追いかけて追いかけて、触れられない青い鳥

Impressions 11
 
 
 
篤子ちゃんは寒さで目が覚めた。
キャミソールだけの身体が、慣れない寝具の中で冷えてしまっている。震える感じで、そばのこちらを向いて彼女の首に腕を回して眠っているみーくんに、ぴたりと寄り添った。
その気配に起きたのか、彼が、「寒いの?」と訊いた。
「…うん」
夜明け前薄暗がりの中、彼は腕を伸ばしてベッドヘッドの辺りを探る。エアコンのリモコンをそのままで操作した。
腕を戻すと、彼女を引き寄せてくるっと抱きしめてくれる。「すぐに暖かくなるよ」というその声も、その腕の優しい温かさも、篤子ちゃんにはまだなじまない新しいもの。自分の爪先が、彼の足にちょんと触れるたびに、どきりとするくらいだ。
それでもそれは心地よくて、居心地がよくて、これまで以上に彼の近くにいる自分を感じ、彼女は嬉しくなるし、そしてそのことが恥ずかしくもある。
眠いのか、みーくんはもう寝入ってしまっている。
ずっと抱き合って、それからたくさん話をした。彼のこと、つまらないこと、初めて耳にすること。深夜過ぎてまぶたが落ち始めて、彼女はそれから記憶がない。
その静かな呼吸を聞きながら、篤子ちゃんの身体はようやく温まり始めた。
 
 
上のような、父にとっては甚だ面白くない休暇を過ごした後、篤子ちゃんにちょっとした出来事があった。
金曜の夜、家に食事にと、再婚相手の長瀬さんを招いたのだ。以前一度顔合わせに食事をした彼女は、「一緒に何か作って食べましょう」と、夕暮れ前にはエプロンを持参で乗り込んできた。
長瀬さんはいたって普通の四十代後半の中年女性で、少しふっくらとした品下ったところのない朗らかな人だった。
父は仕事で日が暮れないと帰宅しない。そんな中、親しくならなければならない親しくない女性と二時間ほども二人きりで過ごすことに、篤子ちゃんにはちょっとプレッシャーがあった。そのためか、前夜おなかを壊してしまったくらいだ。
けれども接していれば、気持ちのよい婦人であるし、彼女にひどく気を配ってくれている雰囲気も伝わる。
案外なほど二人の時間は悪くなかった。
それどころか料理を共に作ったり、習ったり楽しくもあったのだ。切り身をのせたちょっと豪勢な散らし寿司と黒酢で作った酢豚、お吸い物、他野菜料理がダイニングテーブルに並ぶと篤子ちゃんは嬉しくなってしまった。
実においしそうなそれらを、のちに三人で食卓を囲むことも楽しみなのだけれども、父の新しいこれからのパートナーとして、本当に相応しく願わしく思ったのだ。
大事な父には、頑張り過ぎなくても少し手をかけたそしておしいものを毎日食べてもらいたい。
それを家族で、何か話しながらおいしく食べる。それはきっと人間の幸せの大きな要素なのではないかと彼女は考えるのだ。だから、楽しみつつも、ずっとそうしてきた。
(お父さん、いい人でよかったね)
長瀬さんも楽しい時間と感じたのか、にこにことしている。「また何か作って食べましょうね。篤子ちゃん、何かメニュー考えてね」
あれこれ話したついでに、彼氏の話題になり、父から聞き及んでいるのか、
「どんな人?」と、しつこくない程度質問が飛んでくる。それに当たり障りのないことを返していると、もう父が帰ってきた。
二人の和やかな様子に、こちらも嬉しげで、ケーキの小箱を提げている。お土産に買って来てくれたようだ。
あれこれ話しながら食事の時間が進み、篤子ちゃんは、向かい側に座る長瀬さんを見て、ふと思い出し、感じたことがあった。
去年のクリスマスプレゼントと、父が彼女に贈ってくれたパールのネックレスは、おそらくこの女性が智恵を授けたのだろうと。
ずっと大人の女性でないと、考えなさそうなプレゼントでもある。
篤子ちゃんはそれを、父が仕事の同僚やそういった身近な人から耳にしたのだろうと、簡単に思い込んでいた。けれど、そうではないと、今はしみじみと思うのだ。
(きっと長瀬さんが、お父さんに言ったんだろうな)
それを篤子ちゃんは静かに納得した。腹立ちも何もない。実際素敵な品であったし、自分がずっとずっと年をとったら、もし娘があれば同じことをしてみたいとも思う。
けれども、つながった出来事に、「ああ」と小さくない驚きがあったのだ。
(そんな前から、そんなことを相談し合うくらい、仲がよかったんだ)
自分だけが除け者にされたといった疎外感ではない。いちいちそんなことを父が自分に告げる義務もないだろう、と彼女は判断する。
彼女がみーくんとのあれこれを、父に細かく告げないのと同じだ。
(知らなかった)
卵豆腐のお吸い物を喉にやりながら、篤子ちゃんは妙なわだかまりを、ごくりと飲み込んだ。
「これ柚の香りがしておいしい」
と笑う。
「買って来てよかった」
「うん、おいしい」
三人で顔を見合わせる。
もしみーくんが、この彼女の心のうちをつぶさに見ることができたのなら、呆気にとられ、そして舌を巻いたに違いない。
それは彼の知らない、冷静で、どこか理知的でさえある彼女の別の顔だった。そしてほのかにやはり女性らしい。
 
 
残業中のみーくんに、声がかかった。
今処理しなくてもいい残務だけれども、やっておけば後が楽だ。大量に届いた新年度のテキスト類を書類とつき合わせている。
「帰るけど、まだいるのか?」
コートを持った本城さんだ。彼は夕食にと食べた何かの賭けで勝った戦利品のハンバーガーを「ちょっと食べ過ぎた」とおなかをさすっている。
「うん…、もうちょっといる」
みーくんの声は歯切れが悪い。そのはずで、彼は篤子ちゃんからの電話を待っているのだ。
彼女は今夜友人と、誰かの誕生日会をするとかで、遊びに出かけている。飲まない訳がなく、その迎えを彼が買って出たのだ。
「十時前に終わるから、電話するね」と言っていたのだが、もう十時をちょっと回っている。
「篤子ちゃんのお迎えか?」
みーくんの様子にすぐに察しがつくのか、本城さんは呆れたように言う。これが初めてではないからだろう。
「ああ」と返し、
「いいからお前は帰れよ。後は閉めて帰るから」
本城さんは手近の椅子を引き寄せて、後ろ前に座った。帰るのじゃなかったのか。
「なあ、みーくん、ちょっと甘やかし過ぎじゃないか?」
みーくんは、それに軽い咳で応えた。「そんなことない」とつけ加える。
本城さんがそんなことを口にするのは、篤子ちゃんへのみーくんの態度が、これまで彼の付き合ってきた彼女へのそれと、あまりに異なるからだけではない。
それに加え、美馬くんの話もきっかけとなっている。
数日前、美馬くんが市街で待ち合わせている様子の篤子ちゃんを見たという。彼女は妙な男から声をかけられて困っていて、美馬くんが現れて事なきを得た。
そのとき篤子ちゃんは彼にこれから「先生と会うの」と答えたという。
その話を、みーくんらが彼のバイト先のバーに夜やって来たとき、何かのついでにほろっともらした。
話に、みーくんが口許をさっと軽く歪めたのを、当の美馬くんも、隣りで焼きそばを食べていた本城さんも気づいただろう。
みーくんは美馬くんに「篤子ちゃんが、ありがとう」と礼を言っただけで、その話を打ち切った。
みーくんには、美馬くんが彼女を見たという日、二人で会う約束などなかった。彼女は嘘をついたことになる。
自分に黙って、こっそり遊びたい気持ちはみーくんもわからないでもない。わからないでもないから、夜遊びに出かける際は、十時を目途に切り上げること、連絡をくれれば自分が迎えに行ってやることを伝えてあるのだ。
自宅に送り届ける任を受け持つことで、彼も安心できるし、彼女の夜遊びの牽制にもなろうかと考えてのことだ。
なのに、である。
人を偽ってまで遊びたいのかと、正直面白くない。軽い怒りすらある。顔を見たら、きついことなど言えなくなってしまうのだけれども、今夜少しは問い質してみるつもりだった。
「あんまり篤子ちゃんの言いなりになるなよ。みっともないぞ、みーくん」
忠告にかちんときたが、長いつき合いで、流した。正しいとも、どこかで感じている。
(みっともないか)
本城さんが帰った後、煙草をくわえ、ばらしたダンボールを足でそのまま部屋の隅にかき寄せた。先をシャツのポケットに入れたネクタイを外す。それは篤子ちゃんがバレンタインにくれたものだった。
外したそれを、ぽんと自分のデスクの上に放った。そのとき電話が鳴った。篤子ちゃんからだ。
(情けないな)
と思いつつ、ツーコールほどですぐに出てしまう。
 
篤子ちゃんは今夜遅くなった訳を、「子猫を見つけて、見ていたの」と言った。
彼女が指差したブロック塀の脇に、確かに汚いダンボールがあり、そこから弱々しい鳴き声がもれてくる。他の菫ちゃんや鞠菜ちゃんも和した。

「うん、可愛かったね」
そこは繁華街のコインパーキングで、みーくんはここへ彼女を迎えに来たことがこれまでにもある。
ちょっとは遠慮している篤子ちゃんの友人二人も、車に乗るよう促した。送り届けてやるのだ。それほど距離もなく、大した造作でもないから、これは構わない。
エンジンをかけたそのとき、「すいません」とドアの外で声がした。みーくんが振り返ると、運転席のガラス窓を若い男がこんと指で叩いている。一見、大学生風に見える。
彼はとっさに、自分が停めた車の位置が駐車場の出入り口に近く、まずかったのかと思った。もしくは後輪でもパンクしかけているのか。
「何か?」
ウィンドウを下ろすと、学生風の男は彼にぺこりと頭を下げた。「すいません、お兄さん。僕、○×工大の高橋と言います。門限が十時なのに、遅くまでつき合わせて、本当、すいません」
(は?)
みーくんは、まくし立てる男に一瞬虚をつかれたが、後部座席での女の子のひそひそと交し合う声に、すぐに思い至った。
篤子ちゃんたちがさっきまで遊んでいたのは、この高橋くんとらしい。彼一人ではないだろうから、その他男子学生ときっと合コンをしていたのだろう。
誕生日会などではなく。
みーくんは、迎えに来た「保護者」の自分にいちいち詫びを言いに来る高橋くんに、嫌な感情は持たなかった。礼儀正しい性質なのだろう。篤子ちゃんらの中に、特に目当ての女の子がいるのだろう、とも想像した。
不快な思いこそ彼に持たなかったけれど、もちろん面白い訳もなく、ちょっと頷いただけで、ドアを閉めた。
そのまま車を走らせた。
(何が、「お兄さん」だ)
 
みーくんは順次に、女の子を送り届け、最後に篤子ちゃんが残った。
菫ちゃんらがいたときは、まだ会話もありややましであったが、二人きりになると、ぐんと空気が重く沈んだ。
話したのは専ら篤子ちゃんで、どうでもいいことばかりだ。さっきの子猫を飼いたいだの、友人の誰かが家族で海外旅行に行くだの。
みーくんは、「ふうん」、「そう」と相槌を返すものの、嫌な夜だと思った。
深夜の住宅街はしんとひどく静かで、どこかの犬の声さえ、ガラス窓を通してちゃんと聞こえてくる。行き交う車もごくまばらだ。
彼はいつものように彼女の家の前に車を停めた。
「先生、怒ってる? 遅くなったから?」
こちらの機嫌をうかがうように、彼女はよく見る癖の、くりんと瞳をすくい上げるような見つめ方をする。みーくんの好きな彼女の仕草の一つで、とても可愛いと思っている。
それが今夜はちょっとばかり憎たらしい。ミニスカートなのも、この日は何だか不快だった。
(さっきの高橋のことは、なしか?)
みーくんは、エンジンを一応切った。
「男と一緒だったの?」
彼の声は仕事柄話し過ぎてか、ときにややかすれて聞こえた。それを風邪とでも思うのか、彼女は彼の頬に手を当てた。熱を見ているのだろう。
「誕生日が近い人が、笙子の他にいたの。だから一緒に」
「誕生会」をした訳だ。
篤子ちゃんの中では、男の子と飲んでいたことは大した問題ではないのだろうか。
きょとんとこちらを見る、まるで小動物のような愛くるしい様子やその顔を見やれば、やはり厳しいことも言えない。
彼女には嘘をついた意識がないようだった。ただ、言葉が足りなかっただけで。
「お兄さん」の件も、彼女ではなく鞠菜ちゃんが誰が迎えに来るのかをしつこく訊かれて、困ってほろりと口にしてしまったという。
みーくんは声を抑え、なるべく男と一緒に飲んだりしないでほしいと、言う。
「僕のいないところでね」
篤子ちゃんは、素直にこくんと頷く。「なるべく」とみーくんが付した譲歩が効いたのかもしれない。
(本当にわかってるのかな、この子)
みーくんは、首を傾げざるをえない。
「ねえ、もし僕が、篤子ちゃんと同じことをしたらどう思う? 女の子と遊んでたら」
彼女はぱちりと瞳を瞬き、「構わない」と言うから、みーくんは驚いた。彼に「いやらしいそういう目的」がないのなら、二人きりでさえなければ、遊んでも気にならないというのだ。
「え」
これにはみーくんが返事に困った。どこか凛とさえ感じさせた、彼女のそのひどく冷静な口調に、二の句が継げないのだ。まったく、こういった返事を期待していなかった。
(参ったな)
言葉を選んでいるうち、篤子ちゃんが先に話をつないだ。「先生、そんな気持ちがあるの?」
「え」
彼女はまるで拗ねたかのように、ちろっと視線を彼に流した。
「大人っぽい人がよくなったんでしょう? わたしが子供っぽいから、浮気したくなったんでしょう?」
「篤子ちゃん」
「だから、そんなこと言い出すんでしょう?」
対象のないはっきりとしたやきもちで、そんなことをそんな可愛くふくれた顔で言われれば、今日のくたびれ切ったみーくんの心に、強烈な強壮剤と栄養剤を連続投与したようなものだ。
嬉しくて、そんなことを口にする彼女が可愛くて、しょうがなくなってしまう。
「そんなことないよ。ただのたとえ話。大丈夫、絶対浮気なんてしないから」
「本当?」
「本当。篤子ちゃんだけだよ」
結局怒りも、不快だった思いも、彼の気持ちからうやむやになり形をなくし、どこかに消えてしまった。
彼が絶対に浮気の可能性を否定したおかげで安心したのか、彼女は笑顔になった。それがまた何ともみーくんの目にはまぶしくて、美馬くんから聞いた話が頭にありながらも、口にするのは憚られたのだ。
第一問い詰めれば、美馬くんが告げ口をしたような印象を篤子ちゃんは持つかもしれない。
おそらく、今日と似たような遊びに出かけるところを、偶然美馬くんが見かけたというところだろうか……。
みーくんの感情も、そんなところに曖昧に落ち着くのだ。
これまでの夜のように次に会う約束を交わして、眠る前にメールを送る約束もして、それから少しだけ長くキスをした。



          

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