ふわり、色鉛筆
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片付けのつもりが、いつしか腰を下ろし、つい開いたページを、見入ってしまっている。
いけない、いけない。こんなことでは、いつまで経っても終わらない。
引っ越しのための準備だ。慌ただしいが、今月の末で、この家は出なくてはならない。元夫側が、家を手放す手続きを終えたのだ。
先日、元義両親が軽トラックでやって来て、彼の荷物をあらかた持ち帰ってくれた。少ない家電も家具も不要だといった。冷蔵庫やレンジ、洗濯機など、わたしが総司と住むに、最低限の物を残し、他は業者に引き取ってもらうことにした。
住んだのは二年ほどで、荷物は少ない。クローゼットにしまった衣服に、本や雑貨類…。引っ越しも楽なもんだと、たかをくくっていたが、準備を始めてみるとあれこれとある。
数年着ていない服や、総司のこれもサイズの外れた服や肌着が多い。思い出にと、赤ちゃん時代のものまで、ごちゃごちゃと紙袋に入っていた。自分の服は処分即決で、総司の方も特に思い入れのある物をわずかに残し、あとは捨てることにした。
沖田さんの家にお邪魔するのに、なるべく身軽でいたい。そして、しまってため込むだけでで満足している不要な品々が、何だか急に疎ましいのだ。これまで知らん顔で、クローゼットにぎゅうぎゅう詰め込んでいたくせに。
手に取っていた自分の同人誌をダンボールに放った。わたしは創作にメモも何も残さないから、今後の資料として捨てられない。箱のスペースが空いたので、好きな作家のエッセイ数冊をのせた。隠したようで恥ずかしいが、隠さないのもまた恥ずかしい。封をした。
寝室の荷物はもう最後だ。家具はベッドのみの、ひどくがらんとした部屋だ。この空間に、思うことはあれこれあるが、考えるのを止め、開けっ放しの廊下をのぞく。いい匂いがここまでやって来ていた。
階段の下から、呼ぶ声が聞こえた。
「雅姫さん。出来ました」
「今行く」
階下には、エプロンをした美馬君が、腕まくりをして立っていた。彼とは、同人仲間の咲夜さんに紹介されての縁だ。うんと年下でもあり、べたつかない懐っこさのある人柄に、何となく親しくなった。
この日は、引っ越し準備の手伝いがてら、やって来てくれていた。この後、家具の引き取り業者が来てくれるのだが、総司の迎えの時間とかぶってしまった。「僕、対応しときますよ」。さわやかに受けてくれ、非常に助かっている。
キッチンの食卓には、つやつやした焼きそばが載っていた。形よく切られた具材はとろりとしたあんに絡み、それがぱりぱりにかた焼きされた麺をゆるく包んでいる。
こんな凝ったもの、短時間でよく作るなあ。キッチンだって、少しも汚していない。手際がいいのだ。
「ありがとう。おいしそう」
本当においしい。頬が緩む。だしの効いたしょうゆ味なのが面白い。美馬君のバイト先のフードバーで出しているメニューだとか。店では、だしのストックであんを作るらしい。
「本格的だね」
「『まじだし』があったから、使いました。少量なら、こっちの方が手軽ですね。味も決まりやすいし」
ふんふん。おいしいよ。とわかったような顔で聞く。面倒なだしなんか取ったこともないのに。総司も好きそうだから、レシピを教わった。今度作ってみよう。
対面で、喋りながら食べる。
「バイト、ちゃんとしてるんだ」
そこで、咀嚼を終え、喉へやった彼が、わたしを見た。きれいな瞳を、やや陰らせたように思う。
「金なら、余ってるって見えますか? これでも、一応勤労学生つもりです」
彼は、そっちの筋の超大物のご落胤だ。生活や遊びに必要なお金など、周囲が幾らだって都合をつけてくれるはず。そんな身分で、まともに働く理由がない。わたしの言葉が、そんな風に聞こえたのだろう。
その含みがなかったとは言えない。しかし、つい出たのは別の思いだ。
「ごめん…」
彼にとって、コンプレックスになるほど父親の存在は大きいのだ。だから、過敏になる。
でも、大人である彼は、すぐにその屈託を引っ込める。ゆらりと首を振った。こういったことにも慣れているのかもしれない。少しだけ、かわいそうに感じた。
「美馬君なら、調理場に立つバイトより、実入りのいいのがありそうだと思って…。ちょっと隣りに座って、頷いたり、お酒作ったりの」
「ホスト?」
「かっこいい男の子に癒されたい女性って、きっと多いよ。需要あるのに」
彼は面白そうに笑った。
「はっきり言いますね、雅姫さん」
「そう?」
まあ、真面目なバイトに勤しむ学生に、そんなことより顔がいいからホストしなよ、というのは破廉恥で乱暴な話だろうが。とにかく、その抜群の容姿を生かさないのは、何だかもったいない。
美馬君は、今はそういうことに興味がないという。
「まかないで、飯も食わせてもらえるし、一人暮らしにはいいんです、今のバイト。他に一つ掛け持ちもしてるし」
「働くねえ」
感心してしまう。自分の同人三昧に狂っていた学生時代と比較し、頭が下がる。
彼は地方の国立大学の二年生だ。一浪していると言っていたから、今年二十一になる。元々お母さんの姉なる人と、都内での暮らしだったとか。
今は大学の春休みで、父側に呼ばれることもあり、帰省していると聞いている。
「自分が通っていた予備校で、雑用のバイトです。こっちも、飯を食わせてもらえることが多くて、助かってます」
「飯を食わせてくれる」職場に弱いのは、涼やかできれいな姿かたちとのギャップが大きくて、何だかおかしい。でも、若い子らしくて、好感は持てる。
予備校は、女の子が多いだろうから、美馬君はさぞ目に毒だろう。勉強どころじゃないかも。でも、彼のようなOBをバイトに使っていれば、いい客寄せにもなろう。飯を食わせるくらい、宣伝費と思えば安いものかもしれない。やるな、その予備校の経営者。
食器を洗うのはわたしがやり、食後にコーヒーを入れた。幼稚園のお迎えまでには、まだまだゆとりがある。
「総司君、新しい幼稚園決まりました?」
「うん…」
引っ越し後に通う幼稚園については、沖田さんにあちらの近所の幾つかをピックアップしてもらった。わたしは園にこだわりがないから、一番近い所に、すぐに決まった。保育園とは違い、入園は困難ではないようだ。
「今の園は無宗教なんだけど、今度の所はミッション系になるんだ。挙句、実家は寺でしょ。総司も忙しいよね」
美馬君はちょっと笑って黙った。
しばらくして、
「引っ越したら、会いにくくなりますか? …嫌だな、会えなくなるの」
あ…。
伏し目から、すくい上げるようにこちらを見るまなざしの、なんとも素敵なこと。こういうアングル、いいなあ。どこかで原稿に使ってやれと、頭に刻む。
「ははは。こんなおばさんにそんなこと言ってくれるの、美馬君だけだよ」
彼はきっと、亡くなった母親に似ているというわたしに、甘えのような親しさを持つのだろう。歳もうんと上だ。懐かしさとか、切なさとかがない交ぜになった思慕ではないかと思う。
「そんなことないでしょ。総司君ぐるみで迎えてくれる、沖田さんみたいな人がいるじゃないですか」
ああ、そうだね。いたね、沖田さん。でも、美馬君が言うのとは、ニュアンスも雰囲気も、違う。『焼きさんま定食』と、『アヒージョとブルスケッタのプレート』くらいの色合いの差がある。
いやいや。さんま定食が劣るという意海ではない。小洒落た美味はたまにはいいが、しょっちゅう食べるなら、絶対さんま定食が嬉しい。
内心、ちょっとのろけておいて。
「きっと、構わないよ。総司も美馬君が好きだから、また都合のいい時言ってよ。会おうよ」
わたしの言葉に、彼は素直に嬉しいな、と頷いた。
まあ、なんて可愛いのでしょう。
時間が来て、わたしは総司を迎えに家を出た。少し待ち、バスから降りてきた子供の手を引いて家に向かう。尽きないように思えたこんな日々も、もうあとわずか。
いい先生に見てもらえたし、保護者の人たちもあっさりしていて気楽だった。次の所は、どうだろう。余裕のあるママさんたちとは違い、わたしは家にいても原稿描きがある。のんびりしたムードの園だったらいいな。もちろん、総司がすぐに馴染んでくれるのが、一番だ…。
そんなことつらつら思い、帰宅した。ちょうど、美馬君に対応を任せた業者の人たちがトラックで帰るところだった。
彼を見て、総司が喜んだ。ダグも沖田さんも可愛がってくれるが、美馬君みたいな若いお兄さんに相手になってもらえるのは、また楽しさが違うようだ。
美馬君のお土産のドーナツを見せる。駅前の有名店のものだ。
「お兄ちゃんがくれたんだよ」
「わーい、わーい」
「着替えてからね」
「うん」
総司は着替え始めた。まだ手つきはぎこちない。それを見ながら美馬君が言う。
「子供って、本当にあんなマンガみたいな喜び方するんですね」
「『しまジロー』の真似してるの。生意気な方も覚えてきたけど」
引き取ってもらったテレビとチェストとローテーブルが消え、リビングはソファーのみの、すっきりし過ぎた様相だ。食事はキッチンのテーブルでするし、テレビは最近買い換えたパソコンがあるから平気。
そのとき、ドアのインターホンが鳴った。
「あ、さっきの業者かも。僕、そういえば受け取り二枚渡されて」
彼がぺらりとした受け取りの紙を手に、玄関へ行った。その背へ、「ごめんね」と声をかける。ドーナツをつまむ総司に、ジュースを注いだ。箱には小ぶりなドーナツが、まだ詰まっている。紅茶でも入れてみんなで食べようか…。
玄関で人声がする。続いて廊下をやって来る足音がした。引き取り忘れた荷物でもあったのか。
てっきり先ほどの業者と思い顔を上げれば、ドアを開けたのは沖田さんだった。後ろに、美馬君がちょっと困った様子でいた。
「あれ、どうしたの? 平日に」
彼は勤務中らしいスーツ姿だ。
「出張の帰りに寄ったんだ。様子を見に…」
そう言い、彼はわたしへ紙袋を手渡した。ドラマ化で話題の戦国武将がイラストされている。出張先は福岡らしい。
礼を言って受け取る。彼の目がわたしにひどく問いたげだ。引っ越し準備の状況を、確認したいのだろう。あれこれ電話で聞かれたのは、最近のこと。
のんきで面倒がりなわたしのことで、ちゃんと今月末にここを出られるのか、ちょっとカリカリしていたようだから。
「ほら、見てよ。がらんとしてるでしょ。まあ、沖田さんはここに来たことないからわからないだろうけど。すごい進みっぷりだよ。ねえ、総司」
総司に振った。総司はドーナツを頬張りつつ、紙袋をのぞき込んでいる。中に好きなキャラクターものが入っていたらしく、炊飯器のような名前を言って喜んでいる。
沖田さんは胸に親指を立て、ごく小さな声で聞いた。
「誰?」
ああ。
そうか。
美馬君か。
初見で、そもそも彼は美馬君の存在を知らないのだ。おかしなもので、あれくらいハイレベルな美男子だと、なぜかみんな知っているように錯覚してしまう。どこかのゆるキャラみたいに。
「え〜と…」
わたしが言葉を選んでいるのを察してか、「雅姫さん」と美馬君が声を出す。軽くわたしの肩を叩き、
「美馬春文といいます。大学生で、雅姫さんとは知人の紹介で知り合いました。それ以来、よく面倒を見てもらっています」
さわやかに述べる美馬君とは対照に、沖田さんは「はあ」と間の抜けた返事で応じる。
「面倒なんか見てないよ。一回だけ洗濯物持ってきたくらいじゃない。今日だって、引っ越しの手伝いにわざわざ顔出してくれて…」
「沖田さんですよね? 雅姫さんからお二人のことはうかがっています」
「はあ、そう」
またもや間の抜けた返事だ。何を驚いているのか。ちょっと助け舟を出すつもりで、口を挟んだ。
「引っ越した後も、美馬君がこっちに帰ったりしたとき、会おうよって言ってたの。食べに行ったりしたら、楽しそうじゃない?」
「よければ、僕が何か作ってご馳走しますよ」
「それいい。飲みたいね〜。ねえ、沖田さん、美馬君すごく料理上手だよ」
「…いいんじゃない」
わたしたちの雰囲気に引きずられるような言葉だ。
まあ、いいか。言質は取った。
時間があるらしく、腕の時計を見て彼は「じゃあ、行く」と、総司の頭をぐるっとなぜた。本当にわたしの状況を見に来ただけのようだ。外でタクシーに待ってもらっているといった。
出張帰りに、忙しいだろうに。どれだけ疑われていたのか。
外まで送ると、二人になった途端、「おい」で始まるぼやき交じりの問いが降る。
「知人の紹介って…、あんな朝っぱらから、テレビで料理してるやつみたいなのと、どこでどう知り合うんだ?」
もしかして、オリーブオイルいっぱい使って料理するあの人のこと? 
ううん…、似てないけどな。でも、雰囲気は近いかも。
美馬君の微妙な背景のことは省き、同人仲間の紹介だと言った。
「ふうん」
納得いかないようなその頷きにおっかぶせ、
「沖田さんがファンだったグラドルの息子さんだよ」
「はあ?!」
衝撃だったらしい。手のバッグを取り落している。
入院中に、亡き母の写真を持った彼が来たことも話した。その写真に、わたしがひどく驚かされたことも。
「似てるんだって、お母さんに」
「だろ? だから言ったじゃないか。似てんだって」
そっちかよ。
「ふうん…、母親ねえ」
つぶやきは、言外のものを含んで耳にちょっと重く聞こえた。いきなり現れた超絶イケメン君に、何やら不信感を持っているようだ。
沖田さんとわたしが逆の立場なら、地位のある人でもあるし、若い美女には懐くメリットがあるだろう。でも、わたしには、何にもない。
「うちの手伝いして、何の得があるの?」
「…少しは自覚しろよ。失くすもんなら、持ってるだろ」
やや声を潜めて彼が言う。「失くすもの」とは、総司のために元夫と争った、あのお金のことだろう。美馬君がその存在を知る訳もないし、第一、彼の方がずっと金持ちだ。
アバウトに実家が資産家らしいと告げておく。
「親、何してんの? 土地持ちか?」
「知らないよ。自分からああだこうだ自慢するような子じゃないんだって」
「詐欺師は大抵が、由緒ある家柄だの資産家だのって名乗るらしいぜ」
おいおい…。
だから、わたしを詐欺する意味がないって。狙うなら、もっといいのを狙う。
初めて彼を見かけた、咲夜さんのお宅での、毅然とした様子を沖田さんは知らないから…。
「いい子だよ。少し、きっと寂しいだけ」
そう言うしかできない。
母に似たわたしが懐かしいのも本当だろうし、自分の環境を知られている安堵も、彼には嬉しいのだろう。大学の友だちにも、そういったことは打ち明けにくいだろう…。
「まあ、いいや」
沖田さんは、そこでおかしな勘繰りを打ち切った。ちょっと笑って、
「いろはが喜んで、妙な妄想しそうだな、あんなのがうちに来たら」
そんなことを言う。
美馬君への毒舌がどこまで本気だったのか。何のかんのと、ウェルカムなことを言ってくれるのだ。
沖田さんを見送り、玄関に向かう際、通り過ぎる人の視線を感じた。こういったことはたびたびある。以前は気も留めなかったが、元夫絡みのあの事件以来、近所の人のこちらを見る様子がはっきりと増えた。それがやや痛い。
日中留守の若い世帯も多く、近所づきあいの簡素な地域だった。それでも、我が家が引き起こしたあの件は、注目を集め、噂にもなっているのだろう。もちろん、いい意味でなく。
我慢や鈍感さは、度を越せばきっと害になる。今月末に引っ越すことは、急ではあるが、いい転機にもなる。
引きこもり座業のわたしはともかく、これから社会にどんどん出て行く総司に、影響を及ぼすかもしれない場所にはいられない。
ドアに手をかけて、芝の禿げた狭い庭を眺め、それから隣家を眺めた。なじんだ光景なのに、何かが違って見える。
それらの何が変わった訳でもなく、自分の心が、少しここから遠くなったのだと思った。
 
 
引っ越しの段取りもつき、気が抜けたようになった頃、千晶から誘いがかかった。「おいでよ」との声に、二つ返事で頷く。互いに身軽な身だ。すぐにその日に決まった。
夕ご飯時で、手土産代わりに食事になりそうなものをあれこれ買っていった。その紙袋と総司の手を引いて、既に慣れた豪華なエントランスをくぐった。
千晶の部屋には、アシスタントの女性が一人残っていた。そろそろ上がるというので、軽く挨拶をした。
黒縁の眼鏡をかけた彼女が、わたしに「あの雅姫さんですよね?」と声をかける。「あの」はわからないが、千晶が、わたしが来ることを伝えてあったのだろう。そう思い、頷いた。
「お変わりにならないから、すぐわかりました。○○(旧イベント名)の頃からのファンです。ちい先生のアシをさせていただいています、東野といいます」
「ああ、そう…、どうも…それは」
「長いよ、彼女。うちのアシのボスやってくれてるの」
「ちい先生」と呼ばれた千晶は、総司を呼び、ソファに座らせてテレビをつけてくれた。
黒髪の麗しい東野さんは、千晶とやっていた『ガーベラ』時代をきゃっきゃと語る。ちょっとあ然としていると、思い出したように、
「そういえば、先だっては災難でしたね。お気の毒だとはらはらしていました」
???
「あんまり腹が立ったんで、相手のサークルのブース、よろめくふりして蹴っ飛ばしてやりました」
ふふん、と楽しげな鼻息をもらす。
???
「キャリアも実績も違う、あんな若い子たちの無茶に嫌な顔もしないで、相方さんのために土下座までされて…。ああ、やっぱり格が違いましたよ」
「え? 何、若菜土下座したの、イベントで?」
「そーなんですよ、ちい先生。なかなかできることじゃないです」
ああ、あれか…。
イベントでの土下座で思い出した。半年以上も前に出た夏のイベントの件だ。コンビを組んだ咲夜さんが彼女の元仲間と揉めて、わたしが仲裁に入ったことがあったっけ。
あのまま退場なんてくらったら、ゴツイ(わたしにしては)売り上げが飛んだのだ。それに比べれば、土下座くらい安い安い。
彼女、あのイベントに遊びに行っていたようだ。そういえば、その後会場で千晶と再会したのだった…。
「往年のファンとしては、ああいう、変わらない凛としたかっこいい雅姫さんのお姿に、うるっとしました。鯖寿司かじっていてもさまになるって、昔仲間内で騒いだものです」
ははは。また鯖寿司が出た。
「今後のご活躍も、ぜひ期待しております。応援させて下さいね」
「あ、ありがとうございます…」
東野さんが帰れば、圧倒されっぱなしだったわたしに、千晶がにやにやとした顔を向けた。
「いやー、雅姫も苦労してるね。若い子相手に、土下座かあ。それでも「凛として」、「かっこいい」なんてさ。難しいよ、これは。さすが、「クールジェンヌ」で鳴らしただけあるね。へへ」
何が、へへだ。「クールジェンヌ」だ。
しかし、イベントで場の収拾に土下座したことなんて、今の今までスコーンと忘れてた。
「昔のファンですって、言ってくれる人たちって、褒め方のベクトルが違うからびっくりするよ」
「あはは、それ特徴だね。きっとこっちと同じような世代だろうし、自分たちの青春時代と合わさって、より美化してくれちゃうんじゃない」
「思い出はきれいだもんね。千晶もあるの?」
「たまにね。ヒガシ(東野さんの愛称らしい)も最初はすごかったよ。あんたなんか、隠れてて今頃出てきたから、あれこれ言うネタに事欠かないんだよ。ブランクの神秘性も加わって。ぷぷぷ…」 
何が、ブランクの神秘性だ。ぷぷぷ…だ。
手土産の品をテーブルに広げ、つまみ出す。ちょうど差し入れにもらったと、千晶が手まり寿司を卓に加えれば、天津が中心のテーブルがぐっと華やかになった。
「おいしー。高そー」
「高いよ、きっと。編集長の持参だから」
「へえ、さすが『真壁千晶』」
「そんなの持ってこられても、急にページ増やせないって。腕が二本になる訳もないし」
聞けば、沖田さんの社の仕事らしい。長く関係した三枝さんの件からも、まったく切れた訳ではなく、折り合いながらも不定期に仕事を受けてるようだ。
大出版社だし、売れる雑誌もある。感情的にならず、ビジネスライクに割り切るところは、さすが偉いと思った。三枝さんからは、彼女のやりようをどう見るかはわからないが。
何がプラスかマイナスか。計算高さがなければ、成功もその維持もきっと難しい。易々と、それを行う彼女を、ちょっと目を見張るように眺めた。気づけば、彼女はまるで次元の異なる場所にいる。
羨む気持ちは確かにあるが、そうではない自分に、ほっと気が緩むような思いがあるのだ。お金はほしいが、クールな判断にたびたびさらされる面倒は御免…。そこまでの成功はわたしは望んでいないと思い知る。所詮は、その程度の器ということか。
錦糸卵のお寿司を総司に取り分け、自分は、サーモンのを口に入れたときだった。
「そういえば、沖田さんが愚痴ってたよ。若くてすごいイケメンを家に引っ張り込んで、イチャイチャしてたって」
はあ?!
色んなものがこみ上げて、咀嚼できない。高いお寿司なのに。やっと飲み込んで、訊いた。
「何、それ。イチャイチャとか、引っ張り込むとか」
「だって、その通り言ってたもん」
つい先日、彼が来たという。用らしい用もなく、さんざんその件で文句を言い募って帰ったとか。
何なんだ、あの人は。美馬君を「うちに呼んだら〜」とか、納得したようなこと言ってたくせに。親戚のように仲のいい千晶には態度が違うじゃないか。
千晶が知りたがるので、詳しいところを説明した。美馬君の背景のことはやはり省いておく。
「ふうん…。それは、妬くわ。心配になるよ」
「何で? だって学生だよ。あんな若い…」
「若い男でしょ。しかもそれだけかっこよければ、間違いがあっても〜、って考えちゃうよ。不安になるって」
「そういう子じゃないんだって。亡くなった母親を懐かしんでるだけだよ」
「源氏物語って、そんなエピソードなかったっけ。源氏の君とほら父親の後妻がさ、出来ちゃう。千年も前から大衆が好む、定番な流れなんだよ」
千年…。
彼は源氏の君でも、わたしは千晶の言う藤壺の宮でもない。大体、わたしがとち狂ってそんな気持ちを抱いたとしても、あっちが受け入れるはずがない。
ないない。
「それこそ、可愛い女の子をより取り見取りだよ、あの子なら」
「たまには大人の女の味も、乙なんじゃない」
意味深に笑ってそんなことを言う。千晶の言葉に、知らず顔が熱くなる。完全に否定しつつも、根が妄想体質だからか、ちらりとそんな雰囲気になったところを想像しかけてしまう。
いやいや、その衝動すら美馬君が気の毒だ、やっぱり。
慌てて首を振る。
テレビのアニメに気が逸れている総司にご飯を勧めた。「シューマイ好きでしょ」。
「そんな謙遜することないけどな。だから心配なんだよ、沖田さん」
恥ずかしさに、立ち上がった。飲み物をもらおうと、冷蔵庫に向かう。まだ早いから、特にほしい訳ではないが、缶ビールを手に取った。
千晶にかざして見せると、彼女は「要らない」と首を振る。
「ほしかったら、どんどん飲んで。構わないよ」
それが珍しかった。仕事上りでもあるし、食事中は軽く飲むのが好きな人だ。この後でまだ描くものが残っているのか、そんなことをちらっと思った。
どうしようか迷い、ポケットに返す。それほど飲みたい訳じゃない。代わりにアイスティーのボトルを選んだ。
「妊娠してるんだ、今」
 
え。
 
千晶の声が、アニメの声に重なる。
「あはは、何て顔してんの? だから、子供がいるんだって」
いつもの軽い声がそう言った。わたしはどんな顔を彼女に向けていたのか。
相手は?
言葉にする前に、彼女の方が答えをくれた。
「さーさん。別れてから、一度あったの…」
視線を、窓へ向けてからわたしへ戻した。
何と声をかけたらいいのか。相槌にすら迷うのだ。
意見をしたいのではない。賢い彼女の真意を探りたいのでもない。気持ちは行いについてくる。変わるもの。変えるものだ。
千晶はきっと、産むつもりなのだろう。
 
いろいろあるな、人って。
 
凪いでいるようでも、ひたひたと波は寄せる。
芯からそう思う。
「…そうなんだ」
 
ありふれた声が、遅れて唇からこぼれた。





          


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