ふわり、色鉛筆
34
 
 
 
沖田さんが現れてその日のうちに、姉に離婚届の件を頼んだ。急かされた気分になったのだ。
『出してきたよ』。姉のあっさりとした返事に、ちょっと拍子抜けがした。礼を言い、その後でしばらく呆けてしまった。
後悔でもなく、喜びでもない。
それでも、区切りがついたことで、気持ちが軽くなった。さばさばは、する。これを、嬉しいというのかもしれない。
「さんざん待たせて」と、沖田さんの愚痴がよみがえる。そういったことは初めて耳にしたが、きっとイライラしていたのだろう。妹のいろはちゃんにしたって、離婚になかなか踏み切らないわたしの態度が、不審に映ったかもしれない。
沖田さんには、早々、このことをメールで知らせた。いろはちゃんへも、「よろしく」と付け足しておく。
翌日、病室に夫(前の)の両親が現れた。姑(前の)が手に花束を持っていた。明るい色のガーベラだ。中に濃い茶っぽいのもあって、あんな色もあるんだと、珍しかった。
うなだれた様子で、交互にわたしの身体の具合を尋ねる。
痛み止めや抗生剤のおかげで、そう辛くない。微熱はあるが、じき引くらしいこと…、そんなことを、もぞもぞと答えた。
「そう…」
姑(前の)が、以前会った威勢の良さを完全に消し、肩を落としながら頷いた。息子がしでかしたことに、今も動揺が去らないようだ。
「今回のことは、本当に、何と詫びていいか…。若菜さんのお父さんにも、驚きでろくな返事もできず…、あんたにも済まないと以外何と…」
言葉を濁らせ、舅が、深く頭を下げた。それに倣い、姑(前の)も頭を下げた。
事件の契機は作ったが、夫(前の)は刺していないし、またこの人たちがしたことでもない。いい大人が成人した息子の不始末にこんな目に遭うのが、少し気の毒になる。
「あの、頭を上げて下さい。お義父さんたち(前の)に謝ってもらっても…」
「いや、わたしらの気が済まん」
「でも…」
会話にならない。
ちょっと疲れてきた。ため息をつきながら、頭を下げ続けている二人を眺めていると、どれほどかの後、ようやく舅(前の)が頭を上げてくれた。姑(前の)も、おずおずとそれに続く。
そろそろ、帰ってくれないかな〜。用も済んだろうし、こっちは見たい顔でもないし。
「今、外に人を待たせてあるんだ」
舅(前の)が言う。すぐに、夫(前の)かと思った。嫌だな〜、そんな思いがきっと顔に出たはず。まあいいや。そこまで気を使うこともない。
断ろうと、口を開きかけたとき、
「息子の件で担当してもらってる、弁護士の先生なんだ。わたしらが若菜さんに会いに行くと言ったら、ぜひ同席させてほしいと頼まれて…」
少し、ほんの少し事件のことで確認したいことがあるらしい。
ああ、
そういうこと。
つい先日、沖田さんがこんな場面を口にしていたっけ。相手の都合に合わせてやる義理はない、と強めに忠告もされた。言葉通り、まるで予言のように目の前に起こった。何なんだ、あの人は、メンタリストか。
この日、わたしの見舞いや謝罪にやって来たのも、その弁護士の指示だったような気もしてくる。二人の気持ちを疑いたくはないが、たぶんそうなのだろう。
弁護士に会わせるのがまずの目的で、謝罪や何やは、ついでというか、落語でいえば、マクラといった感じの。
がっかりもしないが、ちょっともやもやした。
「そういうことは、わたしの実家に連絡して下さい。父でも姉でも誰かが、こっちの弁護士に相談しますから」
わたしにしては珍しく、面会をきっぱりと断った。内心怒りを感じていたのだろう。もやもやどころではなく。
返事に、二人はあ然とした顔をし、互いに見合わせた。
「でも、若菜さん、ほんのちょっとの時間で済むし…、こういったことはちゃんとしておいた方が、あなたにしたってすっきりとするでしょう?」
何がだ、どうしてだ?
「浩司のためにもお願いよ…」
「あの、すいません。おなかの傷が痛むんで、もうお帰り下さい」
顔をしかめてみせた。痛くはなかったが、そろそろ薬の時間だ。
「さっきまで、元気そうにしてたのに、ちょっと…!」
「こら、お前」
姑(前の)の言いかけた非難を、さすがに舅(前の)が遮った。これ以上ごり押ししても、わたしの態度が軟化しそうにないのを悟ったようだ。当たり前だ。
二人が、出ていくのを、わたしは目の端で捉え、ほんの軽く頭を下げることで見送った。
どっと疲れた。
傍らの吸い口のお茶を取り、少し飲んだ。そして横になる。せっかく離婚が成立し、さばさばした気分でいたのに、嫌になる。
まあ、それでも、意志は伝えられた。なあなあで済ましがちなわたしには、快挙だろう。それでいい。
 
わたしの言葉に従って、義両親(前の)は実家に連絡したらしい。それを受けて、姉がやって来てくれた。
わたしの代理で、離婚の件でお世話になった弁護士に、問い合わせてくれた。前の件に引き続き、夫(前の)側との窓口になってもらえるらしい。
「追って、そのことを伝えたらね、返事をしないで、電話を切っちゃうんだよ。話してたお父さんが、電話機が壊れたんじゃないかって、驚いてね。あはは。しばらくして、自分の都合ばっかりのそういう人たちなんだって、やっとわかってくれたみたい」
「ふうん」
「お父さんなんかは、急なことで余裕がないんだろうって、それで済ましてるけど、余裕がないのはこっちだよ、若菜は刺されて、その傷が腎臓にまで達して、片っぽ取られちゃうかもしれないのに。全然、余裕なんかないよ。一個なくしたら、もう一個しか残らないんだよ、後がないんだよ」
いや、まだ取るかわからないし。それに、きっと後がないことはない。この先もう一個失うとは、おそらくないから。
姉は、ひとくさり悪態をついた。この人は、口ぶりに毒っ気が薄いから、悪口が割りに耳にマイルドだ。テンパると、ときにキーキーわめくが。
わたしよりものをはっきりと口にでき、なのに物柔らかに響く。実家の寺に携わるには、ずっと適性がある。
「結局、お見舞いの振りして、あっちの弁護士に会わせるのが目的だったの。相当落ち込んでいる感じだったから、つい同情したけど、損した気分だよ」
この日、総司はいなかった。入院して連日、姉なり父なりダグなりが連れてきてくれているのが、顔を見られないのは、やはり寂しい。義実家との嫌な話が続くから、いない方がいいのだが。
わたしが入院中は、実家にいる総司は幼稚園を休ませている。距離もあって、毎日の送迎が大変でもあるし、数日のことだ、ダグや父がまめに相手をし、小坊主のように寺をうろうろさせてくれているらしい。姉の子で、従姉もいい遊び相手になってくれている。
「総司もいい子にしてるよ」
総司の様子を聞き、普段とそう変わらないのを知り、物足りないながらも満足する。
「あんたは余計なこと考えないで、寝てなさいね。ややこしいことは弁護士さんに全部任せてあるから」
「うん、そうする。ありがとう」
寝たり起きたり。退屈な入院生活だが、これはこれで贅沢な休暇だろう。子供がいて、日々の生活があれば、こうものんびりぼけーっと過ごすことなど難しい。
沖田さんが妹のいろはちゃんを連れ、顔を出した。手ぶらだった兄とは違い、彼女は花を手にしていた。
手近の花瓶で飾ってくれた。彼女と会うのは久しぶりで、更に、沖田さんと兄妹で並ぶのを見るのは、どれくらいになるだろうか。
以前、彼は今回の事件のことを打ち明けるかどうかは、わたしに任せると言った。その直後はどうしようかと考えもしたが、判断のつかないまま放置してしまっていた。会ったときのの気分で、決めればいいや、と。
その場面がいきなりやってきて、ちょっと面食らった。少し迷い、こんな場所まで足を運んでくれた彼女に、嘘を突きつけてごまかすのがやはり落ち着かない。
「夫(前の)と浮気していた隣りの奥さんに刺されたの。その奥さん、お金に困ってたらしくて、わたしが死んだら都合がいいとか…。ははは」
結局、何の飾りもせず、事実を打ち明けた。
兄から何も聞かされていなかったようで、いろはちゃんは、目を見開いた。喉が、ひゅっと息を吸い込む音がした。兄をちらっと見た。
ああ、こんなお嬢さんに汚らわしく猥雑な話をするのは、やっぱり嫌だったな。言ったそばから後悔した。まあ、隠してもそれなりに後悔はしただろうが。
ちょっとの後で、いろはちゃんがわたしの手を握った。
「あれだけの世界観を作る神は、やはり、特別な引力がおありなんですね。プラスもマイナスも引き寄せてしまう…」
引力?
プラスもマイナスも…とかって。圧倒的にマイナスのみですが…。
ぽかんとしたわたしへ、彼女は急くように続ける。
「でも、もう大丈夫です。わたし、抜群のパワースポット知ってるんです。肩こりも生理痛にも効きます。友だちで、しつこい元カレを撃退できたっていうのもいるんです。今度お連れしますね。それで、絶対に負の引力ははじいてしまえますから!」
元カレを撃退というのはともかく、肩こりや生理痛…。ありがたいのは、わかる。
ともかく勢い込んだ声に、彼女の思いやりを感じた。
「…あ、ありがとう」
夫(前の)浮気相手に刺され死にかけた、強烈なマイナスを帯びた身も、そこに行けば、救いがあるのだろうか。ふうん。
いろはちゃんから妙な目を向けられなかった安堵から、そんなことをふと思う。本当に、総司も連れて行ってみたい。実家は寺だけど。
二人とはしばらく話した。帰り際、礼を言ったわたしへ、彼が、わたしが退院したのち、こちらの実家へ挨拶に行くと告げた。
何をしに? と問おうとして止めた。嫌な目で見るから。
「まだいいよ」
「じゃあ、お前は退院した後も、まだのんきに、ぶっ刺されたあの家で子供と暮らしていくつもりなのか? 母親が死にかけた台所で、オムライスを作ってやるのか?」
脅しながら、ぎろりとにらむ。何なのだ。さっきまで妹効果か、穏やかな顔をしていたのに、いきなりこうだもん。
ぴりぴりしちゃって、嫌だなあ。物騒なせりふはいちいちもっともだが。切った縫ったの後で、気分が重いのだ。
「ちょっと、兄貴、何てこと言うの!」
いろはちゃんが、わたしが青い顔をしているのに、とやくざな兄を「馬鹿」と叱った。それを、沖田さんはふんと流し、流しながらも、ちらりとわたしを見た。
彼女はわたしへ目顔で詫びた。ちょっと笑ってそれに応じる。
「とにかく」と、つないだ。
「もういいだろう。いい加減は止めよう」
別に強い口調でもなかった。ごく普通の言葉だ。
なのに、それがつきんと胸に刺さったようで、しばらくわたしは息を忘れた。「いい加減」は、わたしだけを指したのではなく、彼も含めてのものだ。だから、「止めよう」と結んだ。
でも、いい加減だったのは、わたしだけだ。
そんなわたしに引きずられ、譲ったために彼までが、居心地が悪く、きっと恥じたいような状況に堕ちているのだ。我慢が絶えた、言外にそんな声が聞こえる、そう思った。
ちょっと噛みしめるように反芻して、頷いた。
「うん」
それに、彼がまた頷いて返す。そうして、「じゃあな」と、部屋を出て行った。
妹くらい待ったらいいのに。と、心中突っ込んだが、二人で話す時間をくれたのかもしれない。ああ見えて、彼は気配りに細やかなところがあるから。
残ったいろはちゃんが、ややおろおろしたように、
「ごめんなさい、あんな兄が、ひどいことあれこれと。これじゃあ、お見舞いにならない…」
「ううん、ちっとも。ははは、沖田さんね、昔はもっときつかったよ。大丈夫、慣れてるから」
「なら、いいんですけど…。最近、少しいらいらしてるみたいで。更年期ですかね、男もあるっていいますよ」
「どうかな、ははは」
更年期はともかく、彼のいらいらの訳に、わたしは無関係ではない。今回わたしが遭った事件は、彼にはとどめだったのだろう。だから、有無を言わせない調子で、事を進めようとしている。
マイペースに自分で運転していた車から、快速電車にでも乗り換えた気持がした。違和感はあるが、それはそれでいいような。だって、目指す場所は同じなのだ。
そして、ぐるぐると変わらない景色に、わたしは自分が疲れてきていることを感じている。頑張ったつもりが、進んできたつもりが、悩みの網の中を、ただあがいていただけのような気がしてしまう。
その結果が、この病院送り…。そう思えば、失笑すら浮かばない。
疲れたことを自分に許して、彼の手にゆだねてしまいたいのだ。そうして、ほっと息をつきたい気分だ。身体の疲労が、気持ちの緩みを呼ぶ。逆なのかもしれない。でも、楽になりたい。
「ねえ、いろはちゃん。いろいろごめんね、お兄さんを振り回して」
彼女はわたしの声に、ぱちりと瞬きでまず応えた。「そんな」と、それから首を振る。
「何でも言ってね」
「…兄には、雅姫さんでいいんです。あ、雅姫さんで、じゃなくて、雅姫さんが! いいんです」
いろはちゃんは「雅姫さんが」を強調して言う。
そこには、子を望めない彼の事情を、おそらくわたしなら問題にしないという含みがあるのだろう。子供がいて離婚歴を持つ、わたしの負い目と彼の側のそれが、いいバランスでつり合う。彼女がわたしたちの関係を認める大きな要素のはずだ。
「いいよ、そこ強く言わなくても、ははは」
「あの、ご存知でしょうけど、うち、両親がいないんです。わたしが小さい頃に亡くなって…。わたしは記憶すら曖昧なんですけど」
沖田さんの背景は、彼から昔耳にしたきりだ。再会して、改めて聞いたことがない。彼女が何を言うのか、ちょっと気を締めて聞いた。
「気づけば、ずっと兄が親のような感じでした。歳もずっと上だし…、うるさいし」
小さく笑って、相槌に代えた。わたしにすら、あれこれやかましかった。可愛い妹の彼女には推して知るべし、だ。
「あるときから、兄貴はいつ結婚するんだろうって、思うようになりました。訊いても、「そのうちな」しか言わないし。多分、わたしが独身でいる限りは無理なのかもって…」
そこで間を置いて、
「でも、モジョにはそんな予定もありません」
「もじょ…?」
「ああ、もてない女子っていう意味です」
「ふうん。でも、いろはちゃんが、もてないことないでしょ。可愛いし、お嬢さんって雰囲…」
「いやいやいやいや! そんなこと大アリです」
「でも可愛いけど」
「実際そうなんだから、こればっかりは信じていただかないと!」
ものすんごい勢いで全否定された。いや、可愛いんだけど、本当に。目立つ派手なタイプではないが、清楚なお嬢さん系である。
本人がそこまで力説するからには、もてる方でもないのだろう。きちんと物は言うし、自分や自信がないのでもないはず。ただ、聡明で客観的に見え過ぎて、ちょっと自己採点が低めなのじゃないかと思った。
彼女は息を吸い、つないだ。
「兄貴が結婚を決めてくれて、ほっとしました。申し訳ないんですが、当分はお荷物になります。一人で暮らす甲斐性も勇気もなく…」
「いやいやいや!」
今度はわたしが全否定だ。彼女の言葉を最後まで待たず、
「そんな風に思うのは止めて。お荷物はこっちだから。あっちこっち傷だらけなのを、沖田さん、よくも拾ってくれるなって、いろはちゃんも、よく認めてくれたなって…。こっちこそ! ああ、でも、お荷物って発想はお互い止めようよ。…とにかく、変に我慢しないで、仲良くやっていけたら、って思うの。そういう意味で、いろいろ言ってほしい。お願いします」
「はい」
退院後すぐ、沖田さんの言葉通りに、彼らと同居は難しいだろう。引っ越しの準備もあるし、総司の幼稚園の件もある。でも、そう日を置かずに移ろうと、気持ちは動いている。何となく、覚悟がついた。
そんなわたしの心の内がわかる訳もないだろうが、いろはちゃんは頷くようにちょっと顎を引いて見せた。
「兄貴が雅姫さんしか見ていないのは、本当に見ていて、恥ずかしくなるくらいよくわかるんです。けど…」
聞いているわたしも恥ずかしくなる。けど…?
「雅姫さんは、兄貴の頑張りに押されて、押し切られちゃったのかも…って、ちらっとそんな風に思ってました。遠慮気味というか、逃げ腰というか…。お子さんもいて、そんな簡単じゃないし、当たり前なんですけどね」
やはり、彼女にもわたしの態度は気になったようだ。少なからず、どっちつかずにも映っただろう。やんわりとした苦言に聞こえた。「いろいろ言ってほしい」とのわたしの言葉に沿って、応えてくれたのだと取れば、すんなり耳におさまった。
彼といろはちゃんを振り回す気持ちなど、みじんもなかったが、ぐだぐだした行動で、結果そうなってしまっている。どんな意見もほしかったくせに、気持ちがしゅんとした。
「ごめんね、いい加減なことばっかり…」
「あ、いえ、そうじゃなくて」
わたしの声を、彼女は遮った。初めて、わたしと沖田さんのやり取りを見て、わかったのだという。
はて、何を?
「雅姫さんも真剣に、兄貴とのことを考えてくれてるんだって。それがわかって、嬉しかったです。安心しました」
「…ああ、ありがとう」
赤面しながら返した。自分の何が彼女を安心させたのか、さっき彼がいたときの様子を思い返してみる。よくわからない。
まあ、いいか。
ほどなく、彼女は長居を詫びて帰って行った。先に出た沖田さんとは、下のロビーか駐車場で合流するようだ。
退院も数日後に迫っていた。早く出たいようで、まだこうして寝かせていてほしい気分も、少し残る。
時間は待ってくれない。彼を連れての実家訪問や、続く引っ越しのこと、総司の問題…。しばらくのちの、慌ただしいだろう日々を思い、ちょっと吐息した。
何とかなるだろう。
そして、何とかしよう。
 
 
咲夜さんが花を持ってお見舞いに来てくれた。「いいのに」、「わざわざ、ごめんね」
と何度も繰り返しつつも、単調な入院生活だ。なじみの顔はやはり見て嬉しい。
彼女には怪我で入院、とのみメールで伝えてあった。事情はややこしいし、夫と面識のない人たちには、出来れば伏せておきたかった。
なのに、あらましを知っているようで驚いた。訊けば、わたしの怪我のことは、新聞にも出たそうだ。三面記事の下段に、小さく。
「アン姐さん(桃家さんのこと)から連絡を頂戴して…。姐さんの記事を見つけたのは、アン姐さんなんですよ」
その桃家さんは、都合で一緒には来られなかったという。
「心配しました! すぐに駆けつけるのは、術後は却って迷惑だ、とアン姐さんに叱られて…。ううっ…」
涙ぐむから、驚いた。そういえば、彼女はリアクションが派手だった。今も、わたしの足元に顔を伏せ、肩を震わせている。
いや、その…。
ははは。
「大したことないんだよ。すぐに手術できて、予後もいいらしいし」
「腹は、大切ですよ。うちの若いのにも、腹をやられたのがいました。このヤスは腸をやっちまって、ひどかったんです。ただの匕首じゃなく、サバイバルナイフだったのが痛かった。十時間にも及ぶ手術でした。でも、根性も体力のある奴で、相当痛んだらしいのが、泣き言もこぼさず、見事でしたよ」
…ああ、そう。
ヤスって人のその後が気になる。大丈夫なのかな。
「わたしは、そんな大した傷じゃないし、ナイフも小っちゃいのだったし…」
「でも、心配でしたよ! 姐さんに何かあったら…、何かあったらって…!」
「生きてれば、何かはあるよ。ははは。大丈夫だよ、わたしは」
感情が高ぶった彼女をなだめがてら、ふと思い出したことを口にする。
「そうそう。アンさんが誘ってくれていたし、都合がよければ、今度一緒にお邪魔しようよ。そうだ、季節外れの流しそうめんを準備してくれるって、言ってたよ…」
「あ」
いきなり彼女が顔を上げた。まだ涙のにじむ、縁取りの濃い目をわたしへ向け、連れがあるのだが、部屋に案内してもいいか、と訊く。
「え? どこに?」
単純に、彼女の友だちと思った。ここへ伴うなら、同人者だろう。もしかしたら、以前イベント会場で縁切りしたようなあの同人仲間と、仲直りができたのかもしれない…。
咲夜さんの顔を立てる意味もある。少しの挨拶なら、構わないや。
連れの人は、ドアの外にいるという。
「こういった場所まで、ご遠慮しようと思ったんですが、どうしても、と」
「いいよ、少しくらい」
軽く応じた。暇だし。
それに、咲夜さんがドアへ向かう。控えめな声が、外の人物へ「どうぞ、お許しがありました」と告げた。
えらく他人行儀だな。そう感じた後で、連れの人が入ってきた。それは、見覚えのない若い男性だった。女性だと思っていたから、意外だった。
今更だが、初見の男性に、寝たり起きたりの砕け過ぎた身なりをさらすのが恥ずかしくなる。
手に薄い包みを持った彼は、わたしへ丁寧に頭を下げた。
「突然、ぶしつけにやって来て申し訳ありません。どうしても、お見舞いがしたくて、彼女へ無理を言いました」
「…はあ」
「覚えていらっしゃいませんか?」
そう言い、彼はわたしを見る。改めて見れば、ちょっとはにかんじゃいそうなハンサムだ。やはり、自分の気の抜けた身なりが気になる。ばっちり整えた患者も、不自然ではあるが。もうちょっと、しわだらけの病院着に溶け込む、ナチュラルなきちんと感が…。
うろたえつつ、彼の言葉の意味を考えた。彼と咲夜さんを見返す。
「以前、うちにおいでになったときにお会いした、お客人の美馬さんですよ。ほら、アン姐さんとお話になった」
ああ、彼か! 
記憶がつながる。同人の件で咲夜さんのお宅(ヤバい)にお邪魔した際、ふと会っただけの人だ。彼に話しかけていた男性が、そっちのすごい人らしくて、やたらと物騒なこと(ハラキリだとか)を口にしていたのはよく覚えていた。
奇しくもあれは、わたしが刺された日のことになる。
思い出しはしたが、この場に彼が存在することの意味がわからない。ただすれ違っただけで、面識がないと言っていいのだ。
彼が先ほどの「ヤス」とかいう人で、腹斬られ仲間として、わたしに会いたかったとか…。一瞬、おかしなことを想像してしまった。それはない、だろう。
「あの…、どうして?」
男性は、言葉に迷うようにちょっと黙った。二十代の前半、背のすらりと伸びた、すっきりとした姿の人だ。ぱっと目を引くような、きれいな顔立ちに、短めにカットした髪が清潔感を与える…。
学生さんだろうか。紺のニットに重ねた明るい色のシャツが、さわやかな雰囲気によく映えた。
「…少し、お話をしたくて。おかしいですね、よく知らないあなたに、こんなことを言うなんて」
まるで恋の告白のような言葉だ。のぼせ上がってしまいそうだが、まさか、あり得ない。自分をわきまえている。
ふと、彼はニットの胸ポケットから、四角いを紙を取り出した。差し出されて、それが写真であるとわかった。一人の若い女性の、胸から上の写真が写っていた。にっこりと笑ったその顔を見て、一瞬ぎょっとなる。
わたしかと思った。
しかし、すぐに自分ではないと気づく。わたしは過去、この女性のようなロングヘアにしたことがない。肩より先、髪を伸ばしたことがなかった。
びっくりするほど似てはいるが、よく見れば、細かな造作も違い、別人であるとわかる。
これは…。
写真から目を上げ、彼を見た。目が合い、彼は少し頷いた。わたしの驚きに対してのものに思えた。
「母です」
静かな声が、もう亡くなりましたが、とつないだ。
「もう、随分前のことです。僕はまだ小学生だったんです」
ああ…。
その亡くなった母上に、わたしがよく似ているから、会いたかったのか。と、納得がいく。
興味と懐かしさに、気持ちが動いたのはわかる気がする。わたし自身母を亡くしている。その母にそっくりと思える人を目にしたら、きっと心が騒ぐだろう。言葉を交わしたいとまで、衝動が続くかは別だが。
でも、大学生にまでなっていたわたしと、小学生の頃その節目を迎えた彼とは、同じに比べられない。母への思いの抱え方も違うだろうから。
そのとき、プライベートな話に遠慮した咲夜さんが、断りを入れ部屋を出た。こういうところは、彼女はとても律儀だ。
しかし、二人きりになってしまった。初対面に近い人なのに。
どんな言葉を返したらいいか、迷う。ふさわしい言葉が何も浮かばない。わたしは浅く頷くことでしのいだ。何も口にしない方が、いいのかもしれない。
彼が軽い咳ばらいをした。黙ったわたしにちょっと困ったかのようだった。
「あの、ご存じないかもしれませんが…」
「はい?」
「○○の名前は、耳にしたことがおありですか?」
いきなりの話の方向にやや面食らう。そもそも、彼がこの部屋に入ってから、面食らいっぱなしだが。
○○といえば、昔いたグラビアアイドルのことしか浮かばない。よく知らないが、そこそこ売れた人で、沖田さんがファンだった。
「グラビアの人しか…」
「母です」
 
そこか! そこに、来るのか?!
 
驚きと意外さに、彼をまじまじと見つめた。
嘘偽りのないのは、彼の涼やかな表情でわかった。繰り返すが、初対面に近いわたしを引っかけて、彼には何の得もないだろう。
息を飲んだ後で、沖田さん情報を思い出す。
「あの…、○○さんは、事務所の社長と結婚なさったと、噂で…」
「それは、母の妹です。叔母になります」
ああ、そう。沖田さんはどこで、あんなガセネタをつかんだのか。まあ、しょせん噂だから。
美馬さんは、叔母が姉である○○のマネージャーをしていた時期があり、そう誤解されることもあるのだと、小さく笑った。
「母の死には、何の不自然さもありませんでしたが、おおやけにしたがらない人もあって、マスコミにも伏せられました。引退して、随分と経ってからのことだったので…」
彼の言う、「おおやけにしたがらない人」とは、彼の父上だろうか。何かスゴイ組織のトップ方面のお方だとかいう…。
触れないでおこう。知らなくてもいい情報だ、まったく。
言葉を切った彼は、そこで仕切り直すように、軽くお辞儀をした。
「だから、あなたにお会いしてみたかったんです。もちろん、いくら面影が濃くっても、別人でいらっしゃるのはわかっています。母よりずっとお若いし」
「いや、亡くなった母上の方が、お若いと思うよ」
つい、地が出た。
それを繕うよりも前に、彼が笑う。きれいな笑顔だった。この彼に夢中になる娘さんも、さぞ多かろう…。しみじみ、年寄り臭く思った。
「僕の方がずっと年下です。楽に喋って下さい。そっちが嬉しいから」
「…はあ」
彼は、部屋の外をちらっと見、
「上条(咲夜さんの名字らしい)の麗子さん(咲夜さんの名前らしい)から聞きました。マンガを描く方なんですね。どんな?」
あなたのような男性が、イチャイチャし合うマンガ…。とは言えず、「女性向かな…」ははは、と笑いににごした。嘘ではない。
彼はそれ以上は、突っ込んでこない。マンガに興味がない人なのだろう。
「麗子さんがあなたのことを、「すごい人だすごい人だ」って」
「はは、確かに刺されて入院する人は、あんまりいないからすごいのかも」
咲夜さんの「すごい」は、褒め言葉なのはわかったが、彼女のわたしの捉え方は、的外れで、いつも途方もなく素晴らしい。適度にスルーしてくれるよう、首を振りつつ答えた。
それを彼も、緩く首を振って応じた。
「マンガはもちろん、人柄も。「尊敬してる」って、うきうきするように話していましたよ。仲のいいお姉さんのことでも言うように。…彼女のような環境だと、そういった外部の人間関係は、なかなか作りにくいだろうし…」
最後は半ば、自分のことでもあるようだった。彼だって、特殊な出自を持っている。普通の人との関わり方に、難しさを感じてきたのだろう。
わたしはそこに触れず、彼女と知り合ったのは、マンガという趣味を通じてだから、プライベートなことは、あまり触れ合わないのだ、と言った。
わかんないだろうな、同人界の、一般とは毛色の変わった事情や仁義は。
「でも、知った後は、腰が引けませんでしたか? 怖いとか、関わりたくないとか」
「思うよ」
「なのに、つき合いを絶たないのは?」
やけに突っ込むなあ。やはり、自身にも絡む問題だからか。
「それは、まあ、行きがかり上というか…。だって、彼女自身はいい子だし。一緒に本を作っても、楽しいし、BLのセンスとかすごいし、それに儲けも出るし…」
ぼろぼろ、同人の内輪まで語るに落ちて、はっと気づく。
彼はまじまじとわたしを見ていた。わたしの発した「BL」に、何か悟るものがあったのか。地雷だったのか。こんなきれいな彼なら、偏ったBLファンの女子に、きっと密かにネタにされたこともあるだろう。不快な思いでもしたのかも。
「あの…、何か?」
気に障った?
小さく問うと、彼はうっすらと笑う。
「ちょっと、わかる気がしたんです。麗子さんの言うことが、僕にも」
わかる気がする。彼はもう一度つぶやいて、頷いた。
何が?
わたしには、ちっともわかりませんが。
「あ、そうだ。これを」
戸惑ったわたしを置き去りに、彼は手の包みを差し出した。見舞いの品に持参したのだという。更に戸惑うが、受け取ることにする。受け取りを拒否される方が、彼には迷惑なはずだ。
薄い紙包みの中には、仕掛け絵本が入っていた。開くと、ぱっと絵が飛び出たりするあれだ。ページを繰って、思わず笑みが出た。本音でこんな本は楽しい。総司にも見せてあげたい。
「ありがとうございます」
「こっちこそ、時間をいただけて、嬉しかったです。あの…」
彼は、少し口ごもった後で、連絡しても構わないかと訊く。メールでいいから、と。
何のために? とわたしの顔が告げたはずだ。
「…駄目ですか?」
担任に、進路の相談でもしているような様子だった。実際、この彼に進路相談はそんな過去でもないだろうな。
ぼんやりそんなことを思いながら、
「楽しくないよ、わたしとメールなんかしても」
「楽しいですよ、きっと」
笑顔で請け合うから、それにちょっとほだされた感じだ。いいよ、と頷いた。咲夜さんにアドレスを訊いてくれたらいい、と答えた。
彼が出て行った後で、ほっと息をついた。疲れた訳ではない。ふわりと一瞬、風が通りぬけた感じだ。
実は彼も、同人者か? 腐男子とかいうマニアもいるようだし…。首をひねる。でも、違うだろうな。やっぱり。
何だろう。
ま、いっか。





          


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