ふわり、色鉛筆
35
 
 
 
退院後は、一週間ほどを実家で過ごすことにした。まずは身体を優先に、無理せず、家事を手伝いながら総司の面倒を見、体調を整えた。
そんな中、あるイベントが持ち上がった。沖田さんの訪問である。
覚悟は決まったとはいえ、実家の空気を吸い、気持ち緩んだからか、この期に及んでも、「そんな改まらなくても」、「もうちょっと自然にゆるりと…」など、わたしはのんきな逃げが抜け切らない。気恥ずかしいのも大きい。
彼にしてみれば、早く済ませたい、どうしても欠かせない節目らしく、仕事終わりに、急いでやって来るようだ。
「晩ご飯、一緒に食べるでしょ? 沖田さんも」
姉が当たり前のように言う。夕暮れが近づき、その準備を始めたいようだ。台所に入る背に、わたしは「え〜」とか、「う〜」とか返した。
「どうしたの? 痛むの? 無理しないで幼稚園行事、休んだらよかったのに」
この日、わたしは総司の幼稚園のお遊戯会に出かけていた。それで、身体の具合を心配してくれたのだ。
そうじゃないと首を振る。ダグが今晩、地域の集いに呼ばれているということも引き合いに出し、
「それで、いきなり会いに来て、…話して、それでご飯食べるのって、ちょっと面倒じゃない? 気まずいって言うか、あの人も…」
「何で?」
と、姉は首をかしげる。忙しい人なのだから、会える時間を有効活用したらいいじゃない、と説くのだ。
まあ、そうなんだけど。
返事をしないで、口を尖らせつつぼんやりしていると、本当にひょっこり、ダグが現れた。話の筋を聞いていたようだ。
濃いグレーの作務衣の腰に、アランニットを巻いている。何でもないそんなことが、こなれていて、とてもおしゃれに見える。
「僕は構わないよ。ゲストのだんじろう先生が遅れるらしいから、会の始まりもずれ込むんだ」
だから、食事くらいつき合えるという。へえ、だんじろう先生が来るんだ、すごいな。
「ほら、早く。玉子豆腐作るから、手伝ってよ」
姉が、わたしの手を引いた。
ダグが、そのわたしへ、「気楽に」と声をかける。
曖昧に笑って返し、姉に引きずられ台所に入った。料理の傍ら、子供たちにおやつをあげる。
「沖田さん、どんなの好き?」
「前に、テイクアウトの一口餃子が好きだって言ってた」
「それ、うちの花梨も好きなやつでしょ。普通の物でOKってことかな」
「多分…」
彼の好みの料理など、わからない。野菜も自分で作るし、好き嫌いはあんまりなさそうだ。
姉にはダグから、それとなく沖田さんのことは伝えてもらってある。しかし、ダグからの情報じゃ足りないようで、あれこれ質問攻めなのが、ちょっとうざい。
「…そんなの知らないよ。もう、犬っぽいか猫っぽいかなんか、わかんない」
「何でよ、感覚で来ない? 変な子」
「来ない。お姉ちゃんの方が、おかしい。じゃあ、ダグはどっち?」
半ば答えを予想して言う。ダグは誰が見ても、犬と感じるだろう。大型犬っぽい。ポインターとか、ドーベルマンとか…。
「猫だよ」
「え?」
昔近所にいた茶トラに似ているのだそうだ。「目をこすったところがね」と。共感を求める目を向けるが、姉の感覚はわからない。
犬だの猫だの話しながら、料理の手を動かした。姉の指示で、玉子豆腐にもらいものの葉物を白和えにする。母に比べれば、あちこち適当な坊守の姉だが、場慣れし、さすがに手際もよく料理上手だ。
料理が整う頃には、もう窓の外が暗い。時計は六時を回っていた。
そろそろか、と胸が変に騒ぐが、逆に開き直ったように覚悟が決まる。
沖田さんがやって来たのは、約束のほぼ七時だ。手土産に和菓子の箱を提げていた。客間に通し、姉が運んだお茶を勧める。わたしと姉、そこにダグが加わり、やや遅れて父が入ってきた。
父に今夜のことを話したのは、実は昨日のことだ。「会ってもらいたい人がいる」と告げたとき、父はあっさり頷いただけだった。「誰」だの、「どうして」だの、質問を待ったのに、その反応には拍子抜けがした。
きっとダグあたりから、上手い説明があったのだと思う。
彼は仕事帰りのスーツ姿だ。初めて会う父に、まず挨拶している。実家に沖田さんがいる、という光景に、わたしはどぎまぎと落ち着かない。違和感と照れ臭さはハンパない。
「どうぞ、楽に」
と父が、彼の下げた頭を上げさせた。
彼が頭を戻すのを待って、わたしの代わりに、ダグが彼とのわたしの関係にさらりと触れる。つき合いが古いこと。何くれとなく世話になっていたこと、などなど…。
父は頷いて聞いていた。
「もういいじゃない、ご飯食べようよ。ダグだって、急ぐみたいだし」
居心地に悪さにお尻がむずむずしていたわたしは、顔合わせは済んだとばかりに、腰を浮かせた。それについで、姉も親しげに沖田さんに話しかける。「あ、苦手な物って、あります?」。行きつけの商店の人へのようだ。
「待ちなさい」
思いがけず、父の声が入った。立ちかけたわたしと姉を、手で制した。姉と目で「話なら、ご飯の席だって、いいじゃない、ねえ?」と話し合う。
「ダグからは、大体のあらましは聞いています」
父が沖田さんに向け、口を開いた。何を言う気なんだと、わたしは父をうかがい、自然、沖田さんの方へ身体が動いた。
「若菜が、ややこしいときに、面倒をかけたそうで、お礼を言います」
「ややこしいとき」とは、元夫との間で問題が持ち上がっていたことから、今回の刺された件に関してまでを言うのだろう。
父の礼に、彼は「いえ、そんな大したことはしていません」と、応じた。
そこで、父はダグへ目を向け、
「若菜が黙っていてくれと、頼んだんだとは思う。しかし、急な話で、わしも驚いた…」
「ご家族の方には、事件のすぐ後にこんな話を持ち込んで、申し訳なく思います。彼女とはお互い真剣に、将来のことも話し合ってきました。こんな時期だからこそ、あまり時をおかず、新生活に移った方が、総司君も含め、いいんじゃないかと考えました」
父は沖田さんの言葉に軽くうなずいた。了解した合図にも、聞いたよ、とただの相槌にも取れた。
「これが」と、父がわたしを顎で示し、
「退院してからも、浩司君(前の夫)の方とのやり取りがまだあって、うちの者は振り回されたような気分でした。あれなんか…」
次は、顎で姉を指した。ひどい陰口のききようだった。とこぼす。姉の元夫と元義父母たちへの悪口は、よく聞いたし、もちろんわたしが言いいもした。身勝手さに、あきれるようなことも本当に多かったのだ。
しかし、父はそれをさして咎めもしなかったはずだ。すべてを耳にした訳もないが。
「わしも思うところあって、聞かん振りをしたことも多い」
わたしの胸のつぶやきが、ぽんと返る。父もあちらとの電話などの応対に、辟易していたのがわかる。
「それから」、と次に父が指したのは、沖田さんだ。
「あなたはさっき、若菜とは将来のことも真剣に話してきた、とおっしゃった。真剣に将来のことを語り合うには、それなりの期間が必要だろう。あの子の離婚が成って、すぐ恋愛が始まり、一週間ほどで、そんな話がまとまるもんではないでしょう」
「それは…」
沖田さんは言葉を返せないでいる。
父が言いたいのは、わたしの結婚期間と沖田さんとの恋愛期間が重なっていることだ。そこを父は、おかしいと突いたのだ。
それがわかるから、言葉が見つからないのだ。代わりに、彼は頭を下げた。それを見て、申し訳なくなった。一緒になって、わたしも詫びるべきなのだ。
「まあ、あなたはいい。ダグも一緒になって、動いたんだろうから」
父は彼の頭を上げさせ、わたしの顔を見、それから姉に視線を移した。
「確かに、耕司君のしたことは、許されるものじゃない。家庭を捨てて、そればかりか、今度は女連れで、金目当てに若菜を脅しに来た。刺したのは彼じゃないが、片棒を担いだのに違いない。しかし…。どっちが先かは、わからん。お前が悩まなかったとは、思ってない。しかし…」
父はそこで言葉を区切って、はっきりとわたしを見た。この父に叱られたことは少ない。家庭での叱り役は、常に母だったのだ。このときの父の表情は、記憶の、わたしを叱る父の顔だと思った。
「浩司君だけが悪いのか?」
それは…。
それは、何度か思ったことだ。沖田さんとのことが始まる前から、始まった後も、幾度か考えた。自分が逃げただけなのじゃないか。古くなった夫への思いを捨て、単に新たな彼へ乗り換えたいだけなのじゃないのか。
それでいいじゃない、と言ってくれたのは、確か千晶だった。あの言葉で、すっと気が楽になったのも事実だ。「まあ、いいじゃない」と、許された気になった。
「傍の目には、家に居つかなくなった亭主より、幼い子供と残された母親は、不憫に見えるもんだ」
「お父さん」
姉が父の言葉に咬みついた。「ひどい」と頬をふくらませる。
「若菜がしんどかったの、お父さんがわからない訳ないじゃない。お金のことだって困って、働いて、無理して…」
「今じゃ大勢の若い母親が働く。それに、外に仕事を持てば、誰彼少々の無理はする」
「若菜の無理は、少々の無理じゃないの。すんごいタイプの無理だったの」
姉の声が甲高くなった。ダグが「ミキ」と、割って入った。彼にも父の発言に違和感があるようだが、話を聞こうとしている。
姉はダグになだめられても、収まらないといった表情だ。わたしをじろりと見ては、「反論しなよ」という顔をしている。
「以前、浩司君が、一人でうちに来たことがある。これまで心配や面倒をかけたと、詫びて、再就職の目途がついたと知らせてくれた。あれは…」
夏のことだ、という。
ダグが虚を突かれた顔をしている。知らなかったらしい。わたしと顔を見合わせた姉もそうで、首を振った。
「え、どういうこと?」
問えば、
「そのままのことだ」
と、そっけない。
「聞いたことないけど…。それ、いつ?」
「彼が内緒にしてくれと言ったもんでな。確か、○町の加納さんの葬儀の日だったから…」
「なら、八月十日じゃないですか?」
記憶力のいいダグが言い、父が、「ああ、そうか」と頷いた。
夏の盛りだ。わたしが同人を本格的に始めた頃で、気持ちにもお金にも、一番余裕のなかったときでもある。イベントで、元夫に留守を頼んで帰れば、家には熱を出した総司が一人で放っておかれていた。それで、汚い言い争いをしたことは、よく覚えている。
日付で、父に詫びたというのは、その数日後のことになる。
何のつもりで…?
少し混乱した。思いがけない情報がふと舞い込んで、よくわからなくなる。あんなに大喧嘩をして、わたしに何の言葉もなかったくせに、父には頭を下げにやって来ているのだ。「就職も目途がついた」、って…。
「お前だけが、頑張っていた訳じゃない」
父の声に、記憶が引きずり出された。いつだったか、口論をして、元夫がわたしに投げた言葉だった。『自分だけが働いている気になるな』。彼はそんなことを言ったはず。
じゃあ、あの人は何をしていたのか。わたしの財布からお金を抜いて、ほぼ毎日行先も告げずに外出をし、それに何の報告もなかった。
言葉もない。結果もない。何も見せてくれなかった。
「よそ見をしていれば、映らないことも多いだろう」
父の声に、思わず視線が下がった。
父の言った「よそ見」とは、沖田さんへのことを指すのだ。わたしに元夫の「頑張り」が見えてこなかったのは、他に気を取られ、見ようとしなかったせい。そう言っている。痛い皮肉だった。
「だって、あの人が」と、あったトラブルで反論はできたが、手痛い皮肉が効いて、その気になれなかった。夏を境に、わたしの気持ちはすっかり元夫から離れ、沖田さんへ傾いでしまっていたのだ。
彼の思いの何を探ろうなどと、考えすら浮かばなかった。それは事実だ。始終胸にあった彼へのいらだちは、無関心に変わっていた。
「優しさも、温情も…。あると思えば、ない場所からも生まれるものがある。それが、人の可能性だろう」
「…若菜は、よく堪えていました。頑張っていた…」
ダグの声だ。まだ父の話は半ばの様子で、その声は控え目だった。父は制するように、ちょっと頷いて応じた。視線が、ちらりと沖田さんの上をなぜたように思った。
「自分のあきらめで、人を侮るな」
あきらめたのは自分。人を侮るな。
皮肉どころではない。今度ははっきりと叱責だ。目が上がらない。なぜか、同じように姉もそうしている気配があった。
ふと、解けたような気がした。
元夫から受けた行為の幾つもが、何かのしっぺ返しでもあるかのように、復讐めいて気味が悪かった。わたしが何をしたのか、どんな理由があるというのか。心の中で疑問符を付けながら、開き直り、やはり彼を疎んじていた。
ある時期から、途切れなく続いたそんなわたしの態度を、同じ家に住みながら、あの人が気づかない訳がない。
まさに、あれらのことは、元夫からの意趣返し…。
侮るな。
はっとした。父の口から出た言葉が、あの人の声になって耳に帰ってきた。そんな錯覚をした。
「コージが何を思ったにせよ、家族であって、若菜だけが責を負うことはないのでは…。そして、もう過分に、彼女は受け止めたはずです」
ダグは、元夫の実家での話し合いにも加わってくれたし、わたしが刺されたあの現場を目にしている。声に、穏やかでも裏付けのある強さを感じた。それが嬉しい。
「ははは、ダグの十八番の『ファミリー』か。あれは、若菜に甘い。あんな兄貴が付いてくるのを、あなた、どう思う?」
不意に、父が沖田さんへ声をかけた。彼は一人、話から外れていた。一瞬返事に詰まったのを、父はちょっと面白そうに眺めた。
長年の娘の勘で、説教がそこで終わるのを知る。内省を促して、それが見えたら、小言はさっさと引っ込める。元からが、長々と叱ることのない父だった。
「…そうは言っても、気持ちが掛け違うことはままある。嫌なものもしょうがない」
「刺されるほど嫌ってないよ」
雰囲気が少し砕け、ほっとしてそんな言葉が出た。
「彼女が、ダグを実の兄のように頼りにしているのはわかります…。実際、自分とのことを彼女がまず打ち明けたのが、彼でしたし」
沖田さんの父の問いに遅れての返事だ。「姉が頼りないからね」。姉がとぼけたちゃちゃを入れる。
「たまたま、だよ。タイミングが合っただけで」
ダグは謙虚な相槌を打った。思い返せば、ダグに沖田さんとのことを告白したのは、巧みな誘導尋問にあって、のことだった。それでも、知っていてもらうのとそうでないのとでは、随分違った展開になっただろう。折々、ダグの配慮に甘えてきた節はある。
ダグが甘いのではなく、きっとわたしが甘いのだ。
「ダグってね、鼻が利くの、身内に何かあると。すぐピンとくるよね」
姉の言葉に、ダグは小さく笑った。そうかもしれない、と。
「大事だからね、家族は。全ての基本じゃないかな。まず、一番身近な家族に幸せがないと、何も生まれない。そんな風に考えてしまうんだ。利己的かもしれないけど」
何がいけないのだろう。
それは、自分に素直なことでもあると思う。まず自分。そして自分を囲む家族。そこに目がいかず、遠い場所ばかりを見ている人では、寂しい。
それを意識し、はっきりと口にするダグを夫にした姉を、恵まれた人だと思った。何も巧まずに、なのに自然と、女として絶対にほしい必要なものは手にしてしまえている…。
友人の千晶とはまた別で、わたしの憧れでもある。
こんなことをしみじみ実感するのは、家族から目を逸らすようにしてばかりいた、夫とのことがあるからかもしれない。父は、彼をそうした理由が、わたしにもあったと責めた。そうなのだろう。
でも、その訳は、悪いものばかりでもなかったような気がする。わたしとあの人との何かが合わなくなり、互いに視線がずれ始めた…。そう考えた方が、納得がいく。
「わしはダグの『ファミリー教』を、買ってるんだ。己の足元を照らす、という意味でも、なかなかのもんじゃないかとも思う」
誰にともなく、父は婿自慢をした。出来のいいアメリカ生まれのダグが可愛いのだ。ごく普通の日本人の父と、映画から抜け出てきたようなダグとの、不釣合いなでこぼこコンビは、わたしたち家族には、当たり前の姿になっている。
そんな目に見えない、わたしたちの輪から外れた沖田さんは、ややぽけっとしていた。説教めいた話が続き、あきれているようだった。これが、あなたが軽口に言っていた『ショーリンジ』の実態だ。
「あの、それで、お考えはどうなんでしょうか? 彼女…、雅、いや、若菜さんとのことは」
そこで、沖田さんが話を本筋に戻した。彼にとっては、それが目的で、元夫の往時の心境や『ファミリー教』などどうでもいいはず。
父は、作務衣の手を彼の前へすっと前に広げた。任せる、といった仕草に見えた。言質がほしいのか、彼はもう一度問いを重ねた。そんなところが、あやふやなことを避けたがる彼らしいな、とふと思う。
「大人同士、お好きなように」
父の言葉に、彼は頭を下げた。その頭が上がらない前に、父が総司のことを持ち出した。ちなみに、子供は姉の子も居間で遊ばせている。
「あの子のこともひっくるめて、引き受けてくれるそうだが…」
「はい、彼女との結婚と同時にでも、養子縁組したいと思っています」
彼の意志は、おそらくダグは知っていたろう。初耳の姉はあら、という顔をし、わたしを見て頷いた。「いいじゃない」と唇で言う。
「それはありがたい話だが、どうだろう…」
父は言葉を途切れさせ、ぽんぽんと膝を打った。父にとっては、事を急き過ぎて見えるのだ。離婚が済んだばかりで、すぐ再婚話。わたしが打ち明け辛く思ったのも、それがある。
それもしょうがない。再婚のための離婚だった。沖田さんとのことがなければ、わたしは決して離婚を焦らなかった。子供のためと体よく言い訳に逃げ、ずるずる別居を続けていただろう。
「いけませんか? あの、雅姫の和解金のことがご心配でしたら、関心がありません。自分が手にできないように、彼女には法的に手を打ってもらうつもりでいます」
そうだったのか。それは知らなかった。
決然とした、やや硬い彼の声に、姉が感嘆の声で和した。
「とってもありがたいお話じゃない、お父さん」
「その辺はどうでもよろしい」
父は、姉の声をばっさりと切り捨てる。
「いくら法的に手を打とうが、あなたがその気になれば、何なりと方法はあるでしょう。…しかし、そのお気遣いはありがたい。感謝します」
「では、何が問題なのですか?」
「…総司は、可哀そうな目に遭った子です。別れもなく、父親がいなくなった。小さな子にとって、親は世界だ。その片っぽが、訳もわからずいきなり消えたんです。とてつもないショックだろう…」
「ですから、自分が父親になって」
父は沖田さんの声に頷きながら応じた。
「あなたは、年齢も物腰も落ち着いているし、申し分のない人だとお見受けします。あの子の親には、まさに理想的だと思う」
「なら…」
「…ゆるゆるといきませんか。つかず離れずの距離に、頼りになるおじさんがいる。あの子にとって、それではいけませんか?」
「いや、それは…。形をまずきちんと整えて、その中で家族として生活していけば、自然に親子になっていくものじゃないですか。お言葉ですが…」
「それは、大人に都合のいい『親ごっこ』じゃないかな」
父の『親ごっこ』という言葉に、沖田さんが黙り込んだ。少し唇を歪めている。気を悪くしたのかもしれない。彼の誠意をけなしたようなものだ。
黙っていられず、わたしは口を挟んだ。
「総司には、これから父親が必要になると思う。ダグは、よくしてくれるけど、やっぱり…」
「やっぱり足りないなら、もう一人のダグになればいいんだよ、あなた」
父の声に、当のダグがちょっと笑った。
「二人で、あの子の空いた世界を埋めてやるつもりでいたらいい。全部埋まらんかもしれんが、歪みはしないだろう」
「自分一人では、父親は無理だと?」
父は沖田さんの問いに、首を振って否定した。誰がやっても無理だろう、そう言うのだ。
「総司にだって、もうわかってる。父親が、よからぬことをして、母親に大怪我をさせたのだと、小さい頭でちゃんと理解してる。それでも、あの子の父親のままだ」
「向こうは、とっくに父親を降りたのに、ですか?」
沖田さんの声にはあきれと、わずかないらだちが感じられた。
「うん。片方が勝手に切ったつもりでも、もう片方は切るに切れないで、情ばかり長く付きまとう…。それほどに、親子の情は強い。好悪じゃない」
彼は言葉を返さなかった。少し考えるように目を伏せている。
わたしも、父の言葉に何も言い返せないでいた。それは、何らかの真実を嗅ぎ取ったからだろう。今更ながら、総司がしょい込む心の重荷を痛々しく思った。
新しい父親が現れれば、生活が新しく始まれば、幼さゆえの柔軟さが、すべてを解決してしまう…、そんな風にわたしは気楽に考えていた。
浅はかだった。
父は、元夫を軽んじてきた、わたしの中の傲慢さを先ほどは叱った。が、このときそれはなかった。母親として、軽薄だったことは否めないのに。
父の言葉は続く。
「だから、ゆるゆると、気楽に。そう行きませんか? 流れに任せて、坂を下って行くような楽な気持ちで。上るんじゃなく、いい場所へ行きつくつもりで、ふわふわ降りていく」
いつしか、あの子はきっと気づく。一番身近で、当たり前に、自分を見守ってくれた人への愛情が、自分を育ててくれたのだと…。
「それがまさに、『父親』じゃないですか」
「…はい……」
父は彼に、総司の父になるな、などと言っているのではない。思い切った誠意を認め、ただ気負うな、と励ましているのだろう。あの子のなついたダグの力を借り、徐々に家族を成していけばいい、そう言っているのだ。
それは、あの子が可哀そうな目に遭ったから…。
話が終わったのを機に、姉が沖田さんへ夕食を誘った。「苦手な物ってあります?」と、服屋で色違いのTシャツでも求めるような様子で訊く。
「あ、いや、別に…」
ほっとしたような、ちょっと虚脱したような顔をしている。食事を用意した居間へ移る際、わたしは彼の肩をポンと叩いた。仕事帰りだ。疲れたのかと思った。
「大丈夫?」
彼は首を右へ振り、直さないままつぶやいた。
「すげえな、ショーリンジ」
何と答えてよいやら。わたしは、ちょっとふざけたように彼の背を押し、廊下へ誘った。
 
その後の夕食の席で、沖田さんと総司は初めて顔を合わすことになった。
彼が声をかければ、愛想よく返事はするものの、いつになくわたしや従姉の花梨にべったりとしている。ふと顔をのぞけば、「何だ、あの人は」と目が問いたげだ。
彼が家を出たのは、十時に近い頃だった。
通りまでタクシーを拾うのに、見送りがてらつき合った。彼は寡黙で、食事やその後も、父や姉にあれこれ質問されていたので、ちょっとくたびれたように見えた。
家々から明りの洩れる小路を、しばらく無言で歩く。
「…ねえ」
「…なあ」
言葉がぶつかった。いつかも、この人とこんなことがあった気がした。自分の意味のない言葉を引っ込め、「何?」と訊く。
「考えが甘いのか?」
「ん?」
何についてかは、すぐにわかった。総司の件での父の言葉が引っかかるのだ。わたしはそうじゃない、と首を振る。
「甘いのは、わたしだよ」
「…形を整えてあの子を迎えるのが、どうして『親ごっこ』かな…」
案外に厳しいその言葉を選んだ、父の思いの全てはわからない。ただ、不安定な総司の気持ちを思いやれ、という意味は汲み取れた。
それを言うと、彼はすぐに、
「だから、きちんとした環境を与えて、前を向かせてやるのが一番じゃないのか? これから、自分の進む方を。変化は悪ことばかりじゃないだろ。順応するのに忙しければ、忘れて、余計な悩みも減る」
確信を持った声に、この人も幾度もそんな経験をし、それがステップアップとなってきたのだろう、と感じさせる。わたしもそうだ、苦いものも、ちょっと甘いものも、幾つかある。大人なら、誰だって。
沖田さんの言うことは正しい。結果、総司にこの人はいい影響をくれるに違いない、そう思う。
でも、忘れなかかったら…。
あの子が、元夫を忘れられず、子供らしい頑なな執着で、あの人の影を抱き続けていくのなら、嫌な目を見るのは、沖田さんの方かもしれない。彼は我慢してくれる。でも、どこかできっと傷つくのだ。自分があの男に、どうしても勝てないことに。
もしかすると父は、そこまでを慮ったのかもしれない。優しい彼が、総司の思いに振り回されないように。だから、ゆるゆると、坂を下りるように、と彼の気負いを削ぐようなことをいったのではないか…。
「俺の子になるんだから、その辺の子と比べて、何の不足のないようにしたい。そう思うのが、まずいかな…」
まだ、ぶつぶつ言っている。父との会話はまるで肩すかしで、そのまま、あっちのペースで話が落ち着いてしまったのが、何ともすっきりしないのがわかる。ちょっとくさった表情だ。
その彼の隣で、ゆっくり歩を進めながら、頬は緩んだ。きっと真心で、総司がほしいのだろう。これまでに考えてくれる彼を、芯から嬉しいと思った。愛しいと思った。
「まあ、急ぎ過ぎた感はあるけどな。それにだって、意味が…」
彼の手をぎゅっと握った。この日、行き場をなくした意気込みを、ぷちっとつぶすように。
彼が言葉を切り、わたしを見た。
「ねえ、総司がほしいの?」
「何だよ、急に」
「ねえ」
「そうじゃなかったら、こんなぐだぐた言ってねえよ」
「あはは、愚痴ってる自覚はあるんだ」
「うるせえな。…切り替えの早さは、はやぶさ並みなんだけどな」
「久しぶりに聞いた、その鳥」
「東北新幹線」
鋭い返しに、へへと笑った。去年乗ったのだといった。「子供、好きなんじゃないか、あれ。男の子なら、きっと面白いと思う」。
「わたしが先じゃないの?」
「え?」
「わたしはほしくないの?」
「あ…、それは、まあ、お前が先だな、確かに」
「なら、いいじゃない。お父さんは、そっちは勝手にしろって、認めてくれたんだし」
「うん、まあ…、そうだけど」
「いいよ、それで」
わたしは、もう一度ゆっくり繰り返した。いいよ、それで。
父が彼に言った言葉が、耳に残っていた。
『…流れに任せて、坂を下って行くような楽な気持ちで』。
『上るんじゃなく、いい場所へ行きつくつもりで、ふわふわ降りていく…』。
元夫との生活は、あれこれあったが、その終盤は、きつい坂に向かうようなしんどさがあった。その坂の上に、何か嬉しいことがあると、ぼんやり言い聞かせ、息を切らし頑張っていた。形は違えど、元夫も同じだったのではないか。
だが、先に何があっただろう。
わたしには、見えなかった。わからなかった。
頑張ることは無駄でも、無意味でもない。でも、心の望みへと導いてくれない頑張りもある、そう思うのだ。
 
だから、彼とは、ゆっくりと願う場所へ『ふわふわ降りて』行きたい。
 
胸の中で、思いは念じるようにじんと響いた。
「そうだな、お前が先だな」
沖田さんの声が肩に降った。通じたようで、単純に嬉しい。彼は融通の利かない人ではない、今は我を引っ込めただけかもしれない。それでも、嬉しい。
「…ねえ」
自販機の並んだ、廃業したタバコ屋の影で彼の腕を引いた。ビニールのひさしが破れかけたその陰で、口づけを求めるのだ。すぐ、抱きしめられる。
彼の指が、耳をやんわり包む。髪が絡んでくすぐったい。瞳を閉じ、唇を重ねながら、どうしてだろう、手をつないでいるイメージが頭に浮かぶ。
わずかに離れて、また唇が触れ合う。
 
わたしは今、嬉しいを抱えて、彼と坂を下っている。





          


『ふわり、色鉛筆』のご案内ページへ


お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪

ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪