ふわり、色鉛筆
38
 
 
 
千晶がテレビのチャンネルをいじり、総司へ子供向けの番組を探してくれた。それを目で追いながら、ぼんやりと思う。
わたし自身がそう育ったからか、テレビを見ながらの食事に抵抗はない。元夫がいた頃も、がやがやテレビの音に紛れて、喋りながら食べたものだ。こういうのを嫌う親の方が、今は多いのかも…。
わたしはこれまで、かなりいい加減だろう育児を、そのままに彼女にはさらしてきた。それは、子供を持たない彼女に、その良し悪しを判断する趣味がないと思い込んでいたからだ。
千晶は意地悪な見方をする人ではないが、同じ子を持つ人と接するより、「母親としてどう見られるか」、「これは、アウト?」などと考えなくていい点で、とても気楽だったのだ。
その彼女が、母親になる。
何が変わるのだろうかを考え、必ず幾つか、何かは変わるのだと納得した。たとえば、この部屋の趣味も、生まれてくる子の性別によっては、がらりと違ってしまうかもしれない…。
もうじき三か月だという、彼女の声に頷いた。
「母子手帳ももらったよ」
どこか返事が弾んでいる。嬉しいのだろう、と思う。やっと、今回のサプライズに笑顔で返し喜んだ。
驚きは大きかった。衝撃と言っていい。しかも相手が相手である。けれども、出産の覚悟を聞けばそれらは去り、経験者だからか、今後の彼女の予定や計画への興味に頭が切り替わった。女って、こんな風なところがあるのかもしれない。
きっと、どうでもいいのだ。理由とか、きっかけとか。
「…前に、言ったかも。何のために描くのか、わからなくなってきたって。夢だのキャリアだののためだけに描くのに、もう飽きちゃったのかな…」
そういえば、聞いたような気もする。そのときは、単純に仕事の方向性への迷いとだけとっていた。言葉にはもっと深く、彼女の仕事をする意味という側面もあったのだ。
「子供ができたら…、ちらちら浮かんできたの。そうしたら、もうひと踏ん張りも、二踏ん張りもやれそうに思えた。ああ、こんなことと言うと、漫画を続けるために子供欲しがっているみたいに聞こえるね。純粋に自分の子供を欲しくて頑張ってた若菜には、打算的だろうね」
ううん、と首を振りながら、総司が食べ残したお寿司を口に運んだ。喉にやってから、口を開いた。
「本能だよ、女の。産みたいって、きっと。それに、後から勝手に理由を付けてるんじゃないかな。時期だからとか、将来の事とか、世間体だとかそれぞれ。まず、産みたい、が先だよ。理由は脳の適当な後付け」
「そうかな」
真剣な顔で訊くから、笑った。
「多分ね、へへへ」
「何だ、すごい説得力あったのに」
でも、自分を振り返ってそうだったと感じる。身体の問題があったからじゃなく、あの時期のわたしは、子供を授かって産むことを欲していたのだ。
「理由なんか、意味ないよ」
千晶は目を伏せ、何度も頷いた。
彼女の言葉に、ふと以前の沖田さんの声が重なった。彼はわたしに「自分ためだけに何をしても、もう楽しくない」そんなようなことを言った。少し、それに似て聞こえる。
もしかして人には、それぞれのある時期、今とは別のステージに移る欲求のようなものが、芽生えてしまうのかもしれない…。
それにつられてか、
「沖田さんには話した?」
知った人の名に、総司がこっちへ顔を向け、すぐに戻る。そんなことに、この子にとって既に彼は近しい人なのだと知った。ダグやお友だちほどではなくとも。
千晶は苦笑しながら、また頷く。
「あの人にあんなに叱られたの、いつ振りだろ? 挙句に「お前の下半身は磁石か?! 磁場を感じたからって簡単にくっつけるな!」だって。こっちの下半身の事情はほっといてよ。言い返せなかったよ、わたしが、ほんと」
「あははは」
彼のえぐいセリフに、社の恩人真壁千秋大先生が、まるで同人時代の頃のようにぐっとへこまされるところが、見たかったと思った。なかなかないシーンだ。
ぶつぶつ言い言い、彼がしまいには納得したことを教えてくれた。
「それがさ、頭にくるんだって、「ただ赤ん坊はおもちゃじゃないぞ。その覚悟があるんだったら、好きにしろ」だよ。あんたの許可なんかいらねーっての。法の下、わたしは好きに生きる自由を認められてんだってば。どんだけ納税してると思ってんだか。子供くらい勝手に産ませろ」
「あははは」
彼の言葉にぶーたれていても、その彼に知らせたかったのだ、彼女は。何やかやと、二人の仲は妙な意味濃い。強烈な打算や身勝手、さらに情事を見られても、彼女はふてぶてしく忘れた振りをし、彼はスルーした振りをする。
互いに、出来事を流し切ってなどいないのに、それでもきっと許しているのだ。そんな相手も、うやむやにしてしまう自分をも。
だから、とても楽なのだろう。
いいな、と思った。妬く意味ではない。ううん、ちょっと妬いているのかも。千晶にとって、わたしより彼の方がより、親友であるのだ、多分。
つわりもないのか、彼女はぱくぱくよく食べる。以前より、食欲はあるように見えた。自身の壮絶な初期のつわりを思い出し、今更ながら、ちょっとうへえとなる。千晶はついている。
「プレママ雑誌も買ってみたんだけど…。ねえねえ、貴重なアドバイスとかないの? 経産婦としての」
「ないよ」
「え〜」
返事に、咀嚼中のつぶれた声を出す。母子手帳があるのなら、医師の診断も受けているのだし、大事なことはそっちに聞いた方が絶対確かだ。
「ほら、自分のときのこととか。教えてよ」
「う〜ん、忘れた」
はて…。妊娠から出産、新生児からの赤ちゃんとの向き合い…。あれこれあり過ぎて、大変過ぎて。いっぱいいっぱい感と疲労感しか覚えていない。千晶に助言できるほどの情報がない。
妊娠期など体調により人それぞれで、運動がいい人もいればそうでない人もある。体重制限も人によるだろう。つわりのありなし軽重も、かなり個人差が出る。
何か何か! とせっつかれて、
「何でも、ほどほどがいいんじゃないかな。はは」
「ふうん。じゃあ、出産のときは? どう?」
これはあっさり断言できた。
「痛いよ。元旦那の浮気相手に刺された時より、しんどかったかも」
「やっぱり」と、彼女は嫌な顔をした。それに、「大丈夫、必ず乗り越えられるし。産めば、すぐ楽になる。それどころじゃなくなるよ」。
「人によっては、びっくりするぐらい早く産んじゃう人もいるし。そう、陣痛室で一緒だった人、十分だよ」
頷きを繰り返す彼女へ、
「三枝さんは、どう言ってるの? 今度のこと」
「話してないよ」
え。
驚きに、箸が止まった。妊娠に関しての申請書類などで、父親の名が必要になるだろうに。千晶はどう凌いだのか。
訊けば、意志で空欄にもできるとのことだった。
へえ。
「でも、ずっと空欄も無理でしょ?」
それでは、産んだ子は私生児になってしまう。千晶がどうしてもそれを貫きたいと言うなら、反対はしない。だが、納得はできないまま、わたしの中に多分残る。
表情にそういった思いが出たはず。彼女は目を逸らし、「ぎりぎりまで、言わないつもり」。
ぎりぎりとは、堕胎が不可能な時期を指すのだろう。
では、伝えるつもりはあるのだ。
「沖田さんに目を三角にして言われた。「絶対に認知はさせろ」って。わかってるよ…」
「三枝さんとはどうするの? またやり直すの?」
「さーさんはその気満々みたいだけど、もうやだよ、揉めるの。シングルでやってこうって思ってんのに、あのうるさいのにしゃしゃり出てこられても迷惑だし」
じゃあ、なぜ彼の子を妊娠したのか。
自然、やや眉根を寄せて聞いていたわたしに、「おかしいよね」と彼女は前置きした。
「子供がほしかったの。やくざな稼業で、まともな恋愛もしてこなかったし。出会いも、恋の始め方もわからない。…もう、さーさんしかいなかった。まったく、人生の引出しのしょぼさったら、ないよ」
自嘲して言う彼女の声が、そのセリフの裏で、「さーさんの子供が欲しかった」と聞こえてくるのだ。「彼の子なら一人でも産みたい、育てたい」と。
まだ好きなのだ。
「でしょ?」そう突っ込むのは、何だか仁義に欠ける気がした。顔を見、話を聞き、わかりながら、知らん顔をしてあげたくなる。答えを出してくれない彼に、これ以上自分の人生を添わせる考えは、彼女にはないのだから。
「千晶のこれまでに長く爪跡を残した人の子だもんね」
ただ、三枝さんはどう反応するのか。家庭もある人だ。病身という妻なる人の存在も頭に浮かぶ。別居に近い状況のようなことを、前に沖田さんは口にしていた…。
その辺りを、彼はどう捉えたのだろう。「絶対に」と三枝さんの認知を求めたのだ。考えもあるはず。
千晶が言うには、沖田さんは、
「「最悪、養育費と遺産の放棄を条件にすれば」、望みはあるって。「お前に、今後も稼いでやるって覚悟が要るな」ともね。偉そうに。もう稼いでるし。さーさんの財産なんか、欲しくないっつーの」
まあ、そうだ。お金に困ることはなさそう、千晶の場合。
ぷりぷりと答える彼女に、やっぱり笑った。
「案外、喜ぶかもよ。三枝さん。晩くにできた子って、特に可愛いって聞くじゃない」
「婚外子でも? まさか」
「千晶の子だもん、そのまさかかも。…ねえ、脅す訳じゃないけど、子供を一人で看るって、想像より大変だよ。うちの…」
そこで床に寝っ転がりぐるぐる回って遊ぶ総司をつつき、
「こんなに大きくなっても、わたしはしんどかったから…。仕事をして家のことをして、手も気持ちも、一人だけじゃ、きついこともあるよ」
そんなとき、日常的じゃなくても、三枝さんの力があったら、随分と助かると思う。楽になれるはず。
確か千晶の実家は遠方だ。帰省もまれだと聞いている。頼めば、娘の助けにはなってくれるだろうが、長期間、たびたびでは難しいのではないか。それに、長く一人で気ままにやってきた彼女が、親との急な同居の窮屈に、いつまで耐えられるのか。
黙って聞いていた彼女が、ふっと笑い、
「何、これから傍観者なの? かなり期待してるんだけど、沖田夫妻の四つの手を」
「わたしたち? そりゃするよ、手伝うよ」
でも、親友のそれとは別のものがあったっていい。たとえば深夜、高熱を出した子供のことで、わたしや沖田さんを、遠慮なく彼女が呼びつけることができるだろうか。おそらく、彼女は電話もしない。処置に迷い、一人で悩む…。
そんなことが幾度もあれば、子育てのストレスはきっと大きく育つ。
でも、長く男女の仲にあった三枝さんはきっと違う。別れた後ですら、勝手に身ごもり、「シングルで育てる」と、また勝手に決められるほどのわがままを突きつけられる相手だ。育児の重圧をぶつけるには、この彼ほど千晶が楽な人いない。
そこまで思って、口にするのをためらうのは、三枝さんの奥さんの影がちらついたからだ。残酷だと思い、非道だとも思った。
「…さーさんに手伝わせろって言うの?」
グラスを置いてテーブルに落ちた千晶の目が、すくい上げるようにわたしを見る。その目に会い、ふと口にしてしまった。むごいと知っているのに。千晶にベストな選択だからだ。
それを聞き、彼女は半笑いで首振った。
「手が要るときだけ来いって? そんな都合よく?」
「…都合よくたっていいじゃない」
この問題は、奥さんをよく知る沖田さんの助言が要る。希望的に考えれば、話に成熟して達観した印象の奥さんは、それこそ事をスルーしてくれるかもしれない。楽観だが。
ふうん、と受けた千晶が、どれだけかの後でつぶやいた。
「親に田舎から出てきてっていうのも、今更きついしなあ。母親もう七十だよ」
三枝さんの件を考慮には入れたようだ。まだ実感はできなくても、子供を産んでからの大変さには想像がいくようだ。
「緊急時だけとか、週に一度とか…、千晶に都合よく、ルールを決めておけばいいんじゃないかな」
「ふうん。きついときはヘルパーさんとか頼もうかな、みたいに考えてたんだけど…。夜中は無理か…」
「併用も考えたら? ヘルパーさんもさ、ぴったり合う人ってなかなか見つからないかもしれないし」
「そうだね…」
素直に頷いてくれた。
思案顔なのは、思いめぐらせてしまうからだろう。妊娠を告げる、産む覚悟であることを伝える。そのときの三枝さんの表情を。そして、そのときの自分の緊張を。
何となく、わたしまでもがそれらを早まって味わい、ちょっとうつむいた。
この件は、とりあえずここまでだ。
会話はあちこちに流れた。話は飛びつつも、すべての内容に彼女の妊娠がちらちら絡む。仕事のことを話しても、彼女が購入を考えている新車の車種でも…。
大変さとそれを上回る張りを、彼女は抱いている。
今後のことはどうあれ、その仕草や口ぶりに芯からよかったと思う。この感情を伝えれば、「目を三角にして」彼女に説教したという沖田さんは、わたしへも目くじらを立てて機嫌を損ねそうだ。
それでも、いいのだ。
どうあってもきっと上手くいく。
なぜだろう、根拠のない楽観が心に湧くのを止められない。
ふと気づいた。
千晶といるからだ、と。
心配して気を揉むようでいて、いつしか不思議な安心感に落ち着いてしまっている。『ガーベラ』時代にもこんなことはよくあった。わたしが何を不安がっていても、彼女といれば、結局しっくりとくる結果に着地した。
安易であっても、向こう見ずであっても、気持ちが凪ぐのが一番心地いい。胸にすうっと風が通っていく、そんなビジョンだ。
彼女の大きなプラスのエネルギーめいたものに影響され、知らず感化されているのかも。
そんなことを伝えてみた。
「千晶って、大器なんだよ。パワーがすごいっていうか」
「何それ」
「大してアドバイスもくれないけど、いるだけでご利益があるんだよ」
「ええ、いいこと言ってるよ、わたし。若菜の日常に、ハレンチな異次元の風を送ってるし」
「ははは」
ちょっと間を置き、彼女が言う。
「わたしは、若菜をそうだと思ってた」
「え、ハレンチかな、やっぱり?」
確かに、夫の浮気相手の隣人に、腹を刺されて死ぬ目に遭うような人間は、ざらにはいないだろう。ワイドショーのネタ並みの経験だ。
「違うって。そこじゃない。若菜の方からいいエネルギーをもらってる、わたしはそう思ってきたんだ、ずっと。よく言えないけど、優しいし、透明感あるの。だから、そばにいれば、何か気が楽になってくる。何でもかんでも、いいんだよって、許してもらえるみたいに…」
 
え。
 
「だから、ほら一人でいると、沼のように澱んでたでしょ、わたし」
そう、千晶は笑う。
「昔のあんたのファンが名付けた、こっぱずかしい『クールジェンヌ』ってあだ名、言い得て妙だよ。雰囲気あるもん。鯖寿司頬ばってても、かっこよかったよ。ほら、わたしはもらってないし、そんなジェンヌ系のあだ名。欲しかったって訳じゃないけど」
それは褒めているのか、からかっているのか。
照れと驚きで、返事に困る。口元をもぞもぞとさせる。
ただ嬉しかった。次元の違う成功を収めた彼女と、同じ目線を今も共有している。彼女からそれを示してくれたことが、わたしをちょっと感激させた。
自分を特に優しいとは思えない。身勝手に振る舞い、家族や沖田さんを振り回してきた。優柔不断の混じる、己への甘さだと思う。その延長で、彼女がどうあっても、ありのまま認めてしまえるのだろう。
そして、そんな彼女はわたしに、「おいでよ」と、まるで自分の高みに誘うかのように、前を見る力をくれるのだ。
視点も視野も違う。ちょっと似た互いへの捉え方は、わたしたちを引き寄せ合うのかもしれない。それを普通、相性がいいと人は呼ぶものなのかも…。
「若菜が男だったら、結婚したかったな…。稼ぎいいよ、わたし」
自信のほの見える半笑いで、ノーマルがしみじみと言う。可憐な彼女のこんな風情に、ころっと参っちゃう年下の男性は、少なくないだろうに。出会いがないとかぼやくが、もったいない。そっちに使え、と言いたい。
「千晶の夫になったら、あんたの稼ぎで同人イベント行きまくるよ」
「いいよ、好きにしてくれて。その間、仕事してるわ。若菜の一人や二人、楽させてあげるから」
「ははは、頼もしい、千晶姐さん」
千晶みたいな夫を持てば、どうだろう。密なパートナーとして、わたしたちはきっとうまくいく。
どんなに喧嘩がこじれたとして、ぽんと財布(ぎっしり札の詰まった)は投げて、「ほら、お前のもんだろ」とでも、度量を見せてくれそうだ。ときに強引さが癪に障っても、彼女は家庭への自分の役割や責任を放り投げない気がした。それでわたしはほろっと機嫌を直してしまう…。
あれ、変な妄想が入った。「ほら、お前もんだろ」って、誰が誰に言うんだ。しかし、お金に弱いな、わたし。ははは。
千晶は小柄で華奢な見かけとは違い、これで根性のある男前な人だ。そんな彼女だから、ありふれた女性らしさを求めると、多分相手はあてが外れるのではないか。彼女だって、窮屈だ。
ふと想像してみる。
共に生活するのではなく、少し距離を置ける人。そして彼女の個性も能力も認め、思うままに仕事をする自由を与える。更に、彼女の望んだときには側に来て、問題には手を貸し助けてあげる…。彼女の夫となる人には、こんな資格があるといい。
ひどくうるさい要件に思えたが、案外ぴったりとはまる人がいるではないか。
三枝さんだ。
妻帯者ではあるが。
長くつき合ってきたのだ。互いの人となりや癖なども知り抜いている。だからこそ、ややこしいのかもしれないが、それゆえの気楽さも安心感もあるはず。
妻帯者だが。
ここまでを思い、二人の仲にもう進展が望めないのが、ちょっと悔しくじれったくなる…。
三枝さんは妻帯者だが。
埒のない考えが、気持ちをひっかきながら頭を通り過ぎていく。
そんなわたしを前に、千晶は総司に赤ちゃんができることを話していた。「弟か妹にしてやってね、お兄ちゃんだよ、総ちゃん」。その表情は、和らいでいる。
喜んだ総司が、名前を決めたいと言い出した。
「ダグみたいなのにしようよ。かっこいい」
「ふうん、どんなの?」
「マイケル? クリス? エドモンド?…」
最近手に入れた幼児用の英語教材(沖田さんがくれた)の影響か。発音が妙にネイティブっぽい。で、挙げた候補は、なぜかイングリッシュネームっぽくて、その後に別の名が続きそうなのばかりで笑えた。
「男の子の名前ばっかりみたいだよ。総司、女の子だったら?」
「…デラックス?」
「デラックスって。そっちかよ」
千晶は笑いながら、「ありがと。もうちょっと考えさせてね」と、総司の頭をなぜた。
 
 
千晶の家に泊まってほどなく、わたしは沖田さんの家への引っ越しを迎えた。
前もって、あっさりばっさりかなり始末していたので、荷物も少なく、ダンボールに二箱と、それに総司のものが大き目のバックに収まった。手伝いと紹介を兼ねて、姉が一緒になった。彼の車にそれらを積む際に、姉は目を細めて嘆くのだ。
「あれだけしかないの、あんたの物」
持ち出す荷物が少な過ぎるという。
「少ない方が身軽でいいじゃない。あんまり物持つの、好きじゃないし」
嫌な事件があって、まだ日も浅い。この家を責めるのではないが、ここであったこもごもの過去を引きずりたくないのだ。せっかく環境ががらりと変わる。だから、本当に要るもの以外は処分してしまった。
「わたしなんか、小学校の時買ってもらった編み機、まだしまってあるよ。あと、前の彼が作った彫刻とか…。そういうのないの? 大事な思い出の物が」
ややなじるように言う。
愛着ある懐かしのおもちゃはともかく。なぜ、姉が元カレの作った彫刻をまだ持っているのかが知りたい。
訊けば、声を潜めた。家の前に着けた車の側で総司と話している沖田さんを憚ったのか、
「覚えてるでしょ、あの人、美大生だった…。その後教師になったらしいけど。もしかしたら、何かの賞とって、有名になるかもしれないじゃない。そしたら、アレも値打ちが付くに決まってる」
だから、捨てないのだという。夫婦の寝室の押し入れの天袋に、横になっているらしい。「油断すると、お父さんが捨てそうだもん」
「…ねえ、その人、何で姉ちゃんに彫刻なんかくれたの?」
「わたしが欲しいって言ったの、確か、クリスマスとかに。物欲なさげに見えて、可愛いと思ったの」
と、物欲にまみれた姉がそんなことを言う。かつての彼氏作の彫刻…。重くて気合の入ってそうな贈り物を、今も大事にとっておける姉の鈍感さが羨ましい。わたしにはきっと無理だ。
そこへ、彼が「出ようか」と声をかけた。わたしと姉がひっそり話し合っているのをどう見たのか、ちょっと首を傾げている。
簡単な荷をトランクに積み、おしまいだ。後部座席に姉と総司が乗り、わたしは助手席に乗った。エンジンをかけながら、
「どうかしたか? さっきお姉さんと深刻そうにしてたけど…」
「…ううん、天気のこと。降りそうだって…」
隠すことでもないが、姉の名誉のために誤魔化した。彼は実家の寺の坊守を務める姉を、出来がよく品のいい人だと勘違いしている。
「そうか…」
わたしの答えに、あまり納得のいかない口ぶりだった。「大丈夫か?」と訊く。すべての処理が済み、この家を後にするわたしが、センチメンタルにでもなって、姉に心配されていたとでも考えたのかもしれない。
ないない。
「うん、すっきりしてる」
明るい声で言っておく。嘘はない。
ひょっとして、他愛ない勘違いとそれへの罪のないフォローで、円滑な人間関係は築かれているのかもしれない。そんなことをちらりと思った。
新しい住まいとなる彼の家では、妹のいろはちゃんが出迎えてくれた。姉ともども、しつこい挨拶を互いに交し合う。
引っ越しともいえない作業で、昼前には終えられた。お昼ご飯は、姉が重箱に詰めた手製のお弁当を振舞ってくれた。たけのこの土佐煮や高野豆腐の煮物、ブリの照り焼きにだし巻き卵と海苔巻などなど…。姉は手まめなところは亡き母に似て、料理も実にうまい。
これに沖田兄妹は感激していた。わたしに同じことを期待されても困るんだが。まあ、知ってるか、沖田さんは。
食事が済めば、「子供のスイミングのお迎えに」と、ぼろを出さない間に、姉は帰って行った。寺の仕事もあり、実際忙しい人だ。今日だって、のほほんと見えるが、時間の無理もしてくれているはず。彼の運転する車で駅まで送り、今日の礼を言って別れた。
その帰り道だ。
この日まで、互いにゆっくり話す機会がなかった。その二人きりになった途端、発した言葉がぶつかり合う。
「聞いたか? あれ」
「あのことで聞きたいんだけど」
「あれ」も「あのこと」も、どっちも千晶の妊娠の件だ。それにすぐに気づいて、二人でふき出した。
あれやこれやあって、引っ越しが済んだ。その新生活のスタートに、最初に交わす話題が、これだ。構えていた訳ではないが、彼の家に総司と共に荷物を置いたときからあった、やや肩の凝るようなこわばりが緩む気がした。
ちょっと間の後、
「聞いたんだな」
「うん、びっくりした」
沖田さんは頬の辺りを掻きながら、「…まあしょうがないな、できちゃったもんは」。つぶやくように言う。
へえ…。
身勝手だの向こう見ずだの、散々彼女には叱り散らした、と聞いたのに。気持ちのガス抜きは済んだらしい。
「いいの?」
「いいも悪いも、俺が決めることじゃないだろ」
「ふうん…。千晶は沖田さんにすんごい怒られたって、ぼやいてたよ」
千晶の、彼のあられもない発言を受けての「人の下半身の事情はほっておいて」のくだりを思い出し、顔がにやついてしまう。
「千晶、ママの自覚、もうちゃんとあるみたい」
彼はちらっとわたしを見た。空いた方の手で、ぽんと頬を軽く突く。「千晶に甘いからな、雅姫は」とつぶやいた。
ただわたしは、どうでもいいと無関心に許すのではなく、そこに一端の責任を含みながら許しているつもりだ。少し無理をしても、彼女を助けたい。
そう、おかしな過去話をしながらも、妹の新生活に、当たり前にお弁当を詰めた重箱を提げて来てくれた、今日の姉のように。
「あいつが母親…。できるのかな、本当に」
「一人じゃ無理だよ。あんなきつい仕事もしながらなんて…」
そこで、わたしは彼女にも言ったと、ほぼ同じ話を繰り返した。三枝さんの協力がベストだと思う、と。
彼はしばらく黙っていた。三枝さんの奥さんのことを考えているのだろうか。病身だというその人に与える心痛と、自分の申し訳なさを思うのかもしれない。若い時分にせいぜいお世話になった、恩ある人だと聞くから…。
三枝さんの育児への協力を頼む話の前に、子供の認知の件もある。妻である人に隠すことなどできないのだ。
ちょっとだけ長い吐息の後で、彼は口を開いた。
千晶が妊娠を三枝さんに打ち明けたのち、奥さんにその話が伝わるのを待って、自宅に顔を出してくる、と彼は言った。千晶の現在の気持ちを、伝えておきたいと言う。
沖田さんは、子の認知を、遺産や養育費の放棄があれば叶うのでは、と千晶に言っている。千晶に経済的な不安はないが、それらのものは将来の子供の権利だ。自身のことも思い出し、生前に勝手に奪ってしまうのは、よいのかどうなのか…。
それに沖田さんは、頷きながらも、
「認知の条件になったのなら、譲らざるを得ないんじゃないか」
「三枝さんが、認めないこともある?」
「親子鑑定くらいは求めるかもしれない。嫌な顔をするなよ、いきなりこんな話される男の身にもなれよ。確証くらいほしいだろ」
彼の言葉に表情を歪めたつもりはない。嫌な話だとは感じたが。何となく、手の甲で頬をこすった。
「千晶、どうかな…」
その要求があれば、彼女は腹を立てるかもしれないし、子供のためと、案外あっさりのむかもしれない…。でも、我慢しながらも、必要を認めてくれる気がする。
「ただ、奥さんはわからない。夫婦間は冷めて、さばさばしたもんでも、成人した娘さんもいる。外に子供ができたとなったら、やっぱり面白くないどころじゃない。子供のために、ということはきっと認めてくれるだろうが…」
「千晶の何らかの大きな譲歩が要る、そう思う」。彼は言う。それはやはり、三枝さん側からの金銭の受け取り一切の放棄になるのだろうか…。
その辺も、奥さんの気持ちを聞き、三枝さんの声も知った後で、自分が話そうかと思っている、と。
「当の三枝さん以外となら、奥さんも、話し易いかもしれない」
嫌な役目だ。
彼の話にゆっくり頷いた。
「千晶に甘い」と彼はわたしに言う。でも、甘いのは彼だって同じだ。
そして彼が、彼女の事後報告を叱った後で、「まあ、しょうがない」と許すのは、無責任な甘さではない。彼女のために負ってやれる、何かを踏まえた上での優しさだ。
愛があるのだ。
そんなことが、すとんと胸に落ちた。さりげなく当然とした、そんな姉の姿を見たからかもしれない。
男女のそれではなくても。親子の間の絶えない思いでもないが。主張もせず、ほのかに。汗ばんだ額に受ける柔らかい風に似て、ほっと心地いい。
愛というと気恥ずかしい。でも本当は照れ臭いものでも重々しいものでもなく、きっと人と人の間にどこにでもあるものなのかも…。
沖田さんのそれは表現すれば、友情になる。腐れ縁だ、と彼は言うだろう。でも、友だちへの愛があってこそ、そこから何か生まれるのだと思う。形だけ友人であっても、その相手に愛がなければ、気持ちは動かない。
「愛だね」
「は?」
案の定、彼はあっけにとられた顔をした。その後で、「何が、愛だ」とぼやく。
応じず、
「沖田さん、十三年前は、わたしと千晶の子供の面倒まで見なくちゃならないとは、思いもしなかったんじゃない?」
「思うかよ、こんな構図は」
彼はそこで、ちょっとあくびをした。夕飯はどうするかと訊く。
「え」
引っ越しの当日で、何も考えていない。いろはちゃんの予定を聞いて相談しようか…。そんなことを思っていると、
「あれでいいか? いろはも好きだし」
彼が、前方の道路沿いにある、テイクアウト専門の一口餃子の店を指した。その小さな店構えに、ちょっと過去の記憶がわっとよみがえるのだ。この彼と再会し、その日いきなり彼が手土産に持たせてくれたのが、ここの餃子だった…。
あれは、どこか気落ちしていたわたしを励ますものだったのだと、今では確信している。かつてのサークル時代、『ガリガリ君』や『うまい棒』をほんの優しさでふるまってくれたように。
ずっと遠いことのようで、あの日からの続きのようでもある。
ほんの偶然。それでもその符合は、わたしには特別なものになる。きゅんと胸が懐かしく鳴り、気持ちが華やいだ。
二人の日々の始まりに。あの餃子を買おうか、と当たり前にまた言い出す彼が嬉しかった。
 
とても嬉しかった。




          


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