ふわり、色鉛筆
25
 
 
 
千晶には、これから向かう、と言い、電話を切った。
ダグが「何?」と、問うような目をしている。その彼へ、電話の内容を、ざっくり且つ曖昧に伝えた。
「友達が、急用だって言っていて…。これから行かないと」
ダグとはここで別れるつもりだった。今日の労の(彼が言い出しっぺだが)礼を言い、この日、実家で見てもらっている総司のことを頼む。
ダグは相槌のように、ぱちりと瞬きをした。そして、わたしの肩をやや抱くように叩き、「行こう」と促すのだ。
「え」
「不安そうだよ」
「でも…」
千晶のあれこれややこしい事情を思うと、ダグを連れて行っていいのか戸惑う。それでも、一人でこれから向かう先を思えば、確かに気は重いのだ。気持ちは急くのに。
「若菜一人では、荷が重い」
電話での彼女の声は、ひどく切羽つまって聞こえた。心に多少怯えがあるのも事実。ダグの言う通りだ。
それでも、冗談交じりのほんの小さな意地で、「そうかな?」と返してみる。
半分笑った彼の声が、
「…多分」
そんなことを言う。
「多分?」
「何でもないよ、君の友達は」
「それも多分?」
「多分」
いい加減なことを言われているのに、なぜだか彼にこうかわされると、不思議に焦りや不安が凪ぐのだ。
わたしは、吐息と同時に彼へ頷いた。
 
 
地下鉄とタクシーを使い、千晶のマンションに着いたのは、ホテルを出てから三十分も過ぎた頃だ。
エントランスで来訪を告げれば、機嫌の悪いときのような声で、千晶が施錠を解いてくれる。
インターフォンを鳴らしたのち、部屋のドアはすぐに開けられた。わたしを見てか、ほっとしたように彼女の顔が歪んだのがわかる。一人ではなく、そばにダグの姿があることにぎょっとしたようだった。
「義兄(あに)」
わたしの紹介に次いで、ダグが彼女へ、「ハイ」と笑顔を見せた。
靴を脱ぎ、部屋に上がったところで、奥の方から「上げたのか?」と言った男の声がした。
リビングには、一人男性がいた。スーツの上着を脱いだ姿だ。落ち着かない様子で立ち、ちょうどわたしたちが部屋に入るのと、彼がこちらへ振り返るのが重なった。
闖入者(しかもダグ付き)に、久しぶりに見る三枝さんの表情は硬かった。
「覚えてない? 若菜だよ。『ガーベラ』のときの」
千晶の説明に、三枝さんは「…ああ」と顎を引くように頷いた。不満げな顔を彼女へ向けている。わたしが誰であれ、ここへ部外者に立ち入ってほしくないのだろう。
「隣りの人は、若菜のお義兄さん」
千晶はぶつっとそう言ったなり、明らかな彼の不快さに取り合わず、顔を背けた。身をよじって横を向いている。この空間から逃げるような、投げ出すような仕草だった。
こんなとき、「ご無沙汰してます」との挨拶も間が抜けている。わたしは三枝さんには何も言わず、彼女のそばへ行った。
隣りに腰を下ろすと、立っていたときには見えなかった、割れたグラスのかけらや倒れたフォトフレームなどが床に散っているのが目に入った。わたしたちがやって来るまで、物が飛ぶほどのいさかいがあったのがわかる。
千晶の腕を軽く叩いた。
「ありがと」
小さい声がそう言う。わたしは頷いて応え、「大丈夫?」と訊いた。千晶はそれに、小刻みに首を振るのだ。縦にも見え、横にも見えた。そばにいて、彼女の動揺が伝わる気がし、胸が痛くなった。
そのとき、妙な音が聞こえた。
ほどなく、どこかの言葉だとわかる。三枝さんが発したそれに顔を上げると、彼が、ダグに向かい、両手を胸幅に広げ話している。わたしの乏しい語学の知識からでも、それはフランス語と知れた。
なかなか流暢に聞こえる。しかし、なぜ、フランス語…。
ちょっとぽかんと見入ってしまった。そこで、ダグが、こっちは英語で返した。短い、小学生にもわかる程度の文だ。フランス人ではない、といった意味だろう。
「あ」
まるで、ポケットからアマガエルでも飛び出したかのような驚き方だった。非常に自然な。千晶が、ぼそっと「何でフランス語だよ?」と突っ込むようにこぼす。
「日本語も大丈夫です」
ダグのそれに、三枝さんは「申し訳ない」と詫び、「つい、フランス語がいいと…」と言う。わざとらしさのないそれに、再度千晶が、ぼそりと、「インテリ自慢かよ」と突っ込んだ。
テンポのいい返しに、思わず小さい笑いが出た。わたしの笑いに、千晶が肘でこっちの脇腹を突いて返した。じろりとにらんでいる。人の緊急時に何がおかしいのか、とでも言いたいのだろう。
「あんたが妙な突っ込み入れるから」
小声で言うと、「もう黙っとく」との意味か、千晶は頬をちょっとふくらませ、むっつりとした顔になる。
そこに、ダグの声が降るように聞こえた。彼の声は、大抵穏やかで、ややスローだ。
「日本人は、すぐ相手に合わせてやろうと考えますね。何のこだわりなく。国内ですら、外人だとわかれば、英語やあなたのようにフランス語を使ってコミュニケーションしようとしてくれる」
いきなり始まったダグの話に、千晶がまたもや「だって、外人、最初っから英語で話しかけてくるじゃない」と突っ込みを忘れない。「もう黙っとく」のではなかったらしい。
彼女の声が聞こえたようで、ダグはちょっと耳を澄ますようにこちらへ首を傾がせた。
「そう、われわれ外人は、どこでもまず英語でぶちまけがちです。一応共通語の認識があるから、それが手っ取り早いこともありますが、真実は、譲歩の気質が乏しいのでは、と僕などは思います」
千晶はそれに和して、「だよねー」とつぶやくように言う。
「自然に、当たり前に相手に譲る日本人のそんな面を、僕はとても好きです。それは、様々なことに通じる間違いない、世界でも稀な美質です。こういうことを改めて口にすると、日本人は大抵、面食らったような顔になって、恥ずかしがるんですけど」
確かに、
さらりとそんなことを言われた、この場のダグ以外の三人の日本人は、言葉を失ったようだ。共通の気恥ずかしさを抱え、しばらく沈黙が続いた。
ダグのみが、しれっと涼しい顔でいる。その彼へ、三枝さんは、先ほどフランス語で言っただろうことを、日本語で繰り返した。「関係のない部外者は帰ってくれ」というようなことを。
「わたしが呼んだの。客観的で冷静な判断のできる人を、ね」
ダグに先んじて、千晶が応えた。それが癇に触ったらしい三枝さんと、ちょっとしたにらみ合い起きる。
険悪な雰囲気の中、わたしは笑いをかみ殺すため、うつむいた。「わたしが呼んだ」と言い切る千晶の言葉がおかしかったから。ほんのさっきまで、ダグの「ダ」の字も知らなかった人なのに。
「…僕が妥当かはともかく、この場に第三者が入るのは賛成です」
そう言ったダグの視線は床に落ち、物が飛び交った喧嘩の気配を見とっている。それらがなかったとしても、「怖い」と、はっきりした千晶のヘルプがあったのだ。簡単に出てはいけない。
「帰るのは、そっちの方でしょ。…いい加減にしてほしい」
と吐き捨てた彼女の声を、すかさず三枝さんが拾った。
「何様のつもりだ。誰のお陰で、ご大層なマンションが手に入った?」
千晶はそっぽを向き、ちっと舌打ちをした。三枝さんのこういったセリフは、聞き飽きているのかもしれない。
「使えるだけ使って、その価値が落ちたら、別の新手を探すのか? 「まだわたしは若いから」だと、ふざけるな」
「まるで自分だけが被害者みたいに。そういう女々しいとこが、鬱陶しいんだって」
「おい、君が何の被害を受けた? 失ったものの一つでもあるのか? 偉くなったつもりだろうが、わたしの力がなければ、同じ仕事ができたと思うなよ」
千晶に詰め寄ろうとした三枝さんの肩を、ダグがやんわりと抑えた。それに止められ、彼は苛立ったように肩の手を払った。
激昂し、いつもと様子が違うとはいえ、こういった内容をぶつけられれば、彼女も堪らないだろう。うかがえば、表情にはうんざりとした色が浮かんでいる。今に始まったことでもないようだった。別れ話が出るたびに、こんな調子であったのかもしれない。
長年裏切られ続けてきた彼の妻である人が、病床にあることを思い出し、何とも苦々しい気持ちになる。知りたくなかった三枝さんの背景だった。
「契約契約で縛り上げて、自由のない中、そっちの言い値で長らく描かせてもらったね。その薄っい報酬が、売り上げや内容に、本当に見合ってたのか、疑問だけどね。今の若手だったら、とっくに逃げてたと思うよ、よそに」
仕事に話が及んでは、やはり黙ってもいられないのか、千晶も反論する。先日聞いた、新人の追い上げ等諸々の苛々も混じるのだろう。その声は痛烈だった。
自らの家庭生活を省み、二人の口論に口を挟む余裕もない。また、不満は吐いた方がいいと思うのだ。行き過ぎない限り、溜めずに。気づけば、ストレスの捨て場がなくなっていることもあるから。
「これだから、世間の厳しさを知らない女は…」
三枝さんの文句を、千晶は慣れているのか、横を向いてスルーした。けれど、外野のわたしが反応してしまう。
決して広くもない、ライバルだらけの漫画業界で、彼女は懸命に生き抜いて、しかも勝ち続けてきたのだ。バックアップがあったのは確かでも、彼が代わりにネームを練り、ペンを走らせたことなどある訳がない。その苦労が、他に劣るとは絶対に言えないはず。
ふと、口をついて、
「ページ数と宣伝だけ派手な、クソつまんない漫画って、あるよね。どっかのパクリすれすれの。すぐ消えてるけど」
誰に向かって言った言葉でもないが、すぐに千晶のリアクションがある。ちょっと笑いながら、
「ああ、よくある。いろいろ噛み合ってないんだよね。描き手本人の感覚と、無理やり持ってきた「何か」とが。まわりは、これだけそろえたんだから描けるはずだって、都合よく期待して盛り上がっちゃうんだろうけど、そういう問題じゃないしね」
低くない下駄を履かせてもらってのスタートだったのは、本人も認めるところだ。でも、実力が出るのは、その後なのだ。面白いものが描けるか、そうでないか。そんな純粋な部分に、水増しはきっと効かない。千晶の声には、そんな自負がにじんでいた。
そこへ、じろりと三枝さんの視線が降る。
「業界を知らない素人が…」
侮ったそれは、わたしへ向けてのものだ。嫌な響きだった。
ふと、いつか沖田さんから聞いた、何となく忘れかねていたエピソードを、こんなところで思い出す。それは、副社長の三枝さん自らが、大ヒットした千晶の漫画のキャラ画をオフィスに飾り、訪れる社員皆に拝むよう強いていたという、おかしなものだ。
耳にして、社へ莫大な利益を生んでくれた彼女への感謝にも、尊敬にもわたしには思えたのだ。嬉々として話した彼の様子も、やはりちょっと印象的だった。
そんな振る舞いをする紳士然とした三枝さんと、今の彼がマッチせず、先のエピソードだけが、ぶらりと胸に浮かんでしまっている。
「誰に言ってんの? 若菜が素人の訳ないじゃない。そうやって、描き手も読者も馬鹿にしてんのね。そろそろ、その勘違いした上から目線を止めないと、次々に人が離れていくから…」
「そうか、…やっぱりか」
「何が? いい加減気づかないと、哀れだよ、いい歳してさ」
「そうだったのか、あいつか? 沖田とできてたんだな? そうか、手近で若いのに鞍替えか?」
千晶の苦言を受けた、三枝さんの反応に、当の千晶も、わたしも、そしてダグも驚いた。ダグは「あのカオル?」とわたしへ呟いている? ちなみに「カオル」とは、沖田さんの名前だ。
わたしは首を傾げ、それに応じた。三枝さん、ちょっと何言ってるか、わかんないんですけど。
「はあ?」
「最近のあれの生意気な態度も、そういう意味か…、なるほど。もっと早くに気がつくべきだった。君らはお神酒徳利のようだったからな…。まさか、子飼いにこんな裏切り方をされるとはな、わたしも落ちぶれたもんだ」
そう、苦々しく一人ごちる三枝さんを、千晶は盛大に鼻で嗤った。「馬っ鹿じゃない」と。
なぜか、一人やや慌てていたわたしは、「ははは」と上っ面で笑って流した。博識なダグは、「ああ、落語のオミキドックリ」と合点している。
「仲がいいという意味でいい?」
と訊くので、曖昧に頷いておく。多分ねー。わたしもその程度の認識しかない。
千晶は、三枝さんの持ち出した疑惑を再度否定した。うんざりとした顔をしているのは、わたしの手前もあり、言いがかりが真に煩わしいのだろう。
三枝さんの言葉から、彼と沖田さんとの間にちょっとした衝突があったのがうかがえた。しかし、それを千晶との裏切りの根拠とするのは、かなり飛躍がある。
「沖田から、「生活を改めてくれ」など、偉そうなことを言われたよ。誰に向かって言えた口だ、まったく…」
そのぼやきに、沖田さんの忠告には、この人の病床の奥さんへの配慮があると思った。「食わせてもらったり、着せてもらったり。若い頃、しょっちゅう世話になった」…。上司の奥さんを超えたそれらの細やかな気配りは、大物政治家の家庭を出自に持つ人にすれば、ごく当たり前の周囲への目配りなのかもしれない。
身辺に余裕がない当時、彼が受けた奥さんからの恩恵は、ありがたく忘れがたいのだろう。だから、この三枝さんの態度が、そばにいる彼の目に余るのは、よくわかる気がした。
「何が悲しくて、よりによって、沖田さんが、さーさん(三枝さんの愛称)のお古なんかに手を出すっつーの。頭の中、沸いてんじゃない?」
「誓って言えるのか?」
「こんなこと誓われた神様が、迷惑するって」
「わたしにだ。誓えるのか? どうだ? できるのか? …ほら、言葉を濁すのは、やましいからじゃないか?!」
三枝さんが繰り返す問いに、千晶は言葉を濁したのではない。反論するのにも飽いて、顔を背けているのだ。更に詰問を重ねる彼へ、ダグが声をかけた。
「その疑いは、どちらへ向いています?」
「君は何を…? 悪いが、通訳できるほど英語は得手じゃないんだ。フランス語なら…」
「またフランス語かよ」
と、千晶がやっぱり突っ込むので、ちょっとおかしくなる。
ダグは三枝さんの言葉に首を振り、
「疑いが生まれるのは、自分の中からですよ。原因が外にあっても、そのように見えても、生み出すのは己の心です。そして、何もないところから生まれないのが疑心です。妬みや恨み、ときには悔恨さえ…。その根を張らす種々の肥しを与えたのは、自分自身です。責めがいずれにあろうとも」
「坊さんのような説教は止してくれ」
「すみません、僕は坊さんなのです」
ダグの返しに、うるさげに眉をしかめた三枝さんの表情が、瞬時、ぽかんと弛緩したものになる。「ん?」とこちらを見た千晶に、「お姉ちゃんの…」と頷いておく。
「あ、そっか」
彼女はうちの家業も姉も知っているから、わかりが早い。
「千晶さんに向けた疑いが、同じだけ自分にもありませんか? 人は不思議なもので、良いものは、外から与えられることを願うようです。強さも安寧も、幸福も…。己の心が不安定なとき、なだめようとして、よそからの安らぎを求めます。一番の解決策は、自分の中にちゃんとしまってあることが多いものなのに…」
「馬鹿な。原因は、千晶の方じゃないか。わたしに何があるという? 訳のわからんことを…」
「でも、あなたは信じない。彼女は、「違う」とはっきり何度も否定しているのに。なぜですか?」
「口先では、何とでも言い繕える」
「では、どんな答えがほしいのです?」
「それは…」
言いよどんだ三枝さんの言葉の後を、千晶がつないだ。
「わたしが、さーさんに隠れて、沖田さんとヤリまくってるって言ってほしいんでしょ? だったら、どうなの? 仕事中でもアシの前でも、証券会社の営業マンの前でも。時間のないときは、電話でだって二人であえぎまくってます。こう言えば満足なんでしょ? 勝手に信じてれば」
淡々とすんごいことを言った後で、わたしに「ごめん」と謝る。謝ってもらうほどのことでもない。ただ、この時、出張中の彼が、こっぴどいくしゃみを連発してそうで笑えるが。
千晶のあられもない発言に、ダグはやや苦笑し、苦い顔の三枝さんへ、
「この答えも、あなたは望んではいないようですね」
「真実というものは、望む望まないにかかわらず、眼前にあるものをいうんだ。いい加減な説法もどきで、人を煙に巻くようなことは止めてくれ」
ダグは彼の言葉に素直に頷いた。
「そうですね。その通りです。おっしゃるように、目の前にあります。でも、明らかなそれを、あなたは受け入れたがっていないように見えるのです。なぜでしょう?」
「だから…!」
苛立ったように、そこで彼は言葉を切った。吐息の後で、一人頷き、
「わかった。そこは信じよう。何も、そうあってほしい訳じゃない。…しかし、十年以上も続いた仲だぞ。簡単に終わりにしたいだなんて…」
こんなごくプライベートな場面にあって、邪魔でしかない部外者であるダグやわたしの存在を、既にこの人は認めてしまっている。「いい加減な説法もどき」とダグの話を切り捨てたが、その態度の変化は、鮮やかなくらいダグの言葉の効果だ。
わたし一人では、この場で何の手助けも出来なかっただろう。ダグが来てくれたことに、今更安堵する。
「だから、理由がほしいのですね。あなたが納得できるような」
「「やり直したいだの」、「一人になってみたい」だの…、そんな曖昧な逃げ口上で済まされては、堪らない。これまで、色んなものを都合してきたんだ。そのために、失ったものだってある」
「恩着せがましく言わないで。散々、そっちもいい目も見たでしょ? いい加減、利用し合ってたんだって事実に気づいてよね。それでも、わたしを、おいしいとこどりの悪女にしたいんなら、別に構わないけど」
千晶の反論に、三枝さんが応じる。感情を抑えるためか、間を置いた後で、
「何度も訊くが、何が望みなんだ?」
「だから…、言ってるじゃない、何度も。「一人になって」、「やり直したい」んだって」
答えに、三枝さんは苛々と首を振る。どうしても、彼女言い分がのめないようだ。これまで彼女から、今の生活の不満や焦り、不安を耳にしているわたしにとって、それだけで十分に通じるものではあったが…。
長い間、仕事上でもプライベートでも彼女とパートナーとしてやってきた三枝さんには、突然降って湧いた、恩知らずな理不尽さなのだろうか。
今に至る決断に、千晶からのサインがなかったはずはない。
ちょっと唇を舐めてから、口を開いた。
「「一人になりたい」というのが、全てじゃないですか。千晶が、人生をそろそろ考え直したい、そう思ったって、いいじゃないですか。そのためには、身軽になっておきたいっていう気持ち、すごくよくわかる…」
「身軽になって、「考え直す」のは、別な男のことじゃないのか? 次の利用価値のある新手でも、見つけたんだろう?」
そう、咬みつくようにわたし向かって言うから、二の句が接げない。
「○×書館の理事にでも、目ぼしいのを見つけたのか?あそこは丁度、斜陽の部門を切り離して、サブカルに力を入れ始めているからな、君なら、大歓迎だろう。得意の色仕掛けを使うまでもないかもしれん」
千晶を見れば、彼の話が耳に入っているのか、そうでないのか。冷めたような表情で、やや横を向いていた。
やれ、先頃、○×書館では売れっ子の作家を集めた豪華な食事会があった。それに千晶も招かれていたはずだ。考えてみれば、その後からじゃないか、君の様子がおかしくなったのは。ちょうど符合する……。
三枝さんの話を遮り、千晶が返す。
「だったら、どうなの?」
吐息混じりの冷静な声だ。それに、彼が反応する。自分で侮辱し、彼女を煽っておいて、それを認められれば、裏切られたような顔になるのが不思議だった。
「金だな。わたしを見切ったのも、それが理由だろ? 我が社じゃ、もう上にも限度があるからな。このままわたしに付いていても先が見えたか? …まったく、度し難い女だ」
「だから?」
「…損得で歳月を精算することに、疾しさはないのか?」
三枝さんの言葉は、今ここだけを聞けば、彼が正しく見えるだろう。利用されて捨てられる男性が、傷き、女性へせめてもの恨みをぶつけている姿だ。
対して、千晶はソファにもたれ、つんと冷めた表情で彼を見ている。真逆だ。
「他に何があるの?」
悪女さながらに、言い放った彼女は、ふと立ち上がった。
「出て行って」
三枝さんに、ドアを指さし示した。「もう、うんざり」。
「君は…、わかっているのか?!」
すばやく彼は千晶の手を取った。それを強く振る。顔をしかめた彼女に、ダグが間に入り、三枝さんの手をほどかせた。
「止めましょう。とにかく、今は。どれだけ彼女に強いても、あなたに分がありませんよ」
なだめるダグの声に、彼は首を振りながら、それでも場に踏みとどまろうとする。千晶へ、強い視線を向け、
「これが、君の答えか? こんな、こんな…」
「今は、埒があきません。また日を改め、千晶さんと話をしましょう。若菜と僕が約束します」
ダグが諭しつつ、半ば強引に三枝さんをリビングの外へ促す。「若菜と僕」と(勝手に)言ったからには、次回三枝さんが求めれば、またこのような席に出張ることもあるのかも。ダグは約束を守る人だ。面倒だが、千晶のことを思えば、事情を知る人が間に入るのは、当然だろう。
でも、千晶が嫌がるだろうな…。
束の間、そんなことを考えていると、千晶の声がした。「…いけないの?」と聞こえた。視線は、部屋を出ようとする三枝さんへ向いている。
「お金じゃいけないの? 不倫女に、他に一体何があるって言うの?」
その声に、二人が振り返った。
「何があるっていうのよ」
静かだが、強い声にはっとする。何かそれに言葉を返そうとする三枝さんを、ダグがやんわり(でも強く)ドアの向こうへ押し出す。自身も付き、玄関の外まで送り出すようだ。
ドアが閉まる。
やや呆けたように立つ彼女を、わたしは座るよう促した。
「最低だよね、ごめん」
身体をソファに沈めながら、千晶がつぶやく。大丈夫。わたしと夫の罵り合いの方がもっとえぐいから。
そう応じると、千晶はちょっと笑った。
「お金は大事だよ。重く考えて当然。大人なんだし」
「…うん、ありがと」
しばらく虚脱した風に前を見た後で、問わず語りに話し出す。今の仕事に対して、積極的な気持ちになれなくなってきていること。それでも課されたノルマを果たす日々、まるで自分を機械のように感じ、張りがないこと、嫌なこと…。
わたしは小さく相槌を打ち、慎重に聞いた。
千晶の話は、誰にでも、何にでも通じることように思えるからだ。誰にだって、それぞれ形は違えど、与えられた仕事があり、義務がある。最初充実していたかもしれないそれらが、日々を重ね、ふと重く、または倦んだものに感じられることは、きっとあるはず。
人は、それでも我慢し、何とか毎日を乗り越えていく。それが当たり前だから、大人だから…。
適宜、気持ちや体調諸々を整えながら進んでいける場合はいい。でも、耐え切れなくなったとき、どうすればいいのだろう。
「無理をするな」と誰かが言い、「頑張るべき」とも誰かが言う。どこまで踏ん張れば、先の見通しがつくのか。自分に納得ができるのか。止めて、逃げてしまいたいのか。やり通す力がほしいのか…。
たとえば、そんな風にうろうろと迷う。
彼女はあれを持っているから。わたしと違ってそうだから、こうだから…。他の誰かの何かを比較し、自分を不幸なヒロインに仕立てたって、同じ。みんな同じ。
「今の仕事が絶対に嫌なんじゃなくて、徐々に減らしていきたい、そう思ってるの。少し、違った感じの仕事がしてみたくって…」
どんな? と訊けば、千晶はそこで、ふふっと笑った。「自分の本を作りたいと思ってるんだ」。ちょっと面白そうに言う。
「連載でも、読みきりでも、イラスト一杯のエッセイみたいなのでも。写真も載せたいかも。今のわたしが作る「同人誌」って感じ」
へえ。
素直にそのアイディアに興味を魅かれ、相槌を打った。彼女なりのあれこれ「楽しい」が詰まった本なのだろう。聞いて、単純にこちらの気持ちが弾む。
「これ、若菜が同人再開したんで思いついたの。ブランクあるのに、仲間作って楽しそうにやってて、しかも、売れてる。正直羨ましくて、いいないいなって堪らなかった…」
「そんな。所詮、素人のお遊びに、ほんの毛が生えた…」
生活が懸かっているから、売れそうなジャンルを狙い、打算しつつやっているだけ。昔とは違う。でも、だからといって、今が楽しくないとは言えない。折々に、わたしは同人を通して描くことを、取り戻し、それを楽しんでいる。
わたしの返しなどスルーし、「需要があれば…」と前置きをしながらも、
「出すのは、季刊誌程度のペースで。『同人誌』ぽく、ゲスト寄稿なんかもしてもらって。そう、あんた描いてよね。そのときは、昔の『ガーベラ』を意識した表紙でやろうよ」
きらり目をきらめかせ、彼女が語るそれらの夢は、現実逃避を込めた単純な希望ではなく、実現が近いのではないかと、ふと思わされる。『真壁千晶』の名があれば、多分、近くに手が届く未来だろう。気持ちさえあれば。
キャリアにしっかり裏付けられた、大きなネームバリュー。親友のそれに、圧倒されながら、やはりしみじみと羨ましいのは事実だ。それは差ではなく、自分と立つ位置のはっきりした違い。
彼女のいる場所は、きっと見通しのいい高みだ。風も、違ったところから吹くのではないか。
「千晶の本だもん、読みたい人はいっぱいいるよ」
それに、千晶は「実は…」と、打ち明け話のようにつなぐ。先ほど三枝さんが当てこすって口にした「○×書館」と組んだ、彼女が望む個人誌の企画話が、ゆるゆる進みつつあるのだという。
それも、先にあったその社が設けた作家を招いての食事会がきっかけだったというから、嫉妬が生んだ、三枝さんの先走りだと決めつけられない。同業種ゆえのさすがの嗅覚のようでもあるが、やはり、千晶が絡んだゆえの、妬心に根差した目線でもあるのだろう。
「だから、さーさんの話は、妄想半分、本当が半分」
千晶レベルになると、物事のスケールもその進みが早くて、あぜんとしてしまう。
ちょっとぽかんと話を反芻していると、わたしが三枝さんのように、色恋を勘ぐっているとでもとったのか、ぺちんと肩を叩かれた。
「大丈夫だって。もうそんな、まっしぐらにがっつく元気ないって」
「疑ってないよ」
確認のように、じろりとこっちをにらむから、頷いた。まだ見てる。もう一度頷く。まだ見てる。
千晶は唇をちょんと突き出し、しっかりとした声で、
「乗ってみようかと思う、と言うか、やりたい」
それにも、わたしはただ頷いて返した。
彼女のチャレンジへの決意に、生々しいお金の臭いはない。稼ぐのなら、現状維持がベストなはず。三枝さんの社は、彼女の作品をハリウッドにまで高値で売り込んでくれた実績がある。
彼女が見ているのは、その部分ではないのだろう。三枝さんは、千晶を守銭奴のように罵ったが、絶対に違う。新たな、向う目標があるのだ。
 
『お金じゃいけないの? 不倫女に、他に一体何があるって言うの?』
 
なのに、どうしてあんなことを口にしたのだろう。ちょっと鮮烈に、その声は耳に残る。売り言葉に買い言葉、とればそれまでだが。
以前、千晶はわたしに「手に入らないのに…」と、不倫の恋を不毛としながらも、三枝さんへのやりきれない気持ちを打ち明けていたのだ。
ただ、悪女ぶった訳じゃない。切った方、清算したのは彼女だが、だから、無傷だというのは違う。
開き直ったあのセリフには、彼女の恨みと切なさ、それに、千晶らしい意地がにじんでいた。そんな気がする。
だって、
割り切った男女関係に、味気なさを感じ出した女にとって、本当、続けることに何の意味があるのだろう。
何が、残るのだろう。
そこまで、ぼんやりと考えを泳がせ、ふと切なくなった。
傍らの千晶の手を何気なく握る。華奢な手指に、職業病のペンだこがある。その手を、ぎゅっと包んで握った。小さなその手を痛々しく感じた。
これまでの事情を知りながら、易々と彼女の側に立つ自分を、甘く、無責任な女だと思った。
でも、千晶は大好きな友だちだ。
「…ごめんね、ほんと、変な事に巻き込んじゃって。若菜のことしか浮かばなかったから」
「ははは、友だち少ないからね、お互い」
「マジで。あ、お義兄さん、面白い人だね。さーさんがうろたえてるのが笑えた」
「うん、いい人。わたしも色々相談に乗ってもらってる。離婚のこととか…。頼りになるよ」
「そっか。そう、お義兄さん、あの人に似てるよね、あれ、誰だっけ。すごいビックネームの…」
「よく言われる、Yes,we ca…」
「ウィル・スミス!」
そっちかよ。
それからしばらく後、ダグが三枝さんを下まで送り、戻ってきた。廊下で古い知り合いに会ったと、楽しそうに言う。
「日本に来る前に、タイのYMCAで知り合ったんだけど、驚いたよ」
「へえ、すごい偶然だね」
「うん、見違えたよ。すっかり女性だった。前は、まるきりブラッド・ピットみたいだったからね。すごいね、あっちの技術は」
ダグの話に、わたしも千晶も顔を見合わせた。
それは、大胆なイメージチェンジを…。
「思い切ったんだなって、僕も彼に言ったんだ。でも、本人はけろりとしたもんだったよ。とても自由で、幸せそうだった」
「ふうん」
一人で平気、と言う彼女に従い、ほどなくわたしたちは部屋を出た。エントランスを出たところで、振り返りそうになる。わずかに首をめぐらせる、その仕草を見越したように、ダグが、
「大丈夫だよ、彼女は大人だし。三枝さんは紳士だよ、最後のところでは」
二人になったとき、何か彼と話すこともあり、人となりを見たのだろう。ダグの見立ては、割りと、結構当たる。
「うん…、そうだね」
駅までの道を歩く途中、テイクアウト専門の一口餃子の店に会う。あちこちで見るよなあ。よほど急テンポに展開しているようだ。
「あ、買っていこうよ。美樹が好きだよ、あれ」
ダグが嬉しそうに言うので、夕飯に、家族分を注文する。当たり前のように、ぺろりとダグが支払ってくれ、こんなところにまで引っ張って来たのに、と申し訳なくなる。
礼を言った後で思い出した。そういえば、この餃子は、再会してすぐ、沖田さんがわたしに買ってくれたものだった。総司に気遣って「食うだろ? ボウズ」と。
同じものをダグがくれた偶然が、何だか嬉しくて、変だけど、ちょっと胸がじんとなる。
今度、千晶と会うときは、これを買って持っていこう。
そんなことを、自分に約束した。





          


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