ふわり、色鉛筆
21
 
 
 
電話は、実家からのものだった。いただきものの野菜があるので、今から分けに持って行ってやろう、ということだ。もらえるものは、何でももらう。
「ちょうだい、ありがとう」
簡単に通話を終え、電話を切った。
遅々と、でもアイスは食べている。食欲はあるようだ。その総司を眺めながら、病院はもうしばらく様子を見ても…、と考えた。
それからほどなく、玄関のチャイムが鳴った。実家からにしては、時間が早過ぎる。いぶかりながら、インターフォンで応対すれば、隣りの安田さんだ。ご主人であるのが珍しい。企業の管理職と聞く五十歳ほどの人で、これまで挨拶程度のつき合いしかなかった。
「これ、高科さんのところのじゃないですかね?」
そう言い、彼が手にするのは、ディズニーキャラクターのタオルだった。我が家の物干しから、庭に風で飛ばされてきたのだろう、という。
ありふれたものだが、一瞥して、覚えのないものだとわかる。違うようだ、ということを伝えると、安田さんはあっさりタオルを引っ込めた。
「そうですか、お宅だと思ったんですが…。よそから舞い込んだのかもしれませんね」
「そうですね」
「いや、可愛らしい柄の物だから、てっきり、小さいお子さんのいる高科さんのお宅のものだとばかり…」
安田さんの家にも、高校生くらいの女の子がいる。「娘さんのものでは?」と訊きかけて、うちはもうその後だろう、と止めておいた。
やはり、子供の話が、社交辞令のようにほろっと続く。うちの総司の声が、子供らしくにぎやかでいい、と。
「すいません、うるさく騒ぐときもあって…」
「いやいや、そんなんじゃ。小さいときはとにかく手がかかりますが、後から思えば、ほんの短い間ですからね。うちは女の子というのもあってか、もう父親になんぞ、近づきもしませんよ。男の子はいいですね、男親にとっては特に」
リビングの総司を気にかけながら、「でも、女の子はやっぱり可愛いですよ」とありきたりな相槌を打った。
「ご主人も、男の子が相手だと、遊び相手もより楽しいでしょうね。キャッチボールだのサッカーだのも、すぐできるようになる」
「はあ、そうですね」
思いがけず会話が続き、ちょっともてあまし始めた。そろそろ、総司の風邪を理由に切り上げようか…、そう思ったとき、
「ご主人は? 坊やとお外ですか?」
それは、うかがうような声に聞こえた。意外さと不快さが、ふっと胸に兆す。わたしはそれに曖昧に応じ、ついで、総司が風邪で寝ていることを告げた。
「ああ、それはご迷惑で、申し訳ありません」
安田さんは、それに我に返ったように頭を下げ、すぐに辞去してくれた。「お大事に」と。
玄関のドアを閉め、ほっと息をついた。
身なりも態度も、ごく普通の男性だ。タオルの早合点が気まずいか何かで、ついあれこれ言葉が出たのだろう。そんな中、夫の在宅をたずねる口調だけが、やや探るようで、ちょっと耳に残る。
なぜだろう。
もしかしたら、どこかで、出かける夫を見かけたのかもしれないし…。
そんな軽い疑問も、総司を着替えさせ、子供部屋に運ぶなど、と動くうち、薄れて消えた。散らかった部屋をざっと片づけ、浴衣の始末をし終えた頃、またチャイムが鳴った。インターフォンには、軽く笑う義兄の顔が映った。
頭にタオルを巻いた義兄は、重そうな野菜の詰まった段ボールの大箱を抱えながらも涼しげだ。頼んだキッチンの隅に、ひょいと運び入れてくれた。
マドラスチェックのシャツにジーンズの、ゆらっとした長身を見上げる。
「ダグが来てくれると思わなかった。お父さんだとばっかり」
「お義父さんは、明日の葬儀のご遺体を待ってるよ。それに重いのは、僕が運ぶ方が都合がいいしね」
彼は「コージは?」、「ソージは?」とリビングを見渡した。「コージ」とは夫の名だ。アメリカ出身の彼が言うと、いつも間延びしてそう聞こえる。来日してもう、十年を超える彼の日本語は、かなり流暢だが。
それには、夫の方はスルーし、総司は今熱を出して寝かせている、と答えた。
「そう」
ダグはちょっと眉間を寄せ、心配げな表情をした。下痢や嘔吐の症状はないのかと問う。わたしには姪にあたる花梨(かりん)が、この間、軽い腸炎になったのだという。
「彼女は熱も出したよ。まあ、林間学校が原因じゃないかって、美樹(若菜の姉)は言ってるけど」
「今のところ、熱以外は大丈夫みたい。さっき、アイスもペロッと食べたし」
何もないが、冷えたお茶程度なら出せる。グラスに注いで出した。「ありがとー」と、おいしそうに喉を鳴らして飲むから、粗茶でも嬉しい気持ちになる。
彼の肌はきれいな褐色だ。黒髪に黒い目に、すらりと上背のある姿。混血していると聞く、ハンサムで理知的な面立ち…。ダグは、アメリカ大統領に非常によく似ている。初めて家にやってきた彼を見て、父もわたしも、驚きにあんぐり口を開けた記憶は鮮やかだ。
子供は娘ばかりで、「見込みのある男をつかまえてこい」と冗談に思えない口調で、常々わたしたちに言っていた父だが、「よりによって…」と、渋い顔で絶句していたのも、よく覚えていた。
寺院は、きっと保守の最たるような場所だ。
知るにつれ、聡明な好青年であるダグに好意を深めた父の煩悶後の許しも、彼を認めた本山の姿勢も、賞賛してもいいのかもしれない。それらを、進歩的で開明的と、新聞や地域のタウン誌などに紹介されたことがある。
その通りだろう、と寺で育った娘ながら思う。そして、元から親日派で仏教に興味を持っていたとはいえ、日本と寺という、異世界になじもうと努力し、結果を出した彼は凄い。
でも、何よりあっぱれで素晴らしいのは、何やかや物議はあったが、今では快く、彼と我が家を受け入れてくれた檀家衆に違いない。「オバマさん」、「ダグさん」と親しまれ、今では、住職の父より人気があるかもしれない。
姉に言わせれば、「ダグをつかまえた、わたしが一番偉い」となるらしい。確かに、このダグが、凡庸な姉になぜつかまったのか、謎は深い。
「病院は行かないつもり?」
「うん…、様子を見ようと思ってるんだけど。どうしよう、行った方がいいかな?」
そこで、ダグはちょっと視線を辺りに流した。
「コージは?」
二度目の問いで、今度はスルーも出来ず、いない、と答えた。
「面接が出来たんだって」
「就職の? 日曜に?」
我が家の内情は、父や姉から聞き、およそ知っているらしい。わたしは、さあ、と首を傾げた。
「わたしも仕事で出てて、さっき帰ったの。留守を頼んでたのに…。もういなかった」
「じゃあ、若菜が帰るまで、ソージが、たった一人でこの家にいたことになるね」
ダグはかすかに首を振り、口を歪めた。苦い表情になる。隣りに、ジャック・バウワーがいてもおかしくない光景だ。日本にどれほどなじんでも、こんな仕草はきっと抜けないのだろう、とちょっと思う。
「どのくらいかは、総司にも訊けてないけどね」
「時間の長さの問題じゃない。四歳は、一人で留守番をするには早過ぎる」
責めるほどではないが、彼のやや硬い口調が、胸を突いた。確か、アメリカではある年齢までの子供を一人にさせることは、犯罪になると聞いたことがあった。ダグの中には、それが常識としてあるのだろう。
それに、「だって、ここは日本だから」などと、居直る気になどなれない。何か、事故があったかもしれないのだ。無事だったからいいようなものの…。
自分の責任も、感じてはいる。朝、イベントに出る際、総司が風邪気味であることを、わたしは把握していたのだ。夫に注意するよう、何かもっと頼むこともできたはず。
でも、まさか、そんな総司を置いて、ふらっと家を空けるなどとは、想像ができなかった…。
少し過去をもやもやと悔いる間に、脇にどけておいた夫への怒りや不信が、どんどんふくらみ、胸を占め出していくのがわかる。
彼なりに事情はあったのだろう。だが、帰宅後のあの総司の様子を思えば、どうであれ、それは言い訳にしかならない。いつものように、「ま、いっか」と許して、流してしまうことはできない気がした。
 
ひどい。
 
彼のやったことは、これに尽きる。
「大丈夫なの? 若菜」
ダグの声は和らいでいた。変わって、わたしが口元を歪めさせるのだ。口に、溶けない苦いものでも、含んでいるような気持ちだった。
「ねえ、若菜?」
「…うん……」
ダグの声は心に染み、冷えた中をほぐすようだ。ふと、それに促されるように、わたしは思いを吐き出していた。それを、どこかで心地よいと感じながら。
 
「別れようと、思ってるの」
 
言い切った後で、ダグを見た。
彼が、ほんのり目を見張ったような気がした。けれども、それほど驚いている様子はない。我が家の状況を知っているのなら、こういう結果も遠くないと、見越していたのかもしれない。
彼はわたしを手招いた。そばに行き、ソファの隣りに腰を下ろした。大きな手が、わたしの手をそっと包んだ。わざとらしさのない、優しい仕草だった。
彼のシャツから、わずかに実家の匂いがする。それは庫裡や本堂に染みた匂いで、わたしには当たり前の、親しい、そして懐かしいものだ。
「コージとは、もう話し合ったの?」
「ううん、でも、もう無理だと思う」
気づけば、わたしはこれまで口にするのをためらっていた、夫への不満をもらしているのだ。彼がなかなか仕事を見つけてくれないこと、今では、もうその努力すら感じられないこと。もしかしたら、働く意欲が消えてしまった?……。
でも、それならそれで、まだいい。そう許してきたわたしがいるから。なら、妻が稼ぐのをサポートする、家の事を分担する。そういった意志や姿を見せてくれていたら、事態は違ったはず…。
そんな、今ではもう繰り言を述べながら、どうして愚痴を言うことをはばかったりしたのか。その訳を求めていた。
きっと、きれいごとではない。何でも気安く言い合える相手が、そばにないため。言葉にして出してしまうことで、目の前の厄介が増幅しそうな、重っ苦しさを感じたためもある。
それだけではない。
わたしの中の、夫への罪悪感が、批判を言う口を重くさせていたのだ。
「若菜、コミックは売れてるの?」
問いに、ぎょっとなるが、姉からの情報だろう。夫の収入が絶え、家計の事を心配する姉には、ちょろっと近況を伝えてあったのだ。
「まあ、ぼちぼち」
「それはすごい。美樹が言っていたよ、若菜は昔、ドージンシを作って、大儲けしていたって。ちゃんとした雑誌に描いたこともあるんだって」
ダグの表情はお世辞でもなさそうで、それが照れ臭い。しかも、彼が使った「ドージンシ」という単語が、羞恥を煽る。
「もう、大儲けなんて。お姉ちゃん、オーバー」
ちょっと笑って、流した後で、
「頑張って、それでやってみようと思って。少しだけど、手応えもあるし…」
「それは頼もしいね」
「はは、だといいけど」
ダグは、至極話し易い聞き役になってくれた。が、その後で、ふっと黙る。
適当に意見や相槌の打つことを、躊躇しているのだろう、と思った。周囲の誰もが持つだろう、彼の印象は、思慮深く、穏やかで、そして…、
 
「相手は誰なの? 若菜」
 
鋭くもない、当たり前の声が届く。
 
あ。
 
それに、彼の聡明さを、胸を突かれるように思い出すのだ。
驚きもあったが、問われて、虚をつかれたのは、ほんのわずかだ。すぐに、わたしはふっと笑ってしまった。
夫の行為や態度に、とうとう辛抱が切れた…。そんな耐える妻を語ったところで、見る人が見、聞けば、透けて見えるのかもしれない。それは、底にあるわたしのエゴだ。
夫婦という枠を出て、一人になりたい。争うくらいなら、一人がいい。その方が、気持ちよく楽に総司に向き合えるから。
もっと身を入れ、気を入れ、昔捨てたはずの漫画に、またのめり込みたいのだ。
そして、一人になって、自由なることは、沖田さんとのこれからを示すから…。
わたしの短い自嘲は、自白のようなものだ。
「みっともないね、旦那だけ悪者にして…。ああ、安っぽい」
うつむき、苦笑するわたしの手の甲を、ダグはぽんと軽く叩いた。それが、「いや」といった意味の相槌に取れるのは、のんきな思い上がりだろうか。
「お父さんたちも、そんなこと言ってる?」
この想像が、勘のいいダグだけのものではない、としたら…。と心が冷えた。
我が家のことでは、ここずっと心配をかけている。更に、離婚だ。父も姉も、ひどくがっかりするに違いない。そこに、わたしの不倫が潜むと知られることは、どうしても避けたいのだ。
また、あっさりとエゴが顔を出す。それを恥じる余裕もなく、わたしは彼をうかがった。
ダグは首を振り、自分だけの思いつきであることを示した。単純にほっとする。
「もちろん、二人は若菜のことを気にかけてる。特に美樹は、お父さんにも僕にも、よく言うよ。コージがマイペースで、若菜ばかりがキリキリマイさせられてるんじゃないか、と気をもんでるよ」
彼の言葉に、姉がちょっとテンパったときの癖の甲高い声で、ダグや父にあれこれ言う様子が目に浮かぶ。それに、「落ち着け、お前はちょっと黙れ」と返す父の声も、「ダイジョーブ、オーケー」となだめるダグの声も、すぐに聞けそうな気がするのだ。
どうしてだろう。
そんなことをふと思うだけで、胸がぽんと詰まり、目頭が熱くなる。
返す言葉も見当たらない。また場当たりに、短く笑って済ます。
「君はいつもそうやって笑うね」
楽しくもないのに笑う。
どれほどの言葉の代わりに、わたしはそれで済ませてきたのだろう。迷うときや、面倒な問いには、全てこれで返してきたような気さえするのだ。不精な癖であり、ちょっとした虚勢でもあるだろう。体のいい、無難で便利な相槌。
日本人がマルチについ使う、「すみません」にやや通じる。ダグにはこの曖昧さが、首を傾げたくなるのかもしれない。
でも、そこに、何かしらの「逃げ」が許されている気がする。自分への、相手への。
「笑ってる場合じゃないのにね」
 
「そうとしか、笑えなかったんじゃないかな」
 
ダグの手が、またわたしの手をふんわりと包む。
「人が、自分を罰する必要はないよ」
省みて、矯めて、これからの糧にすればいいだけ…。さらりとした口調で、ダグはそう説いた。
生意気だが、父がする説法より心に響く気がする。高みからじゅんじゅんと、ありがたい言葉がこぼれてくる、といったありがたさはないのかもしれない。でも、簡単な足し算引き算を示されるようなわかり易さがある。そんな印象だ。
そんなことを言うと、ダグは首を振り、「僕は、まだごく駆け出しだよ」と日本人にすら、すらりと出てこないような流し方をした。
そんな後で、
「ねえ、若菜。僕には君を心配する権利があると思う。違う?」
日本人にはちょっと言い難い表現がすぐに出てくる。ほんのりとおかしい。本人は意図しないはずの、こんなギャップが、彼の説法の親しみの一因なのだろうか…。
「ううん」
問われるまでもなく、彼は家族だ。返せば、ぽんとすぐに問いがある。
「相手は、どんな人? できれば、具体的に知っておきたい」
はぐらかし辛い質問で、しばらくためらったのち、わたしは沖田さんのことを話していた。
年齢、相手が独身であること、社会人としてきちんとした人物であること…。それらを告げると、ダグの黒い瞳は、まるで吟味するように瞬くのだ。
こんな風に、彼のことを誰かに話すのは初めての経験で、思いがけない照れ臭さに、頬が火照った。
喉が渇く気がし、わたしは立ち上がり、冷蔵庫からお茶を取り出し、グラスに注いで飲んだ。ダグのにも注ぐと、「ああ、そうだ」と彼は何気なく、
「その彼に、いつ会えるだろう?」
などと聞いてくるから、口のお茶をふきそうになる。
え?!
会うの?!
ドーナツでもつまむような気軽さだ。
わたしがたじろぐ気配を見れば、かすかに首を振り、
「彼が、僕に会えないというのなら、認められない。まともではない、会えない理由があるはずだからね」
「でも、ほら、忙しい人みたいだし…」
「都合なら、彼に合わせるよ。それに、これは彼にとって、まず優先するべきことじゃないかな」
「はあ…」
ダグの言うことは正しいし、心配してくれる気持ちもありがたいが…。
「僕で不都合なら、美樹でもお父さんでもいいよ。僕から話を二人に…」
まずいまずい、それはやばい。
「いや、いや、いや。ダグがいい、ダグじゃないと」
慌てて彼の言葉を遮った。わたしの合意ににっこりと頷く様子を見て、父と姉にはまだ知られたくない、わたしのそんな泣き所を上手く利用されたとわかる。ダグは、結構な策士だ。
ダグ理論に押されつつ、沖田さんがこの彼と対面した状況を想像して、おかしいやら気まずいやら、少々暗澹とした気分になってしまう。
どうやって、彼にこの件を伝えようか。そもそも、今日のイベントでくれたメールの返事もしていない…。そんなことをつらつら考える。
そこへ、ダグが、
「総司の病院どうするの? 連れて行くのなら、送っていくよ」
と、気軽に言ってくれた。
様子を見ようと考えたのも、タクシーを呼ぶことへの、ちょっとしたためらいもあったのだ。緊急であれば、もちろん是非もないが、目当ての休日診療の医院は隣りの市で、やや距離がある。
「…そうだね」
夜分に熱が上がったりすれば、昼のうち医師に見せなかったことを悔むだろう…。せっかくのありがたい好意に甘えようか、と総司を連れに、子供部屋に向かう。
だるそうにしている総司だが、階下に下ろし、久しぶりのダグを見れば、それでもはしゃいだ声を上げた。
「オバマー」
「こら、ダグ伯父さんでしょ」
ダグは総司を抱き上げ、「Yes,we can!!」と答えてやっている。総司は、その意味もわからずに、きゃっきゃと喜ぶのだ。
そんな彼の何気ない優しい行為に、今では当然に思える、身内の慕わしさを感じた。
成功の捉え方は、人それぞれあろうが、このダグを伴侶とし、安定した家庭を築く姉は、確かに成功者だと思う。妹ながら、端から見ても、姉のそれは、自然でするするしたものに感じるのだ。何であれ、何かを成し遂げた人は、そのように見える気がする。
成功とは程遠いわたしなど、家庭と同人に手いっぱいのあっぷあっぷ状態だ。自分でも、ときにあきれるほどなのだから、外野からの目を想像するのもおこがましい。
ふっとついた重い吐息が、疲れにでも見えたのか。ダグが励ましてくれる。
「ドタバタも、いいものだよ。落ち着いて、老け込むには、早い早い」
わたしの心情には毛色の違った慰めだったから、わずかに頷くだけで答えにした。
診察のため、必要なものを取りまとめていると、先ほどのダグの憂鬱な申し出も、軽いものに感じられるから不思議だ。
ま、いっか。
と、いつもの調子で、吐息に流してしまう。そして、おかしなことに、さっきの彼の励ましが、ほんのちにはそう的外れでもなくなっているのだ。
車に乗る際、ダグの手から車のキーリングが見えた。ふと目にしたことで、沖田さんも同じものを持っていたと思い出す。
いつかの夜を思い出す。
 
 
その日、夫が帰宅したのは、午後の11時を少し回った頃だった。
「面接できた〜」と残したメモ通り、彼はスーツを着ている。上着を手に持ち、襟元を緩め、幾らか飲んでもいるらしく、目元を若干赤くし、機嫌もよさそうだ。
わたしは、昼間の疲れもあり、彼を待つこともなく、寝てしまうつもりだった。その、そろそろ眠ろうとしたときことだった。
「向こうの人に、面談の後引きとめられて…」
と、ごめんの一言もなく、そんな言い訳を口にする。
「どうだった? 本の売れ行きは?」
上機嫌なのは、少しの酔いのせいもあろうが、面接が好感触だったためが大きいのだろう。その後、酒の席にも招かれたのなら、ほぼ採用も固いはず。その手応えからだ。
返事をせずにいると、付け足しのように、総司のことを訊ねてくる。そののんきさ、危機感のなさに、怒りを通り越し、不意におかしさが込み上げる。
わたしの笑みを何と取ったのか、夫は、明るい声で、
「眠そうだったから、寝かして出たけど。大したことなかっただろ、やっぱり」
悪意はなく、ただ、決定的に配慮が足りないのだ。だから、風邪の気味の子供を、クーラーの効き過ぎた部屋に、タオルケットの一枚もかけてやらずに、気軽に置いていけるのだ。
だから、こんな能天気なことを、平気で言う。恥じもせずに。
何の返しもせずにおこうと思っていた。何か言ってしまえば、余計なことも口にしそうで、それが面倒で、ややこしそうで…、
そうわかっていながら、遅れてやってきた彼への怒りが、思いをねじ曲げるのだ。
「総司、結構高い熱出したよ」
乾いた口調で言ったつもり。なのに、言い切った後で、随分ねっちりと不満に湿ったものだと気づく。
夫は、ふうんと返し、わたしをちょっと見た。「俺のときは、そんな風でもなかったぞ」。無責任に逃げを打つ、男の弁解はひどく聞き苦しい。
「帰ってすぐにダグが来てくれて、お医者さんに連れて行ってくれた」
それに、感想すらない。身内とはいえ、ダグがしてくれた親切に対して、感謝の素振りも見せない。
「今は、もういいのか?」
それには頷いて応え、わたしは問わないつもりのことを、やはり口にしてしまうのだ。
どんな答えがほしいというのか。単に、抑え切れない憤りのはけ口か。
「何で、あの子を一人にしたの?」
「何で、って…。俺が出たのは二時頃だし、三時くらいには、お前も帰るって言ってたじゃないか。一時間くらい、大したことじゃないだろ?」
「あんなに、強くクーラーをかけて? あんなに気をつけてって、言ったのに。ただでさえ風邪っぽかったのに、それで身体が冷えて、熱まで出し…」
「熱中症にさせるよりマシだろ? 考えてみろよ、日中の気温を」
「総司を一人にさせるのは、絶対おかしい。あんなに小さい子を…」
夫はそこで、面倒そうに上着を放り投げた。吐き捨てるように、「だから、黙って行ったんだよ。お前に言うと、すぐそれだろ? 「あんなに」、「あんなに」…」。
「結局、平気だったんだから、構わないだろ。何をごちゃごちゃ…。ダグにアメリカ仕込みの知恵つけられて、理論武装でもしたつもりか?」
「下らないこと言わないで。結果、大丈夫だったからって、もし間違いがあったらどうする気だったの?」
それに夫は答えない。面倒そうにソファに座り込み、テレビをつけた。全くの居直りだ。
ちょうど、テレビはスポーツニュースの時間で、新進気鋭のゴルフプレーヤーがどうのこうのと、和やかな話題を振りまき出す。
それが頭にきて、わたしはリモコンでテレビを消した。夫は、リモコンを持つわたしの手を、ぱちっと勢いよく払いのけた。フローリングの床に、意外に大きな音を立て、リモコンが落ちる。
とっさに、払われた手をかばい、胸に引っ込めたわたしを、彼は上目に眺めた。じろり、とした視線を向け、すぐに逸らす。
「自分ばっかりが、働いてる気になるなよ」
その言葉に、夫が開き直る態度を取る理由が、ちらり、のぞいて見えた。不本意に、長く主夫まがいの事を任せられ、不満がたまっているのがわかった。
わたしへの態度はともかく。総司に行ったことへの自覚も、反省もない。この彼を相手に、これ以上、話しても意味がない。
リビングを出ようと、わたしは彼に背を向けた。その背中に、
 
「どうせ、気持ちの悪いホモ漫画描いて、素人相手に売りつけてるんだろ。偉ぶる身分かよ」
 
と、嘲笑の声が届く。
 
この野郎…。
 
懸命に描いている自分も含め、同人を底から馬鹿にする声に思わず、身体が反応するのが、自分でも驚く。
つい、口火を切った。
 
「その「気持ちの悪いホモ漫画」のお陰で、数か月、人間らしく暮らしてこられたこと、忘れたの?」
 
これ以上は、本当に不毛だ。
わたしはドアからリビングを出た。
夫からの返事は、ない。





          


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