足元を見られてるのが、わからないのか? だから馬鹿だって言ってるんだ』
ああ…。
確かに、社長の申し出は、わたしがバススタッフをしていたことを踏まえてのものだろう。「不特定多数の安い客に〜」とか何とか言っていたし。
気持ちのいい話ではなかった。だから、即座に断っている。
「でも、月に百万は、安くないんじゃない?」
『それがどれほど続くと思う? 半年、一年か、二年、せいぜい三年…。その後どうする、そんな生活の後で、まともにやっていけるか? …ちょっとは、真面目に考えろ。絶対食いつくなよ、うまいこと言われても、ほだされるなよ』
この人は、わたしをどれほど危なっかしい女だと思っているんだろう。『紳士のための〜』で働いていたことが、よほど心証を落としたみたいだ。
「断ったってば、パートも辞めたし…」
心配されているのは伝わるし、決して嫌な気分ではないが…。
なぜ、そこまで気にかけてくれるのだろう。
「ははは、昔の知り合いが身を落とすのって、気持ちがよくないもんね」
自嘲でもなく、そんなことをつぶやいた。かつてのクラスメートなどが、災難に遭ったと聞けば、確かに、しばし思いは暗くなる。
「千晶があんなに出世しちゃったから、余計、光と影、みたいな感じだね」
沖田さんは、そこでちょっと黙った。
忙しいのかもしれない、何しろ彼は専務だ。もう電話を切ろうと、「じゃあ」と言いかけた、そのときだ。『雅姫』と、彼が呼んだ。
「ごめんね、野菜のお礼だけ言いたかっただけ。もう切るね」
『ちょっと待て』
「何?」
 
『放っておけないんだ』
 
耳が拾った言葉の意味は、瞬時に取れた。昔のように、わたしは彼に手のかかる、「担当の女の子」であるのだろう。
なのに言葉は、もっと重く、もっと深いものに響いたのだ。
 
まさか。
 
それは、わたしの心のどこか、乾いて冷えた場所が、そう求めるからだろうか? 身勝手に、うぬぼれていたいと…。
幾らでもアレンジや融通の利いた、あの頃とは違う。家庭もあり、子供もいる。手の中の自由は限られている。
ぽっとほてった頬の熱さをごまかすように、わたしは軽い声を出す。
「十三年も放っておいて?」
『は? 忘れてた訳じゃないぞ、お前こそ、年賀状ひとつ寄越さない…』
「ははは、これで主婦は忙しいの」
そこでわたしは、ぷちんと電話を切った。
演者の都合で下げた舞台の幕のように、通話が終わる。誰かが、わたしの描く物語のエンディングを「幕が下りたみたいに〜」と評してくれたことがあった。当の沖田さんだったかもしれない、いろはちゃんの方だったかもしれない。
でも、それはわたしの性格の一端なのではないか。大事な場面、またはポイントのような局面で、恥ずかしさや面倒や、もやもやしたわからない衝動があふれ出し、逃げたくなることがある。
そんな心境が、癖のように、ふと顔を出すのかもしれない。
今もそうなのかもしれない。また、自分勝手に幕を下げてしまったのではないか…。
バスが着いた。ドアが開き、ステップから界隈の園児が降りてくる。ママたちに短い挨拶をして別れ、総司の手を引き、商店街へ向かう。クリーニング店へ行くつもりだ。
「パパは?」
「今日からママなの」
「ふうん」
「ママ、もうパート行かないの。どう思う? 総司は」
「いいと思う」
小さな手を引き、わたしの注意を促す。目を流した先の総司の笑顔には、鏡の中の自分の顔を認める、不思議な安心感のようなものがある。ひどく可愛いと思った。
ほしくて、でも長く授かれなくて、手の届く範囲であれこれ手を尽くした。同人で貯めた貯金は、その頃ほとんど費やしてしまった…。それも結果が出ず、夫が根を上げ、不妊の治療を辞めたこともある。原因は、わたしの側にあった。
あの頃抱えていた葛藤や、迷い、切なさ…、胸にいっぱいあったはずのそれらは、重さを感じていた分、過ぎた今はもう軽く、淡い記憶の一ページになっている。
総司に触れる折々、常にではないが、ふと、胸をそれらが甦る気がする。自分の指先に感じる、総司の肌の温もりや柔らかさに、過去をわずかに思う。それは指先の心地よさと溶け、心をふっくらとまあるく満たしてくれるのだ。
わたしと夫の半分ずつを享受して生まれた総司を、より多く自分に属していると思うのは、産んだ側の強みと、そして居直りだろうか。
その面差しが、自分により似ていると再確認したとき。夫に対する、もやもやした鬱憤を感じるとき、それは強い。母は強し、というが、その強さはわたしの場合、子供への独占欲にもつながっているらしい。
「アイス食べたい」
店ののぼりを見て、総司が指を指し、間延びした声で言う。甘やかしたい気分にもなり、「いいよ」と易く答えた。
「クリーニング、出してからね」
今がどうあれ、総司という命の存在は、わたしにとってかけがえがない。
用事を済ませ、約束のアイスを買ってあげた。特にほしい訳でもなかったが、何となくつき合いたくて自分の分も買う。少し戻って、園のバス停まで戻り、そばの公園に落ち着いた。
家までほどなくなのに、どうしてだろう、すぐに帰りたくなかった。焦がれるほど望んだ総司の、半分をくれた人がいるのに。
総司の話に相槌を打ちながら、笑いながら。それが途切れたとき、わたしは耳に別の声を聞いていた。
繰り返し、繰り返し。
 
『放っておけないんだ』。
 
その声が止むまで。
せめて、家には帰りたくないと思った。





          


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