この水はいつも心地よく、私を包む檻のよう
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二月の半ばには、ある種の人にとって気がかりなイベントがある。
篤子ちゃんも例にもれず、バレンタインのみーくんへのプレゼントに、少し頭を悩ませていた。
プレゼントの品自体は、ネクタイとすぐに決まる。ワイシャツを着た彼が、その襟に結んだネクタイの先を、シャツのポケットに、折りに差し込んだりする仕草が、本当にすぐに浮かぶからだ。
毎日仕事でワイシャツを着る彼に、自分の選んだネクタイを、週の内一日でも結んでもらえるのは、彼女としてちょっと素敵なことだと思うのだ。
実際、友人と出かけて、目当てのネクタイも買ってある。手作りするチョコレートブラウニーと共に贈る予定なのだが、いま一つ、しっくりとこない。
お小遣いで買っただけの品に、かすかな味気のなさを感じて、手作りの携帯ストラップを添えてみた。革紐にビーズあしらったごくシンプルなものだけれども、プレゼントにほんのりこちらの温度が加わったようで嬉しい。
すっかり安心もし、満足もし、篤子ちゃんはバレンタインの当日を迎えた。
その日は立春を越えてもきんと冷え、路面が時折、じゃりじゃりとシャーベットのように固まる。
みーくんは、受験シーズンも終盤になり、忙しさがひと段落した真冬の一日、篤子ちゃんから上のプレゼントを受け取り、ひどく喜んだ。
とにかく嬉しかったようで、ホワイトデーというイベントを失念して、ほろっと「お返しに、何でも篤子ちゃんのほしいもの買ってあげる」と、まるでいやらしい大人のようなことを言った。
篤子ちゃんは彼の気持ちが嬉しくはあった。喜んでもらえたことは、女の子として満足であるし、ただそれだけのために行ったことだ。
でもほんの少し引っ掛かりを覚えて、その言葉のじわっとした後味に、ひっそり顔をしかめもした。
(お返しがほしい訳じゃない。先生は、わたしが何か買ってほしくて頑張ったと思ったのかな)
デートのときは当たり前に支払いをもってくれる。大きな年の差や、彼が社会人であることを考えて、篤子ちゃんは好意に甘えてきた。そのせめてもの、「ありがとう」というささやかな気持ちが、彼女が折りに触れ手作りする料理であったり、今回のバレンタインのプレゼントであったりするのだ。
だから、ほしいのは「ありがとう」の言葉だけ。見返りなど、彼女は何も望んでいないのだから。
(ほしいものがあったら、お父さんに買ってもらうもの)
遠回しなねだりごとを秘めたプレゼントであるかのように彼が受け取ったのではないかと、ちょっとばかり彼女は面白くなかった。
 
 
それは不意に決まったお泊りデートだった。
一拍程度の外泊ならば、適当に言い訳をすれば叶わないことはない。篤子ちゃんは父に「友達とお宮参りをするペンギンを、○○水族館に見に行く」と告げ、あっさりと許しももらった。
父は、再婚話に予想以上に好意的な娘にここのところ寛大だ。再婚相手の女性とも篤子ちゃんが気が合っていた様子が、微笑ましくも嬉しかったのだ。
ちょっとの遠出になる娘のドライブ旅行に、父は「女の子たちだけで運転大丈夫か? みーくんは行かないのか?」などと言う。
篤子ちゃんはそのとき、キッチンでお弁当用のお稲荷などを詰めていた。「行かない」と返すと、父はまた重ねて、
「暇なら連れて行ってもらったらどうだ? 頼んでみたのか?」
「頼まない」
「どうして? 彼氏だろう、時間が合えば、みーくんなら連れて行ってくれるから、今から電話したらどうだ?」
やたらと勧める。この分なら、二人で出かけるといってもそれほど反対はないようにも感じられる。
友達と出かけると罪のない嘘をつき、実際出かけるのは彼とだ。親を偽って恋人と外泊デートする、年頃の女の子の甘い背徳感もどきどき感も激減、消滅である。
珍しくその週の土曜日、みーくんは休日だった。受験シーズンも終盤、そろそろ時間に余裕が出てきたようだった。
午前九時頃に行くと、前もって彼に連絡はしてあった。ドアの前に立って、チャイムを鳴らそうとしてちょっと迷う。前日飲んで遅いらしく、「寝てるかもしれない」といったメールの言葉を思い出したのだ。
夕張めろんより篤子ちゃんにめろんめろんなみーくんは、既に彼女に合鍵を渡してある。それで開けて、中に入る。
しんとした室内は、テレビの音もない。煙草の匂いで空気がやや澱んで感じる。
「先生」
返事はない。眠っているようだ。
リビングには革張りのソファに、コートやらスーツの脱ぎ散らかしたものが積んである。テーブルには山になった灰皿。それらを少し片づけて、篤子ちゃんは寝室に入った。
「先生」
ぐっすりと眠る彼の姿を見て、「もし寝てたら、起こして」という言葉をどこかにしまい込んだ。
お宮参りをするペンギンは見てみたいけれど、彼女が来た気配にもぴくりとも反応せずにこんこんと眠っていると、とても起こすことはできないように思えた。不満も怒りもない。
(先生、疲れてるのかな)
普段彼女には、みーくんは疲れたとも、忙しいとも特に言わない。そう聞かなくても、忙しいことは知れたし、疲れていたのだろうとも今、こうしてわかる。
彼女はちょっとだけ彼の静かな寝顔を見て、そのままリビングに返した。しばらく、散かった部屋の掃除でもして時間をつぶそうと思ったのだ。
 
日が高くなった頃、みーくんは慌てて起きてきた。二時間ほども待たせた彼女にしきりに「ごめん」と謝るが、彼女が起こさなかったのだ。
着替えた彼が、腕に時計をつけながら、「急いだら、間に合うから」と彼女を促した。
「大丈夫、間に合わせるから」
起き抜けには一本は吸うだろう煙草を、彼はまだ口にくわえてもいない。少し後ろ髪がぴょんと跳ねている。
篤子ちゃんは急に、お宮参りをするペンギンなど、どうでもよくなってしまった。「ううん」と首を振った。
「無理に行かなくてもいい」
「ごめん、遅くなったけど、間に合うよ。急ぐから、ね」
すっかり寝過ごした彼を、彼女が拗ねてそんなことを言い出したと思ったようだ。そうではないのに。
「ううん、本当にいいの」
篤子ちゃんはみーくんの手を取って、その指先を軽く握った。「いいの」と重ねて言う。
「お弁当、お稲荷作ってきたの、食べて。もうお昼だし、先生おなか空いたでしょう?」
ごく機嫌よく、彼を見上げ笑顔で言うと、ちょっとばかり戸惑ったように小首を傾げて彼女を見たみーくんも、他意がないようで、けろりとして見えるその様子に納得したようだった。
「……でも、ごめんね。また今度連れて行ってあげるからね」
それに篤子ちゃんはなぜか、「うん」と頷かなかった。ふふっとちょっと唇と頬で笑って答えただけ。
いつになるかわからない、と思ったのと、どうでもいい、と思ったのと。
そして、そんな自分の今の優しい気持ちに、「ああ」と納得がいってもいたのだ。
(先生と一緒にいられれば、別にどこでだっていいんだ)
口に出すのは恥ずかしく、きゅんと込み上げた恋の感情に、変にどきどきもした。甘い背徳感は激減しても、楽しければいい。
その日のお弁当は、稲荷ずしに鶏の唐揚げときんぴら、それに時間がなかったので夕べのお煮しめを隙間にぎゅっと詰めた。
篤子ちゃんにとって本当に造作のない(お稲荷はちょっと手間がかかるけれども)手料理に、みーくんは笑みがこぼれるほど感激した反応をくれる。
何だか面映いほどだ。
「こんな手作りのお弁当って、僕食べたことがない」
好物だという稲荷ずしを頬張り、そんなことを言う。彼の母親は料理を一切しない人だというのだ。じゃあ、食事はどうやってきたのかを訊くと、
「通いで、お手伝いさんを頼んでたんだよ」
「すごい、先生のおうち、お金持ちなの?」
みーくんはそれに首を振る。「違う違う」と笑った。
「実家、旅館をしてるんだ。母親がその女将でね…」
なぜか、言葉が最後やや細くなった。けれど篤子ちゃんにとっては、新事実だ。どうして教えてくれなかったのかとちょっとふくれた。
そんなすごいことは、出会ってすぐにでも知りたかった。
「すごい、温泉の大浴場があるの?」
「あっても、僕らには関係ないよ。お客専用」
みーくんは、口にしなかったのは「篤子ちゃんが引くと思ったから」と言う。なぜそんなことを考えるのかが、彼女にはわからない。
さすがにみーくんも、以前の彼女と結婚話の際、女将の母親とその元彼女が家業の件でもめて、それが原因で破局に至ったなどとは決して言わない。
食事を終えて、篤子ちゃんは詰めてきたお弁当箱を洗うかどうかで、少し考えた。父が目にしたら、きれいなそれらを不審に思うかもしれない。けれど、まずそんなことはあり得ないと、洗ってしまう。万が一訊かれても、泊まった先で水洗いしたことにすればいい。
どこに行こうか、という話に流れた。みーくんは彼女が楽しみにしていた水族館行きが、ふいになったので、あれこれ気を使う。そもそも、お宮参りをするペンギンを見つけてきたのも彼女なのだ。
「映画でも行こうか? 何か観たいのない?」
「いい。先生寝るもの」
以前、あったこと。篤子ちゃんは隣りのシートでくーくー眠る彼に、やや興醒めもしたものの、起こさないよう、彼の膝から床に落ちたジャケットを拾うのに、随分ひやひやした思い出がある。
取立て行きたい場所がある訳でもない。うろうろ出歩いて、旅行に行っているはずの自分が、どこかで父に見かけられたりしても、みっともないことになる。
背徳感も、これで、まったくないとはいえない。
買ってもらったゲーム機を持ってくればよかった、とも思いつつ、夕食は何が食べたいかを、早々と考えたりする。
 
つまらないテレビに退屈するより早く、少し日がたそがれるよりも早い。
ふと、抱きしめられた。
一度、ホテルに行って以来、彼とはキス以上何もない。あのホテルでの出来事を思い出し、篤子ちゃんは今でも一人で頬が熱くなる。あのときは、途中腰が引けた彼女に、彼は最後までは求めなかった。
(今夜は、多分…)
そんな予感も、もちろんあった。
ころりと彼の腕の中に体が傾いで倒れ込む。彼のこんなときの引き寄せ方や腕の力や、表情は本当に何気なくて、いやらしくなくて、篤子ちゃんはいつもちょっと油断をしてしまうのだ。
この日も「あ」と気づいたときにはキスを受けていた。
(先生って、手が早いと思う)
仲のよいいつもの友人らには、性の話になると「ずっと年上の大人だし、小早川さんって、ゆっくりじっくりって感じがする」などと言われ、篤子ちゃんも「そうかも…」と事実を曖昧に隠し、お茶を濁していたのだが。
(とんでもない)
何もされないのは、女として魅力もなく子供っぽく見られているのかと、きっと不安にもなる。面白くもないだろう。
会えば、抱きしめられてキスをする。二ヶ月程度のつき合いの進み具合では、そこそこだろうか。
(早いかも)
と篤子ちゃんは判断している。けれども抗わないのは、嫌でも不快でもないからだ。
その篤子ちゃんも、みーくんとのキスが深くなってから、最近ちょっと怖く思う。それ以上進むことに、最後まで受け入れることに、前の彼とのセックスがひどくまずいものだっただけに、怖さも不安もある。
いつの間にか、みーくんの手が、彼女の素足を滑っている。くすぐったいような、恥ずかしい、けどときめく感じで、篤子ちゃんはやっぱりきゅっと彼にしがみついた。
掛けていたソファに押し倒された。
「嫌だったら、言って」
「…うん」
ずるずると、流されている自分をほんのり感じながら、けれども、それを身体のどこかで心地いいとも彼女は感じているのだ
(怖くなったら、止めてもらおう)
言ってくれた彼の言葉通り、そう思いながら、篤子ちゃんは瞳をきゅっと閉じた。
でも篤子ちゃんは知らない。みーくんは優しさからそう当たり前に口にしたけれど、それが彼にとって結構きついことであることを。
 
暗くなってからも、ずっと抱き合ってばかりで過ごした。
結局ベッドの上で重なり合って、篤子ちゃんは少々痛い思いはしたものの、以前とは比べられないほど、すんなりと彼を受け入れることができた。
少しの痛さと、初めて好きなみーくんと適ったことに、ここに進むまで、出会ってから思いがけない速さではあったけれど、篤子ちゃんは感激したのか安堵したのか、涙が出てしまった。
「痛かった? ごめんね、初めてなのに。ねえ僕、ひどくした?」
初めてではない。けれども、情事の後の抱きしめられてうっとりとなるひとときに、篤子ちゃんはみーくんの幸福で軽率な誤解を取り消す余裕を持たなかった。
「ううん、痛くない。大丈夫…」
故意ではない。そして、それほど大きな事柄でもないだろう。彼自身の来し方を振り返れば、彼女に何を言えたものでもないはずだ。
 
「篤子ちゃん、本当に可愛い」
彼はしくしくと自分の胸で泣く彼女が、それはそれは可愛くて愛おしくて堪らない。静かに優しく抱く腕の力をこめた。
もっともっと時間がかかると踏んでいた彼女と、とんとん拍子で身体がつながることが叶い、情事の余波ではなく、腰が砕けそうなほどみーくんは彼女にめろんめろんで、更に思いがのめりこむのを感じた。
このときから、みーくんの頭に彼女との「結婚」の二文字が、鮮やかに浮かび始めたのだ。
自分の思いの強さにくらくらとする。
(絶対、手放したくない)



          

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