ふわり、色鉛筆
15
 
 
 
和の趣の屋敷とは違い、庭は芝が生え、レンガを敷いた小路が、とりどりのハーブの茂る花壇へ続いている。小人やうさぎのオブジェが、あちこちに顔を出していた。
百坪ほどはあろうか。庶民には縁のない、たっぷりとした優雅なガーデンスペースだ。
庭へ開け放たれた座敷からこちらに、折々声がかかる。「お嬢」と。
「ロース持ってきました」
咲耶さんは振り返り、ぞんざいに顎でテーブルを指す。新鮮そうな肉の盆を持った角刈りの男性が、彼女が命ずるよう、盆をテーブルの隅に載せる。炭の起こったグリルを挟んで置かれたテーブルには他、残りの肉やサラダ、副菜、飲み物のグラスなどがにぎやかだ。
「これ、下げて」
咲耶さんはすかさず空いた皿を、男性に突き出す。男性は恭しく皿を受け取り、ついでに、「坊ちゃん、ジュースは?」と、こちらにまで細々とした気遣いを忘れない。
わたしは礼を言って、まだ大丈夫と答えた。
総司が、たれの付いた肉を噛みきる途中で、「ママ」とわたしを呼ぶ。
「何?」
「卵、焼かないの? 目玉の。ここのうち、お肉ばっかり。かまぼこは? 何でな…」
「総司、お口のお肉食べちゃいなさい」
やや急いで問いを遮った。メインの肉を、目玉焼きやかまぼこでかさ増ししてごまかす、我が家の焼き肉を、これ以上無邪気にさらされるのは勘弁だ。
「うん」
はむはむと、口を忙しく動かす総司の頭をちょっと撫ぜる。高い肉は、明らかにおいしいらしい。
そこで、咲耶さんが座敷へ顔を向け、「タイチ!」と、先ほどの男性を声高に呼んだ。その辺りに控えてもいるのか、すぐに現れたタイチさんへ、
「坊ちゃんがご所望だよ。かまぼこと卵、急いで持ってきな」
と命じるから、慌ててしまう。
「いいの、いいの。子供の言うことだから、ごめんね、わがまま言わせて。放っておいていいから」
「そんな、姐さん、遠慮なんか…、もう水臭い。うちのモンなら、存分に、いくらだって使ってやってくれて構わないんですから。『クールジェンヌ』はそれらしく、変わらずに氷の騎士然といて下さいな」
また、『クールジェンヌ』…。何か、余計な恥ずかしい修飾も増えてるし…。
「いいの、ありがとう」
そこへ、わたしの斜に座り、ピーマンを生でかじっていた桃家さんが、「へえ、かまぼこはヘルシーね。わたし、ほしいわ」と。軽い調子で言うから、咲耶さんの命が飛んだ。
「ほら、タイチ、何してんだい? 急いで!」
この日、わたしは総司を連れ、以前イベントで知り合った、夜叉神咲耶さんのお宅にお邪魔している。
何のめぐり合わせか、彼女はわたしの『ガーベラ』時代からのファンだという。同ジャンルになったその縁でか、「姐さんと呼ばせてもらいます」と、一方的に仁義を切られ、あれ以来慕われて?いるのだ。
その後の小さなイベントでも、二度お客の彼女とは顔を合わせた。その際、尋常に差し入れももらい、熱く丁寧な本の感想も頂戴している。
だが…、いろはちゃん情報では、咲耶さんはジャンル大手であるが、癖ありのサークルと同人じゃ有名らしく、桃家さんの弁では「スジ者絡み」とのことだ。実際、お宅にお邪魔して、玄関の光る代紋と出迎えの「若い衆」の腰の据わった挨拶に息を飲んだ。
出会いが、あまりに衝撃かつ驚愕なものの上、世界の違う彼女だが、話してみると、同人の好きな、普通(アイメイクは濃いが)の女の子なのだと知れた。風変わりだが、悪い人ではない。
正直なところ、おつき合いをするのは今も腰が引ける。面倒なことも、避けたい。
なのに、今回お招きに応じたのは、進行中の咲耶さん主催の『幕末BLアンソロジー』の企画への参加があってのことだ。参加メンバー全員で寄せ書き風に描く、イラストページの件もあり、また、「姐さんとの親睦を深めるため、ぜひ、ぜひ」と、くどいくらいに誘われたため。
事前に、「軽い昼食を用意していますから」とのことだったが、とんでもない。この通り、BBQ風の豪華なセッティングが庭になされていたのだ。
アンソロジー参加の経験も乏しく、そのための原稿時間なら、自作の本に時間をかけたい、そう思っていた。だが、一転、参加を決めたのは、発行部数の数に魅かれてのこと。このジャンルの最大手が主催し、人気サークルが集っての企画だ。個人で刷るのとは、桁が違う。
「すごい数、出すんだ」と、咲耶さんの前であんぐり口を開け、「姐さん、昔自分が売ってた数、覚えています?」と、笑われたものだ。
いやいや、過去は過去。今ではない。現在の自分が刷れる力量をはるかに超えた印刷部数に、素直に驚いてしまった。
つまるところ、作家の数にきれいに分割するという、売上金に目がくらんだのだ。他、『雅姫』の宣伝にもなるのを目論んでのこと。
とはいえ、この異世界にも全く動じず、顔の効くらしい桃家さんが一緒でなければ、決して敷居を跨がせてもらうことはなかっただろう。
もう杞憂だったと知るが、まず、総司を伴うことは避けたかった。なのに、一緒な訳は、夫が就職のため、企業の説明会に出向いているからだ。今日はぜひ見てもらいたかったが、それではしょうがなく、あきらめた。
BBQをごちそうになり、その後、本題の企画の作業に移る。「お恥ずかしいですが、PCも何もかも、みんなありますから」と彼女の部屋に案内された。きれいに片付いた次の間付きの私室は、思いがけずディズニーキャラが満載で、可愛らしい雰囲気だった。
そこで、お茶をいただきながら、細々とした打ち合わせを進める。彼女のデスクのパソコンには、頻繁にジャンル仲間からとのメール連絡が入っていた。
咲耶さんはそれらをざっとチェックしながら、
「原稿、順調らしいです、みんな。予定通り印刷所に入稿できそうです。姐さんの進行次第で、締め切り、少々なら延ばせますが…」
わたしはこの八サークル参加アンソロ本で、二十ページの枠をもらっていた。わたし一人が遅れての参加で、気づかってくれているのだ。
「大丈夫だと思う。どうしてもきついようなら、また相談させてもらうね」
扉絵の寄せ書きのデッサンを二人で描く。わたしは完全アナログ派だから、イラストも原稿もデーターでやり取りすることはできない。必要な場合、直接紙に描き、送るなり渡すしかない。これも、今日出向いた理由の一つだ。
その間、総司は、手の空いた桃家さんが相手をしてくれた。ふと、ペンを止めて二人に目をやれば、ハウスアニメのDVD(咲耶さんが好きらしい)を二人で仲良く見ている。
「ねえ総ちゃん、このネロは良くないね」
少年が、苦難と向き合いつつ夢を追うストーリーの、国民的アニメだ。
桃家さんはそこで、主人公の少年に対しての持論を、ちょっと展開した。彼女いわく、少年は「道楽者」らしい。時勢に合わない自分の好みばかりを第一にして、生活のために頑張る、まわりの人々を困らせている、ということを、かみ砕いて話していた。
そんな意見を耳にしたことがなかったので、「へえ」と聞き入ってしまった。さすが、小説を書く人は視点が違う。
総司はわかったのかわからないのか、それでも「ふうん」と相槌を打ってあげている。
「でも、いい犬を持ってるよ」
多分わからないのだろう。
「そばにいる人を困らせる人は、駄目だと思う。総ちゃん、お姉さんそう思う」
低いながらも、彼女はきっぱりと言い切った。
 
お姉さん…。
 
「お姉さん」という一人称を使うためらいのなさが、ぴくっと耳に引っかかった。ははは…。
桃家さん、幾つなんだろう。
自分と重なる長い同人歴を思えば、似たような年齢であるのは、間違いがなさそうだ。プライベートなことは互いにあまり話さないし、問うこともほぼない。それで済むのが、同人仲間のよさでもあり、また寂しさでもあるのだろう。
こうして、人の子供を気持ちよく相手してくれるほどの優しさのある人だ。もう少し、彼女の側へ踏み込んでみても、許されるのかもしれない…。
「桃家さん、今の話面白いね」
ペン先を紙に置いたまま、彼女へ声をかけた。
半分ほど振り返り、ぼそりとした声が、
 
「昔の男と重なるだけ」
 
「でかい犬飼ってるとこも、そっくり」
ああ、そう…。
ははは。
いろいろあるよね、女をやってて長いもの、お互い。
笑顔を彼女への返事にして、ペンに意識を戻す。ラフ線をなぞる。頭になぜか、桃家さんの声がぼんわり響いていた。総司に向け話していた何に、心が反応するのかは、定かではない。
何だろう。
知らず、つい、
「お姉さん、そう思う…」
と、彼女の口調でつぶやいた。
それに、机を挟んだ咲耶さんが顔を上げた。アイメイクを濃く施した瞳をきらりと向け、
「姐さん、何ですか? 何が、そう思うんです?」
「へ? ああ、何でもない」
「わたしの絵でしょう、デッサンが狂ってます? そうなんでしょう? 確かに、前測ったら十五頭身くらいあったんです、この人物。やっぱり、変なんですね。それに、幕末なのに、金髪って設定も、そもそもおかしいですよね? でもわたし、BLで攻めは金髪にしたいんです、受けは紫がベストですけど、栗色もベターっちゃ、ベターなんです!」
咲耶さんの描くデフォルメされた人物は、愛嬌も味もあり、決しておかしなものじゃない。
「…うんうん、可愛いよ、その子。変じゃない。人気もあるし…」
迫力のアイメイクには、こちらをたじろがせる凄味がある。「何でもない、独り言」と再度訂正しておいた。
そこへ、桃家さんが割り込むから、ややこしくなる。
「あら、わたしは受けこそ、金髪を押すけど。攻めは、だからシルバーがベストね」
「名誉姐さん(わたしの友達だから、準ほどの意味の名誉が付くのだそうだ)のお言葉ですが、シルバーはいただけませんね。あれは…」
「シルバーって音の響きが気に入らないなら、プラチナに替えるわ。あの高貴な色こそ、攻めのきらめきにふさわしいんじゃない? 受けの希少性と換金性は、金がやっぱり映えそうよ」
攻めのきらめき…。
受けの換金性…。
「なら、古来から禁色ともされた紫こそ!」
「ええ…、わたし『闇のパープルアイ』って漫画がトラウマなのよねえ、紫はちょっと無理…」
桃家さんがぶつぶつと返す。
「トラウマなら、『ガラスの仮面』かな…。月影先生の件でもう…」
「ああ、わかるわかる。あの事故は気の毒ねえ」
「違いますよ。過去の恋バナのところですよ」
「どこが?!」
ははは。
腐女子(この二人のみかも)の会話って、ぽんぽん弾む、ビックリボールみたいだ。どこに飛んでいくかわからない、読めない。面白い。
にやにやしながら聞き、ここにいろはちゃんがいたら、また違った意見が飛び出しそうで、それも興味深いと思う。彼女はちょっと理論的だから、何を言ってくれるのだろう…。
「…だから、沖田総司には、シルバーはマズイっすって」
 
え?
 
耳が拾った、咲耶さんの言葉に胸がどきりと鳴った。
 
オキタソウジ?
 
何だかまるで、うちの総司とあの沖田さんの名前が、引っ付いたみたいじゃない…。
それが意識され、瞬時に頬が熱くなった。
歴史上の人物だ。単なる偶然。わたしは、何を…、
馬鹿みたいに反応したりして…。
 
こんなの、
変だ。
 
まだ二人はワイワイ何やらしゃべってる。うつむいて手の甲で頬を冷やす。
おとなしくアニメに見ている総司に目をやり、それから二人の話に気を向けた。
いつの間にやら、話はとんでもない方向へ。二人は、BLに欠かせないという、ある小道具について意見を交わしていた。
「背景と滑り重視」の馬油至上という咲耶さんに、語感と透明感から、スクワランを作品上愛用しているという桃家さん。
「姐さんは、和物を描かれるんですから、やっぱり馬油ですよね? 刀傷の傷薬にも転用できるから、何かとやり繰りが便利ですよ」
「雅姫さん、何ぽかんとしてるの? あなたもすっかりBL描きなんだから、潤滑剤を避けては通れないでしょ? ねえ、何使ってるの? こっそり一人でいいの見つけたんじゃないの? エキストラヴァージンオリーブオイルに、溶かした氷河を混ぜて乳化させるクリームとか…」
溶かした氷河…。
それを物語上、一体どうやって持ち出すのか? 幕末の日本で…。
「姐さんは、和物ですから。史実をきれいに描き込まれるし、馬油派ですよね? 名誉姐さんのおっしゃるように、何か秘蔵のマストアイテムがあるんですか?」
「ははは…、まさか」
秘蔵もマストも、何も。
ちょろっと登場させるはずの潤滑剤ごときに、それぞれ思い入れたっぷりの作家愛用アイテムがあるなんて(いや、この二人だけかもしれない)、考えも及ばなかった。
「まさか、…禁断の『そのままブッコミ』派ですか? 異端ですよ、姐さん! 今のBL界じゃ…」
「咲耶さん、でも雅姫さんならやりかねないわ。禁じ手だろうがタブーだろうが、きっと犯しまくるはず。わかるでしょ? それで、また伝説を築くのよ」
「ああ、やっぱり…、姐さんのお後、いつまでも付いていかせてもらいます」
 
あんたら、アホか。
 
 
咲耶さんのお宅からの帰路、疲れたのか、総司はぐっすりと眠ってしまっていた。
四歳にもなれば、しっかり重い。厚意で、桃家さんのリムジーンで家まで送ってもらえなければ、難儀したはずだ。
熟睡し切っている総司を抱え、ポーチから玄関まで運ぶのにもひと汗かいた。むっとする屋内に、人の気配は感じられない。朝用意したスーツに合わせた夫の革靴は、まだなかった。
リビングの床にタオルを敷き、その上に総司を寝かせた。起きないかと鼻をちょんとつまんでみるが、うるさそうに顔を振るだけだ。小一時間もすれば、目も覚めるだろう。
外に出しっぱなしの洗濯物を取り込み、畳む。時計を見れば、六時に近い。ケイタイをチェックするが、連絡は入っていなかった。夫は遅くなるのだろうか。
日課で、晩ご飯の献立に迷いながら、キッチンに立った。サラダと、冷奴に…、冷蔵庫の中身を思い出しながら、何気なく食器棚の引き出しを開けた。二つあるそこには、一つはカトラリー入れに使い、もう一つは、後でつける家計簿のためのレシートやら領収書の一時置きに使っていた。
財布から抜いたレシートをその中に混ぜようとして、入れておいた封筒の位置がおかしいことに気づく。封筒には、直近のイベントでの雑費を引いた売上金が入っていたのだ。
何も考えずに、とりあえず中を見る。間違いなく数枚あった一万円札が、残らず消えていた。抜いたのは、夫しかいない。
ここに入れておくことは、彼は知らないはずだった。余っているお金ではない。やっとそれらしい収入が出て、次回のイベント費用と、諸々の支払い分にと、よけておいた分だ。
隠していたのでも、へそくりのつもりもないが…。
「言ってくれたらいいのに」
思わず愚痴が出た。
「手持ちがないから、もらうな」でいい。細かな理由など要らない。抜く前に、一言断りがほしかった。忘れなどし、タイミングが悪かったのかもしれないが…。
気分は、一瞬でもやもやと曇った。
そこで、目が覚めた総司が、不意にぐずり出す。声をかけ、様子を見、相手をしてやりながら、ばたばたと食事の準備をこなした。うっとうしい気分はとにかく、目の前の忙しさにかまけてみる。
そう、今日は咲耶さんのお宅で、ためになる話も聞けた。イベントで直接売るのではない、同人誌の別な販売手段で、書店での委託販売とネットで通販を募るやり方だ。
彼女は「通販は発送処理が面倒で」と、書店委託を選び、既に試みているという。今度出すアンソロ本も、この方法で大量に販売予定なのだとか。
一方、桃家さんは、長らく通販を続けているらしい。「面倒なことなんかないわよ。あなた、雑なだけじゃない?」と、トゲがあるのにあっさりと咲耶さんへ返した。「申し込みの際に、感想も寄せてもらえることも多いし、楽しい」とのこと。
メリットデメリットは、どちらもあるようで、あとは個人の好みなのだろう。
委託・通販の販路は、『ガーベラ』の昔からあって、存在はおぼろには知っていた。けれど、あの頃は、とにかくイベントに参加するのが楽しくて、それが目的でもあったように思う。
そして、沖田さんの出版社から、それらはいずれも止められていたから。『ガーベラ』は、いわゆる先物買いされていたのだ。
「確定申告も知らないお前らが、欲をかいて勝手に儲けに走るなよ。追徴課税とうちへの違約金で、相当痛い目に遭うからな」などと脅されていた。
「ふうん」、「はいはい」と、偉そうに頷いて従ってはいたが、やんわりと縛られながらも、世間知らずのあの頃、千晶と二人、大人である沖田さんに守られていたのだ、と今頃になって感じることができる。
今はどちらを選ぼうが、縛るものもなく自由であるし、脱税の何たるかも知る。細かな作業に時間と神経を使いたくないわたしは、書店委託に何となく気持ちが傾いていた…。
実際的なそんなことらを、手と目を動かしながら思ううち、気持ちのもやが、わずかに晴れたように感じる。
昔とは違う。
誰も守ってくれないどころか、弱くて小さな守るべき対象を抱えているのだ。
 
「しっかりしてくれよ」。
 
以前、夫に投げるように言われて、腹を立てた言葉が甦る。責任を一方的に放られたようで、今も面白くはない。でも、それで互いに投げ合っていればいいというものではないだろう。
不愉快であっても、理不尽に思えても。
いつか、重い重いと感じていた肩の荷が、ふっと軽くなることが、そのうちきっとあるあろうから。
どれほど先なのか、いつまで堪えていればいいのか。
見えないけれど…。わからないけれど…。
「しっかりしないと」
心のつぶやきが、声になってこぼれた。「しっかりしないと」。頑張ろうと、元気を出そうと繰り返してつぶやくのに。
どうしてだろう、
ほんのり、気持ちが切ないのだ。
 
どうしてだろう。
 
 
その着信には、お風呂上りに気づいた。
咲耶さんからのもので、彼女からは、この日の午前に、メールでアンソロ本の原稿の進み具合について問い合わせがあったばかりだ。その返事も済んでいた。
着信は、三度も続けて入っている。急ぎの用らしい。十時を回り、ケイタイとはいえ、ちょっと遠慮を感じつつ、コールしてみた。
ワンコールですぐに出た。
『姐さん!』
こちらが何を言うよりも早く、辛さを訴える、泣きそうな声が耳に飛び込むから驚いた。
年もこっちがずっと上だし、同人の先輩視も入るのだろう、咲耶さんの口調は、ときに甘えが混じることもあった。でも、こんな悲鳴に近いものを聞いたことはない。
『やられました!』
「何のこと?」
彼女のお家を思えば、そのスジの物騒な出入りでもあったのかと、とっさに昔見た『鬼龍院花子の生涯』という映画を思い出す。
まさかね。
「何?」ともう一度落ち着いて問えば、信じがたい答えが返ってきた。
次回出す、アンソロ本の参加メンバーの八人のうち、なんと六人に逃げられたというのだ。
すぐには二の句が継げない。残るのは、咲耶さん本人とわたしのみ、ということになる。
 
へ? 
 
もしもし?
「逃げられた? ねえ、どういうこと?」
『それが、姐さんっ…』
しばしの絶句の後に続く彼女の話に、わたしも絶句してしまう。
約束し、原稿をもらう予定でいたサークルさんたちが六人、いきなりそろいもそろってついさっき、「参加を辞めたい」とキャンセルのメールを送りつけてきたのだという。
慌てて咲耶さんが連絡を取ろうにも、全員の電話もメールも着信拒否とくる。話のしようもないらしい。
確か、アンソロ本の印刷所入稿の締め切りは、一週間後。この本の販売をメインに、近くイベントにも参加予定もある。そして、印刷代は早期前払い割引というのを利用していたため、咲耶さんが立て替え、もう支払い済みだ。
「キャンセルは…?」
『昨日まででした』
メンバーの一人として、印刷代金を知っていたが、めまいのするほどの金額だった…。
強い敵意が、ぷんと鼻の奥ににおった。逃げたメンバーというのは、きっとこれを狙ってやったのではないか。偶然にしては、タイミングがうま過ぎる。
この期に及んでの作戦だったという線もあろうが、随分と前から仕組んでのことだった、と考えるのが自然だろう…。
当初から、良く聞こえてこなかった咲耶さんについての評判が思い出される。出会いのエピソードはともかく、その後、わたし自身は迷惑をこうむることもなかったから、敢えて見ないふりをしていたところはあるが…。
合同本を出す、ジャンルのごくシンパと言っていいメンバーに、こんな手ひどいやり方で逃げられるのだ、彼女にも責められる非はあるのだろう。
ここで、それをとやかく言うつもりはない代わりに、むやみに慰めと同情をだけを口にする気にもならなかった。
しかし、むごい。
書店委託販売の準備も整っていたのだという。後は原稿を集め、印刷所に持ち込み、本の出来上がりを待つだけ、というツメの段階まできていたのだ…。
逃げたメンバーたちは、咲耶さんへの企画を放棄するメールの直前まで、原稿の順調さを異口同音に陽気に知らせてきていたという。
わたし自身は、イベントで会った、顔見知り程度でしかない。元メンバーらにどんな理由があれ、詐欺に近いやり方ではないか。可愛らしい雰囲気であった彼女らの、残酷と言っていい仕打ちに、慄然となる。
『雅姫姐さん…』
易く言葉発せられない雰囲気ながら、だからこそ、いい加減なことは言えない。
「価格を下げて、本を薄くするか、企画自体を止めてしまうか…」
それなら、被害もまだ低いだろう。アンソロのメンバーが大幅に減っても、人気サークルだ。咲耶さんの名前があれば、本はきっと売れるから…。
わたしにしたって、期待していた収入は大きく減となる。今口に出すことではないが、落胆は小さくない。でも、マイナスにならなければ、マシか。そう覚悟がついた。
専業で同人をやれば、こんなトラブルはいつかどこかで遭う。これを避けるがため、『ガーベラ』では頑なにゲスト寄稿に手を出さなかったのだが…。
そんな回顧は、この際、何の役にも立たない。
わたしの案に、彼女はキッとした声で、
『何か月も前から、大がかりに告知をしてあったんですよ。姐さんだってそうでしょ? 今更、夜叉神咲耶の名に懸けて、そんな恥さらしな…』
「でも、出来合いのものを作って売る方が恥ずかしいと思うよ」
『…でも、姐さん! でも、裏切られて、そのまま泣き寝入りなんて、絶対したくありません!!』
その振り絞るような声に、締め切り前のこの土壇場、手ひどい裏切りにあったショックと腹立ちが、めらめらと燃えるのが見えるようだ。
妙なやり取りが耳に入るのか、夫が怪訝な顔でこっちを見ている。「大丈夫」と目顔で答えておいて、キッチンへ移った。
原稿を描くときと同じ椅子に掛け、吐息交じりに問う。「じゃあ、どうするの?」と。
『本は出します』
決然とした声が続く。
『ページも、内容も減らしません。減らしたくありません、絶対に。ついでに、価格も下げません!』
価格が下がらないのは嬉しいが、本が出ないのなら絵に描いた餅と同じ、お腹は満たされない。
わたしが相槌を打たずにいると、ごくりと唾を飲むような音がした。
『姐さんを、クールジェンヌの君と見込んで、無茶を承知でお頼み申し上げます…』
「だから、そのクールビズもどきは…」
 
『売上、姐さんが、六で、どうでしょう?』
 
え?
 
もちろん、これまで通り、主催として、印刷や宣伝までの諸々雑務は請け負うという。その上で、わたしに売り上げを六割くれる、というのだ。当然、実入りはでかい。初期の比ではない。
『ただ、担当してもらうページはぐっと増えます。残り、一週間。印刷所に無理言って、掛け合って十日…。いかがです?』
出来るだけ、公平に、互いに負担が少なくなるよう、本のレイアウト等は大きく変更するという。再録や漫画以外の読み物ページも設ける、とつなぐ。
…う〜ん。
さすがに厳しいかな。
 
十日…。
 
たっぷりの沈黙の後、わたしは唇を開いた。
「少し、考えさせて」
 
電話を切った後、心が揺れた。かつて、『紳士のための妄想くらぶ』でバススタッフをしようかと迷ったとき以上に、気持ちがぐらついた。
無茶だと、頭のどこかが言う。
でも、また別などこかが、惜しいと叫ぶ。チャンスだと。
六:四か。
やっぱり、捨てがたい。
 
でも…、
 
ああ、どうしよう。





          


『ふわり、色鉛筆』のご案内ページへ


お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪

ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪