ふわり、色鉛筆
33
 
 
 
「俺じゃない。俺がやったんじゃない! …俺じゃ」
夫は、ダイニングテーブルのそばで立ったまま、口早に繰り返す。
「知らなかったんだ。こんなことになるなんて…。知ってたら、絶対に止めた…!」
ダグはわたしの傍らに屈み、腕の時計にちらりと目をやった。救急車の到着の時間を考えているのだろう。
「わかってるよ、コージ。君が刺したんじゃないのは。別の誰かが、逃げていくのを見たからね。でも…」
そこで言葉を途切れさせる。わたしの腹部にあてがったタオルが、血に染まるのを硬い色の瞳で眺めた。
「すぐに助けてやることは、できたはずだ。どうしてしなかった?」
救急車を即座に呼ばなかったことを責めているのだ。
夫は口ごもり、もごもごと何かをつぶやいたが、結局唇を噛んだ。
「どうであれ、僕にあれこれ弁明しても、意味がない。じき警察も来るから、そっちに説明したらよ」
ダグは救急車を夫に呼ばせた後、警察に自ら電話していた。わたしの髪をなぜ、呼吸にだけ意識を向けるように言う。
頷くことも辛い。
閉じかけた目が、総司の姿を捉えた。リビングの扉を開け、こちらに入ってくる。少し迷ったが、目顔で呼んだ。
総司を連れてきてくれたのは、ダグだ。幼稚園バスの送迎場から、園の先生が総司を連れ我が家へ向かうところを、同じくうちに向かう彼が行き合った。
そこで、子供を引き取りここに一緒に来た。彼や姉のことは、保護者として園に連絡済だ。夫と別居を始めて、そうお願いしてあった。
救急車と警察への連絡後、割れたガラスから屋内をのぞき込む総司を抱き入れたのも、ダグだった。子供の目に余る状況に、部屋を出ているよう言いつけられていたが、不安なのだろう、じき戻ってきた。
総司は、わたしの顔をのぞき、傍らのダグを見、そして夫へも目を走らせた。「パパ」とつぶやいたが、そばに寄ることをしなかった。顔中に汗をかき、小刻みに身体を震わせ続ける彼が、単純に怖いのかもしれない。
「ママ、大丈夫?」
総司に頷くように笑いかけ、「大丈夫」と言った。ささやくような声になる。
声に反応したのか、所在がないのか、総司はわたしの隣りにぺたんと腰を下ろした。身を預けてくる。
不意に、夫が大声を出した。何かが爆発したように思えた。ダグがすかさず動き、わたしと総司の前へ、守るように立った。
「こいつが、浮気したのが原因なんだ! あいつだって、言ってた、絶対そうだって」
あいつ、とは、逃げた安田さんの奥さんのことだろう。夫はテーブルに放られたわたしのケイタイを手に取っていた。素早く操作し、それをダグにかざして見せた。
「俺は悪くない、一つも悪くない。浮気したんだ。こいつが! ほら、ダグも見ろよ、何だよ、この『沖田』って、着信履歴にしょっちゅう出てくる。昼間とか、夜中も…。こいつがきっと浮気の相手だ、そうだろう?!」
窮地に立ったとき、天啓のように真実に至ることって、あるのかもしれない。頻繁に沖田さんから電話などなかった。あの人だって暇じゃないし(野菜の世話とか、妹の心配とか、仕事とか…)。
ただ、メールを見られては、まずい。好きだの嫌いだのの濃いラブメールはないが、読む人が見れば、そうとうかがえる内容ではある。離婚(はっきりその文字はなくとも)への進捗を訊ねたものもあった。
「メールを見れば、きっとわかる」
しまった。ロックくらいしておけば…。
痛みと苦しさに、ほぞを噛む思いが加わる。
そのとき、ダグの腕が走った。彼の手刀が、夫の手首を打った。それに、弾かれたようにケイタイが下に落ちる。素早くダグはそれを拾い、夫とは反対のあちらへ放り投げた。
怒ったような声を出し、
「そんなものが、若菜が浮気している何の証拠になる? 大体、君はどうなんだ、コージ? 
若菜をこんな目に遭わせたあの女は、君の何なんだ? なぜ、この家にいたの? 僕は不思議でならない」
「それは…」
ダグの強い言葉に、夫はそれ以上を返せないでいる。圧倒的に夫が不利な立場を利用し、ダグは問題をさっさとすり替えた。それにも、彼は気づかない。
夫の次の言葉を待つ間もなく、外から耳慣れたサイレンの音が聞こえ出した。ひどく近くなる。その音の大きさに、自分に降りかかった災難を、今更ながら身に迫って味わうのだ。人声の混じる、外の騒がしい気配が伝わる。ようやく、この修羅場に区切りがつく。その安堵に、気持ちが緩んだ。
ダグと夫の姿が揺らいで、かすんでゆく。
小さな総司の手を自分の手のひらに感じたその後、ふつっと意識が途切れた。
 
 
何度か目覚めた。
寝たままの自分を取り巻いて、人々が動いているのが伝わった。よく働かない頭で、病院らしいと悟る。すぐ、ふつっと意識が飛んだ。次に、つきんと走る、鋭い痛みに目が覚めた。傍らに、父と姉の姿が見える。目を開けたわたしに、姉が語りかけた。
「血がね、たくさん出たんだって。縫ってたっぷり補給したから、もう大丈夫」
失った分入れ直せばそれでいいのか。ふうん。人間の体も、ガソリンで動く機械みたいなもんなんだ、と変に納得したところで、また視界が暗くなった。
きちんと目が覚め、状況を把握したのが、手術後麻酔が切れたとき。じくじくする腹部の痛みに顔をしかめながら、姉に事の次第を聞いた。ダグはいなかった。
「警察に行った後で、ダグに家に帰ってもらったの。総司も一緒。お父さんがこっちだし、家を空けられないでしょ」
とのことだ。何かと人の出入りのある寺は、留守にはできない。
瞬きで、姉の声に相槌を打ち、「警察かあ」と胸でつぶやいた。大事になったものだ。刃物で刺され、浅くない傷を負ったのだ。当たり前だが。
姉の後ろから父が顔をのぞかせた。急いで来てくれたのだろう。普段の作務衣に、コートを引っかけている。その姿に、ふと泣きたくなった。
実家を離れて随分と経つ。家庭を持ち、すっかり大人になったつもりでいたが、父の顔を目にし、たやすく甘えた娘時代に気持ちが帰ってしまう。
この父に言いたくないたくさんのことを、わたしは抱えている。その積み重ねに、今の結果があるようで、自分が情けなく、みっともなくて、そして哀れにも思うのだ。
わたしは、一体何をしているのか。
「痛むか?」
「少し」
父は頷くと、さっき夫の実家と連絡を取ってきたと言う。彼は事情聴取で、警察に留め置かれているらしい。経緯を全く知らないはずの姑たちは、さぞ腰を抜かしたことだろう。
夫は何かの罪に問われるのだろうか。手は下していないものの、救急車を呼ぶことをためらった。ダグはきっとその点を警察に告げただろう。保護監督者遺棄とか、何とかに触れるのかもしれない…。
遠い世界のことのようにそんなことを思った。
「傷が腎臓にまで達していたけれど、上手く処置ができたそうよ。…あのね、若菜、もしかしたら、もしかしたらね…」
たっぷり溜めた後に姉が繋いだ言葉に、気持ちが落ちた。経過を見て、傷を負った方の腎臓を摘出することもあり得る、という。
こんな今、医師が口にするのだから、その可能性はかなり高いのだろう。いつのことか知れないが、どんよりと気分が曇る。摘出なんて、大ごとだ。入院や検査や手術、もちろん恐怖など諸々わき上がる。いつものまあ、いっか、では済ませない。
父が言う。
「ダグが本当にほっとしてたぞ。出血の量が多過ぎて、どうにかなるんじゃないかと、気が気じゃなかったそうだからな」
へえ。
あの修羅場においても、ダグはいつもと変わらず、冷静で頼もしかった。平静を努めてくれていたのかと思うと、意外でもあり嬉しくなる。
「もう少し遅れれば、危なかったそうだ」
「ともかく、よかった」と結んだ父に、姉も、珍しく神妙な顔で頷く。
ちょっと、気持ちがしんとなった。
それだけの惨事から何とか命をつなげたのだ。何はともあれ、得難く、ありがたい。先の憂いごとはともかく。まあ、いいか。の気分にころんと傾ける。
そう思うよりない。
夜にもう一度、姉が総司を連れて来てくれるといった。
「着替えとか、必要なものも持ってくる」
「ありがとう。ダグにも、ありがとうって」
「うん。とにかく、ゆっくり休んで」
「うん」
ほどなくして、父たちが帰った。
間を置かずに、医師が看護師と現れ、術後の診察を受けた。姉が告げたようなことを改めて耳にする。
「もし、摘出となるといつ頃ですか?」
「すぐではないです。これから体調を観察して、結果、大きな不都合があれば処置を、ということです」
必要なら、二年三年後になるだろう、という。「すぐにもまた大手術を」のように感じていたので、延びた結論に、気持ちがちょっと晴れる。
それも、ないかもしれないし。
「その可能性も置いて、経過を見ていきましょう」
診察が終わった。
検温のとき、微熱があった。そのせいか、ちょっとだるい。そこへ、ノックが聞こえた。「はい」と答える。開いた扉から、軽い礼の後に男性の二人組が入ってきた。
「あの…」
ぽかんと眺めるわたしへ、警察手帳を提示する。
ああ、これか! ドラマでよくあるやつだ!
いつか、作品で使ってやれ、と、案外に黒光りするそれを、じろじろ観察しておく。
「少しだけ、お時間を頂戴します。さっきお医者さんにも、そこで注意されたんで、ほんの短く…」
「はあ」
一見、役所や銀行にでもいそうな、普通の人たちだった。取り立て、目つきが鋭い訳でもない。刑事だからといって、当たり前だが、拳銃なんて持っていないだろうし。
一人が尋問役で、もう一人はそれをメモに控えている。
「…そうですか。安田玲子(安田さんの奥さん)が、いきなり部屋に侵入し、あなたを刺した。ご主人はそのとき?」
「…びっくりしていました」
「そう、びっくりね…」
間抜けな答えに、相手は少し笑った。そりゃね、馬鹿みたいだ。
あの人をかばう気持ちは露ほどもないが、殺意は見えなかった。ただ、怯えてうろたえて、するべきことをしてくれなかっただけ。
そこで、メモ役の刑事が、ふと声を出した。
「お義兄さんのダグさん、いいタイミングで来てくれましたね、絶妙の」
「はい、夫が家に来たときに、実家に電話してあったんです。それで、すぐにこちらに向かってくれて」
こんなことは、ダグからも聞いているはずだ。関係者の話を照らし合わせ、確認しているのを感じた。
「旦那さんが自分の家に帰ってくるだけで、いちいち実家に連絡をとるんですか?」
「それは…」
離婚を控えたことや、あの降って湧いた大金のことも、話さない訳にはいかないようだ。
観念し、ちょっとため息をついてから、経緯を話し出した。
話しながら、ダグにだって似たことを訊いたのだろう、と思う。警察にとっては、わたしも事件の当事者として、夫たちと同じ場所に立っているのだ。果たした役割が違うだけで。
被害者であるのに、面白くないが、しようがない。事件に関して、後ろ暗いこともない。探られても、何を訊かれてもかまわない。
「ご主人は、あなたが浮気して家庭を顧みなくなったと感じ、腹が立っていたとおっしゃっていました」
「…そんなことは、あの場でも言っていました」
「なのに、自分は女連れで乗り込んできた訳ですね」
刑事の言葉から、やはり夫とあの奥さんには、男女の関係があったのだろうと察した。夫は認めなかったが。
「安田が、ご主人とは不倫の仲にあったと話しています。ご主人の方は、そういった話は口にしませんが」
気遣いなのか、そんなことを言う。
今更どうでもいい。ただ、この期に及んで、その程度の過ちを認めない彼が不快だった。犯人に近い関係者として、警察から取り調べを受け、何かの罪に問われるかもしれないのに。
何を守ろうとしているのか。総司でもないくせに。和解金の取り分か。
刑事は、奥さんは我が家を逃げ出した数時間後、旦那さんに付き添われ、署に出頭してきたと言った。
「ふうん」
心のつぶやきが、つい口に出た。微熱で気が緩んでいるらしい。
「「ふうん」ですか?」
刑事の一人が、おかしそうに突っ込んだ。
「あ、いえ、すいません」
「いえいえ、構いませんよ」
不思議と、あの奥さんに憎しみはない。もちろん、もう隣り合って住むのはごめんだし、関わりたくもないが。縁が切れれば、もうどうでもいい。忘れてしまいたい。だから、今後の彼女の処遇など、あまり関心がない。
心の底からの「ふうん」だった。
刑事が礼を言って出て行った後で、気づく。彼らは、わたしの側の不倫のを問い質しはしなかった。
その辺りは、事件に関係がないから、触れないでくれたのかも…。仮にも、被害者だ。夫は相手を誤解したままだし。
ともかく、沖田さんの名を告げずに済んで、ほっとする。警察や事件、そういったことに縁の遠いはずの彼が、わたしに関わることで、ごたごたに巻き込まれてしまうのは、堪らない。
 
夜には、姉が総司を連れ、また病室に現れた。面会時間が過ぎても総司が帰りたがらず、一緒にいると駄々をこねた。
「また、明日来ようね。明日、ダグが総司とママのところに行くよって、言ってたよ」
この日の出来事は、子供には刺激が強すぎただろう。長く不在だった父親が、豹変した様子で現れ訳がわからないし、母親は血まみれだ。
それを、総司は近くで見てしまっている。不安なのは当たり前で、何とも不憫だ。こんなときに傍についてやれないのが、もどかしい。
「消灯の時間も近いので、お帰り下さい」
のぞきに来た看護師の注意を受け、総司を半ば引きずるようにして、姉が帰って行った。
「ママ」と泣きじゃくった顔が、なかなか頭を離れない。
ごめんね。
自分も悪いのだと思った。
姉たちは、夫の問題に巻き込まれて刺された被害者として、気遣ってくれ優しい。
でも、子供が親を必要としているときに傍にいてやれない、それだけで、わたしは悪いのだ。そう思う。もう、わたしだけなのだから。わたししかいないのに。
ごめんね。
幾度も寝ていたせいで、目が冴える。余計なことをうろうろと繰り返し考えた。疲れた頃に、既に朝が近いのを知った。
 
 
沖田さんがやって来たのは、入院した翌々日のことだ。出張先でダグから連絡を受け、帰京するその足で顔を見せてくれた。
昼過ぎで、わたしは急ぎの原稿の件で、咲夜さんにメールを送っていた。事情で遅れる旨は、すぐに了解してくれたが、入院のことを打ち明けると、『すわ、お見舞いに馳せ参上し…』と相変わらず、ややこしい。
「ありがとう。気持ちだけで嬉しいよ。大したことないしね」。返信…。
そこへ、ノックの後、沖田さんが現れたのだ。怒ったような顔をしている。病院で携帯が不謹慎なのだろう。でも、許可もらったしな…。
とりあえず、携帯を枕の下に押しやった。
「おい」
声も尖っている。
まあ、忙しい中、ごめんね。仕事とか妹とか野菜とか、大変なのに。
「へへ、刺されちゃった」と適当に笑った。
彼はつかつかとこちらに歩み寄ると、顔をのぞき込んだ。むつっとしている。軽くわたしの髪をつかみ、ちょっと引いた。
「笑うところじゃないだろ、馬鹿」
「…笑うしかないことって、あるじゃない」
「だから、欲を張るなって言ったのに」
そういえば、沖田さんからは、夫と揉めていた和解金の件で「あんまり欲張るな」と忠告を受けていたっけ。「ろくなことにならない」と。
自分のことは思わなかった。総司のために将来を考えて、叶う限りの余裕を求めたのだ。
それを「欲張った」と責められれば、腹も立つ。大体あのお金は、総司の出生に由来したもので、あの子を見捨て、親であることも放棄した夫には、手にする権利すらないはず。わたしはそう考える。
実は事件後、父にも、似たようなことをぽつりと説教されていて、そのときは「ふうん」で流せたことも、二度目となれば、何だかむっとくる。
傍で、パンツのポケットに指を引っかけて立つ彼へ、「ふん、偉そうに」と文句の出そうな目を向けた。
それを彼はちょっと笑って流した。
「まあ、ぶーたれる元気があって、ほっとした」
出先での仕事中、ダグから電話をもらい、芯から驚いたといった。
「息が止まったぞ」
あら、
まあ。
そんなことを打ち明けられれば、気持ちも和む。立った腹もへにゃっと治ってしまう。そう、沖田さんからは、こういう優しさがほしいのだ。説教はいい。傷に響く。
彼の言う、欲張ったつもりはないが、夫への油断があったのは、確か。それで、自分も総司の気持ちも傷つけてしまうことになった。そのことは、自覚し、反省もしていた。
「…入院は、あと十日ほどだって。その後通院があるらしいけど」
それに彼は頷いた。妹のいろはちゃんにも、ややこしい部分は抜いて(夫の愛人から金銭がらみで〜の経緯)、入院のことは告げるといった。
「あいつ、来たがると思う」
「いいよ、わざわざ。…それに、「ややこしい部分」を抜いたら、入院の事情がものすごく謎で、怪しいよ。ごまかせばいいんなら、そうするけど」
「自分で判断すればいい。お前に非がないんだから、別に、何も隠すこともないと思うけどな」
ありのまま言え、と?
沖田さんは、軽く首をかしげる。本当に、わたしの気持ちに任せるつもりのようだ。
いろはちゃんの、どこか純粋なきらきらしたあの理知的な目を、まっすぐに向けられれば、ごまかしたり偽ったりする意志が、消えてしまう気がする。多分、問われるままに話してしまうのだろう、わたしは。
ま、いっか。
そう思いつつも、物好き兄上が選んだ訳あり女に、更にでっかい『訳』がプラスされてしまうことになる。わたしのせいじゃない、とはいえ。
沖田さんは何も隠す必要はない、と言うが、そんなものさらけ出されても、いろはちゃんには重過ぎる内容だろう。気分のいいはずはない。迷惑じゃないか…。
まあ今、悩んでもしょうがない。
彼女に会った、そのときの気持ちで臨めばいい。わたしは吐息を区切りに、思いを途切れさせた。
「あの人には、もう会うな」
傍の簡易椅子に腰を下ろして、彼が言う。
はて? 
「ダグが、もう警察から返されたって言ってた。何のかんの言ってくるかもしれんが、彼には会わない方がいい。会うなよ」
彼?
沖田さんが、わたしの頬を指の背でぽんと打つ。そこで、やっと気づいた。夫だ。夫のことを彼は言っているのだ。すぐに思い出しもしない、自分のうっかりさ加減にあきれるが、事件から日も浅い。身体があの恐怖を、夫の存在ごと忘れたがっているのかもしれない。
そういうことにしておこう。
ふうん、そうなのか。もう、夫は帰ってるのか。では、罪に問われることもないのだろうか。
「あの人は、来ないよ。わたしに会いになんか」
「…あっちの弁護士が、そういう指示をするのかもしれない。お前に会って、今回の件の言い訳をして謝っとけば、有利だとか、知恵をつけることもあるだろ。お前から、何か彼に都合のいい言質を引っ張れるかもしれないし。会う理由は、相手にはある」
ふうん。
「あっちの弁護士」だとか、「有利」だとか、彼の言葉では、夫がまったく無罪放免された訳ではないようだ。まあ、彼にしたって専門家ではないし、警察から聞いたダグの話をもとにしての推測だろう。
「会っちゃ、まずいの?」
会いたい訳ではない。見たい顔でもない。でも、相手がぜひとも必要だ、と言うのなら、しょうがないかな、という気持ちはある。短時間なら。
そこで、沖田さんの頬がさっとこわばるのがわかった。怒ったのだ。むか〜し、彼がわたしの担当編集者だった頃、幾度もの約束を破り、さぼってネームを仕上げてないわたしへ、こんな顔つきでよくお小言が始まった。「お前な…」と。
「お前な…」
やっぱり。
おんなじセリフが始まった。懐かしくて、ちょっとおかしくて。ちょっとしみじみしてしまった。
そんなわたしへ、思いがけず、彼の硬い声が降り、はっとなる。
「本気であの男と別れる気、あるのか?」
「え? 何を…」
「お前を見てると、そうも言いたくなる」
「だって、わたしの対応一つで、あの人が有罪とかになるかもしれないんでしょ。寝覚めが悪い…」
「あいつの対応一つで、お前は死にかけたんだぞ。ダグの来るのが少し遅れていたら、寝覚めどころか、二度と目覚めなかったのを忘れたのか」
それは、確かに…。言葉に詰まった。凄まじい痛みとともに、必死で救けを求めるわたしの目を避けた、あの人の怯えた顔を思い出す。
「甘い」
許しているのじゃない。
実際にわたしを刺したあの奥さんへの感情とは違い、夫へのそれは、総司の件も絡めて生々しく、根深いのだ。憎しみもあれば、妥協も理解もし合えない不快感もある。
そして、わたしは裏切られた驚きを、まだ引きずっていた。
もう他人のつもりでいながら、彼からの仕打ちのあれこれに、今も怒りを込めてこだわっているのだ。
沖田さんが目を三角にして怒るような、彼への温情やまさか未練などではあり得ない。
ただ、されたことを同じだけ返す。または倍返ししてやろう、といった思いはなかった。「甘い」と言われれば、それまでだろう。
これを機会に、できるだけしこりを残さず、後顧の憂いなく、きれいに別れたいのだ。刺された腎臓も、そのための痛みなら忍んでくれるだろう、なんてことを考えている。
沖田さんには、記入済みの離婚届が手にあること。それを姉に託して、すぐにでも役所に提出してもらうつもりのことを伝えた。
「自分で出したかったけど、もういいや、うるさいから」
ちょっとぼやくと、わたしの返事に納得した顔で頷いていた彼が、ぎろりとにらむ。
「何がうるさいだ。さんざん待たせておいて。そんな安っぽいセンチメンタルは、死にかけた女には不要だ。害になる」
まあ、毒を吐く吐く。
まあ、いいや。それほど自分で提出してけりをつけることにこだわっていた訳でもないし。「青い顔してるのに、きついこと言って、悪かった。でも、本心だ」
「いいよ、別に」
彼は急ぐらしく、その後間もなく帰って行った。
「また来るから」
それに、「いいよ、わざわざ」とは返さなかった。会って、またぽんぽん説教めいたセリフを聞かされるのかもしれないが、聞けないよりいいのだ。
うん。
わたしは頷いて返した。





          


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