ふわり、色鉛筆
22
 
 
 
翌日、夫は夕べの暴言などなかったかのような、相変わらずの様子で起き出してきた。
一晩眠り、彼の中ではさっぱりしてしまえたことなのかもしれないが、わたしにとっては、そうではない。
彼のために、何をするのも苦痛、とまではいかないにしても、単なる同居人としての視点でいる自分がいる。もうこの人との将来は考えられないと、まざまざと目の前に突き付けられた出来事だった。
沖田さんのことがあったとしても、なかったとしても。きっと…。
子供がいて、不恰好でも収入の手段があって、それより何より、前を向こうという意識があるとき、女は強くなれるのだと思った。
家庭に、現状にすがらなくても、と、別の視野を持つことができるのではないか。
「総司、図書館行くよ」
ソファでだらりと寝転ぶ夫の足元から、総司が立ち上がった。
「うん」
子供にかけた声に、夫がこちらへちょっと視線を向けた。それに気づきはしたが、何も言わなかった。
幼稚園は夏休みだ。図書館へ行くことは、夕べから、総司に約束してあった。子供向けの本のコーナーが充実していて、楽しいらしい。わたしは、次の作品の資料集めがある。
『〜コカーなら、更におトクな、新車お乗り換え割引実施中!!』。
テレビから流れる、車のCMを背に外へ出た。昼前とはいえ、屋外は既にじりじりと熱い。帽子をかぶった総司の手を引いた。
目の前を通った、ピカピカの車に、なぜかさっきのCMが耳に甦る。新車を契約する客は、割引などの特典が得られるという、ありふれた内容だった。
歩を進めながら、自分がそのCMの『乗り換え』というフレーズに、やや反応していることに気づく。
 
『乗り換え』。
 
嫌な響きだった。
ふと、先日ダグがわたしの心変わりを見抜いたのは、なぜだろう。彼の勘のよさゆえだろう、と理由など思いもしなかった。
でも、
たとえば、
古い服を捨てられるのは、新しい服を買ったためだろう。散々着古した服は、新たな服を前に、大して惜しくもないはず。
女が、築いた家庭を壊せるのは、次の目当てがあるから……? ダグは、それをふと感じ取ったのかもしれない。
そうだとしたら…、
子供、収入、前向きな意思、違った視野。
わたしが手にしたと信じる、それらのものは、きれいな詭弁の材料に過ぎない…?
まさか、
 
わたしは、夫を捨て、沖田さんに乗り換えようとしているだけ…?
 
まさか。
熱い日差しを受けながら、胸の奥がひやりと冷えた。
 
 
「乗り換えて、何が悪いっつーの」
電話を切るなり、千晶はつぶやきには大きな声でそう言った。リビングの、ソファに戻り、「ごめん」と腰を下ろす。
証券マン、と彼女は、長くもなかった電話の相手を告げた。
「あんまり態度がよくなかったから、変えたの、他に。女だからか、舐めた友達口調も気になってたし」
あり余る資産の運用か…。自分には縁遠く、「へえ…」と気の抜けたような、感嘆の相槌しか出ない。
白を基調の、モデルルームに似た設えのマンションは、千晶の自宅だ。仕事場を兼ねているため、アシスタントら人の出入りが知れるほど、あちこちに生活感はのぞくが、優雅な女性の城、といった趣の美しい環境だ。
壁に(高価そうな)水彩の可愛らしい絵が掛かる隣りに、自身の作品のキャラのイラストが数点。その一つが、ガーベラ時代の同人誌の表紙だった。見た瞬間、懐かしさが、何もかもを越えて込み上げる。
今の大きな成功のステップの一つ一つの作品の、その原点に、彼女は過去の『ガーベラ』を置いているのだ。その証しは、慕わしさと共に、つんとわたしの胸を揺さぶる。
こうして、昔の一端を身近に置き、眺める。
そんな彼女とは異なり、わたしは、処分を免れたほんの数冊のノートですら、段ボールに押し込め、クローゼットのどこやらにあるのかもわからない…。そもそも、同人を再開する以前は、千晶はともかく『ガーベラ』を振り返ることも稀だったのだ。
自分とのその差を恥じることはないが、日々の忙しさに埋もれていた悔いならば、ある。きれいに壁に飾らなくても。ときにあの楽しさを思い起こし、たとえば古びたノートのページを繰る、そんな程度でもよかったのかもしれない…。
家族や日常の慌ただしさは、余裕のなさに、しまい込む言い訳だったはず。忙しい日々を送ってきたのは、千晶だって同じなのだから。
そして、そんな過去を大切に振り返る人にこそ、幸福は降るような気がする。
「客に電話する時間じゃないだろ、普通。大体、がやがやうるさい店から、コンパのノリで営業すんなって。こっちがカタギじゃないからって」
「まあまあ」
半笑いで愚痴をなだめながら、空いた彼女のグラスに、白ワインを注いだ。安ワインだが、国産でおいしい。わたしの手土産だ。
この日、久々に会おうということになった。きっかけは、以前のイベントからやり取りが緩く続いたメールの流れだ。
どこで、どうしよう、となり、千晶の「うちにおいでよ。よかったら、泊まれば?」との誘いに飛び乗った。「総司もいいよ」の言葉に甘え、お互いに時間のいい晩に、夕食後、総司と一緒に訪れた。
十時を大分過ぎた今、よそのお宅にはしゃいでいた総司も、客間に敷いてもらった布団で眠ってしまっている。
Tシャツにスウェットの寛いだなりに替え、話すのは、昔話ばかりではない。『ガーベラ』の話題は、確かにわたしたち特有のものだが、それは当たり前過ぎて、あれこれ掘り下げて口にするほどのでもない、そんな空気になる。
そう変化のない近況を交わし合う。それが尽きた頃、千晶が何の気まぐれか、以前のイベントで手にしたわたしのBL作品を持ち出してきた。
にやにやしながら、
「はまる人の気持ちがわかったよ。男女の話だと、自然に女に感情入っちゃうじゃない。BLだと、そこまで受けと、読み手が一体にならないのね、「あ、こいつはきれいでも男だ」フィルターが効いてるから」
だから、一歩引いて、眺めることができるのだという。
「寝る前の、緩い時間に読むのに最適」
本を開いて見せ、「このシーンが好き」だの、「このセリフと横顔は泣ける」とコメントをくれるのだ。
昔から、余計なお世辞は口にしない人だ。なので、まんざら、宗旨替えした旧友へのリップサービスばかりとも言えないだろう。
「ありがと。でも、千晶BLいけた?」
「若菜の読んで、幕末BLモノにちょっと興味が出て、ネットで何冊か買ったよ、この系の同人誌。高×土(高杉晋作×土方歳三)もいいけど、わたしは、沖田と土方が好みだな〜」
などと、マニアックなことを言い出すから、人ってわからない。一昔前は売れっ子同人していた、誰もが知る人気漫画家が、今、新たに素人の同人誌を通販…。
同人って、つくづく『沼』だな、と思う。ひたひたとぬるく、底がない。ある種のツボを持った人に対しては、鬼門ともいえるのかもしれない。
千晶は更に、ノリよく、
「新撰組って響きが、もう萌える。次描かない? アイディア出すよ。あ、こんなの、どう?」
薩摩藩邸に囚われの身となった沖田。恋しい彼の身を案じ、気も狂わんばかりになった土方が救いに行くが、時すでに遅し。沖田は、倒幕志士らの巨魁、西郷の魔の手に堕ち…、
「助け出された沖田は、身も心もぼろぼろの状態なのね。それを土方が献身的に支えてあげる。隊内も、微妙な雰囲気で…、そんなデリケートな時期に、あれ、池田屋事件が起きる!! そして、土方の長年の恋のライバル、坂本龍馬が、ついに江戸から帰って来るんだって…」
知らねーよ、坂本龍馬が、その時江戸に行っていたことなんか。
本職では、惹きつける意外な展開の底にも、純愛や愛情がわかる、見事な物語を描く人だ。それが、本人いわく「ちょいハマり気味」の同人BL話になれば、
「受けに受難は付きものだって。生ぬるい話なんか、萌えないじゃない。描く方も盛り上がらないしさ」
などと面白がる。どこかスタイリッシュな線が特徴のタッチで、「こういう絡みがほしい」と、目を輝かせ、紙に自らデッサンを始めるのだ。
そうなれば、昔よくやった会話交じりの筆談のようなもので、わたしもそれに応え、ペンを動かす。あれこれ話とつながっていく。
ラフに始めたネームを、千晶が自らぐりぐりと線で消した。
「うわ、もったいな」
「駄目だ、エロを前面に出すと、読み手が引くね(わたしは引かないけど)。物語を描き込まないと」
そう言い、思案するようにペン先をくるくる回した。
「エロじゃなくて、受難なんでしょ?」
「そう。受けの必須、つーか、通過儀礼」
「あははは」
ワインを一口飲み、チョコをつまんだ。そのとき、ぽろりとした彼女の声を拾う。
 
「いいな、若菜。楽しそうで…」
 
え。
 
聞き違えたのかと思った。酔うほど飲んだつもりはなくても、楽しさに、場に酔ったのかも。それで聞き違いを…、
「好きなもの描かなきゃね、やっぱ」
何かにほっと息をつくようなため息の後で、千晶はワインを口に運んだ。わたしが向けた視線に、照れ臭そうに立ち上がる。「もう一本、飲もうよ」。と、キッチンに向かいつつ、背を向けたまま、
「飲むよね、まだ?」
「うん…」
間もなく戻ってきた彼女は、今度はロゼのボトルをテーブルに置き、ラグを強いた床に、すとんと腰を下ろした。きれいにカラーリングされた、ふんわりとウェーブのある髪が、肩の辺りで踊った。
「あ、これ、前にうちに来たとき、沖田さんがお土産でくれたやつ」
不意に飛び出した彼の名に、ぎょっとなる。
「人が仕事してんのに、あの野郎、寛いでさ〜」
当たり前のように言う彼女の様子から、ここにやって来るのは珍しいことではないようだった。
「ふうん」と答えつつ、胸の辺りが変にざわめいた。
 
ふうん。
 
テーブルには、まだ棒っきれみたいな人物のラフが載っている。ほんのさっき、BL話でネタにして笑ったものだ。
それに目をやり、グラスを持ちながら彼女は何か言うが、どうしてか笑えない。馬鹿な話なのに。自分でもおかしくもないのか、ちょっとあきれたような空笑いをした。
しばらく間があった。
互いに、多くないグラスの中身を空にするほどの時間だ。
「もう描くのが、嫌になること、よくあるよ」
重くもない口調で、千晶は言う。
それは、予想外の告白だった。漫画に関して、いつだって彼女は真摯で、プロ意識が高く、前を向いていたから。
まだスカウトの話など聞かない『ガーベラ』時代から、「プロだったら、こんな線は描かない」、「同人だからって、舐めたくない」、「納得いくものを描いていこうよ。プロのつもりで」…。
そんな過去の彼女を、わたしは知り抜いている。だって、一緒にやってきたのだ。笑いながら、悔しがりながら、それでも、夢見がちに楽しみながら…。
時が移ろうのを、しっくりと噛みしめた。
息をのむほどに意外ではあったが、当たり前でもある。仕事なのだ。
「どうして?」
それでも、こう訊くのは、驚きが尾を引いたためかもしれない。
わたしは彼女がぽろぽろとこぼす、ため息のような愚痴を、曖昧な相槌を挟みつつ聞いた。アシスタントが使い辛い、といった、いつか誰かづて聞いた、他愛のないものもあれば、
「話を伸ばせ、切れ、と他人の指示が入るのが嫌。好きに描かせてほしい」
という切実なものもある。
千晶レベルの人気漫画家なら、好きに描かせてくれるものかと思えば、そうでない場合もあるのだという。
最初から予定してあった、展開やエンディングを変更させられた例を二、三挙げ、彼女は、唇を噛んだ。苦いもののように、甘口のワインを喉に流している。千晶が口にしたものは、単なる一ファンで読者のわたしですら、「へえ」と驚くような路線変更だった。
正直、当初のパターンの物語を読みたかったと思う。そういった伏線を念頭に、千晶の、一つ一つのネームはあるはずなのだ。
しかし、編集側は、売るためには買い手を常に考慮して、マーケティングもしているはず。求められる傾向のものを、「これを!」と作り手側に要求してくるのは、当然ともいえる。
ささやかながら、専業に同人を再開したわたしでさえ、純粋に「好き」だけでは描けないことを痛感していた。
だから、簡単に、「ひどいね」と相槌は打てない気がするのだ。そんなこと、千晶だって、とうに知り抜いている。長く、売れっ子漫画家をやっているのだから。
だから、職人気質のある彼女が、つむじを曲げつつ、気分を害し、誰かの表現で言えば、「ぶーたれ」ながらも、描き続けているのだ。
多分、漫画をよく読む女性に、『好きな女性漫画家は?』などのアンケートをとれば、千晶はきっと五位には入る。また、同じターゲットで、『好きな作品は?』であっても、きっと彼女の描いたものが入るだろう。
がんがんヒットを飛ばし、確たる地位を築いていく彼女は、道は違えど、わたしの誇りだった。同人を再開してからは、技術といい人気といい、間違いなく憧れだった(すんごい収入格差に羨やむ気持ちがふくらむが)…。
「若い子は、どんどん下からやって来るしね…」
髪を後ろにまとめ流し、ちょっと笑う。自嘲のように。
「うちに、バイトにアシに来てた子がいるの、上手いよ。その子が一昨年デビューして、今、勢いすごいんだ。同じ本に、連載描いててね。何だか、実写化に、動いてるらしいって噂もあって。しかも、二十二歳だよ…」
かつて、聞いたことのない、千晶らしくない弱音に、びくりとなる。
「ベテランには、まだキャリアが浅い気がするし、かといって、若手のセンスは枯れてきてるしね。どっちつかず。ははは…」
疲れているのだ、と思った。
この日は空いていると言っていたが、締め切りがあり、人も使う仕事柄、どうしても生活は不規則になりがちだろう。柔らかな間接照明に、彼女の肌は美しく、雰囲気も若やいで見える。それでも、伏せたまぶたの影に、当たり前の加齢をほんのりと見る。
そこで、千晶が「ごめん」と断って、ラックに掛けたバックから、煙草を取り出した。細いタイプのメンソールらしい。ここは彼女の家で、総司が寝るまで、吸うのを我慢してくれていたのだ。駄目だという理由がない。
ただ、やはり、と思っただけ。
彼女がうっすらとした煙を吐き出すのを、幾度か眺めた後で、「○○じゃない? その人」と訊いた。さっき千晶が言った、「勢いのある若い元アシ」に、当雑誌をちょくちょく買っていたわたしには、心当たりがあるのだ。
「そう。よくわかるねー」
「絵が、千晶のに、結構似てるなって思ってた。キャラも、特に女の子。そっくりなときがあるよ」
「そうかな? でも、誰かのアシしてたら、似ちゃうからね。ははは」
わたしの難くせを、さらりと彼女は笑い飛ばした。けれども、否定はしない。初めて耳にする意見ではないのだろうと思った。誰かからそんな言葉はもう聞いているのかもしれないし、自身でも、何かの拍子に、ちらりとそう感じたのかもしれない…。
惹かれたとき、その誰かれの影響を受けるのは、どんな世界でもある。いい意味でも悪い意味でも。漫画の場合、完全なトレースでない限り、見る者の印象には、個人差があり曖昧だ。文句をつけた側が、恥をかくだけじゃないだろうか…。
何であれ、物の作り手にとって、見えにくい、でも、絶対に小さくない問題。
煙草を唇に挟んだ、ややつぶれた声で、千晶は、
「何やってるんだろう、って思うときがある。どんどん違う方に行っちゃってるんじゃないかって…」
そうこぼす彼女は、「パクられた」の「真似された」のといった次元とは、もう全然違う場所に気持ちを置いているようだった。元々、外野の声のみで、彼女自身は、気にも留めていなかったようでもある。
そんな彼女を眺めながら、やっぱり千晶は「大物」なのだ、と場違いにしみじみと思う。
「気づけば、三十六だよ」
「わたしも三十六だよ」
わたしの相槌が、ツボに入ったのか、けらけらと笑う。それがおかしくて、つられてわたしも笑った。
ひとしきり笑った彼女は、首を振る。
「若菜はいいよ」
「何が?」
「だって…」
千晶が更に言葉をつなぐ前に、ケイタイが着信を告げた。
わたしのものではない。千晶は片手でチェストの上のケイタイを取った。「ごめん」と、こちらに短く言い、電話に出た。器用に、短くなった煙草を灰皿に揉み消す。
「はい」、「うん」と、相手に彼女が応えている。わたしはグラスのワインをちろりと舐めてから、総司の様子を見に立った。
ぐっすり眠っているのを確かめ、しばらく時間を取ってからリビングに戻ると、千晶がバックをつかんで立つところだった。サブリナパンツの部屋着であったのが、すとんとしたワンピースに着替えている。
「ごめん、ちょっとだけ出てきていい? すぐ戻るから」
申し訳なさ気な顔をする。久しぶりに会ったわたしを置いて外出することに、気が咎めているのがわかった。それでも出かけるのだ、きっと重要な用なのだろう。
恋人からの呼出しなのかもしれない。気分は下がるが、しょうがない。
「…うん」
「ごめんね。そんなに時間かからないから。ちょっとだけ…。ワイン飲んでて」
「いいよ、ゆっくりで」
「何でも好きに使って」と言い置いて、千晶は慌ただしく出かけて行った。一人ぽつんとリビングに残ったわたしは、所在なくテレビをつけた。興味を引く番組もなく、間もなく消す。
もしかしたら、千晶は随分と遅くなるのかもしれない、とぼんやり思う。十二時まで待って、まだ帰らないようなら、「何でも好きに〜」の言葉に甘え、お風呂を借りようか…。
ラックに積んである漫画雑誌をぱらぱらめくりつつ、ワインを飲んだ。あまり飲み慣れないロゼだが、優しい味でおいしい。テーブルのぽってりとしたボトルから、お替りを注いだ。
「沖田さんの手土産」、と千晶は言った。可愛い色味といい、きれいなボトルといい、実に女性向きのワインだ。
こんな品のいいものを提げて、ふらっとここを訪れる…。彼女の砕けた口調から、二人が親しいのがわかる。
そりゃ、そうだ。
わたしが、沖田さんと再会したのは、たった数か月前のことでしかない。引き換え、二人は十三年もの間、仕事上とはいえ、つき合いがあったのだ。
わたしが知らない様々なことを、当たり前に共有している。遠慮もとれ(昔からあんまりなかったが)、彼がこの家を訪ねるくらいのことは、ごくごく自然だ。プライベートであっても…。
おつまみに、と千晶がテーブルにばらばらと置いたチョコをまた口に入れた。ワインには、あれこれご飯めいたものより、こんな甘いものをちょこちょこつまみながらが、重くなくて好きだ。
もう一度、総司を見に立った。寝返りを打っている。起きる気配のない寝顔を眺めるうち、やや酔った頭に、千晶が出かけ間際に言いかけた、さっきの言葉が浮かんだ。
 
「若菜はいいよ」。
 
「だって…」と、彼女が言おうとした理由は、これ、と想像がつく。
わたしが結婚しているからだ。そして、子供がいるからだろう。それらは彼女の目に、わたしを、穏やかで満ちた女に見せているのかもしれない。
結婚は破綻している。離婚はきっと遠くない。それが総司にどう影響するのかと、不安に揺れている…。着いた決心とはいえ、ふとすれば、今後の気がかりは、胸にどんと重い。
リビングに戻った。
ふっくらとしたソファに掛け、滑らかな革をそっと(高そうだから)押して感じた。
部屋に置かれたものは、千晶の好きな物ばかりだ。さりげなく重厚感のあるカーテンも、猫脚のヨーロッパ風の凝った家具類も、見るだけで高価だと知れる。そもそもマンション自体が、我が家とは品が違う。
こんな素敵な環境に包まれて、好きな仕事に、存分に専心できる。わたしはそれを、単純に羨ましく、成功者への憧れを込めて見ているのに…。
持っているものへの価値、重さは人それぞれ。そして、自分に足りないものなど、など、本当のところ、その人にしか、わからないのだ。
不足することで、人は、やっと願いに気づくものなのかもしれない…。
ふうっとため息と一緒に、ソファから床へ滑り降りた。子供時代の滑り台のようで、ちょっと楽しい。
ワインの残るグラスを手に取ったところで、インターフォンが鳴った。千晶だと思った。壁の時計を見れば、出かけて一時間にもならない。リビングの入り口にある、セキュリティーシステムで確認する。
入居者の彼女が、自分で入ってこないのは、「帰ったよ〜」と、わたしに知らせるつもりだろう。と、モニターをのぞき、驚きにぎょっとなった。
 
え。
 
エントランスに立つのは、沖田さんだった。やや不機嫌な顔が、カメラ越しに映る。千晶は、彼が来ることなど、何も言っていなかった。
親しいのだろうし、彼が訪れるのは珍しいことではない、と感じてはいた。が、既に、深夜と言っていい。女性宅に、不意にやって来るには、非常識な時間だ。
通常の仲ならば。
 
ふうん。
 
一つにならない思いが、もやもやと胸に広がっていく。そんなまだらになった感情の中、わかるのが、ただ、不快であること。
モニター部の操作に迷いながら、通話のボタンを押す。いきなり、遠慮のないぶっきらぼうな声が流れ込む。
「おい、千晶、早く開けてくれ」
 
ふうん。
 
わたしは返事をせずに、ボタンを押し、施錠を解いた。





          


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