ふわり、色鉛筆
31
 
 
 
飲んだり喋ったり。気づけば朝に近い。
沖田さんはまだ暗いうちに帰って行った。それを見送り、千晶と二人、わたしたちもぐっとまぶたが重くなる。
そろそろ寝ようか、とグラスをキッチンに運ぶ。そのわたしに、ぽつんと彼女が声をかけた。
「しなかったの?」
「え?」
意味が取れず、見返したわたしを、千晶がちょっと笑って見ている。
「沖田さんと、だよ」
やっと理解した。まさか、と首も手も振る。
「すればいいのに」
と、からかうのでもなく言う。
「しない、しない」
「真面目だね、若菜は相変わらず。沖田さんもそんなとこあるし、似合いだね、あんたたちやっぱり」
「わたしは真面目なんかじゃないよ」
あくびで返す。わたし程度で真面目なら、世界中がかっちこちの生真面目だらけになってしまう。
「…わたしは、したよ」
は?
目をやれば、彼女は食器棚のガラスを指でなぞっている。飲んでいる間中座し、シャワーを使った髪は、柔らかく少し湿っていた。動きに、それが少し揺れる。
昔、彼女がまだ漫画家として駆け出しの頃、三枝さんの部屋で飲んだことがあったという、その場には沖田さんもいた。彼は昼の疲れか、先に酔って眠ってしまった。
「その傍で、した」
へ?
あまりの告白に、喉の奥が変な音を出した。旧バージョンの『サザエさん』のエンディングみたいな。
「起きてたんだよ、途中から、沖田さん。目が合ったもん、一瞬。すぐ、寝たふりしてくれたけど。気まずかったろうね、同情するわ。ははは」
「はははって…。何で?! 好きなの? …そういうの」
誰に聞かれることもないのに、最後は声が潜まった。千晶はくすっと笑って、首を振る。
「でも、知られてもよかった。部下の前でイタシちゃって、さーさんの覚悟を決めさせたかったから。一度寝ただけじゃ、軽い浮気のまだつまみ食いの気分だったからね、あの人」
ふうん、とも言えない。軽い相槌が出ないのだ。
売り出してもらう、その目的のために彼女が取った手段は、強引で恥知らずでもある。でも、随分と過去なのと、千晶への甘さで、当たり前の批判が浮かばなかった。ただ、がむしゃらだったのだ、とその気持ちを思う。
「隠しとけばいいのに、誰にもわかんないよ、もう」
小柄な彼女のほっそりとした肩を眺め、また甘さでそんなことを言う。わたしは千晶が好きなんだな、としみじみとする。自分で自分の恥部をほじくって、傷ついたり自虐なことをしないでほしい。
誰にだって、知られたくない、穴に埋めたい過去などあるものだ。過ぎた事。知らんふりで済ませばいい。どうして隠しておきたい本人が、往々にしてそれをさらしてしまうのだろう。
「いつか沖田さんから若菜が聞いちゃう前に、言っときたかったの」
「あの人、忘れてるよ」
「若菜だったら、忘れる?」
あはは。
忘れない。
自分の言葉の白々しさに笑う。それでも、首を振り、
「沖田さん、言わないよ」
「そうだね」と千晶は頷きつつ、「弾みもあるでしょ」。
「人づてに聞くのと、本人から打ち明けられるのじゃ、ニュアンスが違うだろうし…。まあ、ニュアンスがどうのでカバーできる内容じゃないと、自分でも思うよ。ははは」
笑うしかないときもある。彼女につられるというより、自発的に笑った。笑いで何かをやり過ごすのは、慣れている。とても楽だ。
そんなもん見せられた沖田さんには、痛恨事でトラウマレベルかもしれないが、ご愁傷さまということで。あの人なら、流して受け止めてくれる。また「ケースバイケースで」とか、とぼけたことを言って。現にそうしてきたはずなのだ。
「後悔はしてないけど…」
酔いの残滓で、長く続く笑いが収まりかけた頃、千晶が言った。
「売れるために、身体張ったのも本当、さーさんに取り入ったのも本当。いつか知って、若菜に軽蔑されたくないと思って…。十分どす黒いんだけどさ」
三枝さんとの件を聞いたときは、本当に衝撃だった。そして、今の告白にも、たっぷり驚いている。でも、それを責めたいとも馬鹿にする気もわかない。それは、長い友人へのひいき目が強いのだろう。
批判諸々の代わり、以前、沖田さんが彼女を評して「ガッツがある」と言ったことがあるのを、つながるように思い出すのだ。「お前とは違った意味で」が、前に付いたようにも思う。
あのときは、風俗ギリギリの怪しいバイトで小金を稼ぐわたしと、ストイックに漫画に精を出す彼女との、ちょっと意地の悪い比較だと思っていた。
今反芻して、あの言葉は、千晶のあれこれの来し方を知る彼だから出たものだったのだろうと、しっくりと胸に落ちた。
「ガッツ」がある。きっと意図もしないうちに選んだ言葉は、今頃に優しく響く。
彼は何もかものみ込んだその上で、結果を出す彼女を認めていたのだろう。他人をこき下ろすことは、とても易しいのに。身近な千晶への自然な優しさが、きゅんと心にしみた。彼は偉い、ちょっとだけ偉い。
ほわっとした沖田さんの面影を感じて、胸がつんと熱くなる。場違いに、好きだな、と思う。
ときめいた気分を抱えながら、千晶にもう一度言う。
「あの人、言わないよ。そんなこと、きっと」
「「寝物語」って、緩むよ、男って。ヤッたあの後は、ダダ漏れじゃん」
おかしな言葉を、真面目な口調で言うからおかしい。あんないい作品を描く腕と、可愛い見た目を裏切って、千晶という人は、口にするのもやることも、他人より頭抜けている。いい意味でも、悪い意味でもだ。
「ダダ漏れ」に苦笑しながら、だから、彼女の最初の問い「しなかった?」に戻るのかな、と考える。探りを入れたり、言わずもがなのボロを出したり。気になるから、隠そうと饒舌になるのかも。肌の、目につくクマやシミを厚塗りで隠すように。
十分に驚いたが、軽蔑などはしていない、と伝えた。シンクのグラスにちょろちょろ水を張りながら、同人代稼ぎに、半裸でやっていた馬鹿みたいなバイトのことを打ち明ける。
キュッと蛇口を締めたときには、元パート先の社長の襲撃を受けた辺りに差しかかっていた。
「何で、その社長がいるの?」
「知らない。何か隙がありそうで、簡単な女に見えたんじゃないかな」
そこに沖田さんが現れ、夫の振りをして助けてくれたことも話した。千晶は目を丸くしている。
同じ恥部は恥部でも、わたしのはネタみたいだ。喋っていて、自分でも馬鹿みたい。千晶のようなエグさはないが、それでも、たとえばダグにはとても知られたくない過去だ。あの人、絶対哀しそうな目をする!
「沖田さん、そういうとこきめ細かいよね。あんなガサツな振りして、うちらにがみがみ言うくせに。マダム受けがいいのも、そういうとこかな。おばさまにモテる男って、出世すると思う、持論だけど。あ、枕営業抜きの話ね」
わたしだって、大差ないよ、のつもりで話したことだが、千晶は捉え方がずれている。「マダム受け」のくだりは、三枝さんの奥様のことかも、とも思った。若い頃から随分と可愛がってもらった、と彼の言葉を思い出す。
ふと、互いに黙った。
「楽しかったよね、昔」
千晶の言葉に顔を上げた。あくびをしている。終わりに、アヒルのようにちょっと口をとがらせた。よく見覚えのある、彼女の表情だ。
「あんな楽しかったこと、ないよ」
「大きな賞を獲って、作品がアニメになったり映画になったり。大成功してる人が」
「こんなこと言うと、沖田さん辺りには生意気だの、いい気になるなだの、叱られるだろうけど。当たり前に思ってた。売れるのも、稼ぐのも。計画の一部みたいに」
「へえ」
素直に感心した。世の成功者は、こういった感じなのかもしれない。ビジョンを鮮やかに持ち、確信し、努力でぐいっと手繰り寄せる…。千晶なら、と頷ける。
わたしには、そこまで鮮明に展望が持てないし、またそれを維持も出来ない。努力すらも途中で投げ出しそうだ。
そんなことを返せば、千晶は首を振り、
「だって、若菜はそんなの興味なかったじゃない。お金もほどほどでいいし。その場その場楽しめたらOK、みたいなスタンスだったじゃない」
そう、だったかもしれない。彼女のように、そこに夢も将来も、わたしは描いていなかったのだろう。
でも今は、そんな刹那でほっそりとしていた望みには、贅肉のようにたっぷりと欲がついているのだ。十分な収入も欲しいし、読者の気持ちに爪痕を残すような作品を生んでいきたい、それもできるだけ多くの人に。
「楽しかった。昔って、毎日がきらきらしてた気がする…」
嘆息のようなあくびの後で、また千晶は言う。
楽しかった同人時代。そこが描くことを選んだわたしたちの原点みたいなもの。何でも持って見える彼女は、懐かしんで振り返る。そこにあったもので、今ないものをやや切ながるように。
わたしは、
懐かしみながらも、そこにあった自分のかけらを拾い始めている。幼さや自堕落さにまみれた、でもいきいきとした描く力だ。必要に応じて、忘れ物を取りに帰るように。
責めるのでもなく、追いつめるのでもないが、わたしにはまだ、彼女のように単純に昔を懐かしんで楽しむ余裕を、自分に許せないでいる。そして、まだそうしたくないのだ。
「…戻れたとしたら?」
わたしもあくび混じりに訊いた。「同じことを考えて、きっとおんなじことするだろうな…」。
「一回やってる分、もっと狡くなってたりして」
彼女の答えは予想通りで、それにちょっと笑う。
自分の言葉そのまま、彼女には自分の選んだものに後悔などないのだ。そこにほっとし、とことん馬鹿をやっても、それを「もう一度」と言える彼女のプライドを、真に羨んでみた。
おやすみを言い合い、床に就いた。
総司の隣りに横になりながら、すぐに眠りに落ちそうな頭でちょっと思う。もし、千晶の言う「きらきらした」過去に帰れたとしたら、わたしなら…、
夫を選ぶことはきっとない。一度した痛い失敗を「もう一度」やり直す勇気も自信も、ない。
わかるのは、最初から沖田さんを別の目で見直すだろうこと。若くて、ときどき優しくて、さりげなくわたしをいたわってくれた彼を。けれども、気持ちが恋に育つのか、わからない。
仮に、そこで彼と恋が始まったとして、またそれを、わたしは上手く続かせることは出来ないだろう、とも思うのだ。自分にも当時の彼にも足りないものをあげつらい、あれこれと欲張りそうだ。頭だけ、経験値を積んだって、きっと駄目。
だから、
遠回りしたって、
あのとき、想像もしなかった苦い思いを知っていても。
今でいいのだ。
今がいい。
 
 
弁護士との通話を終えて、受話器を置いた。夫との離婚に絡む問題を依頼している人だ。こちらの言い分を、夫側がのんだという。
懸案の一億円を巡って、わたしは妥協はしなかった。さすがに全額を請求はしないが、どうしても譲れないレベルは、絶対に曲げなかった。これからの総司の将来に関わるとなれば、欲も張れるし、背筋が伸びた。担当の弁護士も親身になってくれた。
驚天動地の事実を知ってから、ひと月強。ようやく大問題が片付き始め、肩の荷が下りたようになる。
『お渡しした離婚届は、記入後追ってご返送下さるとのことです』。
夫に勝手に役所に提出してもらうより、自分がそれを出しに行きたかった。ちゃんと約束を守ってくれるのか、夫への不信のためと、弁護士任せの最後には、やはり自分でけりをつけたいという、気持ちがある。
ほっと息をついた後で、実家に連絡をする。心配をかけている皆に解決を伝えた。
『よかったね〜。お父さんは欲張らずに半分こでいいじゃないか、なんて言ってたけど、違うよね。責任に見合った額があるもん。何でもかんでもお互いさま、じゃ駄目。先に撃ってきたら、やっぱり撃ち返さないと。目には目を。因果だよね、これこそ』
坊守には似つかわしくない物騒なことを、あっけらかんと姉は言う。
ダグに代わる。『おめでとう』の後で、『落ち着いたら、また弁護士を通して資産の管理を相談した方がいい』と、アドバイスをくれた。
『運用までしなくとも、分散したり、リスク回避のために手を打っておくべきだよ』
通帳を作って預けておくだけのつもりだったが、ダグの意見にへえ、となる。そうだ、それも考えよう。
いろいろありがとう、と改めて礼を言い、電話を切った。
ちょっと迷い、続けて沖田さんにも結果をメールした。離婚はまだだが、問題の一番厄介な部分が解決したのだ。気分が浮き立った。
ソファアにケイタイを放り、うんと伸びをする。
原稿にまた向かい始める前に、冷蔵庫をのぞいた。前に買った発泡酒が残っていた。普段は飲まないが、今夜は特別で、飲みたい気がした。一人でも、ささやかに祝いたい。お風呂上りに飲もう。
時計を確認し、ダイニングのテーブルに戻る。広げた原稿にまた、ペンを走らせ始めた。
 
 
この日、咲耶さんのお宅にお邪魔した。
以前コンビを組んでやった同人誌が、イベント外でも好評で、その続編のようなものをまた組んでやる話が進んでいた。
メールや電話でも済むが、なるべく顔を見て確認し合いたいのは、わたしも同じだ。意見も言い合いやすい。遠方でもない。勧められるままに、またあの門を潜ったのだ。
咲耶さんは用があるようで、ちょっとだけお待ちを、とリビング?に案内された。
「何でわたしも?」
リボンいっぱい。ひらひらふっわふわのいつもの甘〜いコーディネートで、ゆったりソファに座るのは、桃家さんだ。わたしは居心地悪く、鹿やトラの剥製が置かれた豪奢なリビング?で、もじもじとしていた。
「ごめんね、無理言って…」
「まあ、友だちに頼まれたら、嫌とは言えないけど。友だちだしね、遠慮なんか、いいわよ」
やや甲高く「友だち」部分を連呼した。
やっぱり、まったくの素人が、咲耶さんのような特殊な(…ヤクザ)お宅にお邪魔するのは、二度目でも正直怖い。それで、ただ者ではないこの人に、また同道を願った。何かよくわからないけど、凄い人みたいだもの、桃家さんて。
レモネードを飲みながら、リビング?で待つことしばし。部屋のドアがいきなり開いた。
咲耶さんかと顔を向ければ、入ってきたのは若い男性で、こちらに背を向けながら誰かと何やら話している。
「だから、本家なんかに僕が行くつもりはありません。あの人にそう言って伝えて下さい。それから、そろそろ帰してほしい。用もあるし…」
「ああ、予備校のバイトしてはるんでしたね。ボンのそんなお答え、オヤジんとこ持って帰ったら、わたし、命ありません」
「大袈裟な、あなたたちはいつも…」
「大袈裟なんかとちゃいまっせ、ハラキリもんですわ」
そんな物騒な会話がモロに聞こえた。そこで背を向けた男性が、部屋のわたしたちに気づいた。「え?」といった顔をして、後ろの人物を振り返った。
「田所のカシラ、お嬢のお客人が…」と、誰かの声が廊下からする。「ふうん、ほな、ボンこちらへ」と会話の相手が、彼を招いた。
「すいませんでした」
男性は軽く頭を下げ、出ていく。ドアが閉まり何事もなかったように、部屋が静まった。
幕間のような出来事だった。耳に入った話の恐ろしさに、わたしは固まっていたが。桃家さんは普通の顔をして、
「ハンサムだったわよね、今の人。ちょっと見ないくらい。大学生くらいかな…」
「ああ、そうだっけ」
「『本家』とか言ってたわね。きっとあっちの組織のトップの御曹司よ。後ろのしゅっとした男が『ボン』なんて、あんな若い子に丁寧だったしさ。『カシラ』って、若頭かしら…?」
後ろの男が「しゅっとしていた」ところにまで観察がいくとは。若い彼は、普通の人っぽかったかも。
それから間もなく、またドアが開き今度は咲耶さんが現れた。待たせたことを大仰に詫びる。
「申し訳ございません。とんだ野暮用で、姐さん方にご迷惑をおかけ…」
それを遮って、桃家さんが、さっきの若い男性のことを持ち出す。「誰?」とあけすけに訊くから驚いた。
「美馬さんのことかな?」と、咲耶さんが首を傾げた。
「だったら、うちがお預かりした、お客人ですよ」
「名前もいいわね」と、わたしに頷く。何にいいのだ。
「本家がどうのって、確か…」
桃家さんは、聞きかじった会話から適当なことを大胆に、また。
「ああ、お話しされたんですか? 美馬の坊っちゃんは本家筋からいらしたんですよ。ご本人はカタギですから…」
桃家さんは悦に入った様子で、わたしへ笑って見せた。
「あっちの血を継いだ美形の御曹司、本人はその道を嫌ってカタギ…。若頭まで出てきて。BL魂に、いろいろ火がつく設定じゃない? 雅姫さん」
「ははは…」
つかねえよ、いろいろ。
 
急なお客で忙しげな咲耶さんの家を辞して(ご大層な仕出しを断って)、桃家さんとランチをして帰った。パスタとかオムライスとかの、普通の値頃のものだ。セレブな彼女にどうかな、と思ったが、口にあったよう。喜んでくれた。
「次は我が家にいらっしゃいよ。咲耶さんも呼ぶわ。庭で火を焚きながら、鮎でも焼いて、季節外れの流しそうめんでもしましょうか、ごく身内だけで、ね。送らせるから、火にあたってグリューワインでも飲みましょ」
いいのか、ありなのか。リッチピープルの感覚は理解不能。お誘いは嬉しいから、「うん」と答えておいた。
家に着いたのは、二時前で、幼稚園から帰る総司のお迎えには余裕があった。咲耶さんちで詰めた原稿の件はメモに控えたから、それをキッチンの壁のボードにピンで留めた。
そこで、玄関のチャイムが鳴る。セールスか宅配便か…。インターフォンで確認すると、なんと夫だった。
 
え?!
 
声も出せないでいると、聞き慣れた声が、笑いを含んでいる。記入済みの離婚届を持って来たという。
『手渡ししたくなって…』
「そう…」
それだけしか、返せなかった。
『まだ、俺の家だろ?』
その声にも、返事が出なかった。地元での生活を始めている夫には、もうこの家はローンや維持費を払う意味がない。夫からは既に「要らない」と答えをもらっていた。
名義を変更し、わたしが住み続けるか、また別の場所に移るか…、総司のこれからのこともあり、まだ決めかねている問題だった。
荷物もあり、住所もまだ移していないはず。
「住所変えなくても、就職できるの?」
そんなことを聞いて時間を稼ぐ。興味などない。新しい会社は個人経営の小さなとこで、融通が利くという。ごたごたが済んでからでいいと、上から言ってもらっているらしい。
ふうん。
心でつぶやいた。以前は、中規模以下の会社には目もくれなかったのに。あの病院との和解を取り付け、離婚と総司を捨てることを決めた後なら、簡単に信条も変わるんだ。
今更、どうでもいいことだが、この人にとって、守りたいものは何だったのだろう。ふと、そんなことを思う。
『おい、渡すだけだから。早く頼むよ』
ダグにアドバイスされ、鍵は変えてしまっていた。夫は前の鍵を持って、この家を出たが、それはもう使えない。空き巣も聞くし、子供と二人で不用心だったから、と言い訳は立つが、まだ彼の名義の家に、勝手に手を加えたことが、ほんのわずかに後ろめたい。
「うん、今いく」
インターフォンを切り、玄関に向かう。ドアを開ければ、既に勤め人らしく日に焼けた肌の夫が立っていた。まず、わたしに封筒を手渡した。
中には、言葉通りに記入済みの離婚届があった。
「わざわざありがとう」
これを提出すれば、この人とのすべてが終わる。その先走った解放感に、礼が口を出た。
夫はそれにちょっと頷いて返し、肩に下げたスポーツバッグを示す。
「着替えが足りなくてさ、要る分持って帰りたい、いいだろ?」
「うん」
夫はわたしの脇を抜け、家に上がった。階段を小気味よく上って行く。わたしはリビングに戻り、夫が離婚届を持って来てくれたことを報告しようと、姉に電話をかけた。
伝えると、姉はちょっと唸るような声を出し、
『家に上げちゃったの?』
「うん、…そうだけど、服を持って帰りたいって言うから。それくらい…」
それに返事はなく、受話器の向こうで姉の甲高い声がした。誰か、多分ダグに話しているのだろう。
声が戻った。
『やっぱり、よくないって、ダグも。すぐそっちに行ってくれるって』
「え、何で? もう帰るよ、あの人、きっと」
『帰ってくれなかったときのことを心配しなさいよ。理由もなく、不意に出向いてくるなんて、ちょっとおかしいじゃない』
だから、理由は離婚届と着替えだ。でも、そんなものは、姉が指摘するように、郵送で手軽に便利に片が付く。
そして夫は、妻のわたしはともかく、総司をあんなに簡単に捨てられる人だ。
『こんなこと縁起でもないけど、あの病院の示談金、あんたに何かあったら、全部浩司さんの物になるんだから』
「え」
まさか。
そんな…。
『何もないなら、何もないでいいの。浩司さんには、疑って「ゴメンねゴメンね〜」て胸で言っとけばいいし、ね』
「ゴメンねゴメンね〜」って…。
姉との電話を切ったすぐ後に、背中に声がかかった。
「なあ、若菜」
それに、どきりと心臓が跳ねた。
夫は、ほどよくふくらんだスポーツバッグを床に置き、冷蔵庫を指す。
「何か、冷たい物ない?」
「あ、うん…、アイスコーヒーならある」
変な緊張で、声が裏返りそうだ。息を吐いて、挙動不審にならないよう冷蔵庫を向かった。
姉に聞いた妄想じみた話はあまりに突拍子ない。だが、それに冷静なあのダグが頷くとなると、自分の軽率さも後悔し始めてしまう。
平日の昼間、仕事はどうしたのだろう…。
彼から視線を逸らし、グラスに注いだコーヒーを渡した。喉が急に乾く。自分もお茶でも飲もうと、再び冷蔵庫のドアを開ける。
その背に、その声はぽんと刺さった。
 
「やっぱり、やり直さないか、もう一回」
 
はあ?!





          


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