ふわり、色鉛筆
17
 
 
 
場所の雰囲気や色合いは、そのときどきで違う。
時刻や人の密度、またこちらの心の持ちようで、見えてくる景色は、うんと異なって感じられる。
以前お邪魔したときと、何が変わっている訳でもないだろう。同じように小ぎれいで、生活の温かみが伝わる、そんなお宅だ。
沖田さんはわたしを中へ招じ入れると、私室へ引っ込んだ。ほどなく、個人用らしいノートパソコンを持って戻ってくる。それを、いろはちゃんと共用らしい、リビング置きのパソコンにつないだ。
「貸してみろ」
と、手のひらを差し出す。持ってきた、セリフの入ったUSBをぽんとのせた。彼は、そこからファイルを開き、印刷を始める。
気持ちよく紙を吸い込み、印刷音を立てる。そんなよそのお宅の若く元気なプリンターが、わたしの目にまぶしい。しばらく立ったまま、目を逸らせず眺めてしまった。
「そんなにかかんないだろ」
沖田さんに促され、ソファに掛けたものの、手持無沙汰だ。何となく、焦った気分になり、会話の種を探そうと、視線をさまよわせた。
ふと、ローテーブルの上の、液体の入ったスプレーに目が落ちた。アイロンの霧吹きに見える。
わたしの視線に、沖田さんが、
「液肥だよ」
ベランダ園芸の液体肥料だという。さっきそれを外で撒いているとき、わたしの電話が鳴ったのだ、と言った。
「夜に撒くものなの?」
「夜しか、暇がないからな」
見てみるか、と訊く。彼もわたしを相手に、手持無沙汰なのだろう。興味がない訳でもないので、うんと頷いた。
リビングの窓を開けると、夜風がカーテンのレースを揺らした。その向こうに、ガラス張りの温室が設けられている。広々としたバルコニーの半分ほども使ったそこには、土が入れられ、きれいな菜園になっていた。つやつやしたナスがなっているのが見える。
先日、彼から送ってもらった野菜がどれも新鮮で、大層おいしかったのを思い出した。改めて礼を口にした。
「売ってるのと違うんだね、びっくりした」
「だろ? 手をかける意味が、やっぱりあるんじゃないかと思う」
いい趣味だと思った。
何かを生み出し、味わい、身近な人と分かち合う…。沖田さんは、豊かな人なのだろう。
店先では、野菜のまず、値段に目がいくわたしとは、月とすっぽんだ。
「そうだね」
せめて、夫が、日がなテレビやネットゲームにふけるばかりではなく、こういった手まめさを見せてくれたらいいのに、とちょっと歯がゆくなる。総司にその世話や収穫を見せてやるのは、きっと成長にいい。そんな夫は、多分わたしの目に、今とは違って映るだろう…。
詮なく、身勝手にそんなことを思いながら、もどかしい感情は、葉がしなびるように胸に消えていくのだ。
口先や、こうしてほしいと思うだけでは、人は思う通りに動いてはくれない。
夫は、わたしではないのだから。
そんな当たり前の事実が、ようやく頭にしみたのは、あきれたことに、ここしばらくのことだ。それまでは、効きもしない念力でも使うように、夫がこちらの意に添うように動いてくれないことに、ただいらだち、焦れていた。
人は変えられない。
願うだけでは、望むだけでは、変わらない。
こういった気づきは、ぎゅっとつかんでいた何かを手放すのに似て、ちょっとあきらめにも似ている。
でも、
ちらりと思う。
それは、見たくない現実から視線を逸らしているのと、どこが違うのだろう…。
「ほら」
沖田さんが、目の前でなすをもいだ。それをわたしの手に載せてくれる。みっしりと重い。これ一個で、三人分の小鉢ものになる。
「ありがとう」
部屋に戻ると、彼がテーブルのドーナツに手を伸ばした。「腹が減った」と言い、ぱくりとかじりついている。
「あれ、まさか、ご飯食べてないの?」
「昼が遅くて、それで食べ損ねた。面倒くさいから、もうビールでも飲んで、寝ようかと思ってたんだ」
ドーナツを咀嚼する彼に向け、わたしはふと、「何か作ろうか?」などと口にしていた。
「簡単なものなら、冷蔵庫のもので、何か…」
もらったナスを、手の中で転がしながら言う。そんなわたしを、彼は犬が喋り出したかのような目をして見るのだ。
失礼な。これでも、主婦だ。
「何? 大人と子供を死なせない程度のものは、毎日作って食べさせてるってば」
「…いいのか?」
真剣に訊くからおかしい。大したものは作れないけど、と前置きし、冷蔵庫を見せてもらう。
「昔、お前におにぎりもらったな」
「へえ、そうだっけ?」
「白米だけの、具のないやつ…」
「塩むすび、きっとそれ」
「旨かったような気がする、気だけな」
「ははは、それはそれは」
冷凍のご飯があるから、ありあわせで和風のチャーハンにする。せっかくだから、さっきもいでもらったナスを、田楽にして食べさせてやろうと考えた。
料理に取りかかる頃、プリンターが終了したようだ。カウンター式のキッチンからそちらをのぞくと、沖田さんが紙の束を手に持っている。
目が合う。
「切っといてやろうか?」
「いいの? 助かる」
打ち出したセリフを、ふき出しに合わせ小さく切り取っていく作業は、なかなかに面倒なのだ。
切った後も貼り易いように、と原稿一ページに対して無駄が出ても一枚紙を使うように入力してある。せっかく切ってもらっても、切ったセリフがバラバラになったりすれば、訳がわからなくなる…。
気になって、料理をしながらちらりと目をやれば、沖田さんは、切ったものをきちんとページごとに分け、それをクリップで留めてくれている。へえ、と感心した。仕事で、同人誌に携わることも多かった彼には、当たり前の所作なのだろう。
口に出すまでもなく、気づくよりも前に、こちらの望むものを、たとえばこうやって、この人はさらりとわたしの前に差し出してくれる…。
目が離せない気がした。
再会するまではおよそ気づかなかった、沖田さんという人の、男らしい細やかさだとか優しさに、わたしは幾つ出会っただろうか。まぶたを閉じるだけで、ほろほろと拾い上げることができる。
心の中で、わめくように願いをぶつけてきた夫ではなく。
なぜ、沖田さんには、易くわたしの思いが届くのだろう。
 
何だかな…。
 
鼻の奥がつんと辛くなる。
出来たチャーハンと小鉢は、評判がよかった。ぱくぱくとよく食べてくれる。よほどお腹が空いていたようだ。わたしは彼に代わって、セリフの作業で手を動かした。
ちらりと壁の時計を見れば、帰りの最終電車の時間に、少し余裕がある。食べ終わるのを待って、お皿くらい洗って帰ろう…。
問われるままに話した、同人に関しての話題が、ふと途切れた。
静かな空間が堪らなくなって、思いついたままのことを口に出してしまう。
「沖田さん、結婚しないの?」
「は?」
機嫌の悪いような声がした。顔を見れば、チャーハンで口をいっぱいにしている。いつぞや、桃家さんあたりが、わたしもハムスターのように頬をふくらませて鯖寿司をがっついていたと言っていたが、こんな感じか、と納得した。
ちょっと可愛い。
聞き逃したのかと、もう一度問う。「だから、結婚。そろそろ晩年でしょ?」。
飲み込んだ後で、
「誰が、晩年だ」
「へへ」
この人であれば、相手はわんさかいるはず。それこそ選り取り見取りだろう。
若い頃の彼の一面を知るが、生意気を言えば、これといってぴんとくるタイプではなかった。ぽんと石を投げれば必ず当たる、そんなありふれた若者だったと思う。そこそこ外見がよくて、ちょっと面白い、そして女の子にさりげなく優しい…。
確かに、当時の延長線上に、今の沖田さんがあるのだ。面影もあるし、わたしへの対応もどれと言って変わらない。なのに、時のフィルターを隔てて彼を見れば、こんな人だったのか、と目をみはりたくなる変容がある。
地位に伴う貫録もあれば、また、そこへ至る道程にも、きれいに歳を重ねた理由があるのだろう。年の離れた、可愛い妹がいることも、一つの要素に違いない。
「いろはちゃんがお嫁に行くまでは、その気にならない? 心配だもんね」
「はは、いつまでも行ってくれないんじゃないかと、そっちの心配もあるぞ。『萌え』だの『神』だのにどっぷりで」
「同人は、沼だって。はまると「一生の業」だって、誰か言ってたよ」
「その「業」を背負った奴が、何言ってる」
「かもね、だからまた沼に戻ってきちゃった。ははは」
キッチンに空いた食器を下げた。「置いておけよ」と言うのを、すぐだからと洗う。実際五分とかからない。
そろそろ時間だ。手をふいたハンカチをバッグにしまう。プリントアウトしてもらった紙を整理して、これも大事にしまう。
「ありがとう、すごく助かった。今度何かお礼します」
「大したことじゃないだろ、旨い飯も作ってもらったし。気にすんな」
ほろりと軽口が出た。彼の前だと、なぜだか気が緩む。多分きっと、何でも許してくれるから。
「ああ、沖田さんにしておけばよかった」
「そうだろ? もらってやらないでもなかったな。はは。見る目がないな」
彼も冗談で返す。口にしてから、わたしの夫の状況を思い出したのか、しまったといった表情になった。
「すまん、そういう意味じゃ…」
「嫌だな、気にし過ぎ。平気」
笑って受けながら、ああ、と気づく。
変わったのは沖田さんではない。彼はわたしの目に「ぴんとこなかった」あの頃から、今こうある素質を持った人だったのだ。そこに気がつけなかったのは、わたしの側の事情なのだろう。
それを見る目がなかった、と言ってしまえば、今の夫を否定することになる…。彼がいけないのではない。あの頃の悩みも抱えた不安も、夫はすっぽりと引き受けてくれたではないか。それにほっとして、嬉しくて…。
知らず落ちた視線が、テーブルの上の野菜の栄養剤のスプレーをなぞる。
「…暇なら、沖田さんみたいに、野菜でも作ってくれたらいいのに」
愚痴ほど重くないつもりだった。思わず「よいしょ」と言うくらいの、そんな程度の心の吐露。
「余裕がないと、何も出来ないときもあるさ」
「余裕なんて、自分で作るものじゃないの? 沖田さんだって、時間がないのに、都合つけて野菜の世話するでしょ?」
「余裕は時間ばかりじゃないだろ。気持ちの問題もある。仕事や家庭や、身辺の環境が整わないと動けないのは、誰だって同じだ」
知りもしない夫を庇い、わたしをなだめる口調の沖田さんが、なぜだか癪に障る。同じ男として、同情をこめた思いなのかもしれないが。
「一年以上も、整うのにかかるの?」
沖田さんは言う。「環境が整わないと動けない」と。わたしは、日々欠けたものばかりの中、それでも動いてきた。「環境」だの、それを「整えて」から、だの悠長なことを言っていられる余裕すらなかったのだ。
不満顔でわたしがにらめば、彼はちょっと困った顔で視線を受け止め、わたしの額をぽんと指で突いた。
「今、就活で結果が出ないのは、相当にきついぞ。一番焦ってるのは、お前じゃないはずだ。少し考えてやれ」
「ふうん」
多分、その相槌はかなりドスの効いたものだっただろう。軽くいなすような仕草もたしなめる声も、かちんときた。
あの夫が失業して以来、真剣に焦った様子でいたことを、わたしはもう覚えてもいない。
いつからか始まった、深夜から朝方までのネットゲーム。日がな一日ぶらぶらとし、わたしの財布から幾らか抜き、昼過ぎにはどこかへ出かけていく。
こっちの原稿がはかどるから、彼には留守にしてくれた方が気が楽で、どこで何をしているのか、家を出るのを止めも詮索もしないわたしにも、落ち度はあるのだろう。思いやりや気遣い、足りないものも、きっとある。
でも、
流暢じゃなくとも、不恰好でも。わたしはやるべきことを、やろうとしている、やっている。そんな自負がある。
その自分が、それほど間違っているとは、とても思えないのだ。
そして、沖田さんに向けた方向違いの怒りの根が、夫へのいらだちだと今更に思い知る。わたしは、彼に憤っていたのだ。どうして、自分にだってできることを、彼がやろうとしてくれないのか。その気配すら見せてくれないのか。
幾度かの口論を経て、夫への期待も頼む気持ちも、小さくなっていくばかり。何かを懸命に提案しても、「俺はそういうのじゃない」、「こっちの身になれよ」が返ってくる。それらは、考えて出した答えではないはず。瞬時、気に入るかそうでないかの返事でしかない。
それが不審で、いぶかしくて…。
じゃあ、どうしたらいいのか。どうであれば、納得してくれるのか。
沖田さんは、なだめるよう、わたしの肩に手を置く。それを大きな手のひらだと思った。
「俺だって、もし…」
やんわりと言いかけた彼の言葉に、わたしは首を振り、遮った。
「沖田さんなら、違う。いろはちゃんのためなら、何だってしてあげるでしょ?」
「それは、まあ、嫁に出すまでは見てやらないとな。俺が親代わりだしな」
その言葉に、彼のご両親が他界していると聞いたことをぼんやりと思い出した。結婚など考えも及ばない風であった過去の彼の背景が、こんなところにうっすらとつながるような気がする…。
「運も風向きもあるから…」
耳に沖田さんの慰めが耳に届く。悪いが、ちっとも気持ちが動かない。他人が「ほら」と開いて見せてくれる、雑誌の占いのような当てのなさだと、思う。腹の足しにもならない。
「ははは…」
やっぱり気のない笑いしか返せない。
「おい…、雅姫」
馬鹿みたい。
愚痴を垂れたって、
何を悔んだって、
適当に看過し、ここに至るよう選んだのは、まぎれもない自分なのだ。
この沖田さんにあって、夫にないものをあげつらい、比較するのは、自分をみじめにするだけだ。
彼は、何とか励まそうと言葉を選び、肩に置いた手のやり場に迷いあぐねている。この人が、自分に属さない、手の届かない人なのだと思い知ることのやりきれなさに、今頃焦れたって…、
 
もう遅い。
 
「馬鹿」
そうこぼした後で、唇を噛む。言葉のそっけなさとは裏腹に、目に涙がにじむのだ。何の涙なのだろう。ひたひたと、胸に溜まった夫への怒りはもう凪いだ。いつしか癖になった、静かなあきらめのせい。
あるのは、後ろ髪をひかれるような、消せない、このときへのこだわりだ。
帰りたくない、と思った。
 
「もう、無理…」
 
知らず、そんな甘えを口にしている。
わたしは、
どうしたいのだろう。
どうしてほしいのだろう。
バッグの中で、ケイタイの時報が鳴った。もう時間がない。駅に急がなければ、終電を逃してしまう。
「…帰る」
向き合った彼に背を向けた。気恥ずかしさから、瞳を合わせられなかった。「ごめんね、変こと言って」。敢えて、軽い口調で口にする。
「気にしないで」
リビングを出たところで、手首がつかまれた。ぎゅっと。それは、ときにある、有無を言わさない、彼の口調に似ていた。
「雅姫」
引き寄せられ、身体が彼へ傾ぐ。ゆらりと腕の中に倒れながら、それを聞いた。
 
「遅いのか?」
 
え。
 
「取り返せないくらい、遅いのか? 俺たち」
 
驚きと、心のざわめき。それらが、抱きすくめられることから抗わせないのだ。夫ではない人の腕の違和感に、戸惑いながら、うろたえながら、
確かに、わたしはときめいている。
「…え?」
ずるく、そんなとぼけた声で応じながら、
離してほしくない、と心は訴えている。
「お前はどうしたい? なあ、俺はどうしたらいい?」
沖田さんは、急く口調でもなく、そんな問いを重ねる。その裏には、わたしの気持ちをきっとどこかで拾っただろう強みがのぞく。それが堪らなく照れくさかった。
「知らない」
そう返し、ようやく腕から逃れようと、身をよじった。彼は、わたしのその動きを封じるように抱きしめるのだ。
「取り返す」だの、「遅い」だの、しゃあしゃあと。何にも始まってなどいなかったくせに。
「ちょっと…、沖田さん」
懸命に抗うと、やっと彼は腕の力を抜いた。それでも緩く抱き寄せながら、同じ問いを繰り返すのだ。
 
わたしがどうしたいのか。
彼にどうしてほしいのか…。
 
「わからない…」
わたしは、手のひらで顔をおおいながら答えた。それは、そのまま心の声だ。
ただ、火照った顔の熱を手のひらに感じ、思いばかりがくるくると回る。
結局、惑うのは、彼と同じ疑問。
 
もう、遅いのだろうか。
 
わたしたち…。





          


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