ふわり、色鉛筆
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千晶は、虚をつかれた様子の咲耶さんに、手の箱を押しつけた。視線が、あちこちにさまようように落ち着かない。
随分と久しぶりに彼女の姿を生で見るが、昔とどこが変わっただろう。小柄で華奢なところは相変わらずであるし、愛らしい顔立ちにも、当たり前の年月を見るだけ。
ただ、超売れっ子の証しか、手首に高価そうな時計がある。これは、往時にはなかったものだ。それが飾る彼女の手指が、数々の大ヒット作品を描いてきたのだと思うと、違和感などない。ひどく似つかわしく、しっくりとくる。
「懐かしいね」
つぶやきながら、千晶の視線はまだ定まらない。メジャーの第一線で頑張る彼女に、同人イベントなどは縁がなかっただろう。
と、商品がなくなり、空いたテーブルにぽつんと載る、合同誌の案内チラシに目が落ちた。
そこで、千晶を訝しげに見る咲耶さんに、旧友だと教えた。真壁千晶のビックネームは出すべきか迷ったので、止めておいた。
「姐さんのご友人ですか。知らず、失礼をいたしました。わたし、サークル『サクラ塾』の夜叉神咲耶と申します。姐さんには、多大な…」
咲耶さんの自己紹介に構わず、チラシから目を上げ、千晶はわたしに話しかけた。
BL描くんだ、本当に」
「…うん、始めたばっかりだけどね」
「ノーマル描くより、若菜に合うんじゃない? 聞いても、全然違和感なかった。あんたの男の子、かっこいいしね、いいよ」
「そうかな…、ありがと」
千晶はふと咲耶さんに目をやり、ちょこんと横お辞儀をしてみせた。
「雅姫が、お世話になります。この子、面倒くさがりで、ずぼらなところあるけど、根は真面目だから。実家お寺だし」
「寺は関係ない」
「え?! 姐さん、ご実家、お寺さんなんですか? うわ、お人柄に徳があると思ったら、やっぱり。…そうですか」
いや、いや、いや。
一体どこから、そんなものを…。これっぽっちもありませんから。住職の父にすら、あるか怪しいところだ。
「徳? 何、それ。あははは」
千晶はおかしがって、けらけら笑う。
「昔、イベントで朝食の鯖寿司が買えないと、荒れてたよね。あれは、まだ徳が開花する前だったのか…」
うるせーよ。
笑いのしまいに、「姐さん、本、一冊も余ってないの? ほしい」。
千晶が、何気なく咲耶さんの「姐さん」を真似るが、突っ込むのも面倒で、スルーした。
「売れちゃった」
「一冊も? プレミア読者用に、残ってないの?」
わたしの手元には、もう一冊も残っていない。生原稿があるし、出したごとに記念で取っておく、というタイプでもない。そして、プレミア読者などいない。
残念がる千晶に、咲耶さんが「よろしければ…」と、
「印刷所から見本に二部もらってあるんです、後で、姐さんにお分けしようと思って…」
「ほら、あるじゃない、プレミア用。隠すなって」
まんまと咲耶さんから一部せしめ、ぱらぱらと開いている。その様子が楽しげで、興味深げである。社交辞令に、旧友の同人誌をほしがっただけには思えなかった。
互いに知り尽くしているはずの友達。でも、長いブランクもある。そして、何より彼女は、あの真壁千晶だ。
狭いスペースで、椅子も勧められない。そんなことが申し訳なく、立ったままページを繰る彼女に、わずかに臆していた。イベント会場のことなら、千晶だって熟知しているのに。
この妙な気まずさは、今の彼女が、今のわたしの描くものを、読者の立場で見ていることの照れと、どこかしらの怯みのせいだろう。
代金不要という咲耶さんの言葉に、「ありがとう」と、千晶は本をバックにしまった。
「帰ってから熟読しよう。ふふ。ねえ、コメ要る?」
「いいよ。いろいろ批判は、自分でわかってる」
「相変わらずだね、わかってて直さないんだから」
「努力はしてるよ、それ覚えてたらね」
「久しぶり。その投げやりさ、大好きだわ。ははは」
そこで千晶が、つなぐ。
「それで、よく沖田さんに叱られてたじゃない?」
不意に出た、彼の名にどきりとする。
「「お前、やる気あるのか?」、「鯖寿司のことばっか、考えてるんじゃねえよ」って。若菜がやたらパンチ食らってたね」
鯖寿司…。
なんで、こうまでわたしの『ガーベラ』話に、鯖寿司ネタはついて回るのか。そりゃ、好きだけど。焼いたのも、酢締めのも。
そういえば、千晶はどこでこの日のイベントを知ったのだろう。わたしがBLを描いて参加すると、どうして知っていたのだろう。もちろん、探せばインターネットで知ることは可能だが、何となく腑に落ちない。
彼から耳にした、という方がしっくりとくるのだ。仕事上、二人は今も、つき合いはあるのだから…。
「沖田さんから?」と、何気なくそう問おうか、ちょっとだけ迷った。その間に、千晶が答えをくれた。それは意外なもので、耳にしてすぐ、訊かなくてよかった、と羞恥混じりに安堵する。
「仕事場にうちらの昔のファンがいて、その人が言ってたの、今日のイベントのこと」
「ふうん」
「その前に、沖田さんからも、ちょっと話しあったけどね。「雅姫のBL読んだか?」って、知らねーよ。「何だ、お前、もらってないのか? 扱いが知れてんなぁ」だと」
「あはは。ごめん」
変わらない、千晶の言葉や声音に笑いながら、無沙汰を詫びつつ、やはり、ほろりと飛び出す彼の名に、ひっそりと胸が鳴るのだ。
沖田さんが知っているのは、同人好きの彼の妹さん経由のため、と断りを入れ、
「別に、隠してた訳じゃないよ。千晶に送るの、おこがましくって。…あのとき、勝手にあっさり辞めておいて、こんな今更だし。ちょっと敷居が高かっただけ」
「気にしなくていいのに、そんなこと。…三枝さんに、「パッと咲いてパッと散る」って、ピンクレディーによくたとえられたな。あの人も、たとえが古いけど、はは」
ピンクレディーは、散ったきりじゃなく、また再結成するけどね。ちなみ、三枝さんとは、沖田さんの当時の上司で、今社の副社長を務めるという。
「本当今更の復活だけど、『ガーベラ』の名前には、つくづく助けてもらってる。特に看板にはしてないけど、隠してもないし…。合同誌に誘ってもらえたりするのも、たっぷりその恩恵」
「おお、使え使え」
そこで、やんわり袖が引かれた。咲耶さんだ。すっかり外野の彼女に、ちょっと悪かったかな、と見れば、半開きの唇が、何か言いたげだ。
「あの、姐さん…、もしや、あの…」
「ん?」
そのとき、別の声が割り込んだ。
「千晶さんじゃない?」
声に覚えがある。スペース前に目を戻せば、やっぱり桃家さんがいた。今日は、白地にテディベアがカラフルに描かれた、ふわっふわのワンピース姿が、目に染みるほど華やかだ。
すっと千晶の隣に立ち、しげしげと眺めている。
「そうだけど…。ええっと、やっぱり、『桃…」
そこでその隠語はまずい。わたしは千晶の声に「アンさんだよ」とかぶせた。千晶は如才なく、
「ああ、そうアンさん、アンさん。久しぶりだね…」
と合わせる。『ガーベラ』時代に親しくつき合っていたのでもない。彼女が、桃家さんのペンネームを覚えていたかは、怪しいところだ。
しかし、初対面の咲耶さんへの対応といい、桃家さんへの応え方へも、往時よりさらりと人なれした感がある。人気漫画家という特殊な職業とはいえ、長く社会人をしているのだ。人見知りがちだった千晶の、その当然の変化に、年月をちょっと思う。
わたしにも、昔とは違う、そういった面がきっとあるのだろう。それは自分の手で生活を送るゆえの「すれ」でもあろうし、いい表現なら、「こなれ」でもあるかもしれない…。
「アンさんには、再開してからよくお世話になってるの。一緒に合同誌も作ってもらったし」
「千晶さんは、キュート路線に変化なしね」
そこへ、すぐそばから、大事な物でも落としたような声が上がる。咲耶さんだ。びくっとして顔を向けた。
咲耶さんは、真昼に霊でも見たような、驚きにこわばった顔をしていた。「まさか、やっぱり…」とつぶやいている。
「どうしたの?」と、問う前に、唸るように、
「姐さんの御相方でいらしった、ち、ち千晶…」
例のドスの効いた声が終わらない間に、桃家さんがあっさりと封じる。
「今頃、何言ってるの、あなた。それより、ナチュラルメイクに目覚めたの?」
「これは別に…」
「それがいいわよ。ただでさえBLはくどいから、作り手は、それを頭に入れないとね。トータルの足し算引き算が肝要よ」
「はあ…、名誉姐さん」
空気にコンデンスミルク感を噴霧する、ボリューミーな装いが常の桃家さんの書くBLは、「帝国の血を受け継ぐ放浪ヤクザ」に「宇宙海賊」が融合した、結構濃い小説なのに…。彼女の中では、どういう足し算引き算になっているのだろう。
そこまでを聞き、千晶が笑いをかみ殺してわたしを見た。まだ頬がにやついていて、「面白いね、若菜のまわり」と、耳打ちした。
そのとき、あれっと思った。
その小さな違和感が、もやっと心に広がるのと重なるように、桃家さんの声だ。自分の手土産を、広げて食べようと提案している。声がやや明いのは、千晶の存在が大きいだろう。
咲耶さんと、いつの間にかいた桃家さんの秘書景山さんの二人に、隣りの空いたスペースの椅子を拝借させている。
売り物のないテーブルにお菓子の箱(千晶の手土産)と自分の手土産を広げ、
「さあゲストの千晶さん、ようこそ。どうぞ座って。雅姫さんも咲耶さんも、その辺りに。ホストのわたしは、こちらにするわね」
さらさらと仕切る。ホスト? いつから? ようこそ?
「千晶さんは『二千疋屋』のゼリーね。よかった、かぶらなくって。お店の付近で、一歩進んで二歩下がるほど迷ったのよ。止して正解だったわ、ねえ、景山」
バトラー然と控える景山さんが、恭しく頷く。その彼が、提げたデパートの紙袋から、紙コップを取り出した。ボトルも取出し、銘々に注いでくれる。
「ノンアルコールのシャンパンよ。わたしの方の白蜜かりんとうも召し上がれ。発泡性の飲み物と、これが、奇想天外に合うの」
桃家さんのペースに戸惑いながらも、話すことはあれこれとある。イベントのこと、久しぶりの千晶のこと、そして咲耶さんが聞きたがる『ガーベラ』のこと…。短い時間だったが、場は盛り上がり、会話が途切れなかった。
 
千晶と桃家さんが帰り、わたしと咲耶さんは、ほどなくイベントの撤収作業にかかった。片づけに手を動かしながら、咲耶さんが問う。
「姐さん、あの千晶様とお会いになるのは、本当に十三年ぶりなんですか?」
「そうだね、電話やメールはその間にあったけど…。直接会うのは、そうなるかな」
それに、彼女は感心しきりだ。わたしと千晶の雰囲気に、長く会わない時間を全く感じなかったらしい…。
返事のしようもなく、「そうかな?」とぼんやり受けた。
「失礼ですが…」
「ん?」
『ガーベラ』解散後、そこからの延長で、千晶のみが大きく名を上げた。普通、そういった場合、いずれかから、いつしか齟齬や隔たりが生まれ、不仲や疎遠になるのが多いんじゃないか…。そういう元同人の作家の話も聞く…。と、咲耶さんは言う。
「だから、すごいな…って。お二人はそんなブランクがあるのに、まるでしょっちゅう会ってるみたいな雰囲気で、自然で、ウマが合ってて…。それってやっぱり…」
「友達、少ないからね、お互い。ははは」
不要なダン箱を整理し終え、余ったチラシをバックに詰め込んだ。本が売り切れると、帰りが身軽で、本当に助かる。実入りも大きくなるし、気持ちも浮き立つ。
清算した売上金を、約束通り潔く六割わたしに渡してくれた後で、咲耶さんは、ためらいがちに口にする。
「こんなこと、訊ける立場でもないんですが…。無礼を承知で。姐さんは、千晶様をその、羨ましく思ったり…、とかはないんでしょうか? 同じ『ガーベラ』で、あの方だけが…、その、すみません、こんなこと…」
「羨ましいよ、素直に」
わたしがイベントのために掛けた、作品準備や諸々の時間は、どれほどになるか。それでやっと得た売り上げを、千晶なら、おそらく数十分で楽に稼いでしまうだろう。その歴然とした差に、羨望がないと言えば、絶対に嘘だ。
「え」
「専業で同人始めてから、しみじみ思う。稼ぐだけあって、プロってすごいね。描きたいものをいいだけ描きゃ済むってもんでもないし。好きだからだけじゃ、通用しない部分…」
「そういうことじゃなくて」
わたしの言葉を、咲耶さんが遮った。ためらいがちにつなぐ。
「…不公平とは、思われないんですか? 狡い、とか。お一人だけが、その…」
もどかしげに問う、その意味は、よくわかる。彼女の興味の奥には、この日あった、元仲間たちとの忘れがたいあのトラブルが見える気がした。同人・友情・格差…。わたしと千晶の間に、こういった共通項を感じるのかもしれない。
何度目かの「すみません」に、ううん、とわたしは首を振ってから答えた。
「「不公平」とか、「狡い」とかは、思わないな。そんな理由ないし」
「またそんなけろりと…」
椅子に掛け、まだ活況のイベント会場を眺めながら、うちわを使う。どこかの銀行で配っていたやつだ。顔に送るぬるい風に、咲耶さんの重い吐息が混じるような気がした。
「それは、姐さんがお偉いから…。わたしだったら、きっと思う。悔しいとか、憎たらしいとか…」
「偉くなんかないよ」
ぽつんとそう言い、それからちょっとためらう。生ぬるいペットボトルのお茶を口に含んだ後で、話し出した。
「大学入ってすぐのとき、母親が亡くなってね…、子宮の病気だった」
突飛に思えるわたしの話に、咲耶さんはきょとんとした顔を向ける。その目を受け、頷く代わりにやんわり逸らした。
「家庭に母が欠けても、姉がいるから、わたしはその姉に甘えて、同人やったり好き勝手に過ごしてた。そうして、四年のときだ、わたしにも母と同じの病気の予兆が出てきたの」
「え」
適当な相槌ではなく、話に聞き入っている、というのが、咲耶さんの変化する豊かな表情でわかる。
「子供が産めないかも、って医者に言われた」
話しながら、どうしてこんな打ち明け話をするのか…、とおかしく思う。あれこれ派手な印象の咲耶さんには、きっと聞き上手の資質があるのだろう。
幸い、早い段階で治療に入れ、手術と投薬を受け治すことができた。しかし、担当医からは、将来子供を望むのなら、すぐにでも不妊治療を始めることを勧めらてしまう…。
単に婦人科通いが日課に増えるだけではない、妙な不安と薄暗い靄が、気持ちのどこかに居座って、去らなかった。
学業ぼちぼち、同人どっぷりの、甘えた生活を送ってきた身に、びしりと鞭打たれたような気分だったのを覚えている。
まだ若く、社会経験もない。精神的にも幼い。子供がほしいかなんて、切実に考えたこともなかった。目の前に突きつけられることで、まだ未熟な母性が、このことにさらされ、じくじくと痛むような気もした…。
要らない、とは言い切れない。そこから、「いつかほしい」へ流れた。医師が勧めるよう、「なるべく早くほしい」に気持ちが変わるのは、何かがころころ下へ落ちるように滑らかで、そして早かった。
その頃、今の夫と高校時代の友人を介して出会った。二つ年上の社会人で、近く遠方へ転勤する予定があった。できれば、そろそろ結婚し、その相手を伴いと考えていることも知った。
あつらえたように、いろんなものがそろい出す中、目指すプロへの意識にブレのない千晶との、その夢の温度差を感じ始めてもいた…。
端折りながら、それらをつらつらと語り、
「描くことを放り出したのは、わたしの方だよ。卒業や千晶のデビューもあったし、お互いに目途がついたって感じで、キリがよかったこともあるけど。『ガーベラ』を止めたのは、わたしの都合って部分が大きいから」
千晶はそれを認めてくれ、彼女自身は自分の選んだ道を進み、貫いた。結果、今がある。それを、わたしがのちの成功だけを見て「狡い」だの、「不公平」だの思ったり口にするのはおこがましいし、その意味もわからない。
咲耶さんは、わたしの過去話に、応える言葉をちょっと探しあぐねているようだ。別に、これ、という反応がほしくて話したのではない。ただ、的外れに「偉い」だの「すごい」だの褒められるのが、こそばゆかっただけ。
それに、彼女の望むだろう答えにも、そぐわないだろう。
短い沈黙の後で、わたしは腰を上げた。「そろそろ出ようか?」と、撤収の声をかける。一拍遅れて、咲耶さんが、はいと返事をした。
「でも…、姐さんは偉い」
「は」
まだ、言ってる。
「ブランクがあっても、やっぱり、また描き始めてるじゃないですか」
「もう、好きだけで描いてる訳じゃないよ」
「…やっぱり、すごい。お側で見ていて、思いますもん…」
「咲耶さんこそ、ジャンルの最大手サークルじゃない。オリキャラも人気あるし。わたしは、その咲耶さんに便乗させてもらってるだけだよ」
「格が違うっていうか、もう…。さすが、お寺さんのご出自だけ…」
だから、寺は関係ないっつーの。
「徳が…」
「ない、ない」
わたしの弁が、どれほど耳に入ったのやら。スペースを後にしながらも、「姐さんとご一緒できるのは、夜叉神咲耶、一生の幸運と…」などと大げさにぶつから、聞いていてこそばゆいどころの騒ぎじゃない。全身がむず痒いのだ。
もういいよ。
例のこっ恥ずかしい『クールジェンヌの君』が出ないだけ、まだマシか。うちわの柄の部分でうなじをかいた。
咲耶さんは、元メンバーたちのスペースを通ったときも素通りで、その後も何も言わなかった。気づかなかったはずはないだろう。律していたのかもしれない。わたしにも、蒸し返して言及する気など、さらさらない。
「ねえ、あれあれ」
ふと思い立ち、出店のフードブースでクレープを食べようと誘った。それに、彼女は機嫌よく応えてくれる。「姐さん、何にします?」。
いちごクリーム。咲耶さんは、あずきクリームだ。
二人でそれをぱくつく。小さい子供がいると、買い食いするこんな機会もままあるが、大人だけの場合だと、何となく雰囲気が違う。童心に帰るような、ちょっとそんな感じだ。また、楽しい。
浴衣の女が二人、口をもぐもぐさせながらいても、ちっとも浮かない。もっと派手に奇抜にコスプレした人も大勢だし、まさにお祭りのような異空間だ。
咲耶さんが、今日を振り返るように、
「千晶様も、楽しそうにしていらっしゃいましたね。しかし、わっかいな、あの方」
「そうだね、昔とあんまり変わらない」
身体は細身なのに、頬の辺りはふっくらとみずみずしいまま。忙しいだろうに。疲れや不調何やかや…、顔に出やすいわたしとは違う。
この日の千晶の、愉快そうな横顔が、鮮やかに浮かんだ。久しぶりのイベントだ。人に、空気に、甦るはずの思い出に、表情はくるくると変わりつつも、楽しげに弾んでいたのではないか。
「あ、いや、もちろん姐さんもお若いっすよ、おきれいですよ、間違いなく、お忘れなく!」
「あはは、フォローはいいよ」
「どうぞ、何もかも、憧れたままでいさせて下さい」
目の前の事をこなすのに目いっぱい、手いっぱい。そして、夫ではない人から届いた、『千晶から聞いたぞ。完売おめでとう』のメールに、ふふっと笑んで、ひっそり心を躍らせている…、そんな女だ。
憧れにしてもらうには、安っぽい。底が浅すぎるよ。
咲耶さんの変な力説に苦笑で応えながら、ふと少し前の違和感を思い出していた。千晶はわたしに何かを耳打ちした。そのとき、ふっとにおったのだ。煙草の香りが。
大したことではない。喫煙は大人の自由だ。
でも、
 
嫌い、じゃなかったっけ…。煙草。
 
そんなことが、しっくりとこず、胸のどこかに小さな泡を作るように思う。割れないそれが、彼女に会った嬉しさの中で、ぷかりと浮かんで漂うのだ。
 
 
帰宅したのは、三時半を過ぎた頃だった。夏時間のことで、暮れるには、まだまだ余裕がある。
風邪の総司が気にかかり、急いてはいたが、途中でアイスクリームを買ってきた。どんなときでも、これだけはよく食べるから。
玄関を開け、粗く草履を脱いだ。しんと静まり返っている。留守番の夫も、総司と一緒に寝ころんででもいるのだろう。
リビングに入って、室内の温度にはっとなる。冷房が効き過ぎ、外に慣れた身体に、肌寒いほどだ。すぐにクーラーを消した。
「エアコンの温度に気をつけてって…」
念を押しに電話もかけたのだ。つい愚痴が出る。
総司は、部屋の中ほどのソファに下に、うずくまるようにして眠っていた。その姿に、何を考えるよりも身体が動いた。ぐんにゃりと弛緩した総司を抱き起し、ぐるりと室内を目で追う。夫がいないようだ。
「ねえ、パパは?」
そう呟き、頬を探った。指で触れる。ひどく熱い。発熱し、明らかに総司の風邪は、悪化していた。夫はどうしたのか。
日曜日だ。休日も診療している医院に連れて行くべきか、様子を見るべきか…、迷った。とりあえず、熱を測ろう、と薬箱から体温計を出した。
そのとき、それが目の先にあった。チラシの裏に書かれた、夫の字のメモだった。
 
『面接が入ったので、出てくる』。
 
一読で、覚えてしまえるほどの文。それを目がなぜた瞬時、頭に血が上るのを感じた。一体、いつから…。
具合が悪いと知りながら、どうして子どもを一人にして出かけられるのだろう。しかも、あんなに冷房を強めて行く理由がわからない。あれほど注意してと、頼んであったのだ。
そして、日曜の、こんな急に面接の予定ができるなんて…。
総司に体温計をあてがい、身体を抱きながらも、怒りはふつふつとわき上がるのだ。片手で、いらいらと帯を緩めながら、つい頭に入ってしまった文言が、嫌でもちらちらと浮かんで消えない。
ピピッ。電子音に脇から体温計を外す。熱は38度5分。予想はしたが、高さにため息が出る。これから夜にかけ、更に上がるのかもしれない…。
「総司、喉乾かない? 大丈夫? アイス食べる?」
「う……」
総司は、熱のだるさにぼんやりとしながら、それでも、アイスの誘惑には迷うように見えた。その仕草を見ながら、ふと涙ぐみそうになる。
ごめんね、ママが放っておいて…。
「食べる、ちょっと」
「うん」
アイスを与えておいて、その隙に、動きにくい浴衣を慌てて着替える。再び、リビングに駆け戻ったとき、憎ったらしいあのメモが、またがつんと目に飛び込むのだ。
わたしはそれを引っつかむや、ぐしゃぐしゃにつぶし、ごみ箱に投げた。それで夫への腹立ちが消える訳もないが、少しだけ頭が冷えた。総司を前に、考えたくもないことは、脇へやっておきたい。
そんなとき、電話が鳴った。





          


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