ふわり、色鉛筆
36
 
 
 
その日、空は曇りまま何とかもってくれた。
まだ時に冷たい風が吹く中、房総へ出かけてきた。沖田さんが休暇を取ってくれ、総司を連れての初めての旅行になる(わたしにとっても)。
実家での顔合わせののち、彼の家にもお邪魔し、妹のいろはちゃんに挨拶もした。子供らしく無邪気にしていたが、硬さは否めない。
いつか父が口にしたように、総司と沖田さんとの仲は、徐々に、のんびり…、と構えていたが、せっかちなおっさんが、堪え切れなくなったようだ。
「これから二度三度会ったって、変わらないだろ。思い切って、遠出でもして三人で過ごせば、俺にも慣れてくれるんじゃないか。今月の末にでもどうだ? 休むけど」
電話口でそう言うから、つい、
「えー、今月厳しい。入院して休んだから、先月のイベント一個逃しちゃったんだ」
「お前に金出せなんて、言わねえよ」
あら…、そう?
そんなこんなで、話は進み、ほとんど何もしないまま当日を迎えた。わたしがしたのは旅の準備と、「旅館とホテルと、どっちがいい?」に答えただけだ。ちなみに、総司の経験のない旅館をリクエストしておいた。
まだ早い時間、家に迎えに来てくれた彼の車に、ジュニアシートが備えてあるのを見て、感激した。一応と、姉から花梨(姪っ子)のお古を借りてあったんだが。
高いクラスのハイブリッドカーの暗色メインの後部座席に、青いトーマスのそれは、抜群の存在感を放っていた。
「いろはが、絶対これがいいって」
総司がトーマスが好きなのを知って、あちこち回って手に入れてくれたらしい。感謝感激だ。総司はトーマス効果で、にこにこと知らない車に乗ってくれた。
休憩を多めに挟みながらも、昼には目的地に着いた。遊山客に交じり、花の中を歩く。目当てのシーワールドでは、総司がシャチに大喜びした。
何となく、総司を間にしての行動になる。どこででも目にするキャラクターの風船を、沖田さんが買って、総司に与えたとき、店員が彼へ「あ、お父さん、お釣り」と声をかけた。
はた目には、ごくありふれた家族連れに見えるのだ。それはくすぐったくて、ちょっとほっとする出来事だ。
見れば、総司は、他人が彼を「お父さん」と呼んだことに、特に反応をしなかった。聞き逃したのかもしれないし、どうでもいいことなのかもしれない。
総司には、既に彼の存在を、言葉で伝えてあった。そのうち、一緒に住んで家族になる人。そう言ってある。せっかちな彼も、総司には「ダグみたいに思ってくれればいいよ」と話していた。
いろはちゃんがまた、子供好きでよく相手をしてくれたから、総司は嬉しかったに違いない。対面では嫌がる様子も、不快な感じも目につかなかった。ただ、出会いに変化に不安なのは伝わった。
素直に怖いのだ。よく知らない彼も、その彼らと家族になるということが。よくわからず、今までと違ってしまうことに怯えがあるのだ。
それらを理解し、受け止めたいと心にしっかりと留めながら、しょうがないことと、観念してしまっている自分がいる。わたしだって、怖いのだ。不安もあるし、子供を巻き込むことへ後悔はないのかと、揺れる気持ちもやはりある。
でも、今のまま足踏みしたような状態でいる意味も見つからない。なら、彼の望む方へ沿ってみたい。そっちが、いい気がする。差し伸べて、ぐいっと引いてくれる手があるのは、とても嬉しい。気持ちがうんと楽になるのだ。
そういったわたしの感情には、彼との恋愛を基にした女の欲もくっきりとのぞく。それでいいじゃないかと、思いはふてぶてしく横たわっている。
子供の顔色を過敏にうかがい、それにいちいち揺れながら、自分の願いを殺していく…。勝手に決めた、正しい母親らしさに殉じることは、美しいのだろうか。いいことなのだろうか。
わからない。
ただ、捨ててしまえないのだ。何かを願って望む自分を、いじらしく思い、大事にしたい。以前、ふき出すように心の中からあふれ出した、「また描きたい」という思いを、決して忘れてしまえなかったのと同じに。
これまで、自分を犠牲にして踏ん張っても、いいことなんかなかったから。
その後入ったカフェで、テーブル席に向かい合った。プリンを食べる総司へ、沖田さんが話しかけた。
「うん…、おじさん」
「おじさんか…。別の呼び方ないか?」
総司が、わたしを見た。
「「おじさん」が嫌なんだって。オジサンなのにね」
「おまえは、うるさい。誰も「おにいさん」なんか望んでない」
「どうする? 総司」
総司はプリンを口に運びつつ逡巡し、
「…オキタサン」
「雅姫の真似じゃねえか…。まあいいよ、おじさんで」
苦笑した彼が気の毒になったのか、総司はちょっと首を傾げてから、ほろりと言った。
「…エイト」
「エイト? 何それ」
訊けば、沖田さんが、テレビによく出るその名のついた男性アイドルグループの一人に似ているのだとか。ふうん。その誰かは、総司にはわからないらしい。
何となく、それらしい顔は幾つか浮かぶが、似てるのかなあ。特定できない。子供の感性は理解不能だ。
「ほお、なるほど。子供は素直だからな」
何かいいイメージを持たれているのが嬉しいらしく、沖田さんはわたしを見てにやにやした。
そういう訳で、総司は彼を「エイトのおじさん」、「エイト」、やっぱり「おじさん」のこの三パターンで呼ぶようになった。
どうでもいい。
たっぷりと施設内を見て回り、空いた時間で近くのフラワー園に移った。その短い移動の間、車内で総司は眠ってしまった。頭にはシャチをデザインしたキャップが載っている。記念にと、沖田さんが買ってくれたものだ。
「要らないって言ってたけど、気に入ってるみたいじゃないか」
バックミラーで様子を見た彼が言う。
嫌な訳ではないだろう。でも、せっかくくれたから、といった子供なりの気遣いでかぶって見せているような気もする。本当は、幼稚園の友だちが持つような、メジャーリーグの帽子をほしがっていたから。
離婚の前後、家庭がごたごたした間、総司はわたしの実家で過ごすことが多かった。ダグは頼りになるいい人だし、姉も気が置けない。従姉とも仲がいい。それでも、子供心に落ち着かない思いを味わっただろう。本音を吐けずに、気も使ったに違いない。
そんな経験から、この子には、世知のようなものが芽生えてきているのをちらりと感じる。悪いことではないだろうが、周囲より早く、喜ぶべきことでもないような…。
気づけば考え過ぎる。流すようにそっと、吐息し、
「嬉しいけど、ほしがってなかったら、買ってあげなくてもいいよ。また、よその子の影響で、違うのをほしがるだろうし…」
「またほしがったら、それも買ってやればいいだろ」
「きりがない。調子に乗っちゃうよ」
「子供なんだから、調子に乗せてやれよ。たかが帽子だろ。いいじゃないか」
彼の言葉に、返す言葉が浮かばない。
「ダメなときは、ダメだって、そのとき教えればいいじゃないか。わかるよ、子供でも。俺も何となく記憶がある。うちではこれ以上無理なんだって、観念したみたいな気持ちになったな」
「…そんな戦前の話されたって」
「何が戦前だ」
伸びた彼の指が、わたしの頬をちょっとだけつねった。
彼の考えに譲ろうと思った。「調子に乗せてやれよ」という言葉が、案外胸に響いて効いた。
わたしだって、総司には、まだまだ無邪気に甘えた子供らしくいてほしいのだ。
たかが帽子一つ。
調子に乗せてやれよ。
どうしてだか、ほっとした気分になった。
「ああ、アイス食べたくなってきた」
「さっき、でかいの食ってただろ」
「でかくない、普通。たかが、アイスじゃない、たかが」
「はいはい」
 
宿に着いて驚いた。
案内された部屋は、主の間に広い次の間が付き、正面の露台から、しっとりとした庭園が望めた。思わず、総司と一緒にそちらへ走った。奥には、専用のゆったりとした露天風呂の施設まであるから、度肝を抜かれた。
高級な旅館だ。
一通りぎょっとしてから、露台の籐椅子に掛けている沖田さんを見た。
「高いんじゃないの、ここ。すごく…」
「結構割引が利くんだ。社の指定の保養施設になってるから」
同じタイプの部屋ではないが、妹のいろはちゃんも、彼の名義で友人と泊まったことがあるという。
「料理も旨くて、評判はいいぞ」
「ふうん」
それにしたって、安くはないはず。大体の見当を付けた金額に、目が泳いでしまう。「お前に金出せなんて、言わねえよ」と彼は言ってくれていたが…。
どんな顔をしていたのか、彼がわたしを見て笑った。
「何よ」
「ちょっと前、腹刺されて、死にかけてもあの亭主から一億もぎ取った奴が、何言ってんだ」
彼の言う一億とは、間違いなく、総司の件での和解金のことだ。何と言うデリカシーのない表現を。欲に目のくらんだ悪女のようではないか。
「もぎ取ってない。それに…」
そばで外に虫を見つけたの、きゃっきゃ言ってる総司の耳を憚って、声を潜めた。
「一億じゃない」
「え、何で?」
彼の問いに、わたしはその経緯を話した。
わたしの退院後、元夫側が、あの事件もあって弁護士を通じて、和解金受け取り分の辞退を申し出てきたのだ。
おそらく弁護士の入れ知恵だろう、とは家族みんなの意見だった。それによって、わたしからあの人に、有利な証言を引っ張るつもりのようだった。お金のことで欲を張っている間に、あの人が有罪にでもなれば、大変なことになる。
相手のこの姿勢の軟化があっても、嘘を言うつもりはなかった。既に警察に告げた事情は、事実そのものだ。もう変更するつもりもなかった。ただ、お金の申し出については、総司のものという意識がわたしに強く、受け入れる気持ちになった。
しかし、それを父が止めた。
元夫側は、弁護士費用もかさむだろう。仕事を変わったばかりで、貯金がないのは、想像がつく。元義両親にはきっと蓄えがあろうが、老後のそれを吐き出させるのはしのびない、と父は説いた。
「総司には、もう十分ある。もし万が一、不足するようなことがあっても、ないならないなりに、何とかなる。まあ、そんな場合は、あの沖田君が、手伝いたがるだろうが」
父の言葉を伝えた。「沖田君が〜」のくだりで、彼がふき出した。
別に、民事の裁判は行わない意志も、それらの返事と一緒に添えてもらってある。
「ふうん。お父さんの言うとおりだな。敵の退路は、敢えて断たない。さすが、ショーリンジ」
「でも、痛い思いしただけ、損な気がする。ちょっとね」
「前ので、懲りただろ。がっつくな。今度は、家族ぐるみで買わなくていい恨みを買うぞ」
「うわあ、止めて」
ぞっとする。思わず、腕を抱いたわたしに、総司がすり寄ってきた。
元夫は、犯罪者になれる度胸などなかった人だ。それが、別の誰かとの組み合わせで、嫌なエネルギーに巻き込まれてしまったのが、あの事件だと思う。わたしを刺した、隣家の奥さんだけが悪なのでもなく、二人が出会ってこそ生まれた、妙な情熱にも見える。
父の勧めをのんだのには、言い分に納得もできたし、もう面倒なことは終わらせてしまいたかった、というのも大きい。関わり合いたくないのだ。
話を終え、沖田さんが総司を大浴場に誘った。
「えー…」
ちょっと嫌そうに総司はわたしを見る。二人で大丈夫かな、とは思うが、もうお泊り保育の経験もあり、実家でもわたし以外との入浴も慣れているはず。頷きながら、促した。
「いつまでもママと一緒は、恥ずかしいぞ」
「えー」
「ママも一緒に行くから」
着替えを用意し、総司の手を引く。沖田さんが、わたしは部屋の露天風呂にすればいいのに、と言った。
「うーん、一緒に行くよ」
この内風呂もいいが、大浴場も行っておかないと、何だか損な気がするのだ。
総司を沖田さんに任せ、女湯に入った。湯船につかったものの、総司が気にかかり、のんびりとできない。そもそも、あの子が生まれてから、ゆったりのんきに湯につかったことなどないが。
ちゃっちゃと上がり、浴衣に着替え、外で待つ。これが長湯で、なかなか出てこない。総司が大変だったのか…、とややじりじりし始めた頃、ようやく二人が現れた。
総司は湯にあったまり、桃色の頬をしていた。浴衣ではなく、サービスの小さな甚平を着ている。
「ありがとう。大丈夫だった?」
「ああ、こいつおとなしかったから」
総司はサービスのジュースのパックを、おいしそうに飲んでいる。子供を間に挟み、ぶらぶらと部屋へ戻る途中、仲居さんに声をかけられた。
「沖田さま、ご指定のお時間ですので、お食事をお持ちさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「もう七時ですか、お願いします」
「では、お飲み物は何をご用意いたしましょうか? ビールは各種取り揃えております」
彼はわたしを見て、ビールでいいか、と問う。頷いた。ビールが飲みたい。
「銘柄は、どこでもいいです」
「かしこまりました。奥さま、お子さまにはジュースをお持ちしましょうか? お好みがあれば…」
奥さま、と呼ばれ、たじろぐ。ちょっと言葉に詰まり、「炭酸以外で」と頼んだ。
仲居さんが離れ、すぐ沖田さんがわたしをからかった。「奥さま」に過剰反応だと笑うのだ。
「そんな照れることか? 子供もいるんだし、それ以外どう呼ぶんだ」
「だって…、照れるよ。事実じゃないし」
「男女のペアがいれば、こんな場所じゃ、大抵『夫婦』で対応するだろ。明らかに不倫に見えても、『奥さま』って言っときゃ無難だしな」
「ふうん、よく知ってるね」
「よくも何も、普通」
「ふうん…」
「何だよ」
「慣れてるな、と思って」
「は?」
急に走り出す総司に手を引かれ、前のめりになる。先の、照明の灯った中庭が見たいという。「走っちゃ駄目だよ」と、総司に声をかけて、手を離した。
「何度も来たんだろうな、こんな場所に。違う『奥さま』と」
「雅姫…?」
何の引っかかりもない。お返しに、ちょっとからかってみたかっただけだ。
「そりゃ、行ったことがないとは言わないけど…。ここじゃないぞ」
ここじゃない、と更に念を押す。そこまで否定しなくても。
若干乙女色の脳を持つ彼は、以前の彼女と同じ宿を今回も使うことが、わたしを傷つけると思っているようだ。
正直、同じでもいいんだけどな。そんなにデリケートじゃないし。「女連れではここ」っていう意味で定宿なのだったら、やや引くが。
黙っていると、機嫌を損ねた風にも見えたらしい。もう一度「ここじゃないって」と繰り返すから、おかしさにふき出した。
「何だよ、お前」
背中をぽんとはたかれた。ぶすっとした声が、「焦らすなよ」。
「やっとここまで漕ぎつけたのに、また、何かあるのかと思っただろうが…」
思いがけない告白に、胸がきゅんとなった。着替えを抱えた腕で、浴衣の胸を押さえた。いろいろあったな、とわたしも思い返す。
「ごめん」
彼の手を取って握った。
「大丈夫、もう何もないよ」
彼とこんな場所にまでやって来ている。もうわたしたちの間に、何のハードルもない。不格好でも、派手に足を引っかけながらでも、いつしかそれらを、一つ一つ飛び越えてしまっていた。
これからに、不安はある。
でも…、
彼がうんと頷くのと、ちょっと離れた総司が「僕、トイレ!」と叫ぶのが重なった。
「部屋まで我慢できる?」
「ビミョー」
「ええ!」
トイレの位置が、わからない。駆け寄ると、少し遅れた沖田さんが、総司を抱え上げた。この方が速いと言う。
ばたばたと部屋に戻った。急かしてトイレに向かわせれば、彼が足を投げ出し、畳に座っていた。運転や総司につき合い、風呂上りもあって疲れたのだろう。
「疲れた?」
「え」
子供の持つ瞬発力には、母親のわたしもやや圧倒されるものだ。個性もあろうが、そのときそのとき、発するエネルギーがすごい。振り回される感じで、ぐったりとなることも多い。慣れない彼には、驚きや気持ちのしんどさもあったに違いない。
そうでもない、と小さなあくびをしつつ、彼は首を振った。
「言葉が通じる今と違って、もっと小さいとき、赤ん坊の頃なんかも大変だったんだろうな」
しみじみとそんなことを言う。わたしの顔を見た。
往時は夢中で、瞬く間に日々が過ぎた。気づけば歩き出し、もう幼稚園だ。
「さあ…、どうだったかな。でも、赤ちゃんのときは、転がしとけばいいから、案外楽だったかも」
気持ちに余裕がなくなり始めたのは、やはり、生活の悩みが増え、一人で総司を抱え込んだ頃だ。寝足りないくせに寝つかれない。そんな日が続いた…。
手は離れつつあっても、今の方が、そしてこれからの方が、親をやっていくのはきついことが多い気がする。楽しみや嬉しさも大きくなるだろうが。
そんなことを、軽い調子で口にした。
「覚悟、要るよ。わかってると思うけど」
「あるよ」
あんまりあっさりと簡単に言うので、拍子抜けした。彼はトイレの後で手を洗った総司のまだぬれた手を、浴衣になすられて笑いながら、
「自分のためだけに時間を使うことに、もう飽きた。何をしたって、楽しくない」
「え」
彼の言葉に、軽く衝撃を受けた。胸にぽんとゴムまりでもぶつけられでもしたように。驚きの余韻が、ぽんぽんと跳ねて足元に残る気がした。
彼はぽけっと聞いているわたしに、ダグみたいな人にもちょっと憧れがある、と続けた。
「彼は、人のために、なのになんか軽やかに生きてるだろ。ああいうの、かっこいいよな。いいなって思うようになった」
「ダグはごくレアケースだよ。得度って、大変みたいだよ。本山行ったり、そこでお籠もりしたり。出家はよく考えた方が…」
「誰が坊さんになりたいって言った?」
まあ、ね。
社会的地位もあり、俗っけ満々の沖田さんが、出家するとは思わないが。家族のために、身軽に動き、それを自分の喜びにしてしまっている、そんなダグが彼に影響を与えたのは、わかった。
どこがとは指摘できないが、父もそうだ。よく接する地域の人々にも、そんな感化はあるように思う。いつしか、実家の周囲には、ダグの味方が大勢に増えているのだ。
…それにしても、あの姉は、一番身近にいながら、ダグからの影響を感じさせない。時にキーキー言いながら、自分流にのどかに生きている。ま、人のことは言えない。わたしだって、ダグのすごさに甘えている身なのだから。
「一人が長くて、身勝手に見えるか?」
ぼけっと姉のキンキン声を反芻していると、彼がそんなことを訊く。
わたしは首を振った。歳の離れた妹をずっとそばで後見してきた人だ。独身であっても、ただお気楽に過ごしてきたとは思っていない。
仲居さんが料理を運びに現れ、総司がそれに興味しんしんで、うろうろする。
配膳が終わり、席に着いた。一杯だけ互いに酌をしてもらい、仲居さんは下がっていく。冷えたビールが喉を通り、その途端ほっと寛いだ気分になるから、アルコールの威力はすごい。
話しながらの食事の最中、バックでメール着信の音が鳴った。出先でもあり、気になり断ってから確認してみる。
 
『やっほー。
帰ったらメールちょうだい (‘ω’)ノ』
 
千晶だった。
 
沖田さんと旅行に行くことは、恥ずかしいが伝えてあった。帰ったら、この報告義務が待っていると思うと、照れ臭い。いちいち言わなくてもいいのだろうが、彼女との間で隠すのも変だ。彼と千晶は、わたしと彼以上に親戚のごとく親しい。
「千晶だった。ねえ、最近、会った?」
「三日ほど前に電話で喋った。次の仕事先の件で。契約をまとめた人間が、俺の知人だとかで」
信頼の置ける人かどうかを、彼に訊いたのだという。
「俺より三枝さんの方がずっと詳しいんだ、そのことは。前に、あの人の下で働いていたんだから。まあ、話したくないんだろうな、『さーさん』とはまだ」
『さーさん』こと三枝さんは沖田さんの上司で、千晶のデビューから大ヒットまでの大恩人だ。そして長年の愛人だった人。その関係を、一方的に彼女が断ち切って、まだ日が浅い。彼が言うように、千晶の側からは、用があっても話しかけることはしたくないのに違いない。
「ふうん」
きれいな器に可憐に盛られた和食で、目にも舌にも非常においしかった。こんな食事は久し振り(以前を覚えてもいない)で、感激だった。総司には、食べ易いビーフシチューがメインのメニューになっていた。
厚い、ほろっと崩れそうな肉をフォークでしながら、総司は不思議そうに、
「うずらがないね、お揚げもないね、お肉ばっかり…」
シチューなのにおかしい、と首をかしげている。
「ママのとは違うの。これは特別なシチューなの。ね、すごくおいしいでしょ?」
「うん、おいしい。ボーノ!」
わたしが市販のルーで作るビーフシチューには、ビーフすら入れないことが多いのだ。豚挽き肉の団子で間に合わせ、嵩増しにゆで卵や厚揚げも入れてしまう。そこにさらに野菜摂取量を上げるために、あれこれ入れるから、もう完全に別の料理だ。
「ごきげん! ボーノ、ボーノ!」
沖田さんが総司の反応に、にやにやしてこっちを見るから、お喋りより食べなさいと子供をせっついた。
目を戻しても、まだおかしそうに見てる。ど庶民の食卓で自慢にもならないが、わたしが買ったルーに何入れようが、勝手じゃないか。
「何よ」
「…お前も母親なんだな、と思って。千晶と一緒にふらふらしてたのにな。手料理作って、子供に食わせてんだもんな」
そっち?
何を言っていいかわからない。返事の代わりに、彼のグラスにビールを注いであげた。
それを一口飲んだ彼が、
「今度、俺にもウズラの卵の入ったシチュー作ってくれよな」
と、笑う。
「カレーにも、もちろん、入ってるよ」
口の周りをビーフシチューで染めた総司が補足した。そうなのだ、何でもウズラなのだ、わたしは。子供も喜ぶし、パックで買っても安いから。
カレーでもいいよ、と沖田さんが笑う。
ウズラ三昧のチープな料理とか、彼に手料理をねだられることとか…、何だか、いろんな意味で恥ずかしくなって、答えもせず、ごにょごにょ言ってビールを飲んだ。
 
 
豪華な食事は思いがけず長引き、済ませば九時近くなっている。テレビをつけたり、外を眺めるなどしたら、すぐ時間が経つ。総司を歯磨きさせ、敷いてもらった布団に転がした。そろそろ寝る時間だ。
興奮してるのか、なかなか寝ない。向こうの部屋の沖田さんに、小さな音量でテレビをつけてもらう。総司の隣りに、寝転がった。総司は全く静かな方が寝てくれない。少し話し声があった方が安心するらしい。三十分もそうしていると、うとうとし出した。
そこへ、襖を開け、沖田さんがやって来た。総司を挟んで彼も寝転がる。
「ワイン飲むか? 頼んだけど」
「え、嬉しい。飲む」
「白でいいか?」
「うん」
枕もとの行灯のぼんやりとした明りの中で、小さく喋るうち、総司は目を閉じて眠ってしまった。可愛い寝息が聞こえてきた。
ちょっと身を起こすのが惜しく、そのままでいた。お湯に入って、おいしいものを食べて、ふかふかの蒲団に寝転んで…、いい気分なのだ。
それにしても、
この沖田さんと総司を挟んで、川の字を作ることになるとは…。食事のとき、彼が述懐した「千晶と一緒にふらふら〜」と同じで、しみじみしてしまう。
彼とのこれまでは、わたしの記憶に生々しい。なのに、今の状況が、それら経験してきた出来事の延長にあることに、わずかに驚いているのだ。いきなり目の前に、総司を挟んで寝転がる沖田さんが現れたようで、不思議な気分になる。
自分を包む景色が、ふっと変わったみたいに。物事って、突然に開けるのかもしれない。知らぬ間に、わたしはこんな場所にいる…。
ほんのり目新しさとやっぱりある意外さと。そしてちょっとしたおかしさに頬が緩んだ。
長く生きていれば、落とし穴にはまることも、また奇跡のような信じがたい飛躍もある。
「何、笑ってんだよ」
身を起しかけた彼が言う。
「あの沖田さんと、将来川の字を作るとは思わなかったな、って」
「「あの」って何だよ」
今より、ずっと身軽な肩書の若い彼は、口うるさかったがさりげなく優しくて、イベントではよく『ガリガリ君』や『うまい棒』を奢ってくれた…。
「へへへ」
答えずに笑いながら、きゅんと思う。わたしは嬉しいのだ。
 
露台に座り、ワインを飲んだ。
ガラス越しに照明を浴びた庭の緑が、淡く浮かんできれいだ。一杯を飲み終る頃、ついっとグラスを奪われた。彼がそれを床に置いたときには、抱き寄せられていた。
両の手が頬を挟む。
長いキスの後、浴衣の胸に彼が手を触れた。抱かれながら、わたしは目を閉じている。拒む気持ちはなかった。
子供が一緒の旅行で、この展開は破廉恥なのかもしれない。なら、わたしたちはいつ抱き合えばいいのだろう。
声を潜めて重なり合う。わたしは男を多く知らない。その浅い経験でも、身体が違いを突きつけてくる。腕の力が、匂いが、キスの箇所が違う…。それらが生々しくて、薄い酔いと共に、わたしをうっとりとさせる。
彼の指に挟まれた、乳房の先がくすぐったい。
「こんなこと、絶対無理だと思ってた」
身体をさらし、目を見るのが恥ずかしい。手の甲で目を覆った。
「白くて、柔らかくて…、こんなにきれいだったんだな」
何にも知らなかった、と彼は言う。
「こんな風になれるなんて、思いもしなかった」
久しぶりに身体が男を受け入れるその衝撃は、ちょっとした思いがけないものだった。少しばかりの痛みや、じんわりと来る快楽や、胸を揺さぶるような感動で、沖田さんの話す声に、返しができないでいた。
情事の後で、しんなりとなる身体を浴衣でくるみながら、身を起こした。そのわたしを、彼が後ろから抱き寄せる。まだ熱さのある身体に包まれながら、やっぱり黙って、以前とは違う関係にいる自分たちを感じていた。
「何か言えよ、お前はいつまでも、ちょっと遠いな」
彼は文句を言い、胸に置いたわたしの手をその上からつかんだ。指を絡めるように握る。
遠いって、何だろう。
彼とは別の人と結婚していたことか。彼のではない子を産んでいたことか…。
「バツだとか、子供のことだとか、まだ勝手に考え込んでるんなら、止めろ。俺に遠慮なんかするなよ」
「え」
「雑なことやっても言っても、雅姫は最後には奥ゆかしいから」
奥ゆかしいBL描き…。
自分に似合わない表現がおかしい。沖田さんはきっと、惚れたらアバタもエクボのタイプだろう。
「さっきみたいにもっと甘えてほしい」
あ。
彼の言う、「さっき」が情事そのものを指すことにすぐに気づいた。恥ずかしさに頬が熱くなる。自分の仕草の何が、彼にそう思わせたのか、反芻するのも悩ましい。
「また抱けるんだと思うと、すごい嬉しい。やっとつかまえ…」
3千円、一回」
沖田さんのこっ恥ずかしい言葉を遮って、慌てて言う。
「は?! 金取るのか? しかも三千円って…」
「二千五百円…」
「下げるのかよ」
そこで彼が笑った。風呂に入ろうと誘う。露台の奥には専用の露天風呂があった。庭に面して開かれていて、一目も気にならない造りだった。入らないのは惜しいが、一緒に、というのが、ちょっと、その…。
ぐずぐずしていると、彼が拒否と取ったのか、さっさと行ってしまった。引き戸の奥から流れる湯の音がする。置き去りのグラスに、少しワインを注いだ。飲むと、ぬるくなっていた。
冷やしておこうと、ボトルをワインクーラーに戻した。
そのとき、自分の身体の奥から腿へ伝うものに気づいた。それは、抱き合った時の残滓で、肌を落ちていく鮮明な感覚に、思わずしゃがみこんだ。
どれほどかそうしていて、立ち上がった。
小さな造りの脱衣室で、浴衣を落とした。荒くたたんでから床に置いた。浴室の中は湯気でふんわりと曇っている。音に、彼が湯船につかったまま、こちらを振り返った。
タオルを外し、掛け湯をしてからお湯に入った。つんと、ヒノキのいい香りが鼻の奥を刺した。
視線を感じながら、何も言わないで彼に寄り添う。
キスを交わしながら、身体がお湯にだるくなるまでそうしていた。
 
お風呂の後で、またワインを飲んだ。
火照った身体には、冷え切らないワインでもしみ込むようにおいしい。新しい浴衣の糊の心地よさ。抱えていた足を、畳に伸ばしてみる。
この時間に、どこかで張り巡らせていた、わたしの中の緊張の糸が、緩んでいくのがわかる。
つまみの、サービスのさくらんぼをわたしに放った彼が、少し細めた目で言う。
「来年の同じ日に、またここへ来よう」
「何で?」
「記念日だから」
キネンビ…。『サラダ記念日』しか浮かばない。
『記念日』を作るという発想がないわたしには、理解が及ばないが、ときに脳を乙女色へ変色させる彼だ。彼なりに思うところがあるのだろう。初めてのあれこれがあったのは、確かだ…。
ちょっとしたおかしさをワインで喉にやり、頷いた。
「うん」
「帰るとき、予約入れとく」
 
彼と二人で過ごすのは、楽しい。
そんな確認が、いつしかできているのだ。知らず、わたしは恐れを持っていたのだろう。身体を合わせることで、彼との何かが変わってしまう、壊れてしまうことに。だから、これは大きな発見だ。
 
抱き合うことも、話したり、何も話さずにいることも。
彼といると、楽しい。





          


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