ふわり、色鉛筆
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専業同人を始めて、一番嬉しいのが、時間が自由になることだった。
自分のペースで原稿を進められ、合間合間に、息抜きのように家の事が出来る。総司へも、目が届くように気をつけていられる。
以前パートを辞めたとき、わたしはふうっと気分が楽になり、時間が倍にも増えたような錯覚をした。夫もいない今では、これまで自分は、半目をつむって生きてきたのかと思えるほどに、手にした時間の豊富さに気づくのだ。
何をして、これを済ませて。あ、あれもしよう。それから、あれもしたい…。どれも、ほんの些細なことばかりだ。なのに、そんなことらが心に浮かぶゆとりが嬉しい。
デメリットもきっと多い。けれども、わたしには、こんな気持ちの余裕を得られたことが、最大のメリットだった。
わたしとは、立場も違うが、千晶も似たようなことを思うのだろうか。長く関わった三枝さんと別れて、一人の時間が増えた。新しい仕事、やるべきこともある。
彼女は、どうだろう。
 
晩に、いろはちゃんから電話があった。声で話すのは久しぶりだ。
『雅姫さん!』と言う彼女の声に、否が応でも、沖田さんの顔が引っ張り出されてくる。他愛のない会話に、緊張してしまう。
『真壁先生と、コラボなんですよね?! ○×社の告知ポスター見て、びっくりしました!!』
「ああ、うん…」
いろはちゃんが言うのは、千晶が新たに始めた季刊誌のことだ。創刊号では、同人時代の『ガーベラ』についても、ページを割く予定になっている。そのミニ特集ページに、わたしが少しお邪魔する、といった程度のもの(まだ描いてないけど)。コラボ、とかそういった大げさなレベルではない。
『あの告知だけで、長い『ガーベラ』ファンの皆さんは、相当興奮してるようですよ!! 往時を知らないわたしですら、わくわくしてきますもん! あのハズレなしの天才と隠れていた気鋭の鬼才との融合なんですから』
隠れていた…?
相変らず、派手なリアクションに、こっちは恥ずかしいようなくすぐったいような。堪らず、沖田さんから聞いたことを口にする。
「ははは…。そうそう、いろはちゃん、今、商業誌にBLのコラムページ担当してるんだってね、すごいね。いろはちゃんなら、ぴったりだよ。的確ないいコラムが書け…」
『駄目です! わたしの仕事の話はいけません!』
「え?」
『雅姫さんとは、そっちのお話はできません。作家さんとの個人的なおつき合いの影響を、コラムに持ち込むのはタブーですから。慣れ合いや癒着は、どうしても行間に出てしまいます。…誰知らずとも、記載者側で控えるルールを設けました』
と、やや厳粛な声で告げる。返事のしように困り、気の抜けた声を出した。
「はあ…、そう、なんだ」
まあ、彼女なりの気合を入れて、頑張っているのは、十分に伝わる。
こういった人が、機会に恵まれ、会社員から、いつしか文筆の仕事に転向していくんだろうなあ、とぼんやり思う。やる気や夢みたいなものが、ふっくらと心に準備された人のもとに、チャンスはやって来るのだ。そこで、チャンスは育つ。
昔の千晶もそうだった。
わたしは、ないなあ。
上っ面では、不安や迷いに揺れ、深い根っこでの部分で、夢や希望ではない「ま、何とかなるか」といった、いい加減な甘えが横たわるだけだ。きっと、ふてぶてしいのだろう。
いろはちゃんは、話題を変え、彼女の家の部屋のカーテンについて話し出した。
「自分の部屋の替えに買った、ハトがゆらゆら並んでるプリントのがあるんです。ブルーとグリーンのハトです。ぽっぽですよ!」
「ぽっぽ?」
「そう。もし、雅姫さんがよかったら、空いた部屋に掛けてもいいですか?」
勝手にどこにでも掛ければいいのに。何でこんなことをわたしに訊くのか、訳がわからない。
「優しいけど、色も甘すぎないし、男の子にもぴったりな雰囲気だと思って…」
そこで、総司のためを考えて言ってくれていることに、やっと気づいた。わたしが離婚後、一緒に彼の家に住むことは、妹のいろはちゃんへも了解済みと言っていたのだ。
それでか!
明らかに、わたしと総司への心遣いだ。好きに振る舞える自分の家であるのに、こんなささやかなことで、他人のわたしの意見を聞いてくれる…。
胸がちくんと痛くなった。
とりあえず、礼を言う。
「ありがとう。気を使ってもらって、ごめんね。いろはちゃんの好きにしてくれていいから、本当に」
彼との間では、まだ離婚後の住まいのことは、あれ以上の話の進展はなかった。総司のことで、やや気持ちがすくんでしまっていた。うきうきと、彼との新生活を描ける気分にはなれなかったのだ。
こちらの気持ちがどうであれ、ずるずると今を引きずっていい訳がない。沖田さんと、その妹までを巻き込んでしまっている。
いろはちゃんからの電話に、目の前でぱんと手を打たれたようにはっとなった。
明日明後日にも、わたしは夫の実家へ足を向ける予定でいる。逃げられてはかなわないから、事前連絡などしないつもりだ。離婚届も、実は記入済みでもある…。
…のようなことを告げ、
「だらだらして申し訳ないけど、もう少しだけ待って下さい。実は、無料相談の弁護士さんに相談もしてるの。無断での長期の外泊は、家庭の崩壊につながる夫側の有責ということで、子供の親権も争えず、すんなりいきそうだって…」
彼女へのお詫びの気持ちもあって、焦ったせかせかした口調になってしまう。でも、今の状態を、真面目に伝えたつもりだった。
ちょっと間を置き、いろはちゃんは「あの…」とおずおずと、
「それは、わたしではなく、兄貴に言ってもらえると、ありがたいです」
「あ、…そうだね。ごめん」
確かに、込み入ったことをぺらぺらまくし立てられても、当事者にない彼女には迷惑だ。知る権利はあろうが、こんな離婚のごたごた、知らされる義務もないはず。
「このところ、ちょっと落ち込んでいるようなんで」
「え」
どきりとした。何かあったの? と問う前に、へへと笑いを含んだ彼女の声が返る。
「雅姫さんから、もっと連絡がほしいみたいですよ。いい年して、しょぼんとしてて…。はは、お恥ずかしい。…状況もあるだろうし、それに、雅姫さんにはお子さんがいるから、そちらがまず優先だって言い聞かせても、うるさい、しか返さないし」
笑い話めいた口調ながら、わたしの様子をちょっと探りたい目的は感じられる。妹なら当たり前だろう。よりによって、兄の相手は子持ちの主婦だ。
カーテンの心配りは事実でも、こういった問題に触れるいい口実としたのではないか。進展のない兄の恋愛に、今まで黙っていてくれた彼女が、やんわり焦れ出したのがうかがえる。
返事のしようがなく、ちょっとの間の後で、やっぱり「ごめんね」と返した。
「そんな、謝ってもらうようなことじゃ…。わたしの方こそ、お邪魔虫で、嫌らしいですね、ごめんなさい」
「ううん…」
あのね、と前置きし、この間、総司が夫の実家に電話をかけたことを打ち明けた。沖田さんに言わずに、その妹の彼女に告げるのは、弁解の意味もあるが、もやもやとしたものを誰かに聞いてもらいたい気持ちもあった。
若いいろはちゃんには、面倒な話だと、喋っている途中から後悔した。
「そう、なんですか…」
「ごめん、また重い話して。沖田さんにも言わないでほしいな」
「雅姫さんがそう思うのなら…。でも、兄貴は知るべきだと思います。そういう段階から関わった方が、のちのち総司君の信頼にもつながるだろうし…」
「そうかな…」
「あんな兄貴でも、オッサンと言っていい年まで生き抜いてきたから、それなりに成人男性の知恵はあるんじゃないかな…。雅姫さんが一人で抱えるより、気も楽ですよ、きっと」
貶しつつも、お兄さんへの信頼がにじむ。沖田さんは長く、彼女にいい兄を務めてきたのだと、しみじみ思った。
「うん、…そうだね」
「へへ、不足は隠しません。でも、総司君には味方ですから、兄もわたしも。そういうスタンスさえ確かなら、小さいお子さんにきっと伝わると思います。本能で、わかるんじゃないかな。…すいません、偉そうに」
さらりとした口調だった。なのに、その響きはずんと重く、胸に届いた。返事の言葉に詰まる。嬉しかった。単純にありがたいと思った。
鼻の奥がつんと、込み上げるもので熱くなる。
「…ありがとう」
「いつでも、兄貴に連絡してやって下さい。何でも持ち込んでくれた方が、絶対嬉しがるから、お願いします」
「うん…、そうする。ありがとう」
電話を切った後も、しばらくぼんやりと余韻が残った。肩の力が抜けたような、心のこわばりが解けたような、そんな心地がする。味方だよ、と教えられることは、こんなにも気持ちが楽にしてくれる…。
孤軍奮闘なんて、すごいことやっていたつもりはないが、それでも自分でしょい込んで、テンパッて、いらいらきりきりしていたのがわかるのだ。あっぷあっぷして、限界が近いと、気づかぬうち音を上げていたのだろう。
わたしという女は、何でも一人で乗り越え、進んでいける、ツメの強さがないのかもしれない。誰かに言われたように、たとえば困難の何合目かで適当なところで逃げを打つ…、そんな自分を易く想像できるのだ。
それを認めるふてぶてしさも持ち、そして、身近な決して敵わない誰かと比べることで、劣等感を抱いてもいる…。
いろはちゃんのメッセージは、そんな心をゆるりとほぐし、ふっと風が通るように、軽くさせてくれた。
今の自分でやっていくしかない。居直らないで、少しずつ変わりながら。
それでよしとしよう。
気分が上向きになったところで、原稿に向かう。夫が家を出てから、イベントに足を運び参加することは難しく、控えていた。最近は専ら、オンライン上での通販だ。声をかけてもらえれば、桃家さんや咲耶さんに、イベントで委託させてもらうこともあった。
コーヒーを片手に作業中、インターフォンが鳴った。カップを置き、応対に出る。宅配便のようだ。実家が、また野菜など送ってくれたのだと思い、ドアを開けた。
両手で抱えきれないほどの大きさの段ボールだった。いつもの『有田みかん』、『高原キャベツ』などの再利用の箱ではない。真新しい無地の箱に、ふと違和感があった。受け取りにハンコを押す際、荷札を確認した。
『○◎コーポレーション』、大阪某所…。宛名は夫になっている。
何が入っているのだろう、そこそこ重い。夫の荷物なので、開けるのをためらい、リビングの隅に運んだ。
この箱の件で夫の実家へ電話をかけようとしたが、明後日にも出かけるつもりなので、その際でいいやと思い直す。急ぐ物なら、夫から何か言ってくるはずだ。なるべく姑とはもう話したくない。
視界から段ボールが消えれば、自然、その箱の存在を忘れた。
 
玄関のチャイムが鳴ったのは、夜の九時を過ぎていた。ちょうど、お風呂から上がったばかりのところで、ぬれ髪のままインターフォンに出た。
遅い時間のそれに、もやっと胸が騒いだ。きっと夫だろうと思った。
意外にも、玄関に立つのは、お隣安田さんのご主人だった。
『夜分、申し訳ありません。お聞きしたいことがありまして…。こんな時間に、失礼致します。ちょっと、お時間をいただけないでしょうか…』
時間も時間で、しかも風呂上りだ。髪をタオルで拭きながら、「どういった件でしょうか?」と訊いた。どうでもいい内容なら、明日にしてもらいたい。
『…うちの家内のことなんですが…』
機械を通して、やや伸びたぼやけた声が返る。
「あの…、奥さんが、どう?」
そこで、「すぐ出ます」とインターフォンを切った。Tシャツの上のパーカーを羽織り、玄関へ向かった。ドアを開けると、仕事帰りといった様子のスーツ姿の安田さんが、頭を下げていた。
「非常識な時間に、すみません、どうも…」
「いえ、お急ぎのことでしたら。どうされたんですか?」
「もしかしたら、家内の居場所を高科さんは、ご存知かと思いまして…」
「え? お帰りじゃないんですか?」
意味がわからなかった。奥さんの不在が、どうして我が家に関係するのか。親しかった訳でもない。それに、外で働いている女性なら、遅くなることもあるだろう。
奥さんのケイタイもつながらないという。うちに来るくらいだから、心当たりに連絡は取ったはずだ。
そこまで心配する何があるのか。深夜には早く、大人なら慌てる時間でもない。
「お仕事で、遅くなったとか…。ちょっとした事情で、連絡がつかないのかもしれませんよ」
総司がリビングからこっちへ出てくる気配がした。それへ注意を向けながら、言った。応対を少し持て余していた。遅くなるのも、連絡がないのも、隣家では滅多にないことなのであろう。が、大人がすることで、理由があるのだと思う。
それを、この人が納得するかは別の問題だが…。
安田さんは声を落とし、奥さんと一昨日、言い争いをしたと打ち明けた。表情に、わたしの気持ちが表れたのかもしれない。
「つい、叱るのが過ぎてしまって…」
「ああ…」
それ以上の返しが続かない。たとえ、夫婦喧嘩の延長に、今夜の帰宅の遅れがあるのだとしても、やはり、わからない。だから、何? なぜ、うちに?
総司がドアを開け、顔を出した。それに声をかけ、部屋に入っているように言う。わたしが顔を戻したとき、妙なことを訊かれた。
「こちらにも荷物が届いたでしょう?」
「荷物?」
「ええ、大阪から、…何とかコーポレーションとかいう…」
そこで、昼に夫宛てに届いた段ボール箱を思い出す。確かに、あの箱にそんな名があったような…。それをどうして?
「あの…、ご主人はご在宅ですか? 家内のことで、お聞きしたいことが…」
意外な問いが続き、わたしは声を遮った。彼のやや間延びした口調が、要を得ない話を、更にわかりにくくしていくようで、いらだち始めていたのだ。
「夫宛てに箱は来ました。中は見ていません。それと、安田さんの奥さんとどういう関係があるんですか?」
そこで、安田さんはため息のような吐息を長くついた。あんまり長いので、またちょっとそれにイラつく。
彼は眉をハの字にした、申し訳なさ気な顔を向け、
「わたしも、後になってから聞いたもので、止めようがなかったことは…、ご了解下さい。家内は言い出したら、聞かない性質もなのもあって…」
やっぱり意味ありげな前置きが長い。どうにもいい話には思えなかった。ざわざわする胸を抑え、「教えて下さい」と促した。
「はあ…」
細々と安田さんが話し出した。奥さんが夫を誘い、ある仕事を紹介したという。商品を仕入れ、それを別な誰かに購入してもらう。その際、仕入れ先からマージンを受ける。その誰かがまた別の誰かに商品を売った際にも、夫はマージンを受けることが出来るのだという。また別な誰かが他の購入者を見つければ、その都度夫へマージンが入る…。
「マルチ販売というやつですよ」
段ボール箱は、ダイエット関連のその商品であるらしい。話を聞きながら、社交的で派手な印象な奥さんはともかく(現に夫を勧誘出来ている)、口下手で、お世辞も言えないような夫にとても勤まる仕事だと思えなかった。
自分でもそんなことは、とうにわかっていたはずだ。求職期間も延びに延びた。それほどに追いつめられていたのだろうか…。
ちょっとぼんやりしたわたしを、安田さんの声が引き戻す。
仕入れた商品は、基本、まず販売者が代金を全額持つことになると言った。購入者を見つけ、集金した金額を本部に収めたのち、かなりいいマージンが販売者の元に送金される。それを繰り返すうち、早い段階で、最初の仕入れ金は回収できてしまうというが…。
契約書らしい紙をわたしへ差し出した。さっと見ると、細かな字の羅列の下に署名欄がある。そこに安田さんの奥さんの洒落た署名と、夫の直筆のそれが続いた。
「あの、ご主人は…?」
出て行って大分経つ、と言うのは避け、「今はちょっと、出かけていて…」とごまかした。
ため息をまたつき、安田さんはごにょごにょと言いよどんでから、
「ご主人からの商品代金を、家内はまだいただいてないようで…」
「え?」
「こちらのお宅の分だけでなく、他にも未回収の分がかなりあって…」
そこで、彼は別の紙を取り出して見せた。本部からの奥さんへの納入明細表らしかった。見れば、見慣れぬ商品名がびっくりするような数注文されている。その合計金額は、小さな悲鳴が出るほどのものだった。
「…入金の期限は迫っているし、すぐ都合のつく金額じゃないし…。それが出来ないなら、全商品を未開封の状態で返還せよ、とありますが、…一体、そんな商品が、どこにどうあるのやら…」
安田さんの悩ましい声に、相槌も打てなかった。夫が一枚かんでいる、という事実ではなく、単に驚きにのまれていたのだ。
こういったものを放り出して、あの奥さんはどこに行っているのか…。
「高科さん、ご主人のこの分は、支払っていただけますよね?…、商品も受け取っていらっしゃるんですし…」
そう言うのは、夫が契約した商品代金五十六万円のことだ。とっさに拒否反応が出る。そんな、身に覚えのないとんでもない金額、払うつもりはない。
「無理です。そんなお金、とても…」
「でも、奥さん、現に契約もあって、その商品も…」
間延びした口調は変わらないまま、支払いはしっかり求めてくる。不快なものの、多額の返済に、少しでも集金したい安田さんの焦りは、よく理解できた。
しかし、払えないものは払えない。
「わたし自身はお支払できません。お金もないし、そもそも身に覚えのないことだし…」
「そんな、夫婦の間で、何をおかしなことを…」
そこで、言葉を途切れさせ、安田さんはわたしをじっと見た。何かに気づいたような素振りだった。こちらのまずい夫婦仲を疑われたのかもしれないが、知られたって構わない。いちいち言いはしないけれども。
振りでもしれっとした顔をしていると、もごもごした声が続いた。
「家内と、…そちらのご主人、どういったつき合いなんでしょう? …こんな商売を紹介し合うほどとなると…。うちのがどこに行ったか、ご存じなんじゃないかとも思いまして…」
多額のお金が絡む儲け話が交わされる仲を、怪しんでいるようだった。求職中の夫なら、そのビジネスのさわりだけで、興味を引くのは不思議ではないと思った。以前の夫であれば、視野に入らない種の話であっても。
わたしにはそっけなかったが、夫には愛想がよかったっけ、あの奥さん。世間話のついでにでも、容易くこんな話くらいしそうだ。
それ以上の関係にあったかどうかは…、考えるのも無駄に思えた。
「さあ…、わかりません」
わたしの反応が鈍いためか、それ以上の言葉はなかった。
「ともかく、夫が帰り次第、この件は必ず伝えて、本人からそちらに連絡するようにも言います。今日は、ちょっと家の用で実家の方に行っていて…。奥さんのことは、きっと関係ないと思いますよ」
「はあ…、じゃあ…、よろしくお願いします」
わたしを相手に何を言っても、無駄だと悟ったらしい。軽く頭を下げ、安田さんは玄関を去って行った。
施錠を確認してから、リビングに戻る。胸が嫌な緊張感で妙にざわめいた。テレビを見ていた総司が、わたしを見て笑った。
「何?」
「おじさん、コッシーだね。似てるね」
それを聞き、「そっか」と笑みが浮かぶ。総司は先ほどの安田さんの声が、子供向け番組のキャラクターに似ているというのだ。確かに、間延びした声は、そんな感じだ。
「おじさんに言っちゃだめだよ」
「ライスが食べたいっす〜」
ちょっと笑って、頭をなぜた。
「もう寝ようね、明日また眠いよ」
まだまだテレビを見たがる総司を寝かしつけ、リビングに戻ってほっと息をついた。いつものように、キッチンのテーブルに原稿を広げる。雑多なメモや途中までのラフなどを前にしながら、気持ちがそちらに向いていかない。しょうがない、あんな話の後だ。
夫のケイタイは、とうに電源が切れている。
もう十時を回り、彼の実家に電話するのはためらわれた。でも、連絡した方がいいのだろうか。安田さんの様子を思えば、電話の一つもしておかないのは無責任なようにも…。
うろうろそんなことが頭をめぐり、ふと馬鹿らしくなる。何もかも初耳だった自分ばかりが右往左往しているようで、しゃくでもある。
でも、お金、どうするんだろう。
彼自身には、無理なはず。わたしが伝えた後、姑に頼んで用立ててもらうのだろう。
そもそも、いつ帰るかもしれないこっちの住所に荷物を送ってもらうなど、あの仕事をするつもりがあるのだろうか。もしかして、そろそろ、家に帰る気なのかもしれない…。
帰って来るのなら、離婚の話も進められる。宙ぶらりんな今の状態を、何とかしたい。前に進めたいのだ。
条件にこだわらなければ、離婚は今の状況では十分可能だと、弁護士さんには聞いている。親権の他、ほしいものなどない。面会だって、養育費だって、彼の都合に合わせるつもりだ。わたしだけの子供ではないのだから、わたしの意見だけ通るなどと思っていない…。
確かに、荷物がこっちに届くのは、じき帰る気持ちが、彼にはあるのだ。
つらつら考えるのは、そんなこと。もやもやとし、気持ちが原稿にちっとも向かない。
お茶でも入れよう、と立ち、カップにティーパックを垂らして、また思う。
でも、と。
商品の詰まった段ボール箱を、夫はどんな気持ちで買ったのだろう。きっと安田さんの奥さんの言葉に乗せられ、つい、ほろっと契約してしまったのかもしれない。
でも、
言葉に乗せられるのも、ほろっと気持ちが動くのも、彼の中の今をあがく必死な思いがそうさせたのではないか。「何とかしたい」と、わたしが将来を考えて焦れるのと同じに。
表向き、そんなようには見えない人だった。マイペースで、のんきで。それにわたしがいらだち、寄り添えず、今のわたしたちがある。
でも、
人の気持ちなど、その人にしかわからない。どう見えても、感じられても、本音で何を抱えているのかなど、他人には見えないのだ。
家庭とか、それを含めた未来とか。それらは、ずっしりと重く彼の肩や背に食い込んでいただろう。そこに、気ままにぶら下がって居直っていた自分が、うっすら胸に浮かぶ。
思いやるふりで、見守るふりで、無言で言い続けていた。なぜできないの? なぜしようとしないの?……。
余裕がなくて、毎日に振り回されて。わたしが必死になっていた分、何かの仕返しみたいに、彼を追い詰めていた? 誰かと比べ、責めていただけなのかもしれない。
そんなわたしから、逃げ出したくなるのは当然だ。
精一杯だった自分を、罰する気はない。
ただ、後味悪く思い返すだけだ。
あんなに示してほしかった夫のやる気が、目の前にある。それが、彼に似つかわしくない分、余計に浮き立ってそこにある。
こんな今になって…。
ふと、胸がふさがれるような重苦しさを覚えた。
あの商品が詰まった無地のそっけない段ボール箱に、夫の字体で、「追いつめられていた」、とでも、告白が見えるように思う。
 
 
夫の実家へ連絡を取ったのは、翌日のことだ。総司を幼稚園に送り出した、まだ早い午前に電話をかけた。
もしや居留守でも使われるのでは、とも思ったが、意外にも姑はすんなり彼へつないでくれた。
『何?』
久しぶりに聞く声は、そっけない。朝食でも食べていたのか、咀嚼する音をやり過ごし、わたしは切り出した。これまで、散々姑に言伝をしてきたが、その返しがないことには触れなかった。
宅配便が届いたことと、その件で夕べ隣りの安田さんが現れたことを告げた。
『ああ…、そっか』
気の抜けたような声は、荷物のことなど忘れていたかのようだった。そこにやる気など見えない。軽い怒りの混じったあきれと一緒に、ちょっとほっとした自分がいる。
やっぱり、と。
今頃彼にやる気を出されても、困る、という利己心と、寝つかれずに、たっぷりと味わった罪悪感がなだめられるのだ。
『こっちに、送ってくれよ、悪いけど。俺から連絡して、送り返すから』
「やらないの?」
『元々、「返品しても構わないから、頼むから」ってことでハンコついてやっただけだよ。興味ないよ、あんな仕事。…当分、実家で暮らすから』
こっちで仕事も見つけた、と簡単に言い添える。完全に、わたしを無視だ。
「ふうん…。安田さんが、奥さんのこと知らないかって。夕べ帰りが遅いって、連絡も取れなくて心配してたから」
『知らない。何で俺に?』
「さあ、あの仕事のことで、親しくしてると思ったみたいだけど」
夫は黙って、言葉を返さなかった。「関係がない」と突っぱねているようにも、わたしに奥さんとのことを勘ぐられるのを避けているようにもうかがえた。
どうでもいい、面倒でそれ以上触れなかった。宅配便をそっちへ送ることを言い、いいチャンスだと、離婚の件を口にする。
「もう、一緒には無理なの」
『ああ、それがいいだろな』
この返事は予定通りだ。こんな関係で、彼が修復を望んでいるとはまさか思えない。
次いで、総司のことを言う。自分が親権を取りたいこと。面会の権利や養育費に関しては、夫の意見に従うつもりだと、何度か頭で整理したことを伝える。
夫はまた黙った。そこにひやりと心が冷えた。親権を彼も欲しがっているのかと、焦れた。それでも、幼い子に関しては、母側がかなり有利なのだと、弁護士さんに聞いた話を思い出す。必要があれば、それも言うつもりだった。
怒りでこっちが固くなれば、彼にもそれは伝わる。きっと話はこじれる。やはり、最後の最後に無駄に争いたくはない。
淡々と、淡々と。心に念じるように言い聞かせた。
『親権はいいよ。好きにして。ただ、養育費は、勘弁してくれ』
「うん、でも、仕事が落ち着いたら、少しは…。それは子供の権利だから」
彼から送金されても、それを生活費に回す気持ちはない。総司のこれからのために、蓄えておくつもりでいる。だからもらえるものは、少額でもほしい。
沖田さんなら、多分「気にするな、任せとけ」と言ってくれるだろう。そんな言葉ももらっている。でも、先はわからない。ずるくても、出来るだけ安全パイを切っておきたいのだ。
 
『自分の子じゃないのに、払えないよ』
 
え?
夫の言葉に耳を疑った。突然の言葉に怒りも遅れた。無責任な。と、じわじわそれがやって来たとき、かぶさるように、
『俺の子じゃない。DNAでの親子鑑定の結果も出てる。医学的に、総司は俺の子じゃない。そんな子供に金が払えるかよ、今後ずっと』
「何を言ってるの? 意味がわからない。…そんな、DNAの鑑定だなんて、そんなことがどうして出てくるの?」
急いて訊いた。この期に及んで、責任から逃げようとする夫へのいらだちと、「DNAでの親子鑑定」という、耳慣れない言葉に、うっすらと怯えがある。夫が、ただの逃げのため、こんな妙なことを持ち出してくるのは、やはりおかしいのだ。
意味を問うても、彼は電話では伝えにくい。とそれ以上教えようとはしない。代わりに、会って今後の取り決めをしよう、と言う。
『その方が、証拠も見せられるし、お前も納得できるだろ』
ほいっと、こちらへものでも投げるような響きだった。その声に、ゆとりさえ感じた。
わたしにはわからない、「何か」を彼は持っている、その余裕がのぞくのだろうか。
胸の中が、もやもやと泡立つような、嫌な気分だった。
「これから、そっちに行く。構わないでしょ」
慌てた声でそう告げた。夫は、姑に何か訊いているようだったが、ほどなく返事が来た。『ああ』。
『一人でも、誰でも一緒に来いよ』
やはり、強みのある返しに、胸が騒ぐ。わからないが、彼は「何か」を持っているのだ。
電話を切った後で、時計を見てざっと予定を立てる。頭を働かせ、身体も準備に動かしながら、気持ちは急いて、あちこちに激しく揺れた。悪いことばかりが、わからないからこそ、浮かんで尾を引き、消えない。
悩ましさをひととき振り払うよう、頬を叩いた。今はしっかりしよう。今だけでいい。悩むのも気を滅入らせるのも、後でいい。今は止めよう。
とにかく、行こう。
 
すべてはそれからだ。





          


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