ふわり、色鉛筆
19
 
 
 
家に着いたのは、午前一時を過ぎていた。
リビングには、煌々と明かりが灯っている。中で、夫がネットゲームの画面に向かっていたが、肩透かしなほど、何も訊いてこない。
身構えていた分、やや虚脱した。
「総司、一度も起きなかった?」
「…うん」
リビングを出て、浴室に向かう。手早くシャワーを浴びた後、キッチンで賞味期限が12時で切れた、幼児飲料を飲んだ。
相変わらず、夫はパソコンの画面に目を向けたままだ。
「寝るね」
それに、ため息のような音が返っただけ。
わたしの位置から、夫の斜め後ろが見えた。無防備なその姿を目に留め、いつからこんな風になったのだろう、とちらりと思った。
行く先も告げず、「友だち」のところへ用で出たわたしに、帰ってきても何も問うこともない。詮索をしてほしいのではないが、せめて、「どこ」の「誰」と会っていたのかのくらい、気になりはしないのか…。
不思議がってすぐ、自分がそれと同じであることに気づく。「ちょっと出てくる」と言い、ほぼ毎日午後から外出する夫が、「どこ」へ行き、「何を」しているのか、わたしは訊いたことがないではないか。
それは、詮索しないという、思いやりや信頼を真似た、無関心だ。
キッチンの電気を落とす。寝室に入る途中で、総司の部屋をのぞいた。よく寝ている。ケットから出た足を直してやり、部屋を出た。
ベッドに潜り込んだ途端、疲れがにじみ、伸ばした手足の力がふわっと抜け、弛緩する。
瞳を閉じ、思う。
どちらが、先なのだろう。夫と、わたしと。
どちらが先に、つないでいた手を離したのだろう。
寝返り、枕に頬を当てた。ほんのりとまだぬれた髪が、心地よく肌に冷たい。
多分…、
わたしは、もう気づいている。
 
先に手を離したのは、わたしだ。
 
ささやかな輝きが詰まった過去を、その夢を思い出したときから。ちょこんと結んでいたはずの指先を、そっと外したのだろう。自分さえ知らぬ間に。
まぶたの裏に、先ほどの夫の背が浮かんだ。
ふと、考えるのだ。
彼は、それに気づいたのだろうか…、と。
 
いつの間にか眠っていた。嫌な短い夢を見たようで、目を開ける。
消して寝たはずの、照明のオレンジの薄明かりが灯っていた。怪訝に思うよりも先に、隣りに夫の気配に気づく。
わたしが起き出す頃に、ようやく寝室に寝にやって来る夫だ。まだ夜中のようだし、今夜は早いな、くらいにしか考えなかった。
寝ぼけと眠気で、頭がぼんやりしていた。けれども、身体を探られれば、さすがに目も覚める。
「止めて…」
寝返りを逆に打ち、抗った。
とてもそんな気になれない。わたしが頑ななのを知って、しばらく後で、夫は興が冷めたのか、「ちっ」と嫌味な舌打ちをして、離れてくれた。
「ごめん…」
タオルケットに越しの、つぶれた声で謝った。やはり、悪い気がした。形であれ何であれ、夫婦でいる以上、セックスは、強制ではないがやや義務のような気がする。
わたしの声に気づいたのか、そうでないのか。夫は部屋を出しな、しっかり文句を置いて行った。
「調子がいいよな。子供がほしいときは、こっちの都合も考えず、予定通りにどんどん迫ってきたくせに。総司が出来たら、もう用なしか?」
腹立ちまぎれのぶつぶつとした、独り言のように聞こえた。それに、言ってやりたいセリフは幾つも浮かんだが、聞こえない振りで、夫が出ていくのをやり過ごした。一つでも言い返せば、きっと嫌な喧嘩になる。
明日も早い。夜中に、下らないいさかいをするのなら、寝ていたい。
一人になり、眠りに落ちる中、怒りはひたひたと引いていく。毒のある捨てぜりふを残す夫も悪いが、わたしにも非がある。彼の言葉が素通りをせず、耳に痛いのは、正しい部分もあるからだ。
前に抱き合ったのは、いつだったろう。まだパートをしていた随分前のことで、眠気とだるさで、「勝手にして」と、ろくに脱ぎもせず、事を終えたような記憶がある…。
 
もう嫌だ。
 
 
身体が彼を拒む。
気持ちが離れているのを、こんなことで知る。
終わりなのだ。
何よりも、わかりやすい。
 
 
会場に着いてすぐに、家に電話した。夫が出たが、すぐに総司に代わってもらう。出がけに気になった、風邪気味の声が、電話では伝わりにくい。
大丈夫なのか、と訊けば、
「うん」と返事が返る。お昼の用意もしたし、夫にもくれぐれも、と留守を頼んであった。
「冷房かけ過ぎないでね、冷えると熱を出すかもしれないし…」
夫に再度念を押し、通話を終えた。
総司はもう四歳で、幼稚園にも通うのだ。流感も、幾度か経験している。まあ、大丈夫だとは思う。
普段ならそこまで神経質にもならないが、自分が家を空けているため、不安が増していた。それに、せっかくの休日にママが家を空ける罪悪感も加わる。
しょうがない。イレギュラーな形ではあるが、これが今のわたしの仕事だ。
電話をしまい、スペースの設営を始めている咲耶さんを手伝う。今日は、大きな同人誌即売会イベントで、搬入した本の数も、半端じゃない。刷りたての本の詰まったダン箱の数を見て、甦る懐かしさの後で少し怖くなる。
甘い予想を裏切って売れ残り、ここで在庫が大量に出たら…。
そもそも、会場ではけなかった本だ。次のイベントや通販に回す分がぐんと増え、その処理にほとほと困るだろう。六対四の売り上げがどうののレベルの話じゃない。悲惨だ…。
そんな臆病が顔に出たのか、咲耶さんが、「姐さん」と呼ぶ。本を並べる手も止めない。
「『ガーベラ』さんとは、まだ桁が違うでしょう、これでも」
「そ、そうかな…、よく覚えてないな」
「また、のんきな。覚えておきましょうよ、ゴールドレコードなんですから」
「告知による前評判も、上々だった」と、励ましてくれるが…。
現役大手サークルの咲耶さんとは、立場が違う。わたしは子供も抱え、生活がかかっているのだ。「昔はこうだったから〜」と、薄い根拠に安穏といられない。
大量に刷られた自作の本(合同本だが)の山々を見て、ぶるっちゃって、いい年が、みっともないとは思う。でも、家庭を持つと、女って守りに入っちゃうもんなんだよ。それって、普通のことだと思う。
後先考えずに、ガンガン行っちゃえる人の方が、稀なんだよ…。
そんな小心を、心の中で吐いていると、咲耶さんが、ふと顔を上げた。濃いアイメイクの目が、射るようにこちらを見つめる。
「姐さん…」
また、『あの輝くクールジェンヌ』がどうの、『他を圧するアイスブルーの氷の鎧をまとえ』だの、解釈不能な言葉が続くのだろう…。
 
「腹、くくりましょうや」
 
思いがけずドスの利いた声にぞくっとなった。真似や素振りでは出せない、この人の持つ背景が許す、芯から人を震わせる声だ。
地金からして違うそれに、驚きと怖気で、すぐ返事もできなかった。遅れて、彼女の目がわたしを通した別のものを追っていることにそこで気づく。
ふと、彼女がわずかに顎で何かを示した。「え」と、肩越しに振り返る。こちらから数ブロック離れたスペースに、咲耶さんを壮絶に裏切った、かつてのあの仲間が、固まり合って設営に励んでいた。
彼女たちも参加するんだ、と素直に驚く。『☆お・ま・た・せ☆新刊出ました!!』と華やかなポスターが見えるから、あんな計画的な悪意のあるドタキャンしながら、自分たちの原稿はせっせと上げていたことがわかる。器用と言うか、何と言うか…。
咲耶さんの迫力のある声の理由はこれだ。わたしのビビりが原因でなかったことに、かなりホッとする。
「気にしないでいよう」
あちらをガン見したままの彼女の肩を、ぽんと叩いた。「はい」と素直な返事が返る。
しかし、あの子たちも、この咲耶さんを裏切るなんて、イロイロ恐ろしくなかったのだろうか…。
お家がお家だけに、周りには隠していたようであるし(同人友だちを家に呼んだのは、わたしと桃家さんが初めてらしい)。知らなかったとなれば、逆にかわいそうな気もする。自業自得ではあるが。
開場の時間までに、設営は終わった。
この日、咲耶さんの案で浴衣を着ての参加だ。むっと湿度も高く、着慣れない浴衣で、より暑さを感じる。濃い藍の絞りの咲耶さんに、わたしの方は、くすんだ白地にえんじの偲菊が散っている。亡母の形見だ。
彼女はイベントにはよく和装をするようで、たもとのさばきも慣れた感じが、よく様になっている。帯にさっと裾を挟む仕草も、あだっぽい。
「かっこいいね、さすがに」
ちょっと見とれていると、照れたように目を伏せる。まぶたが真っ茶で全塗りされていなければ、もっといいのに…、と思うが、それは飲み込んだ。
定刻になり、開場。いきなり、辺りに喧騒が広がった。
不安とは裏腹に、どんどんとスペースに積んだ本が売れていく。売り子をしながら目の当たりにするその光景は、わたしに嬉しさと手応え、そしてほっとする安堵をくれるのだ。
「雅姫さん…ですよね? 間違いなく」
お釣りと本を手渡す際に問われた。同年代だろうか、女性のお客だった。肌の白いのが目につく。
「ガーベラの?」
ちょっと探るようで、ややケンのある声だった。「クレームか?」と思いつつも頷く。
「そう、ご本人ならば、読者としては、光栄だと言いたいところですが…」
女性は本の表紙とわたしを交互に見、
「往年とは、タッチに奥行きが加わりましたね。そこは、ハナマルを差し上げます。ですが、どうにも、コマやカットに粗さが目につくことも…。昔の雅姫作品の随所にあった、描き込み感が、もしや異質になってきたのか〜、という不安は、若干ざらりと読後に残ります」
「は、はあ…」
「ま、そういう変化を、一概に経年による作家の劣化とは思わず、そういった技術の昇華の仕方もアリか、とわたしは見るタイプですね」
「はあ…」
隣りで、同じく売り子をしながら、咲耶さんがこちらを横目で見ていた。「んああ? いちゃもんか?」とでも問いたそうに、すでに唇が威嚇的に歪んでる。
「あの…」
臨戦気味の彼女の袖を引き抑えつつ、言葉の切れに、声を挟んだ。既に会計待ちの列が長い。メッセージはありがたいが、あんまり長いと困るのだ。
結果、わたしの言葉など、聞こえた様子もなかったが。
「ふう」
そこで女性は息をつき。微妙な間を置き、
「総合的に、ハナマル。かな? うん、でも微妙。うん、本当微妙」
うっすらとした微笑みを残し、後ろのお客に場を譲った。
褒められたのだか、けなされたのだか。
 
微妙。
 
ちょっと首を傾げたくなるが、その暇もない。すぐに次のお客に対応する。
「ウケる、生で見た。『ツンデレ太夫』」
「見た見た。生「ハナマル」破壊力ある」
一緒に並ぶ友人らしいのと、ひそひそくすくす言っている。
ツンデレダユウ?
不思議な顔を見せたのだろう。お客が教えてくれた。「微妙〜」の女性は、有名なブロガーだという。
「いっつもイベントで、サークルさんに辛口コメかますのに、ブログの同人レビューじゃ、メロメロに褒めちぎってるんです。それが大掲示板でちょっと話題になって…」
そこから、誰が付けたか、『ツンデレ太夫』と呼ばれ始め、同人界じゃちょっとした名前になったのだそう。色白だからかな。
「へえ」
「だから、さっきの、「微妙〜」とか、全然気にしなくていいですよ。絶対ブログじゃ、本音が出て「雅姫様LOVE!! 最高神アッハ〜ン」とか書いちゃう人ですから。あはは」
 
「最高神アッハ〜ン」。
 
何じゃそれ。
 
交代で昼食をもそもそ食べた。
わたしがトイレから戻ってくると、スペースが空だった。売れ行き好評につきほとんど在庫がない状態とはいえ、ぎょっとなる。急いで中に入り、咲耶さんは、と探せば、ほどなく姿が目に入った。
彼女は、数ブロックしか離れていない以前の仲間たちのところにいた。もしや仲直りでも、とまず思うが、うかがう様子じゃ、そのようでもない。
咲耶さんが、数の多い彼女たちを相手に威嚇しているようにとれるのだ。今日の(姐さん風の)浴衣姿と相まって、背も高く姿がいいのが、却ってあだになって見えてしょうがない。野次馬も出来始めている。
客足の途切れた頃を見計らい、そちらへ向かう。
案の定、咲耶さんは多勢を相手に、元気にがんを飛ばしている最中だった。
「どうしたの?」
彼女の肩に手を置く。訊けば、うちの合同本をけなしたの馬鹿にしたの、他愛ない。そのきっかけも、彼女たちが「文句ありげに、うちを見ていた」だから、咲耶さんの言いがかりと取られてもおかしくない。
咲耶さんの側には、裏切られた恨みがまだ新しい。一方、彼女たち側にも、咲耶さんが感じない不満や鬱憤が深そうでもある。両者がぶつかれば、簡単に喧嘩になるだろう。こんな風に。
「困ります、何やかんやと因縁みたいなこと言われても…。もうそちらとは関係がないんですし。それに、わたしたちにはわたしたちの「今日のイベントを思いっきり楽しもう」って期待があるんですから。本当、いい加減にして下さい」
言い方にあれこれ引っかかりはあるものの、今はこちらの分が悪い。わたしは咲耶さんの腕を引き、
「ごめんね、お邪魔して。もう、行きますから」
「姐さん」
抗う彼女の腕を、ちょっと力をこめつかんだ。そのままスペースに引っ張ってきた。
その背中に、声が届く。
それらは、こちらに聞かせるつもりはなかったのかもしれない。でも、あの子たちもかつての絶対盟主咲耶さんを相手に興奮したのだろう、甲高い声が絡み合う。
「知ってる? 『ガーベラ』って。大昔のすごい大手らしいよ。あの人そうだって」
「知らない。っていうか、そんなまだやってるのかって、そっちが驚き。昔の栄光ってやつ? しがみついてるみたいで、何かキモ」
「ババアの若作り、無理が痛いね」
「それをあの、咲耶がやたら崇拝してさ。見ててなんか、うわ、同類に見られたくないって感じ…」
 
うるせーな。
 
わたしにとっては、そんな程度の外野の声だった。
そのとき、咲耶さんがわたしの腕を強引に振りほどいた。カンっと下駄の音を響かせて彼女が駆けたのは、先ほどの女の子たちのブースだ。
「咲耶さんっ」
その声と同時だった。彼女は、スペースのきれいに陳列された新刊を、勢いよく手で払いのけていた。「ふざけんな!」。
 
「姉ちゃんよ、舐めた口利くと、一生、後悔するぜ」
 
その押し殺した声は、他人に向けられたものだが、こちらの背筋もぴんと緊張したほど。女の子たちも、声と咲耶さんの凄味にのまれて、ひるんでいるのが見えた。
一瞬の後で、中の一人が金切声で叫んだ。
「…け、警備の人、警備の人!」
そんな人を呼ばれては堪らない。イベントがパーだ。大量に刷った本もパーだ。
わたしは急いで咲耶さんの背中に取りつき、彼女を力任せに床に押し付けた。自分もその隣りで土下座だ。
「姐さんっ」
無理に抑える下から、咲耶さんが暴れるが、押さえつけた。「黙って。謝って」と。謝って事を大事なく納められるのなら、それに越したことはない。誰にとっても、損はないはず。
ほどなく、気勢が削がれたらしい、咲耶さんはおとなしくなった。
既に人だかりができていた。それへの対面もあるだろう、思いがけず、相手はあっさり引っ込んでくれた。
「二度と関わらないで下さい」
その言葉に何度も頷いて返し、咲耶さんを連れ、スペースに戻った。
「っくしょう…」
噛みしめた唇から、そんな言葉がもれた。それと同時に、彼女の瞳からぽろぽろと涙があふれ出す。自尊心ある咲耶さんのことだ、今回のことは、身を焼かれるように悔しく辛いだろう。
それが知れるから、そばにいて、こっちも切なくなった。ティッシュを差し出し、
「忘れるのは難しいだろうから、別のこと考えよう…。この後、都合がよければ、アンさん(桃家さん)も顔出してくれるって…」
わたしの声など耳に入っていかないようだ。洟をすすり、涙でつぶれた声が、
「っくそ。…姐さんのことまで、あいつら…。自分が情けない。こともあろうに、姐さんに、あんなみっともない格好させて…」
自分のことより、わたしのことで怒りを覚えてくれていたことに、ちょっと気持ちがしんとなった。大丈夫、もっとみっともないこと(バススタッフ)、しれっとしてたことあるから。
「平気、平気」
ちっともみっともなくなんてない。必要だから、頭を下げただけだ(土下座だが)
咲耶さんは涙にぬれる瞳をこちらに向ける。濃く塗ったアイメイクが崩れ、壮絶なグラデーションの目元になってしまっていた。
だから、まぶたに濃い色の全塗りは…、
拭うウエットティッシュを探っていると、「そんなあっさり…」と、歯噛みするような声がした。
「悔しくないんですか? あんなひどい、侮辱を…」
「当たってるからね、ほぼ。ははは…」
軽く受け、ウエットティッシュでメイクを落とすよう促した。お客が現れた。わたしが対応している間、咲耶さんは目元を拭っている。目をやれば、すっきりとした目つきになっている。
「そっちの方が可愛いよ」
素直な意見を言うと、彼女は目を逸らし、ぶすっとした声で、「お世辞なんか…」と返した。
「…姐さんは、そんなのじゃ、ない。全然、違う…!」
始め、意味が取れなかった。手持無沙汰にペットボトルをいじるうち、それに気づいた。咲耶さんは、さっきの元仲間たちの、わたしへの陰口に対して口にしているのだ。
その真剣な言葉が、妙に照れ臭くて、こそばゆくて。肩から頬が変にこわばってしまう。嬉しいくせに。
「ありがとう」
そう、簡単に返すのが精いっぱいだった。「そんなにいいもんじゃないよ〜」と内心赤面しつつ。
自分以上に自分は知らない。誰かがわたしに描いてくれるイメージは、多分きっと、その人の求めるものが混じった、わたしに似たわたしに近い別物だ。
それでも、嬉しい。
アイメイクを取り去った目の辺りを、頼りなさそうに気にしている咲耶さんの横顔は、今も悔しげにかげって見えた。
何を言っても、きっと今は気持ちに響かないだろう。
そこで、いい気分転換のネタを思い出す。「ねえ」と隣りの彼女の肩を叩く。顔を上げた咲耶さんに、あちらを顎で示してやる。方向は、さっきの元仲間のスペースだ。
「え?」
「あれ。どうするんだろう? もう昼過ぎたのに…」
狭いスペースの足元に積まれた、在庫のダン箱が一つ二つ…。咲耶さんが払いのけたあのテーブルにも、平積みの本がどどんとたっぷり残っている。
交流メイン、雰囲気を楽しむのがメイン、と幾ら体裁を装っても、売り上げに無関心ではいられる訳がない。イベント参加で一番きついのは、持ち込んだ本の在庫が、山と出ることに尽きる。
「うわっ」
やはり驚いた声がした。相手の売れ行きの目がいかない辺り、咲耶さんという人の純粋さが知れる。目や手に余る癖があり、問題児でもあるが、いい子なのだろう。おそらく。
人気の看板作家であった咲耶さんが、グループから抜けたのだ。その結果は、ある意味当然と言えた。
きっつい売れ行きが残念で、気の毒ではあるが、まあそれは、完全に他人事だ。
「あっははははは〜!! はっはははは!! あははっ!!!」
遅れて響いた高笑いに、こっちもおかしくなる。
もうすっぴんに近くなった彼女の眼もとに、大爆笑のせいで涙がにじんでいた。
信頼を裏切られて、更にその相手から馬鹿にされ、切り捨てられ…。嫌な記憶だ。簡単には忘れられないだろう。でも、理由の如何はともかく、今、笑顔でいられるのだ。目先が変わったはず。
「ぎゃははっ!! あ〜っははは!!! ひ〜っ、い〜っ!!」
しかし、笑い過ぎだって。
 
ま、いっか。
 
 
正午を過ぎ、そう間を置かずに本は売り切れた。
今回は、咲耶さんとの合同誌ということで、思い切って量を刷ってある。その快挙に、しばし撤収の支度も忘れ、ぼおっと放心する。
何やかんやあったが、専業同人者としては、イベントを早々と締められるこの結果は、我ながら「ハナマル」を差し上げちゃってもいい。
立ちが続き、腰は重い。でも、気持ちは軽い。後片付けを始めたとき、スペースの前にお客が現れた。『売り切れ』の簡単なポップは出してあったが、代わり咲耶さんが説明をしている。わたしは屈んでダン箱の始末をしていた。
「申し訳ありません。ご好評につき、すべて完…」
「ふうん」
「これにて閉店と…」
「そう」
彼女の説明を適当に流しながら、お客は立ち去る気配がない。遠方からの人なのかもしれないな、とぼんやり思った。目当ての本が完売し、あきらめ切れず、立ち去りがたくそうしているかも…。
「あの、せっかくですが、差し入れは仲間内だけと、皆さんにお断りをしているんです。申し訳…」
ちらりと顔をあげると、女性客の服のリバティープリントが目に入った。ケーキ風の小箱を手にしているよう。
「え、『二千疋屋』のなのに?」
「どちらの品、というのではなく、皆さんに一律に…」
「だって、並んで買ったのよ、この暑い中に」
お客の声のトーンは館内のざわめきに紛れながらも、のんびりと穏やかに、間延びして響く。
「ですが、それはこちらが…」
「『二千疋屋』の、おいしいよ? 値も張るし」
あの押しの強い咲耶さんが、翻弄され気味なのが意外でもありおかしくて、ひょいと首を伸ばしながら立ち上がる。
女性は、可憐な小花のプリント地の肩に、ごく薄いアイボリーのショールを羽織っていた。柔らかなウエーブが、その肩の辺りにくるんと揃う。
それは、
 
千晶だった。
 
目が合えば、ふふんと微笑むように口元を緩ませる。
「よ」
「うん」
 
たったそれだけが、十三年ぶりの再会の合図だ。





          


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