ふわり、色鉛筆
(28)
 
 
 
夫の実家までは、片道一時間超かかる距離だ。これからすぐ出れば、二時半の総司の幼稚園のバスの迎えには、少しだけ余裕が持てる。
念のため、思いついて実家に連絡を入れた。もし帰りが遅れたとき、実家の誰かが総司の迎えに出てもらえると、とてもありがたい。
姉が出て、用事を頼んだ後で、なぜかダグに代わった。
『ハイ』
落ち着いた、明るい彼の声だ。肌の色の異なる彼の、とびきり背の高い身体を作務衣に包んだ姿が目に浮かぶ。ダグは墨染め衣もよく似合う人なのだ。
『コージの実家に行くって?』
そう訊かれた。姉はわたしの用件を繰り返していたから、そばのダグに伝えていたのだろう。
「うん、ごめんね、総司のことお願いするかも。…話があるみたい。」
『コージが?』
今朝の電話の内容は、ここで打ち明けにくい。わたしだって混乱しているし、何があるのか知らないが、こちらの不安をあおるだけあおる夫に対して、腹も立てている。
「うん、…よくわからないけど、電話で言えないって…」
これを言うだけで、胸が波立った。実家に電話をしている甘えからか、ちらりと涙が浮かぶ。それを、時計を眺めることでやり過ごした。早く出ないと、時間が足りなくなる。
『一緒に行こう。一人じゃない方がいい』
「え」
すぐ、車で迎えに来るという。答えがすぐに出ない。頭でちょっとあわあわ言っている間に、電話の奥で「そうしてあげて、ダグ」と姉の声が聞こえた。
車で行けるのは、時間のない中都合がいいし、何より一人は心細いのは確かだ。
「ありがとう、助かる」
素直に甘えて、電話を切った。
 
夫の実家に向かう車中、ダグには事のあらましを話した。
ハンドルを握るダグの向こう、車窓の景色が流れていく。
「…どう思う?」
「一つ二つ、答えは浮かぶけど、それが正しいかはわからない。コージの口から聞くまで、待った方がいいね」
「一つ二つって、どんな? ねえ、教えて」
「若菜も想像はしているだろう? ああじゃないか、こうかもしれないって。それと大して変わらないよ、きっと。僕の考えと君のを答え合わせしたって、今は意味がないだろう」
ダグの冷静な様子が、ちょっと憎たらしい。意味はないかもしれないが、ああだこうだと答案の見せ合いっこでもした方が、もんもんと不安に埋もれるよりましだ。
それに、ダグとわたしの意見が合ったのなら、多分答えはそれなのだろう。なら、夫に会う前に、話し合いに臨む覚悟もできるかもしれないのに…。
そこでダグが、通りかかったファーストフード店に乗り入れた。ドライブスルーの列の最後に付く。
「コーヒーでも飲もう。今朝、コーヒーが切れかかっててね、足りない分を、美樹(若菜の姉)がココアで増やせばいいって入れたんだけど…」
順番が来て、彼が備え付けのマイクに向かい、コーヒーを二つ頼んだ。
「奇妙な味だったよ。悪くないけど、うん…、コーヒーじゃないね」
注文のコーヒーを受け取り、わたしに一つ渡してくれた。気持ちが落ち着かず、礼を言う声も小さくなった。
ただ窓の景色に目をやった。唇を焼きそうになるコーヒーをすするように飲んだ。喉を暖かな飲み物が通ると、少しだけ心が凪いでいくのがわかる。
「やっぱり、旨いね、本物は」
と、ダグはにっこりと笑った。
やみくもに不安がるわたしの口をやんわり封じ、代わりに熱いコーヒーを流し込む。それで事態は変わらない。
「わかっていることで、悪いことはないよ」
ダグは差し込む日の光に目を細め、実においしそうにコーヒーを飲みながら言う。やや薄めの、熱いだけが特徴のありふれた味なのに。この人なら、姉がごまかしにココアを混ぜたコーヒーでも、「悪くないよ」と易々と飲むのだろう。
「コージは、離婚に前向きだ。そして、若菜がまずこだわるソージの親権にも、興味がなさそうだ。どっちも君に都合がいいね」
「でも、あの人、DNAが何とか言って…」
「それも、彼の逃げ口上だけなのかもしれない」
「そう、だね。…そうかもね」
「わからないよ、コージの話を聞くまでは。でも、君はもう欲しいものは、きっと手に入れてる。大事なのは、ここだよ」
「うん…」
ダグの言うことはわかる。今、わたしに不利なことは、ない。電話での話は、養育費を逃れるための、夫の言い訳なのかもしれない。卑怯としか言えないが。
それにしたって、もっと別な口実があるだろうに…。腹立ちがふつふつとわく。それをコーヒーを飲むことで紛らした。
「心配は要らない」
「そうだね」
と、ダグの言葉に何度も頷いた。よく理解しながら、不安な心は納得しないままだ。
 
玄関口に真新しい自転車があった。ロードバイクといった洒落たタイプのものだ。夫には妹があるが、嫁いで実家にはいない。舅の年齢を考えれば、夫が乗ると思えた。
出迎えた姑は、わたしの傍らのダグにびっくりした表情を向けた。姉の夫が外国人であることは、これまで伝えたことはあるはずだが、会う驚きは別なのだろう。
和室に通され、ほどなく夫が現れた。
久しぶりに会う彼は、実家が居心地がいいのか、ちょっと頬の辺りがふっくらと見えた。この地に仕事も見つけたと聞く。そんな安定がわかる。少し前の彼と、雰囲気が違うのだ。この彼なら、玄関に置いてあったロードバイクを、気軽に足代わりにするはずだ。
「やっぱり、ダグと来ると思った」
夫は面倒見のいい義兄を見て、ちょっと笑う。これから口実を振りかざし、養育費を逃れようとするには余裕がある。それで、わたしはまた落ち着かなくなる。
お茶を運んできた姑が、夫の側に残ろうとしたが、夫が席を外すように言った。姑は、不満げな顔を、なぜかわたしに向ける。
「大丈夫」
彼がそれを鷹揚に言いなだめ、姑をふすまの外に追いやった。何が「大丈夫」なのか。
ふと、この部屋が、夫の実家に泊まるたび、自分たちの寝室になっていたことを思い出した。布団を並べ、間に総司を挟んで眠った…。その記憶が、まるで別の世界のもののようだ。
「昼頃に、会社に顔出さないといけないから…」
「わたしも総司の幼稚園の時間があるから」
時間がないと暗に言う夫に、その決まった職について質問する気も起きなかった。夫はうなづいて、シャツの胸ポケットから折りたたんだ紙を取り出し、それをわたしたちの間にある座卓に置いた。折り目で、ふわっと置かれた紙を手に取った。
文字の羅列が目に飛び込んでくる。
『○●大学医学部病院におけるDNAによる精査の結果、高科浩司氏と高科総司君が生物学上の父子である確率は、きわめて低いとの検査報告をここにご報告いたします…』
まず、意味が取れなかった。いや、頭で理解はできても、それをこくんと飲み込むことが出来ないのだ。
いつの間にか、わたしの手から紙を抜いていたダグが、
「これはコピーのようだけど、原本はあるの?」
「あるよ。他、配列の解析表も付いてた」
「見せてほしい」
ダグの声に、夫は立ち上がり、部屋を出て行った。ふすまの向こうで声がする。姑が彼に何か言っているようだった。「…丈夫なの? お金の…」と聞き取れた。
ほどなく夫が戻り、A4サイズの封筒に入った書類を渡した。封筒には、先ほど目にした『○●大学医学部病院』の名が印刷されている。
ちらりとわたしを見てから、ダグが中から紙を取り出す。夫が見せた紙と同様のものが一枚、それに鑑定の結果を表にしたものが二枚あった。
ダグはそれに丹念に目を通している。
「わかるの?」
「いや、門外漢だからね」
見終わった紙を彼は封筒の中に戻した。
「でも、本物だってことは、わかった」
ダグの声に、向かいに座る夫がくすっと笑う。何がおかしいのか。いらだち、わたしはわかりもしないのに、封筒を手に取った。中を見たい訳でもないのに。それを、夫が身を乗り出し、すっと抜き取ってしまう。
「お前に破られたら困る」
「ちょっと…」
声を荒げたわたしをなだめるように、ダグがこちらの手の甲をぽんと叩いた。それで口を閉じた。
「それが本物だとして…」
時間もない。怒りをぶつけるよりも、まず知るべきことがあった。
わたしの代わりに、ダグが夫に訊く。
「なぜ鑑定が必要だった?」
「俺だって、そんなこと考えたこともなかった」
そこで言葉を切り、姑の淹れたお茶を、夫は一口飲む。思わせぶりな溜めが長いから、またそれでいらだつ。だから、ダグが「なぜ?」と訊いているのだ。
つい、にらむように彼を見ていた。目が合い、視線をつっと向こうが逸らした。
「病院から、連絡があった」
「え?」
「総司が生まれたあの病院だよ」
「病院…」
ダグの視線を頬に感じる。
妊娠出産の思い出は、そう遠いものではなく、思い出すまでもない。それに、わたしには不妊治療の期間もあった。長く思えたそれを経ての経験だ。忘れる訳がない。
夫の転勤に従い、西日本にいた頃のことだ。偶然名のある不妊治療のクリニックが、通える距離にあり、すぐに訪れた。今から七年は経つ。
それ以前にも他の病院で通院していたから、治療の知識はあった。感じのいい場所だったが、これまでと取り立て変わり映えのない治療内容に、やや落胆し、焦れながら通っていたのを思い出す。
思い出が、忙しく頭を駆けめぐった。
しかし、それが…、
「向こうが認めてるんだ。総司が出来た、人工授精の処置の際、取り返しのつかないミスがあった、って」
ダグがわたしの肩にぽんと手を置いた。機械的に彼を見る。夫の話の真意を理解した、迷いのない表情をしていた。とうに、彼には夫が持ち出す突飛な内容の目鼻がついていたのだと知る。
「間違いない?」
何が? 
ちょっとぽかんとした顔をしたと思う。
「カルテにもある。人工授精で総司が出来たのは事実だよ」
答えないわたしに代わり、夫が言った。
あの病院では、体外受精を繰り返した。結果が出ず、「ステップダウンしてみよう」と言う担当医師のアドバイスで、人工授精に戻ることもした。何度行っただろう。それもはかばかしくなかった。
これまで、随分と費やしてきた費用や時間に、ふてくされた気分にもなった。指示されていた受診も捨てばちになり、さぼることも増えた…。そんなとき、本当に不意に、妊娠を知ったのだ。
ふつふつと甦る記憶は、まだ生々しい。
「取り返しのつかないミスって…?」
そこで夫は、またちょっと言葉を溜めた。ほんのしばらくわたしを見ながら、口を開く。
「精子の取り違えがあった」
 
え。
 
自分の手に重なるダグの大きな手を感じた。いつからそうしてくれたのだろう。わたしは彼を見、それから夫を見た。
「総司は、俺の精子で出来た子じゃない。別の、どっか知らない男の精子が、お前の身体に入れられて出来たんだよ」
「嘘だ。そんな…」
「こんな変な嘘つくかよ」
夫はそこでまたDNA鑑定書のコピーを、机の上に放った。そして、淡々と話し出す。
二月ほど前の真夏の頃だ。突然、自宅にその病院から電話があった。電話では話しにくい、「非常に重要な、総司君の出生に関わるお話」があると告げられた。会う場所であれこれ問答があり、都内のホテルで落ち着いた。そこに夫が出向くと、病院の院長本人、そして弁護士がいたという。
「その場で、五年前に精子の取り違えがあった、と言われたよ」
「どうして今頃?」
ダグの問いに、別の夫婦から病院に、問い合わせがあったのだと答えた。「子供の血液型がおかしい」と。
病院側は、「あり得ない」突っぱねるが、その夫婦は代理人を立て、更なる調査を要求してきた。そこで、病院も調べた結果、夫婦と同じ日時に人工授精を行った、わたしの存在が浮かんできた…。
「精子が、入れ違ったんだよ。俺のが、その夫婦の妻の方に行って、夫のがお前に入った。それで、どっちにも子供が出来た」
気味が悪かった。信じられない嫌な話が、身体の中に入り込み、不快なものに変わる。そして、中で好き勝手動き回るのだ。
めまいがした。
目をつむりながら、夫へ、どうして黙っていたのかを訊いた。わたしの問いに、彼は唇の端で笑った。
「言おうとしたよ。でも、お前はしょっちゅう出かけて忙しそうだったし、普段もカリカリして、取りつく島もなかっただろ。自分の態度を反省もしないのか?」
「そんな…。「話がある」の一言くらい言えるじゃない。大事な話なら、絶対に聞いた」
「どうだか。自分だけが働いてるんだって、いい気になってたくせにな」
夫は、鼻で笑うようにこちらをあしらう。いつかこの男は、生活のためがむしゃらに同人誌を頑張るわたしへ、「頼むぞ、しっかりしてくれよ」と投げるように言ってよこしながら、今更、こんな逃げを打つ。
そして、自分ばかりが、こんな重大事を二月以上も握って明かさなかったのだ。夫のずるい身勝手さに、堪らなく腹が立つ。目の前の鑑定書のコピーを破ってやろうかと手が伸びた。
そこへ、ダグの声が割って入る。
「それで、病院は何て言ってるの? 相手方の夫婦は?」
「向こうの夫婦は、事情がわかれば、納得できるって。片方の血は入ってるから、これまで通り育てていくらしい」
そこで、夫は言葉を切った。
夫の話に、納得した訳ではない。動かぬ証拠を前に、無理やり飲み込まされたのと同じだ。心は受け入れたくないと、声もなく叫んでいる。
顔も知らないその夫婦は、子供の衝撃的な事実をどう抱きしめるのだろう。半分夫の遺伝子を受け継いだ我が子に、何を思い、乗り越えるのだろう。自然、自分と同じ立場の人たちの状況に気持ちが泳ぐ。
そして、突きつけられた事実は重過ぎた。下腹の奥に妙な違和感が残る。そこで、見知らぬ人の精を受け入れ、気づかぬ間に交わり、わたしの身体は子を生したのだ。言いようのない違和感は、浅い吐き気を呼び、不快感に流れていく。
噛んだ唇に指の節を当てたまま、視線の定まらないわたしを、ダグが呼ぶ。
「若菜の思いはどう? ソージに対して、気持ちは変わらない?」
「それはない」
瞬時に、問いかけに首を振っていた。わたしの中の違和感や不快感と、総司の存在は全く別だ。この問題で、あの子への感情が変わるものではない。
「そりゃ、お前は、自分の子だもんな」
夫の失笑交じりのつぶやきが、傷に触れたように癇にさわる。実子でないことがわかっても、育ててきたこれまでがあるじゃないか。
生まれたての、ふにゃふにゃと頼りないあの子を、不慣れな手で抱いたこと。夜泣きや、突然の発熱にうろたえたし、ちょっとのすり傷でも大騒ぎした。そんな日々の積み重ねが、わたしたちを少しずつ、総司の親にしていった…。
それが、血のつながりがないという、見えない事実で簡単に消えてしまうものなのか。
見返せば、彼は冷めたような目でぼんやりとしている。
怒りより、夫の気持ちの変化が信じ難い。あの子を、この人は捨ててしまえるというのか。
「わかった」
ダグの返事は、わたしへのものであり、夫に対してのものでもあるようだった。「それで…」と、何かをつなぎかけた彼の声を、わたしは遮った。
「待って、ダグ。あの人の言い分がわからない。おかしい」
「コージの意見をのんだ訳じゃない。気持ちを把握したまでだよ」
「これ以上の関わりは、勘弁してくれってのが、正直なとこ」
露骨な言葉だった。わたし側のダグの頬が、さっとこわばるのがわかった。
けれども、それは声には出ない。彼のいつもの柔らかな声が続いた。
「病院の対応はどうなってるのか、教えてほしい。君だけが、あちらとのこの問題の窓口なんだからね。フェアじゃないことは止めよう」
「隠し事はないよ、ダグ。報告が遅れただけじゃないか」
「重大なことだから、こちらからも病院に確認は取るよ。コージの話を疑う訳じゃない。冗談にしては、手が込み過ぎてるし、それだけの意味もないだろう。だから、念のための確認作業だ」
「それは…、もう解決済みのことだから、今更病院に確認を取るっていっても、あっちも迷惑なんじゃないかな…、いつまでも昔のことで、ああだこうだ…」
「昔のことなんかじゃない。若菜と、もちろんソージに一生まつわる、将来に向けての話だよ。そのための過去の追認だ。絶対に欠かせない」
「うん、でも…、前のことをほじくり返すのは、もう一方の夫婦のこともあるし…、デリケートな問題だから、もう交渉を持った俺に任せてくれれば、穏便で話も早い。何なら院長から、またもう一筆もらうこともできる。解決済みだけど、それなら、あっちも迷惑に思わないだろうし…」
離婚を決めたことか。総司を切り捨ててしまうことか。夫は「解決済み」をまた口にした。夫ののらりくらりとした返しに、ダグはゆらっと頭を振った。
「ちっとも解決してないよ、コージ。この際、病院側の迷惑なんか、シッタコッチャナイ」
「知ったこっちゃない」が、何か崇高な英語の決めぜりふに聞こえた。単なる「知ったこっちゃない」なのに。こんなときだけど、ちょっとおかしい。
どんな最中でも、下らないことにくすっとできる余裕があるのだと、不思議に思った。そして、笑うことで、きちきちと緊張していた気持ちが、ほんの少し緩む。そこで、やっと息が通るように、ほっとするのだ。
笑うって、大事なんだな。まるで時が止まったように、しみじみと噛みしめてみる。ダグには、きっとそんなつもりなんかないだろうけど。
出されたままのお茶に、初めて口をつけた。冷めてはいても、風味のいいお茶だ。おいしい。
夫にもダグの言葉は不思議に聞こえたのか、はっとした顔をしたようだ。しかし彼は、笑うどころか、うつむいた。これまでの調子の良さが、やや引っ込んでしまう。
「実は…」
「シッタコッチャナイ」の魔法の成果か、ぽつぽつと夫は語り始めた。既に、病院から和解金を受け取ってしまっているという。
「ごく近親者は別として、この件を口外しないことが、賠償金の絶対の契約条件になってるんだ。もう一方の夫婦と病院への接触も、遠慮してほしいらしくて…」
ダグは軽く頷いて、相槌に代えた。
夫はわたしの目を見ない。後ろめたい何かがあるように。
「どうして、わたしに一言もなかったの? 賠償金とか、契約とか…、何で、一人で勝手に決めちゃうの?」
「そう、そこが僕も知りたい。それに、弁護士を介いての契約なら、口約束もないね。その書面を見たい」
「や、それは…」
夫がどこに置いたっけかな〜、などと視線を泳がせ、馬鹿らしいほどのとぼけ方をする。慌てているのはわかるが、はたきたくなるような態度だった。
ダグは、そんな夫を前に、机に置いた指の節をとんとんと打つ仕草を見せた。ちょっとの吐息の後で、
「ねえ、コージ。幾らもらったの?」
核心を突く問いだった。病院との和解は聞いたが、もらったという賠償金の額について、夫は触れていない。
「え?」
「幾ら?」
「…え、その…、六、八百万だったかな…」
「そんな大事なことも「だったかな〜」程度で話すのは、信用できない。悪いけどね。やっぱり、契約書を見せてほしい。あるはずだよ」
ダグの声は、頑としていた。それを見て、一人で来なくて本当によかったと実感する。わたしだけなら、病院側のミスを知った辺りで、頭がもうろうとしたままだったろう。
揺らがないダグの態度にも、夫は粘るかのように、しばらくうつむいたままだった。が、じき重い腰を上げた。襖に向かったとき、思いがけず、先にそれがすっと開いた。
廊下に立っていたのは、姑だった。事の成り行きが不安で、様子をうかがっていたようだ。手に白いA4サイズの封筒を持っている。
姑は夫に頷いて見せた。部屋に入り、夫の隣に腰を下ろす。話に参加するらしい。膝に封筒を置いたまま、
「これを見せてもいいけど、この内容に持って行ったのは、息子の手柄なんですよ。それを最初に言っておきますからね。若菜さんなんかが相手になってたら、全然、話は違ってましたからね」
と、釘を刺した。物腰にも、譲らない覚悟が見える。夫は頼もしげに、自分の母親を横目で見、ちょっと笑顔になる。
うわ、気持ち悪い。
正直なその感情が顔に出ないよう、口元を引き締めた。笑っちゃいそうだった。ちらりとダグを見れば、彼と目が合う。「おやおや」とでも言いたそうに、目が笑っていた。
「ともかく」
仕切り直しだ。ダグが契約書を見せてほしいと再度口にする。それに、確認し合うように夫と姑が目交ぜをし、その後こちらに封筒が渡された。中には、B5サイズの書面が一枚。
ダグがわたしにも見やすいよう手に持った。
秘密厳守。もう一方の夫婦への接触の禁止。夫が口にしたことが、繰り返し硬い文章で書かれている。
『これ以降のいかなる請求または申し出も、私はその権利を放棄いたします…』。その文言の下に少し間を開けて、夫の署名と捺印がされている。そこまでをざっと読み、もう一度、斜め読みにした箇所に目を戻す。
「あ」
思わず声が出た。その声の相槌のようにダグが、署名の少し上部分を指でさした。そこには、『金一億円』の文字があるのだ。
 
一億!
 
繰り返し目で確認し、それからダグを見、最後に夫を見た。
彼は気まずいように目を逸らした。それで、まるでちょっと照れたような表情になるのだ。「ばれちゃった、へへ」とでも聞こえそうに思えた。
その隣りで、姑が固い声を出す。
「息子が頑張ったから、出た金額なのよ」
何を?
一人でこっそりと?
持ち逃げするため?
 
ふざけんなよ。
 
「わたしには、知る権利もないの? 実際、知らない誰かの子供を産んだのは、わたしじゃない! なのに…」
怒りで興奮し、言葉が続かない。誰かが「それ」とでも言ってくれたら、机をひっくり返してやりたいぐらいだった。
でも、代わりに、わたしの肩に置かれたのは、ダグの手だった。促すようにぽんと叩く。
「行こう」
そのまま彼は立ち上がる。その際、契約書の入った封筒を手にしたままだった。取り返そうと、姑が「あっ」と手を伸ばす。小柄な姑の手を、背の高いダグは封筒をちょっと上にかざす感じで逃れた。
「こちらも、しかるべき人を立て、この契約を吟味させてもらいます」
そう言った後、彼は部屋を出た。わたしもその背を追う。
家を出るとき、姑の金切り声がした。夫へ向けたものだったのが、せめてだった。「どうするの!? あんなオバマみたいな人が出てきて!」。
後味が悪いばかりの訪問だった。おざなりに頭を下げただけで辞した。
「僕がオバマだったら、彼らにCIAの監視が付くよ」
ダグの軽口も、声がやや硬い。
車に乗り込み、往来へ出た。
「取り乱さなかった、偉いよ」
「まさか」
「頑張ったね」
「ありがとう、一人だったら…」
そこで涙がにじむ。
悲しくて、辛い。
なのに、どこかでほっとしている自分がいるのだ。
もしかして、わたしは頑張れたのかもしれない。





          


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