迷子になったら手をつなごう
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「お父さん、週末の友達と行く旅行に、お小遣いもらっていっていい?」
お風呂上りに、篤子ちゃんは思い出して、リビングのソファに座る父に訊ねた。いつものニュース番組を見ている。
父からは簡単に了解が取れた。毎月決まった額の生活費が、家の通帳に振り込まれ、その中でなら采配は彼女の自由だ。お小遣いもこれに含まれる。
やりくりが上手でもあり、父がちょっとゆとりを持って入金もしてくれているので、彼女のお小遣いになる分はちゃんとあるのだ。
好きにしていい余剰金だけれども、使いたい都度(例外もある)、彼女は「使っていい?」と簡易に父にお伺いを立てる習慣を持っていた。
篤子ちゃんは冷蔵庫からビール缶を取り出し、父にも訊くと頷くので、一本持っていってあげる。
父のそば、ラグを敷いた床に彼女は座り、父からの何度目かの同じ質問にいちいち答えた。
試験を終え、長い春休みに入った彼女は、今度の週末友人数人と某遊園地に出かける。その行き先と、交通手段と、何人で行くのか、それは誰々ちゃんか、いつ頃帰るのか……。
質問の最後は、なぜか関係ないこの問いが投げられた。
「みーくんは、篤子とどういう気持ちでつき合ってんのかな? だって、彼はずっと年上じゃないか。仕事もきちんとしているし…」
外見も悪くない、と付け加える。
デートの際送り届け、間が合えば、みーくんは父に挨拶を欠かさない。そんなところから、自然彼を姓からみーくんと、愛称で呼ぶようになった。それだけ、彼への好感度も高いのだろう。
「学生とつき合わなくても、もっと、似合いの女の子がいそうなものなのになあ」
「さあ、知らない」
そんなこと、篤子ちゃんにもわからない。
「わがままばっかり言っていると、嫌われるぞ」
「言ってないもん」
父にすれば、年頃の大事な一人娘に彼氏ができるのは面白くない。
けれども、どうせできるのであれば、彼女に変な影響を与えかねないふらふらした学生より、年上でもしっかりしたみーくんと一緒にいてくれる方がよほどありがたい。少なくとも、不安や心配はかなり小さいのだ。
ビールを飲み終え、スポーツニュースに番組は移った。父がそれに見入り、篤子ちゃんは立ち上がって、キッチンで明日の朝食用のご飯をセットした。
後は自室で、みーくんからもらったゲーム機で、休むまでの少し、遊ぼうと思っている。いつもどおり朝が早いので、休暇中でもひどい夜更かしはしない。
二階へ階段を登りかけた彼女に、父が「おい」と声を掛けた。振り返ると、父はビールの缶をローテーブルに置き、
「いつがいい?」
と訊いた。
「何の話?」
父の再婚相手の女性との顔合わせのこと、という。「先方も、篤子の話をしたら会いたがって」
篤子ちゃんは胸がどきりと鳴り、首を傾げた。「別に、いつでも…」と返す。
父は頷き、飾り棚にちょんと置いた小さなカレンダーを手に取り、
「じゃあ、今月の、二十八日はどうだ? 日曜だし、長瀬さんも休みで都合がいいらしい」
「ふうん」
父は初めて再婚相手の名を口にした。これまでは「あの人」であるとか、「先方の」といった、ちょっとぼかした呼び方であった。やっぱり篤子ちゃんは意外に思いつつ、「ふうん」と返した。
(もう、二人で決めてあるんじゃない)
彼女はそれに構わないと答え、「おやすみ」と自室へ引き揚げた。
白いゲーム機の電源を入れようとして、気分が削がれていることに気づく。低く好きな音楽をかけた。それを聞き流しながら、みーくんにおやすみメールを送る。受験シーズン真っ盛り、忙しい彼は十一時程度ではおやすみでもないだろうけれど。
ほどなく返信があり、決まった文字が送られてきた。
『おやすみ』
携帯メールが面倒なのか、みーくんの文章はいつも決まっている。決まったごく短いフレーズをきっと保存し、それからコピーしているだろうと、篤子ちゃんは疑っている。
その通りかもしれない。
確認した携帯を、篤子ちゃんはぽんと枕元に放った。
ちょっとざわめく気持ちにも、そして変わり映えのない陳腐なメールの文章にも、篤子ちゃんはちょっとだけ泣きたい気持ちになるのだ。
デッキから今のCDを抜き取り、替わりに泣きたいとき用のCDをセットする。それは彼女の大好きなディズニー映画『アラジン』のサントラで、なぜか彼女の琴線を揺さぶり、涙腺を刺激してくれる。
それを静かに聞きながら、ベッドにもぐりこんだ。そうして眠くなるまで泣いた。
 
 
その週末、みーくんは鳴らない携帯に気を引かれながらも、仕事をしていた。
予備校での授業は今週で冬期講習も終わり、ゆとりがでてきた。その間に本城さんは彼に、年度末の準備をしようと声をかけた。毎年新年度に向けて今頃行う業務で、互いの部屋のどっちかにこもり、パソコンや書類記録と首っ引きの、一日仕事になる。
みーくんはこの週末、篤子ちゃんと会う予定がなかった。いつもはどちらからともなく、週末のデートの件を持ち出すのに、今週は彼が忙しく、それに合わせたように彼女も何も言ってこなかった。
(忙しいから、遠慮してくれてるのかな)
みーくんにとって彼女は「そういう気を使うタイプ」なのだ。
後ろ髪を引かれつつも、本城さんの声に頷いた。面倒な仕事は早く片づけた方が、精神上よろしい。
その日曜は、深夜まで本城さんの部屋で仕事を仕上げた。日付が変わるころ、篤子ちゃんからいつものようなおやすみメールが届いた。
そんなことに、みーくんはほっとする。
返しに、
『明後日、会える?』
と送った。彼女からはすぐ、ちまちま動く絵文字に飾られた可愛いメールが返ってきた。
『先生に、お土産があるの』
みーくんはメールの文字に「え」と虚をつかれた。「お土産」とはなんだろう。篤子ちゃんは、どこかに出かけていたのだろうか。
(お父さんとかな…)
みーくんは、彼女が友人数名と一泊旅行に行っていたことを知らない。篤子ちゃんが知らせなかったからだが、その上、その数名のメンバーに男の子が混じっていたことも、もちろん知らない。
 
仕事帰りに待ち合わせると、篤子ちゃんは夕食に、「お好み焼きが食べたい」という。よくお好み焼きが食べたくなる子である。
これまでより早い八時には、店に入った。また篤子ちゃんのお勧めの店だ。
お好み焼きが焼けるまで、みーくんはちょっと気がかりだったことを訊く。重くならないよう、詰問調にならないよう、せいぜい気を使った。彼女には、日曜に彼と必ず会わなければならない義務などない。
「日曜、どこか行ってたの?」
「あ」
篤子ちゃんはくしゅっとしたバックから、包みを取り出した。「お土産」と、彼に渡す。
開けると、中から太った熊の小ぶりなぬいぐるみが出てきた。紐の先に吸盤が着いている、ガラス面に貼り付けるやつだ。
「…ありがとう」
「先生の車につけて」
「うん」
彼の車はランドクルーザーだ。その飾りっけのないウィンドウにこれがついていたら、また友人らにからかわれるだろう、面白いネタを提供することになる。そう思いはしたけれど、多分彼女の言うがまま、自分はつけてあげるのだろう、とも思う。
篤子ちゃんは、前の土・日曜に、日本最長のジェットコースターがある遊園地に泊まりで行っていたという。
「誰と?」
自然、みーくんは問う。意図せず、ちょっと声が硬くなった。彼女は鉄板のお好み焼きを返すのに意識が向いていて、何も感じないのか、あっさりと、
「菫と、鞠菜と、笙子と、あと笙子の彼氏とその友達…、八人かな、皆で」
と言った。
見事お好み焼きの返しに珍しく成功し、篤子ちゃんは「ふう」と息をついた。彼を見てにっこり笑う。「上手でしょう?」とでも言いたげで、鼠を獲ってきた猫が、飼い主の前に獲物を見せびらかすような自慢げな表情だった。
みーくんはショックで、返事をするのも嫌になった。篤子ちゃんの驚くべき告白に愕然となったのだ。
あっけらかんと、けど慎重にお好み焼きをデコレーションしていく彼女が、ちょっとばかり憎くもある。
(旅行に行くくらい、言ってくれたって)
それももちろん大ショックだが、より傷が大きいのは、泊まりの旅行に男友達が同行したことだ。しかも、女の子の数に合わせて四人で。その目的など考えるまでもない。
みーくんが思うに、酒も入る旅行先で、男女がいれば突発的に何があるか、わからない。
「温泉がね、ちょっとぬるかった」
彼にお好み焼きを取り分けてくれながら、彼女は誠にのんきに旅の思い出を語るのだ。みーくんは食欲が失せ、このところの疲労感が肩にぐっと重くのしかかるように感じた。
篤子ちゃんのは、事後承諾でもなく、まったくの事後報告である。
咳払いの後で、みーくんは声が尖るのを抑えながら、
「どうして、僕に前もって言ってくれなかったの?」
「あ」
そこで初めて、ほんのりと彼から感じる不快な気配に気づいたようで、篤子ちゃんは「ごめんなさい、忘れてたの」と謝った。
「忘れ…」
またもやみーくんは、絶句する。
自分は彼女にとって、それだけの存在なのかと、先ほどつけられた傷が、更に深みを増した。そのうち骨まで達するかもしれない。
「先生に言うと、怒られると思って」となど言い訳するのなら、まだわかる。遊びたい年頃だろうし、その気持ちも理解できれば、あまりに束縛するのもためらわれる。
遊ぶなとも言えない。だからせめて、事前に断りがほしいのだ。それくらい求めたっていいとみーくんは考える。
だから、今回の件はちょっとひどい。
彼の苛立ちももっともだろう。けれど、篤子ちゃんを咎めすぎるのは、ちょっと可哀そうでもある。
不意に決まった父親の再婚相手との顔合わせが近づいたことに動揺し、更にその長瀬さんという女性から、まったく不意打ちに、彼女に挨拶の電話があったのだ。篤子ちゃんはその肉声に動顛したし、慌ててしまった。
そんな非日常な背景があったことを、みーくんは知らないし、篤子ちゃんは彼に話すことさえ思いつかない。元より、打ち明ける気などないのかもしれない。
 
(何を考えているんだろう、この子は)
目の前の、楽しげにお好み焼きを食べる彼女を、頬杖を突きながらみーくんはただ眺めた。
「先生、食べないの?」
「ああ…」
面白くない食事の味など、みーくんはまったく感じなかった。ただ、機械的に食べただけ。
車に戻ると、篤子ちゃんは早速彼に、熊のぬいぐるみを飾れという。やはりそれに機械的に応じてやりながら、みーくんは気持ちが沈むのを感じる。
助手席に座る小柄な彼女は、若くて可愛い。すんなりした手足がスカートからのぞくと、ややどきりともする。気立てもいいし料理上手で、きちんとした女の子でもある。
そして、自覚もしているが、みーくんはそんな彼女にかなり「イカレテ」いる。
けれど、思うのだ。
(このままでいいのか)
今夜のような、理解し難いほどの考えの行き違いがあれば、この関係を続けていいのか、迷いも現れる。またあるかもしれない、今度は別の形で。自分はそのときまた、ひどく嫌な思いをするかもしれない。
そして、そのせいで篤子ちゃんを責めるなどできないのだ。何をどう考えるかなど、完全に個人の自由だ。
要は自分のそれと合うか、合わないか。許せるか、許せないか。
(どうだろう、僕は)
彼女を自宅へ送りながら、みーくんは黙りがちになる。今は会話をつなげる努力がし辛い。
篤子ちゃんも、つられるのか黙った。
彼の頭に、追い討ちをかけるように、かつて本城さんが口にした悪魔のフレーズが甦るのだ。
『間違って、五〜六年も続いてみろよ。それで、そのときになって、篤子ちゃんが、「やっぱり別れましょう」なんて言い出したらどうする。こっちは三十六にもなってる〜』
そのきつい忠告が、今の彼にはまったくの至言に思える。そのような可能性だって、十分ある。かなり高い。
メリット、デメリットで恋愛はできない、という人もいるだろう。けれど、ある一定の季節を過ぎれば、自分にどうマイナスしないかベターであるか、考えたって卑怯ではないはずだ。
(好きだけど…)
ぶらぶらと、ウィンドウの熊が揺れる。滑稽なその動きを運転の狭間、ちらりとみーくんの瞳が追った。
ちょっと置いたシフトレバーの手、そこにふわりと小さな篤子ちゃんの手のひらが重なった。「ごめんなさい」と小さな声がする。
「旅行、男の子がいても何にもなかったから、怒らないで。もう行かないから…」
旅行そのものが、彼のわだかまりの真の理由ではない。けれど、謝られれば、やはり気持ちは和む。
「怒ってないよ」
怒りではないのだろう、と思う。確かにあったそれは、彼女の声でそれ以前彼女の気配で、悩ましくもあるが、彼は多分許せてしまっている。
残ったのは、これからへの愛情に絡まった迷いだ。
(どうしたら……)
幹線道路を、もう慣れた道へ折れた。
「そうかな、でも怒ってるみたい」
「そんなことないよ」
「先生だけが、好き」
重なった手を彼女はまだ離さない。触れ合って、絡んだ指がじんと熱を持っている。
前方に、ある照明が、ふっと彼の目に入った。それは城の形をした奇抜な新しいファッションホテルで、以前近隣の住民から建設反対の運動が起こっていると、新聞の地方欄で読んだ覚えがあった、そのホテルだ。
これまで、この手のホテルに入ったことがないといえば、嘘になる。
みーくんは特に意図もなく期待もなく、ほろりと訊いた。ホテルを顎で示し、入っていいかと、彼女に訊いた。普段の彼に似ない苛立ちが、残っているのかもしれない。
こんな冗談を言う人ではないと、篤子ちゃんも感じたのだろう。しばし黙って、ギアの重なった手が離れた。
「ごめん、変なこと言って」
みーくんのそれと、
「あんまり遅くならないんなら…」
という、はにかんだ彼女の声がぶつかった。
 
ホテルの内部は派手な外観に比して、いたってシンプルな内装をしていた。モダンなシティホテルのそれと変わらない設えがなされている。
違うのは目立って大きなベッドと、ガラス張りのバスルーム。
抱き合って、すぐにキスにつながった。
サテンピンクのカバーがかかるベッドに倒れ込む。触れた事のないスカートの脚に彼の手が這うと、篤子ちゃんは怖いのか、きゅっと抱きついてきた。
もう、みーくんには堪らなく可愛い。
「最後までしなくていいよ」
「でも…」
抱き合って、肌で触れ合って、これまでにない親密な時間が過ごせればそれで十分で、そうしたかった。敢えて、彼女にまだきつい無理を強いたくない。
彼女がここへ訪れることを了解してくれた段階で、もう彼は、既に迷いをどこかにしまい込んでいる。消えた訳ではない。またそれは、何かの弾みでひょっこり顔を出すかもしれない。
けれど、組み敷いた可憐な彼女が、小さな身体をはにかみながら、それでも彼に許そうときゅっと目をつむる様は、みーくんの目に可愛らしさを越えて、もう愛おしいくらいだ。
照明を落とした室内でも、目が慣れれば次第に像を結んでいく。彼女のちんまりとした乳房も。脚の間の茂みも。
初めて目にした彼女の身体のつぶさに、柔らかな肌に、甘いその香りに。感じるこの一瞬、何もかもどうでもよくなるのだ。まったく敵わないと思う。
(男って、だから馬鹿なんだな)
さらさらと強張った自分の何かが、ほどけていく。それはプライドであり、苛立ちであり、彼女への幾らかの不審でもある。
けれども、
見つめ合い、抱き合って、重なって、キスを合わせて。
「先生、わたしのこと、好き?」
「うん、大好き」
彼の長い指が触れる、ふんわりカーブした篤子ちゃんの髪は、柔らかくしっとり彼女のそのままの恥じらいをのせて、その指に緩く絡んだ。
 
みーくんの悩める気の毒な夜も、とびきり幸せなラストへ、結局甘く更けていく。



          

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