ふわり、色鉛筆
24
 
 
 
千晶が帰ってきた。
三枝さんと連絡がつき、沖田さんが帰って、三十分ほど後のことだ。
「ごめん、遅くなって」
彼女はコンビニの買い物袋を提げていた。その中から、アイスクリームのカップを出し、「食べる?」と訊く。
「うん」
不意の外出が、ちょっと気まずいように、千晶は黙々とスプーンを動かしている。
「誰に」、「どこで」会っていたといった、報告めいたものは口にしない。きっと、三枝さんと…、と想像はついたが、わたしもたずねなかった。
アイスクリームをいじくりながら、わたしは、沖田さんが来たことを告げた。彼女の家であり、隠すのもおかしい。
「用があったみたい。ごめん、部屋に上がってもらっちゃって…」
千晶ははっとしたようにわたし見た。すぐにうつむき、ぐりぐりとアイスクリームをスプーンでかき出している。
短いが、重さを感じる間の後で、彼女がぽつりと、
「じゃあ、聞いたよね…?」
何を指すのか。彼から耳にした話が、一瞬わっと頭の中に舞う。それが静まるのをちょっとだけ待ち、答えた。
「…うん、まあ」
それに「びっくりした」を付け足した。本人を前にしても、まだ驚きが抜け切らないのだ。
「だよね」と返し、千晶はくすっと笑う。
「沖田さん、何て?」
「もう長いって、言ってた」
「はは…、長くなるね、もう」
そこで、彼女が「さっき、あの人と一緒にいたの」と打ち明けた。
「沖田さんが来たの、あの人に用があったんだよ。会ってるとき、いつもケイタイ切るから…」
その理由も聞いてはいたが、言及せずに、わたしは、ふうんとのみ受けた。千晶が「あの人」とのことを話したいのか、そうでないのか、まだ見えなかったからだ。
そして、身内に近いとはいえ、第三者の沖田さんではなく、彼女の口から、それらについて知りたい気持ちがあった。
ただ、打ち明ける気持ちがないのなら、こじ開けるように聞き出そうとは思わない。誰にも、敢えて話す気になれない事柄はあるだろう。わたしだって、夫とどのように今の状況に至ったかは、きっと言葉にしにくい…。
ひっついたの、別れるの。つまるところ、恋の話に違いない。うきうきわくわく告白し合った頃は、もう遠い。中身の色合いも違い、その深刻さも深いのだ。
ややもてあますようにアイスクリームを食べる彼女を見、お互い年を食ったものだと、しみじみ思う。
その、どれほどか後だ。
「別れようと思って…」
「え」
ぽつりとした彼女の声に、わたしは顔を上げた。
「そのことを電話で言ったら、どうしても会ってほしいからって…」
千晶は立ち上がり、部屋を出て行った。部屋着に着替えて戻ってくると、キッチンからワインのボトルを取り出した。それを手に、「しらふでする話じゃないかもね」と、ちょっと笑い、床に腰を下ろす。
それが、どんな内容であれ、話そうとしてくれることが嬉しかった。
二つのグラスにワインを注ぐ彼女へ、わたしは、「何で?」と訊いていた。少し前、沖田さんから二人の関係を初めて聞き、違和感に信じられない思いでいたというのに。
そこで、千晶は自ら、三枝さんとの始まりを話し出した。ほぼ沖田さんの話と重なるそれに、わたしはやはり相槌も打てず、静かに聞いた。
「…あの人を、利用してやろうと思った」
告白は自嘲的ながら、彼女の様子にうなだれる気配がないのは、ここまでのきっかけはともかく、手がけてきた仕事に対して、揺るがない誇りや自負があるからだろう。そこがやはり、必ずわたしの目にまぶしく、ほっとする部分でもあるのだ。
千晶の計画は当たり、意図した成功を収めた。思いがけず長引いた、あの人とのつき合いを、そろそろ清算したくなったのか…。
「今終わりにしなかったら、きっと、ずるずるといつまでも続いていくと思う。あと何年か、あの人に女が必要にならなくなるまで。その頃、わたし、一体いくつになってるんだろう、何が残るんだろう…。それを考えたら、怖くなった。…もう若くなんか、ないのに」
おそらく、妻の座にある人が耳にすれば、憤懣やる方ない言葉だろう。利用するだけして、要らなくなったら、自分の身の可愛さのため、男を捨てようとする…。
千晶に甘いわたしですら、喉の奥に、小さな失笑がわきそうになった。けれども、それが言葉になることはない。彼女の嘆くようなつぶやきを聞いたからだ。
「どうにもならない関係なのに…」
そのささやきに似た声に、千晶の本音が聞こえた気がする。
 
千晶は、好きなんだ。手に入らない「あの人」が。
 
始まりはどうあれ、既に十分な自活力のある女が、好きでもない男に、いつまでも縛られる訳がない。また、同じ非のある相手に、不倫の弱みを感じるいわれもないはず。
強いてあるなら、情だろうか…。愛情に似た、厄介な感情。
「…情じゃ、ないの?」
わたしの問いに、千晶はちょっと笑う。首を振りながら、わからない、と答えた。もうずっと、あの人しか知らないから、と。
それに、聞き手のわたしが、ちょっとため息をついたりするのだ。二十歳そこそこ、若い女が狡く立ち回り、三枝さんを籠絡した図に、単純に見える。
でも、千晶だって、手にしたものの代償に、費やし捧げた長い年月があるのだ。「もう若くなんか、ないのに」。千晶がもらした言葉が、ふっと重く、耳によみがえるようだ。
 
そうだね、もう若くない。
 
「三枝さんは、何て?」
「別れたくないって、そればっかり。わたしも十分勝手だけど、男って、かなり身勝手だと思う。離婚する気もないのに、かといって、わたしも手放したくないって、どういうの?」
千晶はがぶり、とワインを口に含む。そこに苛立ちと、あきらめがにじむ。この問題は、長く二人の間で、未解決のままあったのだろう。
ふうと息をつき、彼女はごめんと言った。
「久しぶりに会ったのに、重い話して…。誰にも話せなかったから、これまで」
「ううん、ちっとも。会わない間、千晶がどうしてたか、知りたいし」
「…沖田さんに言えば、叱られるだけだし」
どう言って、彼が彼女を叱るのか、知りたい気がしたが、笑って流しておく。
別れたくないと言う三枝さんのことを、どうするつもりなのか、訊いてみる。
「もう会わなきゃいいだけの話だし…」
千晶の答えはさらりとしていた。関係を終わりにするのは、口だけのことではなく、彼女の中では、もう出来上がった未来なのかもしれない。
「手に入らないのに」と嘆くのなら、その方がいい。若くはないが、別のこれからを選ぶには、まだまだ遅くない。三枝さんが、千晶の幸せに、どんな希望をくれるというのか。彼女を選びもしないくせに。頷きながら、彼女のためにそう思った。
そして、決して自分から答えを出さない男を、狡い、と思った。
「奥さんがきっつい人らしいよ…。あの人、見初められたらしいんだけど、名門出のお嬢様で、頭が上がらないみたい。それで、わたしみたいなので、都合よく息抜きがしたいのかもね」
千晶の言う「きっつい」奥さんが、この夜緊急入院したという話は、口にしなかった。のち、知ることになろうが、今知る必要はないだろうから。
彼女はそこで黙り、うつむきながら指先をもてあそんだ後で、ふと顔を上げた。
「あ、ねえ若菜」
その後に続くのは、意外なことに仕事の依頼だった。知り合いの大学の先生が、本を出す際の挿絵を頼まれたのだという。迷って返事は保留していたらしいが、次作の準備もあり、やはりちょっと余裕がないらしい。
「どうしてもわたし、っていうんじゃなくて、雰囲気のいい絵だったらそれでいいみたい。本は難しいものじゃなくて、エッセイに近いらしいし」
興味があれば、先方に伝える、と彼女は言ってくれた。ワインをちびちび飲みながら、彼女の話に頷く。ありがたい話で、わたしでいいのならぜひ、と答えた。
何となく、千晶は、わたしのために、口をきいてくれたのじゃないかと思う。忙しいのは事実だろうが、人気漫画家の彼女を目当てに仕事の依頼があったのに、無名の同人作家で、すんなりその代替が効くのはおかしい。
ともかく、ありがたい、嬉しい。彼女の思いやりも、手がけられる仕事が増えることも、だ。
詳しい話はまた、メールで送る、と彼女は請け合った。
「ありがと」
「そうそう、沖田さんとはどうなの?」
いきなりの問いに、口に含んだワインをふきそうになった。何とか堪え、千晶を見る。
しれっとした顔でグラスを持つその様子に、とうの前から知っていたのがうかがえた。
もう、沖田さん、ぺらぺらと…。
酔いもそれほどなのに、瞬時に頬が火照る。
あのオッサン、ぺらぺらと…。
馬鹿。
恥ずかしさに、千晶から視線を逸らせ、心の中で彼を野次ってやる。
「何言ったの、あの人?」
「ははは。そんな、ぶーたれた声出さなくても。沖田さんから聞いたんじゃないよ」
「え?」
じゃあ、誰から聞くというのか。実家の義兄のダグを思い浮かべたが、彼女とは面識がない。
「わかってたよ、前から」
意味がわからない。彼が言わなきゃ、きっと千晶には知りようがないのだ。納得のいかない顔をしているはずのわたしへ、彼女は、更にこっ恥ずかしさに身悶えるようなことを言い放つ。
「沖田さんが、若菜を好きだなんて、昔からのことじゃない。わかるよ、あんなの見てれば」
気づかないのは、当のあんただけ、と彼女はつなぐ。
「ちょっと気の毒なくらいだったよ。若菜、全然意識してなかったもんね。あの頃は、イベントとくれば、まず鯖寿司オンリーの…」
鯖寿司…。
そこまで、オンリーだった訳では…。
『ガーベラ』の解散後は、千晶の本格デビュー、それにわたしの結婚と続いた。環境の変化に、自然消滅したように、沖田さんからわたしの名を聞くことは、稀になっていったという。
それが、千晶はなぜ、気づいたのか。
そこがわからない。彼女はわたしへ、ちょっと笑いかけた。わたしが同人を再開したことを、彼女が知ったのは、彼の知らせだったという。
「大した用もないのに、それのためにわざわざ電話してきてさ。ああ、この人まだ若菜に未練たっらたらだな、って、そのとき悟った」
「確信したのが…」と千晶は、にんまりと笑う。
わたしは返事もせず、もじもじとグラスの脚をいじっていた。たとえるなら、気持ちの純な部分だけで描いた『心のキャンバス』なるものがあるとして、それを添削されるような心地だった。それはそれは、恥ずかしい。
「この間のイベントで撮った写メ、「浴衣の若菜だよ」ってちらつかせたら、目の色が変わるんだもん。「あ、何かあるな」って気づいたのは、そこで。まあ、武士の情けってやつ? 敢えて何も、突っ込まないでおいたけど」
ふふふ、と千晶は楽しげに笑った。
「ほしいって言うから、画像あげたよ」
何が、「武士の情け」だ。よく知る人の恋愛沙汰は、さぞ楽しいだろう。わたしだって、意外さに打ちのめされながら、彼女の告白には、興味津々だった。
頬が熱い。
そこまで、悟られているのなら、隠すのも水臭く、フェアじゃないだろう。
端折りつつも、再会からのことを打ち明けた。千晶は、うんうん頷き聞いてくれ、最後には、
「運命だね、それ」
と結論づける。
「そんな大げさな。…まあ、いろはちゃんが、沖田さんの妹さんだったのは、びっくりしたけど…」
「だって、『ガーベラ』から何年? 十三年だよ。そんな風なめぐり合わせなんだって、二人は。やっぱり運命だよ」
そんな「運命」を強調されても…。
照れつつ、苦笑しながら、再会してから、沖田さんがわたしへ向けてくれた、優しさの一つ一つを胸に思い起こしている。それらに似たものを、きっとわたしは、昔も彼からもらっていたのだろう。
気づけなかった当時の自分を、むやみ悔いはしないが、今、しみじみと彼のくれたそれらを心にしまうことが、不思議だと感じた。
こんなに時間が経っているのに…。
こんなに時間が経っているからこそ、なのかもしれない。
ふと、面白がる様子の千晶の声が、一段落する。
「家庭どうするの? わたしが言うのも何だけど、面倒くさいよ、不倫って、いろいろ…」」
「別れるつもり…」
そう口にし、まだ夫に話してもいない現実が、ずんと肩に重くのしかかる。ろくに会話もない状況だ。彼が、わたしの切り出す内容にどう反応するか、ちょっと見当がつかない。渋るのか、怒り出すのか、それとも、案外あっさりと認めてくれるのか…。
リストラに遭って以来の、夫の様々な面に対する自分とのずれにも触れた。
「そう」
彼女は頷いて応じた。その彼女へ、わたしは両の手を頬にあてがい、どこかに引っかかっていたこだわりを言葉にしていた。
「沖田さんと会わなかったら、離婚まで考えたかな…」
多分、わたしは夫の態度に焦れ、いらだちつつも共に暮らし、同人を続け、子供を育てていたのではないか、それなりに楽しみを見出しながら。きっと。
「だから?」と問うような、千晶の視線に会う。
だから、
「単に、自分の…、エゴだよね。はっきり言って鬱陶しい今の環境から、一人になりたいとか、もっと漫画に集中したいとか、ついでに沖田さんとか…」
「ついでに? そこ?」
と、千晶が突っ込んで笑う。
「気に入らなくなった夫から、新たな沖田さんへ乗り換えようとしているだけ」。そんな身勝手な自分のイメージが、頭にこびりついてしまっているのだ。
ぽんと、頭に手が置かれた。千晶の手だ。幾多の名作と莫大な富を生み出したそれが、わたしの髪をくしゃっとかき混ぜるようになぜた。
「気にするなって、言っても、若菜は気にするよね。根が真面目だもん」
「真面目じゃないよ。こだわっても、それでも、わたし、旦那と離婚しようとしてるのに…」
以前のダグの指摘に、自分のエゴに気づいた。それを何とか正当化しようとする、これは安っぽいごまかしなんじゃないだろうか。「こんなに、わたしは気にしている」、「これほど、わたしは罪悪感を抱いている」のだ、と。
これを言えば、また千晶は「真面目だから」と返すだろう。そう思い、口にしなかった。
でも、本当に真面目な人は、夫以外の男になびかないはず。気持ちが揺らいでも、どこかでブレーキをかけるはずだ。わたしには、そのブレーキすらなかった。
「女側から切り出す離婚って、大抵男がいるらしい…。社会学の先生が、そんなこと言ってた。それが、決断のはずみや強みになるんだろうって」
「さっきの本の挿絵の先生」と、千晶は言い添えた。
「ふうん」
「守るものや、持ってるものは、女の方が多いだろうに…。潔いよね」
大した相槌も打てずにいるわたしへ、千晶の独り言めいた言葉が落ちてくる。それは、わたしの件を通して、彼女自身についての言葉のように聞こえた。
先の戸惑いや不安にまみれるものの、離婚の気持ちを固めたわたしを前に、ずるずると彼女との関係に未練を持つ「あの人」は、千晶の中にどう浮かび上がるのだろうか。どんな形であれ、決して短くない時間を共有した相手なのだ。
「そっか、沖田さんか…」
「面白がってる」
「面白いよ。あり得ないって思ってた展開だしね。人生って、わからないね」
「そっちこそ。わたしだって言いたいよ」
「そりゃそうだ」
顔を見合わせて笑う。その笑みは、なかなか消えなかった。
笑いのしまいに、視界に入った、壁に飾られた『ガーベラ』の同人誌の表紙絵に触れた。千晶は、絵に振り返り、しばらく目を置いたままでいる。
時間が経った。十三年は、あの頃のわたしたちには、驚くほど長く、そして遠い先のことだったはず。
それが、経てしまえば、まるでびゅんと通り抜けたかのような速さだ。気づけば、別の場所に立っているのだ。それぞれ、望んだ位置に似たようで、きっとそうでないどこかに…。
「早いね」
「…うん」
互いに持つものは違う。なのに、それぞれ懸命に、何かを手放そうとしている。
「あの頃が、一番楽しかった気がする。まっすぐで、前だけ見て、いいことしか考えられなかった」
「ははは、そうそう、こっちに都合のいいことだけね」
昔話が楽しいのは、振り返る過去は、美しくまぶしいから。そのきらめきは、今に相反しているのじゃないかとも思う。だから、ちょっと危ない。
当時のわたしたちに戻れるとして、そのわたしたちが、一度目とは別な選択をできるのかどうかは、わからない。そして、当時には帰れないわたしたちが、互いに今持つものを、簡単に手放すことも、おそらくできないだろう。
わたしには総司の存在があり、千晶には築いた大きな成功がある。形も中身も大きく違うが、わたしたちが会わずにいた間、それぞれが願い懸命に作り上げた、自分自身の一部なのだから。
それがわかっていながら、過去を懐かしみ、慈しむのだ。「戻りたいね」、「よかったね、昔は」と。とめどなく、とりとめなく繰り返す。
それは、今を生きるしかないわたしたちの、ため息のような、息継ぎのような。ほんの少しの休息なのだろうか。苦しみほどではないが、生きにくさを感じる日々にふともらす、疲れのにじんだため息であり、嘆きの吐息なのかもしれない…。
それでも笑って、
折り合いをつけ、
何とかしていくのだ。
中身のあるもの、そうでないもの。軽い笑いも沈黙もある。それらは、なかなか尽きなかった。
二人向き合い、他愛のない話題を共有する時間こそに、惜しいような愛しさがあった。
 
 
夫が家を出て、十日になる。
彼が実家にいることは、わたしは義母からの電話で知った。そんな連絡すら、自分でできないのかと、妙に冷めた声の電話を切った後で、あきれた笑いがふき出した。
彼に、離婚を切り出すことは、まだできていない。千晶の家に泊まった翌日から、彼は家にいないのだ。こちらの心構えが着いたときには、肝心のその相手が消えていた。
義母には電話で、「大事な話があるので」と、彼からの連絡を頼んであったが、それもない。まさか、伝えずにあることはないだろうが、電話越しの、孫の様子を訊きもしない、隔てのある声を思い出すと、ちょっと疑いたくもなる。
ま、いっか。
今更、どうでもいいことだ。
実家にいることを、彼が自分で連絡してこないことを、わたしは「そんな連絡すら」できないのかとあきれたが、もしかしたら、そんな意識すらないのかもしれない。それくらいに、彼の中でわたしの存在は、軽いものなのかもしれない。
でも、総司は?
親としての責任や、その自覚は?
それらをとうに忘れたかのような身軽さだ。いっそ潔いほどの勝手な態度に、怒りは通り越したが、もやもやしたものはやはり残る…。
そんな風に、夫との話し合いはできないまま、わたしは離婚届を用意しておいた。それを、最初は寝室の奥まった場所にしまい、思い直して、彼がよくお金を抜き出す、キッチンの引き出しに入れておくことにした。
すぐに目につきそうな場所にそれを置くことで、覚悟は決まったはずの自分を、更に追い込むような、そんな気持ちがあったのかもしれない。
そして、義兄のダグからの催促もあり、とうとう沖田さんにダグを紹介することも決まった。沖田さんの快諾を伝えれば、ダグは「まずは、幸先がいいね」と喜んだ。
「どこでも出向くから」と言ってくれた沖田さんに、ダグの方も「僕の方が、自由が利くから」と言い、結局、急な出張を控えた彼側の都合に、全面に合わせてくれる形になった。
 
当日、約束のホテルのロビーには、わたしたちが約束にやや遅れて着いた。この日、総司は幼稚園の後で、実家に連れて行っている。来客があり、出かけるのに少々手間取ったのだ。
広々としたロビーを眺め、ラウンジの一隅に、彼の姿はすぐに見つかった。膝に書類を置き、読んでいた。そこへ、わたしはダグを促し、歩を向ける。
ほどなく、気配に彼が顔を上げた。目が合い、ちょっと笑う。だが、すぐ「あれ?」といった表情になった。
沖田さんは、膝の書類を足元のケースにしまいながら訊く。
「お義兄さんは?」
ダグなら隣りにいる。
それを伝えると、沖田さんはさっと顔を上げた。そこへ、ダグが手を差し出す。「初めまして」と。
そのダグをはっきり認めたとき、彼は、確かに三秒は固まっていたようだ。いや、五秒…。
え?! といった顔でわたしを見る。もしかすると、初めてペリーの黒船を目にした江戸の人は、こんなびっくり顔をしたのかもしれない。
「ダグ。姉の旦那さんで…」
あんまりダグを人に紹介し慣れていないわたしは、そこで、ちょっと照れくさく面倒になってしまい、尻すぼみの紹介で済ませ、ダグの手を引き、座ろうと促した。
腰を下ろしてから、ダグは、沖田さんに、自分が我が家で父に付き、寺の仕事を勉強しているのだ、と、かなり謙虚な説明を補ってくれた。
「ううん、副住職として、父を助けてくれてるの」
「ええ?!」
わたしの声が耳に入っているのか、沖田さんは、慌てた手つきで、バッグから薄い雑誌を取り出した。何かの経済誌で、表紙はアメリカ大統領だ。ダグと表紙を、二三度、交互に見比べている。
「ええ?!」
確かに、似ている。そして、驚きもわかる。…でも、
 
馬鹿。
 
わたしは苦笑しつつ、「違う」と、首を振った。「残念ながら」と、ダグも肩をすくめて笑い、
「僕も、彼をテレビで見るたび、「あれ?」と首をひねります。いまだにね」
「ああ…」
沖田さんも、一瞬後には驚きも去ったようで、早とちりにやや照れたそぶりも見せ、ダグと今度は握手を交わした。
改めて、今度は沖田さんをダグに紹介する。くすぐったいほど恥ずかしく、ぐだぐだなものになったが。
ダグは、彼らしい穏やかな態度で沖田さんに対し、訊きたいことは訊き、話しながら沖田さんという人を、冷静に客観的に推し測っているように見えた。
概ね満足できたようで、最後にはわたしへにこやかに笑顔を向けてくれる。ダグの目にも、沖田さんは『合格ライン』であったらしい。
心配はそれほどなかったつもり。だが、嫌な汗が出るシチュエーションだった。
とにかく、
 
ほっ。
 
 
 
この後、大阪行きの新幹線に乗るという沖田さんとは、ロビーで別れた。
仕方がないとはいえ、無理に時間を取ってもらったようなもので、慌ただしかったはず。
別れ際、短く「ありがとう」と言えば、彼は軽く首を振った。他愛のない、ささやかなやり取りを交わす。
「夜、電話する」
「…うん」
そんなことだけ。言葉の後に、それぞれ余韻を感じてしまうのは、わたしだけではない気がする。
急ぐ彼を見送った後で、やや虚脱したようにぼんやりとした。あんまり手を付けなかったコーヒーは、温くなってしまっていた。それを飲み、長い息をつく。
「いい人物だね」
ダグが下す彼への評価に、「ああ」とか「うん」とか適当に返した。嬉しいのに、すごく。
そのとき、わたしのバッグから、ケイタイが鳴った。取り出し、相手を確認する。
千晶だ。
ダグに目で断り、電話に出た。
ケイタイを耳にあてた途端、彼女の声が飛び込んでくる。低く、切羽詰まった、震えのある声だった。
その声が、『来てほしい』と言う。
「どうしたの?」
『あの人が、来るって、これから…。止めたのに』
『あの人』とは、三枝さんしかいない。彼女が長く不倫の関係を続けてきた男性だ。前に会ったとき、彼とは別れると、そう決めたと、彼女は言っていた。
『あの人』が、千晶を手放したがらないということも、そのとき耳にしていた…。
『様子が、普通じゃないの…』
「え?」
 
『怖い』





          


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