ふわり、色鉛筆
30
 
 
 
キスはごく短いものだった。
そのまま続きそうになるのを避けるため、彼の肩を押しやった。
「ごめん」
千晶の家だ。解決していないことも山積みで、これ以上行為を続けることに抵抗があった。
意を汲んで、沖田さんも、すんなり身を引いてくれる。
「ああ、そうだな…」
「基本、エロいよね、沖田さんって。エッチなグラビアアイドル好きだったしね、…あの子どこ行っちゃたんだろ?」
照れで、そんなことをへらへら喋った。
ちりちりと羞恥はある。でも、これまであった隔たりが、うんと小さくなるのを感じた。間に挟まった湯気におおわれたガラスを、さっと手がぬぐう。それで、互いにその向こうがのぞけるようになる…、たとえばそんな気がした。
湯気のついたガラスの想像から、怪しいバイトを思い出す。同人の資金欲しさに、『紳士のための妄想くらぶ』で、半裸でやったバススタッフだ。おかしく、そしてちょっとだけ懐かしい記憶になる。
ワインを飲みながら、彼が何か言った。それに、妙な思い出がふつっと途切れる。
「…所属のプロダクションの社長と結婚したらしいぞ」
「ふうん、すごいね。消えたと思ったら、社長夫人か…。でもよく知ってるね、さすがファン」
「お前に似てたよ。だから…、気になってた」
「え?」
ええ?!
沖田さんは言ってからちょっと笑った。「写真集も買ったなあ」。
「似てないよ、全然。彼女巨乳だし、スタイルいいし…、髪だってロングじゃない」
「顔が似てんだよ、雰囲気とか。まあ、そういう訳だ」
返事に困った。
今更の告白は、小さくない衝撃だった。単に、グラビア好きなオッサンだと思っていたのに…。
「…だから、嬉しいんだ。お前とこんな風になれて」
さすがに照れが混じるのか、彼は目を伏せてグラスを口に運んだ。
言葉に迷って、口を出たのが、つまらない謙遜だ。それでもいいと言ってくれている彼に、何の意味のないもののはず。
「大したことできないよ、これといって取り柄もないし…」
「普通でいいんだ。たとえば、休みに何か食いに行くとか、電気屋行くとか…。そんな感じでいい」
彼が言うのは、わたしが散々やってきたことだった。ただ、相手が夫から沖田さんに変わっただけの。
ささやかな望みを、軽く笑いながら聞く。もっと似つかわしく、相応しい誰かが、彼にはいるのではないか。そんな気持ちがふっと兆す。
わたしの過去は、彼に何の責任もない。それと総司をこれから背負わせてしまう…。劣等感でないが、負い目ではある。それが、こうしている今も照れと混じり合って、わたしをちょっと尻込みさせている。
空いたグラスにワインを注ぐ。チョコをもてあそびながら、口を開いた。
「…あのね」
子供は難しいだろう、ということだ。わたしに原因があって、総司は長い不妊治療の結果、やっと授かった子だった。その触りのようなことは言ってあった。でも、きちんと伝えておくことだと思ったから。
「だから…」
彼とは、ぜひにも結婚の形をとらなくてもいいと、わたしは思っている。のちに、彼が実子がほしいと、考えが変わることだってあるのだ。そのときに、きっとわたしでは、願いを叶えてあげられない。
「そんなことはない」、「絶対大丈夫」とか、ほんの一瞬で価値を変える、そんな言葉は要らないのだ。
「大事なことだよ、よく、考えて。答えは、今じゃなくてもいいから…」
わたしの言葉に、彼は黙り込んだ。思いのほか、それが胸に堪えた。この期に及んでの、彼のためらいがよく伝わる。
それが、わたしの言葉と事実の、彼にとっての重さに思えた。
「安請け合いは、止めてね。ははは」
前の涙の残りで、声がほんのり湿ってしまう。口に含んだチョコの甘さに、意識を向ける。千晶が出してくれた、どこかのショップのものだ。パッケージは可愛いけど、味はちょっと微妙…。
それが舌の上でなくなる頃、彼の声がした。
「俺も、これまで何人か、つき合った人はいた。…こんな話したことなかったな」
「そうだね、初めてかも…」
「でも、誰とも結婚には踏み切れなかった。確かに、お前のことが忘れられなかったのもあるけど、そこまで俺もロマンチストじゃない」
少女漫画の影響か、若干脳がピンク色の気はあるみたいだけどね。もちろん声にしない。
「俺、子供が出来ないんだ」
「ふうん」
と、適当な相槌を打ってから、驚きが来た。チョコの包装紙をいじる指から、目を彼へ向けた。
沖田さんはわたしの視線を受け、それを流すこともなく見返す。社会人になりたての頃におたふく風邪をやった、と言った。
「症状がひどくて、十日くらいだったか入院までした。出るときに、医者にそういわれたんだ。ゼロではないが、俺の場合は多分かなり難しいって…。若かったから、大して深刻に考えなかったんだけどな、そのときは」
仕事の忙しさと若さで紛れていたことが、折々に顔を出し始めた、という。誰かの結婚や出産の知らせ、または自身の恋愛の経過で…。
「ちょっとずつ、堪えてくるようになった。思いつめもしないけど、何かのはずみで、必ず思う。自分が絶対持てないものがあるって…。そんなもの、他にも腐るほどあるんだけどな。だから、辛いとか、寂しいとかじゃない、何か…」
ぴったりの言葉がないのか、沖田さんはそこで黙った。それは、埋められない心の中に開いた、穴なのではないか、と思う。スペアはある、別でふさぎようはある。でも、そのことでない限り、穴は開いたままなのだろう。
それで結婚には至れなかった、と彼はつないだ。
「きらきらした目を向けて、将来のことを語られると、気持ちが萎えた。真剣になれない。引け目なんだろうな。だからか、一度も、彼女たちに打ち明けたことがない。…お前にだって、こんな遅出しだ」
「ふうん」
引く手あまたなはずの彼が、これまで独身でいたことが、このとき腑に落ちた。きっかけも相手も、いくらであっただろう。ただ、彼の気持ちに踏み切れない理由があったのだ。
彼の心の穴は、わたしでふさげるのだろうか、とちょっと思う。
彼はつなぐ。
妹のいろはちゃんが、わたしとのことを認めているのは、子を望めない兄の相手として、バツイチになり子持ちのわたしが、都合がいいと理解しているからだ、という。
「お前なら、俺にそんなに子供を求めないんじゃないかって。きっと楽だろうって」
彼の持つ事実に、わたしの引け目はバランスよくつり合う、彼女はそう見るのだろう。「楽だろう」と。理知的なところのある彼女らしい判断だと思った。この彼女の打算には、兄への愛情と思やりの裏打ちがある。
すんなりと理解できた。
落胆がないと言えば嘘だ。「雅姫さん」と、年上のわたしに親しんでくれる、彼女からの純粋な好意を、ずっと感じていたからだ。
そんな訳ないか。
わずかに自嘲しながら、それでも、とてもよく納得がいく。賛成には、これほどくっきりと理由がある。漠然とした好意より、頼もしいのかもしれない。本当の親愛などは、積み重ねでしか得られないものだ。
彼が、敢えてこんなことを言うのも、いろはちゃんは実際的な面を踏まえている、と伝えたかったのかもしれない。同人絡みの、浅くふわふわとした親しさのみではないと。
そして、彼の告白からいろはちゃんの思いを知り、わたしの中の彼へ感じる負い目が、ふっと軽くなっているのを感じた。彼を前に、自分のそんな部分を気まずく味わう。
けれども、それは彼だって同じではないか。わたしを長く忘れかねていたと言ってくれる、嬉しいその言葉の全ての成分が、恋ばかりではないはず。妹のいろはちゃんが感じたように、わたしの子供を含めた経験に、どこかでほっとしているだろうから。
 
いいよ、いろいろあっても。
お互いさま。
そのままでいいから。
 
向けられる視線を受け、ちょっと笑った。
「もし、沖田さんにそんな事情がなくて、とっとと結婚してたら、きっとわたしに回ってこなかったね。今頃、元ミスの奥さんと週末は避暑地の別荘で、のんびりスローライフとかだったんだろうね」
「何だよそれ、具体的だな…。俺に何の問題もなかったら、とっくに、お前に声くらいかけてた」
「多分、断ってたよ」
「はっきり言うなあ」
あの頃の自分の心を、詳細に振り返ることは難しい。自分にばかり一生懸命だったことだけが鮮やかだ。同人と千晶と、彼女と一緒にやっていたサークルの『ガーベラ』、そして身体に兆した変調…。楽しみにも悩みにも、気持ちはいっぱいいっぱいだった。
そこに、沖田さんの存在など、よく行くコンビニのバイトくらいにしか重さがなかった。それから、長く時間を置いた今、その彼に、こんなにも焦がれている自分が信じられない。結局こんな風になるなんて。
十三年も時間をかけた、遠回り。
無駄なようで、長いそれがなければ、わたしは総司の親でいられなかったし、彼だって、わたしに対しての思いを、固めてくれることもなかっただろう。そして、わたしがそんな彼に、こう向き合うこともなかった。
まわり道。余計な経験ばかり増えていたようで、一つとして要らないものは、ないのかもしれない。
「お前に子供がいることが、俺には本当にありがたい」
沖田さんの言葉を受け、わたしはワイングラスの脚をいじりながら、目を伏せた。少しの酔いに任せて、吐息と共にぽろりと愚痴が出た。
「…誰の子か、わかんないけどね」
ふと重なった手に甘えるように、不安を口にした。将来、総司に告げることになる事実や、その重さ…。それを思うとき、同時に湧く不快さがある。見も知らぬ人の精を受け入れ子を生した不気味さが、いつまでもまとわりつくこと。
言葉にしないが、自分の経血を見るのも気味が悪かった…。自然下腹に手が伸びた。何となく押し当てる。
「俺の子にしとけよ。相手がわからないなら、ちょうどいい。もう俺の子でいいじゃないか」
「ちょうどいい」って、乱暴な。人ごとだと思って。苦笑して彼を見た。適当なことを…。
軽い文句が出かけたが、作らない彼の表情を見て、いい加減に言っているのでもないのかもしれない。
下腹に置いた手に彼の手が重なる。やんわりとそのまま押された。
「お前は、四年前に、俺の子を産んでくれたんだ。俺は、そんなつもりでいる」
わたしたちが籍を入れる際、同時に養子縁組をしないか、と言い添えた。望外な思いやりに、ちょっと声がつまる。
「…うん」
ありがとう。
嬉しい。
そう言いかけたが、最後まで言えない。互いに押さえていたはずが、ほんのはずみで、するりとやわな縛りは外れそうになる。
頭に彼の手が置かれた。抱き寄せる力は、ちょっと強い。つむじの辺りに、とんと顎が乗るのがわかる。瞬くほどの間のことに、言葉を失う。
軽い、それでも密接な触れ合いに感じるのだ。この人とこれから共にあることを、こんなときになって、ようやく実感する。
ただときめくだけでなく、遅れてやっと幸福感が心に生まれてくる、そんな気がした。初めてのような初々しい感情に、ちょっと戸惑う。胸を占める、ふんわり柔らかな思いを噛みしめた。
そして、比較でもなく、後悔でもなく、ふっと差す影のように思った。夫には、こんな気持ちを抱かなかった…。それは、罪悪感に似ていた。
互いにふさわしいと魅かれ合ったし、生活を重ねての安らぎももらった。充実していると感じていた。総司が生まれてからは特にそうだった。
それで足りないのではないし、いけないのでもない。
夫はどうだったのだろう。そんな事柄を真剣に話し合ったこともなく、いつしか関係が狂い始めていた。既に、愛情も未練も何も感じない。
今、大きな裏切りに遭い、まるであやまちのしっぺ返しのように、うっすらと感じるのだ。
わたしが何をしたのだろう。何が悪かったのだろう…。
そこで、総司が泣き出した。
とりとめのない思いを、きつく目を閉じて押しやった。ついでに沖田さんも押しやる。
「ごめん、見てくる」
総司を寝かせた部屋に向かう。ふと目が覚めたときいつもと様子が違い、不安になったのだろう。抱いてやればしがみついてくる。
「大丈夫、大丈夫。ママがいるよ」
どれほどかあやせば、落ち着いた頃にはもう寝息を立てていた。しばらくそばにいて、静かに部屋を出た。気持ちにゆとりがないときは、ため息も出ることもある。それでも、全身でわたしを求めてくれるのは、もう数年もないのだろう。成長に従い、友だちや好きな人に、その座を易々奪われてしまう…。
そう自分に知らせてやれば、その場その場が、かけがえのない時間だと、何度でも気づくことができる。
リビングに戻ってすぐ、今度はインターフォンが鳴った。出れば、当たり前に千晶だ。すぐに施錠を解く。
「あいつ、早いな」
沖田さんはこぼすが、ちょっとほっとする。小さくあくびをしながらソファに浅く座った。そのわたしの手を、彼が緩くつかんだ。
二人の時間が惜しくない訳ではない。
でも、これまでを清算しないまま、感情だけで先に進むことに抵抗があった。特に、総司を見てからそれを強く思う。いろんなことで適当な自分の、唯一守りたい一線、そんな気がするのだ。
「落ち着いたら、どこか出かけないか? 子供も連れて」
「そうだね」
そんな日が、未来に待っているようで、ふっと目の前が明るくなる。ほんの先のようで、まだまだ遠くのような気もする。
それでも、思いをさらし、気持ちを確かめ合えた今、心の奥には、ぽっと勇気のようなやる気のような、あたたかいものを感じられた。
ちょっとぎゅっと手を握り返し、離す。そこで玄関のドアが開く音がした。
「お帰り」
「ただいま〜。早くて悪いけど、行くとこなくって」
千晶は、手に提げた紙袋をとんとテーブルに置き、本屋に入ったりカフェでぼんやりしていたのだと言った。
夜更けに二時間近く、わたしたちに時間をくれたことになる。頼んだことではないが、彼女の優しさに違いがない。礼を言って、千晶が差し出す、つまみのサンドイッチを手に取った。
クリームチーズとほうれん草、サーモンの小ぶりなそれを頬張ると、千晶が別の袋から、ビニールのかかった冊子のようなものを取り出した。一目で同人誌とわかる。
「本屋にコーナーがあって。物色してきた。楽しかったよ」
照明にてかてかと、それが光る。わたしの本は書店販売していないから、わたしのものではない。が、どう見てもわたしのものがある。
「え?!」
「中古も売ってたから、若菜の買ったよ。だって、あんたくれないじゃない」
沖田さんが注いだグラスのワインを口に運び、「これは、再開初期のやつかな」と、パラパラする。インターネットで委託販売を始めてから、部数を増やし再販もしていた。それらがこうやって、中古品として流れてもおかしくない。
恥ずかしくて、彼女の手を抑えた。「どれ?」と、その手を沖田さんが外し、彼女がページを繰るのをのぞき込むから嫌になる。二人して、描き手を前に「ああ」だ「こう」だと、コメントに花が咲く。
ちょっとやけになって、サンドウィッチをぱくついた。手が込んでいておいしい。
思えば贅沢な光景だ。沖田さんは元編集者だし、千晶は有名な売れっ子漫画家だ。そのプロ二人に、素人が、たっぷりのブランク明けの同人誌を見てもらっているのだから。
沖田さんが、「今は流行りも違うけど」と前置きし、
「俺が昔、どれだけ言っても、「はあ」、「へえ」だったのが、今は普通にできてるんだな」
と話の構成について言った。
「うるさかったよね、小姑じみてた」
「お前は本当に、自由人だったよな」
昔は思いついたまま、ろくに推敲もなく仕上げていたのを思い出す。それが、作品の勢いや盛り上がりもつながっただろうが、わかり辛い面もあったはず。若さと、同人で売れていた驕りが、きっとあった。
今は、読み手が求めるだろうものの中に、自分が描きたい要素があるかないか、を心に留めている。利に走り過ぎても、先の見えない一人の同人は虚しい。けれど、儲けにならない無駄玉も打ちたくないのだ。
若さと思い上がりを失った今の方が、昔よりずっと欲張りだ。
「売り上げに響くもん、媚びても描くし。もっとお金をくれてたら、わたしも考えを変えたかもね。『ガーベラ』の売り上げに比べて、ひどいもんだったよね。ブーツ買ったらもうない、みたいな。ははは」
「うん、安かった。『ガーベラ』と二足でやりたいくらいだった。そのくせ、契約で縛るしさ。違反したら、「この世界で食っていけないからな」って脅されたな〜。あの頃の沖田さん、結構鬼畜だったよね。さーさんの会社に決めたの、ちょっと後悔したもん」
「新人はあんなもんだ。代わり、にいろいろ食わせてやっただろ」
「ガリガリくんとか」
「うまい棒とか」
「いいじゃねえか。自腹だったんだぞ、クソ生意気な新人相手に」
「安い先行投資だね。それで囲い込みはきつかったし」
「お前を逃がしたら、俺、三枝さんにどっかに飛ばされてた、多分」
二人の会話に「さーさん」、「三枝さん」と、するっとその名が顔を出すのにちょっと驚いた。千晶とはスムーズな別れ方ではなかったものの、素人の『ガーベラ』から『真壁千晶』への過程を振り返るに、欠かせない人ではある。当然か。
名前を避けるほど、すでに敏感ではないのかもしれないし、そうするほど彼女も子供ではない…。
そんなことを思う間、二人は気安げに話を楽しんでいた。わたし抜きでいた時間の方がはるかに長い二人の、しっくりとなじんだ雰囲気は正直羨ましい。三枝さんの件を介しても、日々をかけて自然に築かれた距離感と気の置けない親しさがあるのだ。
わたしの場合、彼への態度は十三年前とほぼ変わらない。いい加減な甘えと今はそこに恋愛が加わって、中途半端に揺れている感じだろうか。再会して、新たに生まれた関係は、安定も穏やかさにも欠ける。
「昔、いつのイベントだったかで、よその出版社に声かけられたとき、たまたま沖田さんがいて、若菜の手首をつかんで離さなかったの覚えてるな」
千晶がそんなことを言う。
全く覚えていない。当時は、早い時間に本も売り切れ、会場にいる時間がそう長くはなかった。だからか、思い出も凝縮して、細かなことを覚えていないのだ。よくからかわれる「鯖寿司がどうの〜」も、そんなことあったっけ? のレベルだ。
「下らないこと覚えてるよな、お前は」
「観察眼が鋭いんだって。それ、若菜が嫌な顔してたのも覚えてるよ、ははは」
ちらりと沖田さんが、なぜかわたしを見た。知らないってば。
そこで、千晶が「ごめんね」と断って、煙草を取り出した。いつかのメンソールだ。ふわりと煙が舞う。
「もうね、わたしとは見る目が違うんだって。何やかやと、優しいし。モロバレ。好きなグラビアアイドルも、若菜に激似で…」
堪らないようにふき出したのを、沖田さんが小突いた。
「うるせーな」
「それが全くスルーされてるのも、切ないを通り越して、悲しさがあったよ、うん」
本当に? と思える、知らない過去話とはいえ、恥ずかしさに頬が熱くなる。沖田さんの顔が見づらい。
二人は、ああだこうだとじゃれ合うように話している。「よかったね〜」、「結局は人徳がモノを〜」と、何だかだと仲がいい。相槌も打てず、ワインを口に運んだ。
「離婚の話、どう? 進んでる? さーさんなんか、ちょっともめて、ちょっとこじれたら、もう後は放ったらかしだったよ。のめない条件を吹っかけてくるとか、エネルギーが要るんだとか、いい訳ばっかだったけど、大変なのは本当らしいし」
また「さーさん」だ。こうぽんと口に出せるのも、長く生活の一部に近い存在だったからかもしれない。それでも、少し気にかかる。引きずっているのは、案外別れを切り出した彼女の方なのでは…、と。
千晶の質問に、「うちももめてるよ〜」とあらましを話した。
「そっか…。お金、しっかり取りなよ。それは、これからも総ちゃんの親でいる若菜のお金だよ。途中でリタイヤした旦那は、がっつく権利ないよ」
「母子でがっつく気まんまん。勝手に話進めといて、「息子の手柄なのよ」って、お姑さんに話されたときは、マジで引いたよ。わたしに完全に秘密にして、騙す気だったんだよ」
「お金はたっぷりもらって、離婚して親権も放棄?! …話すだけ疲れる相手だね」
「そう、話が通じない感じ。ダグが一緒だったんだけど、あの人が呆れてたもん。それで、お姑さんが、「あんなオバマみたいな人が出てきて、どうすんの?!」って、旦那に金切声で詰め寄ってんの。ははは、思い出してもおかしい」
「お義兄さんいいよね、かっこいい。ねえ、お姉ちゃんどこで見つけたの? あんなウィル・スミスみたいな人」
「ウィル・スミスかな…? 色気のある若いお坊さんを物色しに本山に行ったとき、見つけたんだって。お姉ちゃんの一目ぼれみたい」
「何それ、若菜のお姉ちゃんすごいね。「色気のある若い坊さん」を物色って、笑える。ははは、面白い」
「いるらしいよ、似た仲間が。サンガ巡りしてる女の子とか」
「へえ、深いね」
「何が深いんだよ」
脱線したわたしたちの話に、沖田さんは苦笑しながら、「お前こそ、あんまりがっつくな」
と、話を戻す。
「いいとこで折れてやれ。気持ちはわかるが、追いつめ過ぎるなよ、お互いろくな結果にならない」
千晶が、
「沖田さん、がっぽり稼いでるから、それに甘えるのもいいね。でも、いざってときの自分のお金がある強みはでかいよ。何かあっても、一人でいける。子供見ながら、そうやって描き続けるのもできるしね」
「そうだね」
稼いで自立している彼女の言葉は重い。頷けば、沖田さんがぽんとわたしの頭を軽く叩いた。
「真剣に聞くな。何、逃げる算段を今からしてんだ」
「だったら、もっとこっそりやるよ」
「お前の場合、冗談に聞こえないからな」
面倒事には立ち向かわずに逃げ腰になる、わたしの適当な性格を彼はよく知っている。面倒に蓋をして、放置し、忘れた頃には問題が消えているのを願う…。それは現実逃避で、問題の先送りでしかない。
知りながら、それでも「ま、いっか」で過ごしてきたこれまで。経過も含め、今回の離婚騒ぎもそうだ。
そんな自分を、やはりまた「ま、いっか」で許してしまうわたしもいるのだ。
「へへ…」
曖昧な笑みに紛らすわたしへ、彼が視線を向けた。チョコを含んだその口が、「まあいいけど」と、ちらりと言うのを、耳が拾う。
この人を、好きだと思った。
時間なり、愛情なり、家族なり…、自分にあげられるものがあるのなら、彼にあげたい。そう思った。
「愛されてるよね、若菜は。相手が沖田さんってのが、ロマンスに欠けるけどさあ。ははは」
冷やかすのでも、からかうのでもない。冗談めかしたものの、声音はちょっとしんとしていた。
「…妥協しなくてもいいが、お前だけを大事にしてくれる男を真面目に探せよ。もう、そうしていい頃だろ。馬鹿みたいな条件付けなきゃ、お前ならすぐ見つかるだろ」
「ははは、ありがたいね〜、うん」
彼が千晶に恋愛面で忠告するのは、これが初めてではないのだろう。そして、これまでも今のような曖昧な返事で、彼女は流してきたのだろう…、そんなように思えた。
「大学の後輩にいいのがいるぞ、お前の気が向いたら…」
「その人、ジョージ・クルーニーに似てる?」
「だから、それが馬鹿みたいな条件だって言うんだよ。あ、…まあ、顔の濃いところは、当てはまるな、系統は違うけど」
「系統が違ったら、もうジョージじゃないよ。それは、嫌だな〜」
軽くかわされて、沖田さんも、「まったく、お前は、雅姫とは別の意味で手がかかるな」とぼやいた。
「そこが可愛いところだって、ねえ若菜」
「ははは」
ボトルが空になり、新しいのを冷蔵庫から出してきた。それが三人のグラスに注がれるまで、何となく沈黙が続いた。グラスには、微発泡の白ワインがしゅわしゅわと揺れている。
意味もなく乾杯をした。
「ねえ、沖田さん」
一口飲んだ千晶が、グラスを手にしたまま。さっきのちょっとしんとした声で言う。
「長い間の夢が叶うのと、長い間の恋が叶うの、どっちが幸せかな」
「それは…」
そんな夢を叶えた彼女が問うのは、そんな恋を叶えた彼だからだ。
振られた彼は、飲んでほんのり赤い目を彼女へ向けた。でも、言葉を途切れさせ、つなげないでいる。
問われないわたしは思う。ものは違っても、同じ目的へ向けた情熱だ。だから、同じはず。
でも、始点が違う。恋の成就が新鮮な彼と、もう長く夢の延長を走っている彼女と。一緒には語れない。
そして、夢も恋も、維持するには心構えに似たものが要るのだとも思う。普段の挙措が美しい人と同じように。常に、ときに弱った時に。そうありたいと、うつむく心を奮わせ、前を向く勇気だ。
そういったものが、彼女には足りない気がした。それを自分でも気づいているだろうから。だから、「…どっちが〜」なんて訊くのだろう。
気休めは言えない。
ずっとがむしゃらに走ってきた彼女に、もっと頑張れとは言えない。もう止めろとも、無責任に口にできない。
「まあ、ケースバイケースかな…」
遅れてとぼけたことを返した沖田さんを、一緒に笑うこと。
「何それ、無難」
「もっとマシなコメント返すかと思ったのに」
せいぜい楽しく、昔に戻って。
何もかも、叶える前のように。





          


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