ふわり、色鉛筆
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ケイタイの音に、放心した気持ちを引き戻された。
表示を見れば、夫だった。これまで、いつかけたって電源が切られていたのに、自分が必要になれば、ちゃんと電源が入っている。当たり前のことにちらりと腹が立った。
無視しようと思ったが、鳴り続ける電話もうるさい。とりあえず通話ボタンを押し、耳に当てた。
『なあ、頭を冷やせよ』
第一声から、意味がわからない。
『急な話で驚くのもわかるけど、まずお前が冷静にならないと』
わたしが黙っているのを、どうとったのか、急ぐ声はちょっと得意げだ。弁護士など介すことなく、今後は夫婦二人の話し合いで決めた方が、お互いのためになると、夫は言う。『総司のためにも』と。
鼻で笑いそうになった。
つくづく自分に都合のいい人なのだ。弁護士が間に入れば、わたしを丸め込んで、あの賠償金をふんだくる隙がなくなると、慌てているのだろう。姑が急かしたのかもしれない。
『求職が難航して、なかなかお前の気に沿えなかった部分もある。それは認めるよ』
求職が難航? 毎日ゴロゴロ、漫画喫茶に日参していても?
部分もある? そっちがメインの場合も、『部分』って言えるんだ、ふうん。
電話を切ろうと、耳から離しかけたとき、
『浮気のことも、目をつむる』
声が突き刺さった。
 
え。
 
『自分だけが正義って面だけは、しないでくれよな。知ってるんだから、俺は』
 
どうして? 
すかさず、そんな言葉が舌の上に乗る。けれども、声にならず、喉の奥に逆戻りしてしまう。
わたしは何も言わず、そのまま電話を切った。
すぐさまコールがある。聞こえない振りで、ケイタイをバッグにしまった。例のお隣り絡みの段ボールも、ダグに手伝ってもらって、さっき玄関先に置いてきた。後は、夫がどうとでも処理すればいいことだ。わたしは知らない…。
煩わしいBGMも、長く伸びて、そのうち切れた。思いつき、電源を切った。
ダグがこちらを向き、「コージ?」と訊く。頷いて返した。
ハンドルを握りながら言う。
「お義父さんにも美樹にも、今日折りを見て、僕から話しておくけど。それでいい?」
「うん、そうしてもらえると、助かる…」
正直、父や姉に、これまでのことをいちいち説明する気力がない。
「弁護士のことは、君にマッチする人を探すのはちょっと面倒でも、それが決まれば、後はその人を通じれば済む。放っておけばいい。知らない間に解決するから」
「うん…」
「一人で不安なら、帰ってきたらいいよ。君の家だしね。落ち着いて探せば、弁護士も、いい人が見つかる。僕も協力するし、美樹の方が都合がよければ、彼女と一緒に探してもいいしね」
ダグの思いやりありある言葉に頷きながら、心では、夫が放った言葉が、尾を引いている。『浮気のことも目をつむる』と、夫は言った。
車窓を見、何度も唇を噛んだ。そうやって、ようやく言葉が声になった。ダグは沖田さんのことも知っている。隠す話でもない。
「…さっき、あの人が言ったの。『自分だけが正義って顔はするな』、『浮気のことも目をつむる』って…」
「え?」
ちらり、ダグの顔がこちらを向いた。すぐに戻り、片方の手の指の背を唇に押し当てている。わたしは、返事をしないで電話を切ったことを言い添えた。
「そんな話は、これまでした?」
「ううん」
「当てずっぽうってやつかもしれない。きっとコージの側が不利だからね。相談もなく決めた和解といい、それを黙っていた事実もある。だから、君に何か落ち度を見つけたいんじゃないかな」
「うん…」
「でも、カオルに会うのは控えた方がいいね。彼らが人を使って、身辺を探らせることもあるし」
ダグの声が、胸に刺さった。それは意外なほどつきんと響く。
ダグの言う通りかもしれない。そうじゃないのかもしれない。夫が、たまたま鋭い勘を働かせたのかもしれないし、または沖田さんとの関係の、具体的な事実をつかんだのかもしれない…。
ふと、彼の妹のいろはちゃんのはきはきとした声が甦った。そして、遅れて彼の声も耳に返る。それらに、しんと気持ちを傾けながら、やはりあの人には会えないと思うのだ。
会って、この惨めで、みっともない状況を話す勇気がとても持てない。
 
 
現実逃避でも、都合がいい。こんなとき、変に原稿がはかどった。
次のイベントに合わせて準備中のものが一つ。他、通販に予定しているものが二つほど。リアルでは、千晶の本の分があって、手がいっぱいだ。理由などどうでもよくて、集中してものが描けるのは、本当に嬉しかった。
『ええ?! よろしいんですか? 本当においでいただけるんですか?』
電話越しに、同人仲間の咲耶さんの声が響く。イベントでは、何度も彼女に委託させてもらっている。都度お礼はしているが、久しぶりに手伝いを買って出たのだ。彼女の本はファンが多くて、午前中には完売してしまうが、少しでも。
「お邪魔じゃなければ、売り子するよ」
『畏れ多い! 遊びにいらして下さい。 お坊ちゃんとご一緒に』
「ははは、子連れは無理かな」
約束を交わし、電話を切った。人で熱気むんむんのイベントに顔を出せば、気も紛れそうな気がした。
嫌な後味を引く夫たちとの話し合いの後、わたしは家にこもりがちだった。あの後、二日実家に泊まった。姉たちは引き止めたが、総司の幼稚園もある。弁護士の件を詰めた後、こっちに帰ってきた。
いい思い出は少し。ローンはほとんど残っているし、子供と二人で住むには広過ぎた。それでも、ここが自分の家だと思ってしまうのはなぜだろう。
結婚して、あちこち夫の転勤先についていき、もう転勤はないはずと、家を買った。初めて落ち着ける気がした。総司の幼稚園も、ここを軸に決めた。自然、ここから通える小学校も頭にあれば、その先もそうだ。
夫が失業してからは、ここからわたしがパートに出かける日々だった。それからも、あれこれあって…。
ケイタイが鳴った。表示を見れば、びっくり。
沖田さんだ。
ちょっと迷い、出る。
『おい、雅姫か? お前な…』
いきなりケンカ腰だ。何なんだ。
「はは、久しぶりだね」
『何が「はは」だ。連絡くらい寄越せよ。うんともすんとも言ってこないんだからな』
「え、メール返事したよ」
『そうだな、「うん」だけ、な』
あきれた声が届く。
メールはこちらの具合をたずねる内容だった。離婚の状況とか総司の様子とか、もし弁護士を通すならその件でも協力できるとか。ついでに、買った新しいたこ焼き器の性能とか…。外面の割に、細やかなメールだった。
気も滅入っていた。返事のしようがなくて、つい、「うん」とのみ、素っ気なく返してしまっていた。
当事者のわたしですら、勘弁してほしいと願うほどの事態だ。何を言っても、愚痴や泣き言になる。そして、将来に備えて、出来る限りの額を、わたしも夫から引き出したいと望むようになってもいるのだ。
部外者の彼には、お金と欲が絡んだ、醜い場面にしかきっと見えないはず。それらを隠すつもりで、安易にだんまりを決め込む。こんなでも、わたしは彼に甘えているのだろう。
多分、これくらい許してくれる、と。こんな女だから、と。
ちょっとした沈黙の後、
『こじれてるのか? 話が』
「うん…、ちょっとね。ごめんね、ややこしくて。…ははは」
実際は、弁護士を通しての話し合いがしばらく続くだけだ。どちらかが、どこかで折れるまで。
『条件でも出されてるのか? 親権のこととか、分与とか…』
「うん…、まあね…」
『言えよ。お前が「まあね」しか教えないから、中身がわからない。これじゃ、相談にも乗れないだろうが』
「相談なんかしてないじゃない」
『じゃあ、しろよ』
「はは、…別にいいよ」
『なあ、俺と話すとまずいのか? 弁護士に止められてるとか…。なら、言ってくれないとわからない。ダグも、何かはぐらかすみたいな感じだったし…』
彼が、ダグと連絡を取っていることに驚いた。ダグは気さくな人だし、友人も多い。いつの間にか、年齢も近い二人は友だちにでもなっていたのだろう。
「ふうん」
『「ふうん」じゃねえよ』
そこで彼は、「なあ」とつないだ。
『へらへら笑ってるけど、お前、「大丈夫」とは言わないよな。言えないんだろ、本当のところは』
ちょっと探るような声でそんなことを言う。そして、それが鋭いので、即座に空笑いも返せなかった。はぐらかす余裕がないのだ。
彼に黙っていたいと願いながら、洗いざらい打ち明けてしまいたい気持ちもある。そして、自分の中で、起きたことへの整理もまだつかない。
選んだことに迷いのないはずが、やっていることは、出来事から目を逸らしていることに近い。これから、の日々に悔いなどないのに。
ふと口にした、「あの…」と、彼の言った、『なあ』が重なった。
即座に引っ込め、「何?」と続きを問う。
『なあ…』
「だから、何?」
『時間、取れないか? これから』
「え」
『昼くらい奢ってやる』
壁の時計を見れば、十一時近い。朝食が遅かったから、空腹はない。それでも、気持ちが躍った。彼に会うのは久しぶりだ。
でも、そこで夫の言葉が頭に甦る。彼への連絡が控えがちになっていたのは、それも理由の大きな一つだ。
返事が遅れた。「あの…」と、さっきも言いかけた意味のない言葉を繰り返す。
『おい、どうした?』
彼の声に引っ張り出されるように、しまっていた事柄を打ち明けた。夫が、わたしたちの関係を知っているらしいこと。意外さと恐れで、あの人が言ったセリフを、わたしは、半ば脅しのように捉えてしまっている。
『それでか…、ダグの歯切れが悪いのは…』
「うん、ダグは会うのを控えた方がいいって言ってた。人を使って、調べることもあるだろうから、って」
わたしの言葉を待つのか、黙った彼に、
「沖田さんに迷惑がかかるかもしれないし…、やっぱり会わない方がいいかも」
『ふうん』
沈黙。
ややこしくて重たいそれに、わたしは受話器をちょっとずらしてため息をついた。
『誰かに見られたか?』
自問のような声だった。二人でいたシーンを幾つか思い出す。普通に接していたつもりが、赤面したいものもあった。そのどれかが、人の目に留まったのかもしれない。
夫ではないと思う。が、総司の件を秘密にしていた底知れなさもある。わからない。
もしかして、お隣の奥さんが夫の耳に入れたのかもしれない。大金の絡むビジネスを彼に紹介した人だ。話のついでに、ビジネス話の導入でも使ったのかもしれない。気を引くために、面白く脚色して…。
もやもやとしたものが頭をよぎる。
『…なら、またにしよう』
「…うん」
自分でセーブしたくせに、『じゃあな』と電話を切られると、ひどく切なかった。ぷいっと彼に顔を背けられでもしたような、そんな寂しさがあった。
しょうがない。
また原稿に向かい、準備運動のように、意味のない線を紙の上に描いていく。そのうち、気持ちにけりがつく。
しょうがない。
何度目かのつぶやきが、やっと納得できるようになる。
 
千晶からのメールが届いたのは、総司を迎えに家を出ようとした頃だ。
 
『夜、おいでよ。ソウちゃんも。
原稿持ってきたらいいよ。
ワイン飲もう』
 
週末で、総司の幼稚園も休みになる。泊まらせてもらっても、都合がいい。気持ちがすぐに動いて、「行く」とメールを返した。
帰宅後、総司がぐずり出した。不満と甘えが合わさったかんしゃくだ。こういったことは、たまにある。身体も大きくなってきたし、赤ちゃん時代のようにずっと抱っこも出来ない。せいぜいあやしてなだめて、やっと静まらせた。
ほっとすると一緒に、どっと疲れが出る。アニメを見ながらアイスを食べる総司に、
「これからね、ママのお友達のところに行くよ。お泊りするからね」
「いいよ」
何かのスイッチが切り替わったかのように、聞き分けがいい。言葉にならない、子供なりのストレスだってあるだろう。さまざまに、それを受け止めてやることは、親なら、誰だってやっていることだ。
ここずっと、一人でやってきた。手抜きもあれば、至らないことも山盛りで、きちんとした人から見れば、わたしの育児はびっくりされるかもしれない。それでも、毎日をこなしてきた、という自負心はやはりあるのだ。
けれども、疲れを感じたとき、ふと不安になる。ちょっと怖くなる。この先、大丈夫なのか、と。
夫が家にいたときは、忙しかったりわたしの手に余れば、荷でも渡すように、総司の面倒を彼にバトンタッチしてきた。何もしてくれなくても、それだけで、うんと楽だったことを、こんな今痛感している。
ダグはわたしが一人になるのを心配して、「必要なときは僕を呼んで」と言ってくれている。「男の子の成長に、身近な大人の男性の影響は少なくない」。と言うのが、彼の持論だ。姉も父も、もちろん気にかけてくれる。
望むとき、身内のサポートが気兼ねなく受けられるのだ。ありがたい環境だと思う。
それでも気持ちが不安に揺れるのは、ホルモンのバランスといった生理現象に近いのかもしれない。
ダグは、きっと総司にいい刺激を与え続けてくれる。手近ないい見本だと思う。彼より身近になるはずの沖田さんを思い出し、ちょっと笑った。なぜか笑った。
期待はしていない。強いたいこともない。
ただ、わたしの心が彼を必要としているだけ。
 
 
とっぷり暮れてから、千晶の家に着いた。手土産にはアイスクリームを買った。
彼女はスケジュールに余裕があって、「楽だよ」と言うが、仕事部屋をのぞかせてもらえば、そう暇でもなかった様子がうかがえる。
清算しつつある、三枝さんの社の仕事も詰まっているはずだ。
「邪魔じゃない?」
「うん、平気。大きいのは終わったから、後はぼちぼち。ほとんどうち専門のアシで、結婚する子がいて、少し休みがほしいって言うから、二三日休むよ。ちょうどいいんだ」
千晶が総司にちょっかいをかけながら、結婚するといったアシの女の子の話を続けた。
「相手が、あの先生だよ、あの…」
「うわ、すごい。名前知ってる」
「いい人だよ。その先生がアンパンマンによく似ててね。その子と喋ってて、つい「あのアンパンマンが〜」って言いそうになっちゃうよ」
その女性は、結婚後も千晶の元でアシを続けるという。
「アンパンマンの仕事場が、男ばっかりでか、しょっちゅうピリピリしてるんだって。でもアシの絆が半端ないって。アンパン夫人でも居心地悪いらしいよ。バタコさんが5人いるって感じかな。居場所がなさそう、きついよね」
「あはは」
「うちも、わたしのイライラが充満して、いや〜な雰囲気のときもあるんだけどね〜」
千晶はそう笑うが、人を何人も使ってこれまで仕事をしてきたのは、すごいことだと思う。自分だけで、同人を好きなペースでやっているわたしには、ちょっと想像が難しい世界だ。
わたしたちが喋る傍らで、総司にはテレビを見せてのんびりしていた。夫とのことを聞いてもらいたかったが、総司がいてはとても口にできない。
九時に近くなり、あくびを連発し出したので、慌ててお風呂を借りた。一緒に急いでシャワーを済ませ、ぬれ髪を拭き拭きリビングに戻った。テーブルに千晶がグラスを出し、ワインの用意をしてくれていた。
「ソウちゃんアイス食べる? あげてもいいの?」
「うん、ありがとう」
冷えた白ワインがおいしい。
アイスを食べ終えた総司が、部屋中を駆け回る。来た当初はおとなしかったのに、慣れたらしい。
「こら、あんまり騒がないの。どんどんしちゃ駄目」
「いいよ。子供だもん。すごいね、若菜もママなんだ〜」
言葉に、ほんのりと寂しさが残るような気がした。だから、彼女が子供を欲しがっているのだ、とは飛躍しない。
他人が当たり前に持つ、自分の手にないものに、ふと羨望を感じるのは、ごく自然なことだろう。けれども、それを真実望んでいるかは、また別だろう。その場その場での、自分とは違う、といった単純な区別なのかもしれない。その上での、ちらっとした好悪なのかも、とも思う。
「色々言い訳して、適当にしてるよ。叱らないでおこうと思った端から、「こらっ」って言ってるし。ははは」
きゃっきゃとあちこち駆けまわる。床に眠そうに転がっている。
「こっちの部屋使えばいいよ」
「うん、ありがとう」
アシさんたちが仮眠室に使う部屋に総司を寝かせた。とろとろと寝そうなのに、わたしがちょっと身を離すとパチッと目を開ける。やはりよその家は、勝手が違うのだろう。
肘枕をし、添い寝をしていると、ドアが開いた。千晶だ。
「マンションの組合の積立金のことで書面を出せって言われてたの、今日までだった。管理事務所のポストに入れてくるだけだから、ちょっとごめん」
すぐ戻るね、と出ていく。
千晶が帰る頃には、総司が寝てくれてるといいな。常夜灯の薄暗い部屋に横になっていると、疲れが身体からにじみ出てくるようだ。途端に眠くなってくる。このまま寝てしまい、寒さに夜中目を覚ますことだってよくあった。
ついうとうとした。
はっと目を覚ます。総司が気持ちよさ気に寝息を立てている。頬に触れ、しっかり寝入っていることを確かめてから起き上がった。
まぶしさに目をこすりつつリビングに戻る。どれほど時間が経ったのか、棚の時計に目をやったときだ。思いがけないものを見つけて、ぎょっとなった。十時十分を知らせる針の前辺りに、沖田さんがいた。
人の家で、家主も知らぬ間に上り込んだくせに、寛いだようにネクタイを緩め、ソックスまで脱ごうとしている。
「寝たのか? 子供は」
「うん…、どうしたの?」
そう言えば、千晶がいない。総司を寝かしに別室に行ってから、二十分は経つはずだ。ちょっときょろきょろした。お風呂か、トイレかもしれない。
「千晶なら、出かけたぞ。遅くなるんじゃないかな」
「え?」
 
はあ?
 
「会ったの?」
「さっき、エントランスのロビーで。そのまま出てったぞ、タクシー呼んで」
「ええ?! 管理事務所に行くだけって言ってたのに…」
そこで、気づく。もしや、二人は示し合わせていたのでは…、と。
何なの、これ。そうにしたって。「沖田さんに声かけたから、もう来るよ」ぐらい一言、言ってくれたって…。タクシーって、どこまで行ったんだろう。いつ帰って来るんだろう。
いきなりの二人きりに、照れ臭いやら、面食らうわで、ごまかしに唇を噛んでいた。
「そんな顔するなよ。なかなか会えないから、俺が頼んだんだ、あいつに」
前に電話したとき、彼に会いにくいことを話していた。夫に関係を知られているかもしれないと伝えたのは、わたしだった。
千晶は思いやりとノリで、沖田さんの話に協力してくれたのだろうし、こうして時間を作ってくれる彼の気持ちは、絶対に嬉しい。二人の企みを知っていたら、わたしは素直にのめなかった、多分、きっと。
ひっかけられてちょっとむくれたくなる、わずかな抵抗感を脇に置いた。
ともかく、今のこの時間は、とても貴重なはず。
「飲む?」
「ああ、うん」
グラスを一つ、キッチンから持ってきた。テーブルの白ワインのボトルを注いだ。互いに少し口をつけ、短い沈黙に、似たような感慨がわくのを感じている。
彼とお酒を飲んだのは、もう十三年も前のことになる。千晶と二人して、たっぷりごちそうになった(きっと会社の経費)記憶は、まだ色あせていない。
適当でいい加減で、それでもノーテンキに楽しかったあの頃。そして、胸の愚痴をため息で吐き出すような今が、確かにつながっているのだ。細い細い糸で、なのか。そうではなく、昔がどこかで、『今』に色や形を変えただけなのか…。
「人生って、わからないね」
心の声が、ふと言葉になって出た。沖田さんは顔を上げ、つまみチョコが散らばった、テーブル越しに、わたしの手をつかんだ。
「なあ、何かあったんだろ?」
わたしのつぶやきが、嘆きに聞こえたのだろう。悪い意味ではないのに。何かの覚悟をもって、彼はここに来てくれたのかもしれない。わたしから、嫌な展開を耳にするかもしれないと。
意図もなく、多分きっと酔いだろう。ろくに飲んでもないのに。ほろろっと、涙があふれ、指でぬぐう間もなく、頬をこぼれ落ちた。
「雅姫」
彼の顔に注がれる視線を感じた。ぽっと頬に照れがのぼる。
空いた手で、頬こすりながら、羞恥に混じって、前に夫との対面であの人が見せた、思わせぶりな長い溜めを思い出した。今のわたしがそうなのかもしれない。あれは、うざい。
「あのね…」
彼の手を外し、ティッシュで目を抑えながら話した。総司が夫の子供ではないことと、多額の和解金を夫が隠して、病院との話を終えてしまったことまで、ほぼ全てだ。
事実を耳にし、しばらく沖田さんの声がなかった。
ちょっと自棄に、付け足した。
「できるだけ、あっちからお金を取ってやろうと思ってる。総司のためにもお金はほしいし。それで、向こうと話がこじれてるみたい」
ちらりと彼をうかがう。きっと赤いはずのわたしの目の向こうで、彼は舌で頬を突くような仕草をしている。驚いたのだろう。
どれほどかの後で、彼が訊く。
「相手の人とは会ったことは?」
「だから、わたしはノータッチだよ。何にも知らない間に、夫が全部病院側と話を終えちゃって、念書みたいなのまであるの。もうぐだぐだ言わない…」
「そうじゃなくて、その…、父親のことだよ」
「え?」
沖田さんが何を言っているのか、やっと気づいた。医学的な総司の『父親』のことを指しているのだ。
わたしは首を振った。相手の知識が全くない。
「病院と交わした約束事に、含まれてるの。相手方の家族と連絡を取らないって」
「そりゃ、もし被害家族同士が連帯されたら、病院は厄介だろうな。でかい訴訟にだってなりかねない」
そういったことを踏まえての、一億円だったのだ。夫の母は、まるで息子の手柄のように吹聴していたが、そうではないのだろう。病院は法外に思える金額を支払うことで、わたしたちの口を、やんわりと自分たちから閉じさせたのだ。
思ったことを口にすると、沖田さんは頷いた。
「だろうな。万が一、それでもどこかに話したりしたら、非難を受けるのは病院だけじゃない、自分たちもだな。多額な金で、その買収に乗ったんだから」
気づいているのか、そうでないのか。夫とその母のしたり顔が、まるで馬鹿に思えてしまう。心の中で、二人に短く毒づいた。
大事があったとき、その人にとって真実大切なものがわかる…。ダグも父も、似たようなことを言っていたっけ。夫にとって、何より重いのは、突然湧いて出た大金だった。慈しんで育てた総司でも、その月日でもなく。
嘆きながら、今がほんのり心地いと感じた。沖田さんを前に、黙り込むのも、こうして思いをさらすのも、彼への甘えになることをわかっているから。
一口ワインを飲んだ。
「もう総司は要らないんだって。「勘弁してくれ」って言われた。信じられない…」
総司に聞こえるはずがないのに、声がひそまった。
あの温厚なダグが、夫のその言葉に表情を硬くさせたのを覚えている。家族である我々にとって、あの言いぐさは許せない。
テーブルに置いたグラスをいじるわたしの指に、彼の指が触れた。それは慰めのように見えた。言葉ではないが、「頑張ったな」とか、「そうだな」とか、優しい同意のようなものに。
だから、沖田さんが次につないだ言葉は、和らいだわたしの心を、不意にぱちんと打った。
「しょうがない」
そう彼は言った。
見返せば、同じようにわたしを見ながら、
「気持ちはわからないでもない。男は自分で子供を産まないから、血を分けたとか、そういった面を重視するやつもいるだろう…」
「ダグは違うじゃない」と言葉が出かけて、飲み込んだ。先に、沖田さんに言葉を継がれたからだ。
「ダグはそうじゃないだろう。でも、違ったタイプもいるってことはわかれよ。これは、生理的なもんだ。受け入れられる、受け入れられない。それだけの違いだろ。だから、悪じゃない。そう俺は思う」
いまだに触れている指先をすっと外した。卑怯なだけな夫を庇う彼が、腹立たしい。いつかも、沖田さんは、いっかなやる気を出してくれない夫の肩を持ったことがある。
総司に、これから何て言ってやればいいのだ。パパが、いつの間にかフェードアウトするように、あの子の世界から消えたことを、何て…?
「無責任に、子供を見捨てるのが悪じゃないの?」
「その点は、旦那と話しても無駄だと思う。血がつながらない以上、元から子供はいなかったって、解釈じゃないか。だから、責任も悪意もない。「勘弁してくれ」も、俺には自然に聞こえる」
だから、許せ、と言うのか?
わたしはかすかに首を振る。とても、そんな言葉をのみ込めない。
指で目を抑えた。瞳にはわずかに涙がにじんでいる。
「許すんじゃない」
 
え。
 
頭にぽんと手が置かれた。温もりが伝わる。大きな手のひらだと思った。髪を彼の指がすくいながら、
「要らないだろ? もう逃がしてやれ」
子供が飽きた、カマキリか何かみたいだと思った。
そのたとえが意外で、そしておかしい。逸らした目を戻せば、彼と目が合った。
髪から指が、頬に落ちた。その手が、耳をちょっとだけくしゃっと包む。
「なあ」
「え?」
引き寄せられ、身体が彼の方へ傾いだ。とんと額が彼の胸に当たった。照れも、そのための抗いも浮かばない。驚いたのだ。そして、胸がおかしなほどにときめいた。
「惜しいみたいに、むくれるな。馬鹿」
惜しくなんかない。
むくれてなんかない。
「そんなんじゃ…」
「わかってる」
抱きしめながら、わたしが、いい匂いがすると言った。「中学生かよ」と、胸の中で突っ込んだ。それでも照れながら、
「千晶と同じ匂いだよ。お風呂で高そうなサロンのシャンプーとか借りた」
「げっ、ありがたみが減る」
ありがたみだって。
あはは。
さっき彼を中学生みたいと面白がったくせに、自分だって、同じようなものだ。ただ嬉しいのだ、彼の言葉が。きゅんと、胸にしみるように。
 
それから、初めて、わたしたちは短く唇を重ねた。





          


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