ねえ、女王様。私はあなたが嫌いなの。
Impressions 12
 
 
 
それは本当にいきなりの電話で、篤子ちゃんはどう返事をしてよいものか、すぐには判断がつかなかったのだ。
キャンパス内のカフェテリアで、空いた時間同じく空いた友人とお茶を飲みながら他の友人を待っているとき、電話が不意に鳴った。
着信はよく知る名を示した。彼女の以前つき合っていた彼だ。
すぐそばの友人、笙子に電話の表示を見せると、「あ」と言って驚いている。
「今頃、何の用だろう?」
「さあ…」
出ようかどうしようか、ちょっとためらい、その間も切れずに続くコールに、思わず電話を耳に当ててしまった。
途端に、耳に懐かしい声が流れてきた。音というのは不思議で、それがメロディでも、声であっても瞬時にそれによくなじんでいた頃を頭に甦らせる。
電話の主旨は、彼が篤子ちゃんに「もう一度会いたい」というものだった。『…会って話がしたい。ほんのちょっとでいいから…』
嫌いで別れた訳でもない。よりを戻す気もないけれど、どこか声の落ちたトーンに、断り辛くさせる何かを感じた。
(どうしよう…)
電話では少し話し辛いことらしく、篤子ちゃんはためらった挙句、迷った末、頷いてしまった。
別れてもう半年ほどにもなる。その間連絡もなかった。その彼が今更、何の話だというのか。それが気になった。
軽い気持ちで、少し面倒には思いつつも、学校帰りに待ち合わせの約束をした。
待ち合わせの大型書店の前で、篤子ちゃんはその彼を待つ間、店から出てきたちょっと怪しい雰囲気の男性にあれこれ話しかけられて迷惑をしていた。
そこに、みーくんの教え子であった知り合いの美馬くんが、偶然通り合わせた。彼の登場に男は去っていったが、篤子ちゃんはそこで、美馬くんの「誰か待ってるの?」の問いに、とっさに「うん」と答えていた。「先生と会うの」と返した。不意の意味ありげな電話に、待ち合わせに、怪しい男に、いろいろ続き、きっと慌てていたのだろう。
実際胸がどきどきし、篤子ちゃんは胸を押さえた。
美馬くんは彼女が口にする「先生」なら、彼氏であるみーくんをすぐ思い浮かべる。そのときもすぐにそれと納得し、「じゃあ、気をつけてね」とその場を離れた。
篤子ちゃんが待ち合わせていたのは、もちろんみーくんではない。でも、彼女は嘘もついていない。
「ごめん、待った?」
彼女のもとへ走ってきた二十代半ば頃の男性に、篤子ちゃんはううん、と軽く首を振った。
この彼も、「先生」なのだ。篤子ちゃんの高校時代から去年の春頃までつき合っていた彼は、その高校の教師だった。
 
「健二くん」と、彼女は元の彼をそう呼んでいた。つき合いのきっかけは、みーくん以外は興味がないささいなことで、ともかくひっそりと二年ほど続いた。
そして、みーくん以外にはどうでもいいことだけれども、彼女が初めて身体を許した人でもある。
待ち合わせた書店から少し歩いて、チェーン店のカフェに入った。奥まった席に向かい合って座り、落ち着くと、彼は言い辛そうに、復縁をもちかけた。
何となく予想はしていた話の流れではあった。しかし、篤子ちゃんは彼の口にするその復縁の理由には、まったく驚かされた。
「母親が、血圧の病気で倒れて、もう寝ついて長いんだ。快復の見込みはあるんだけど、気長にリハビリを続けなくちゃならない」
だから、恋人関係に彼女を戻し、その世話を頼みたいというのだ。週の内何日でも都合のいい日でいいから、手伝いにきてくれるとありがたいとつなぐ。
彼の家は造り酒屋をしていて、その家に篤子ちゃんはたびたびお邪魔した。具合を悪くしているという健二くんの母親も、よく知る。ご飯をいただいたこともある。
彼の話の勝手な展開に驚きはしたが、その母親の人となりを知る篤子ちゃんに、怒りはわいてこなかった。きっと大変なのだろう、と想像もつく。「お気の毒に」と顔をしかめて同情した。
「おふくろ、篤子のこと気に入ってたから、いまだに俺に何で別れたのか、くどくど言うんだ」
ちょっと見ハンサムな彼は、「俺も、やっぱり忘れられないし…」と付け加えた。
篤子ちゃんは、それらの言葉に、ちらりとも自分が嬉しく感じていないことを意識しつつ、
(やっぱり先生の方が、素敵)
などと今の自分を、きちんと納得している。
きっぱりと、彼女はその場で断りを口にした。今は別のつき合っている人がいることも話した。
「健二くんのお母さんは、とってもお気の毒だけど、もうわたしの出る幕じゃないと思うの」
その店で彼とはそのまま別れた。
それだけの話。
けれども、しばらく篤子ちゃんは、彼の母親を思い出し、気持ちが暗くなった。簡単に申し出を断った自分が、冷たいのではないかと落ち込みもする。手伝いだけなら、何かできたのではないか、とも悔やんだ。
けれど、間違ってはいないと思う。自分の判断は正しいとも思う。
それでも、「ごめんなさい」を口にしたときの健二くんの落胆した表情が、自分を酷薄な人間に思わせて、彼女は少し後味の悪い思いを引きずった。
それは、最近ずっと心に消えない、居心地の悪くなるような、生理の予兆や薄ら寒さにも似たとても妙な感覚と一瞬混じり、ちょっと震えるほど嫌な感覚になった。
それで彼女は泣きたくなったのだ。
 
 
その晩のデートで、みーくんに何が食べたいかを訊かれ、篤子ちゃんは、また「お好み焼きが食べたい」と答えた。
みーくんはあんまりその気分ではなかったけれど、彼女が食べたいというのなら、それもちっとも気にならないようだった。
しょっちゅうお好み焼きを食べに来ているので、篤子ちゃんの焼き方もなかなか上手くなってきている。
実は、彼女にはお好み焼きを自分でおいしく作りたい、という目論見があって、味を覚えるためにこう頻繁にきている。それが叶ったら、彼や友達にもごちそうしたいと思っているのだ。
最近、面白くないことがあったためか、篤子ちゃんは、今夜ちょっとだけ彼に甘えたい気分になっていた。彼が優しくなかったことなどないが、今日は特に、いつもよりちょっとだけ増しで優しくしてほしかった。
正直言うと、後で二人きりになったら、
(ぎゅっと、抱きしめてほしい)
と思っていたのだ。
「ねえ、先生」
そんな甘い気分で、彼女は焼き上がったお好み焼きの上に、マヨネーズの細い絞り口で「好き」と書いた。遊びであったけれど、それを見た彼の反応が知りたかったのだ。
「ん?」
みーくんはちょうどあらぬ方へ余所見をしていて、篤子ちゃんが書いたマヨネーズの字を、切り分けるのを頼まれたのだと思い、不用意にへらで、ばすっとぶった切った。
「あ」
「好き」の文字は、それでもう判読不明なほど崩れてしまう。
わざとではないだろうし、大したことではないけれど、軽く拗ねた気分になって、彼をちょっと睨んだ。
けれども、まだ彼は別の方を見ていて、篤子ちゃんの瞳の様子には気づいてくれなかった。
(何を気にしてたんだろう?)
彼の視線の先を追うと、ちょうどそこは彼女の背後の衝立が、遮ってしまっている。目を戻すと、みーくんの視線は自分に注がれていて、篤子ちゃんは、きっと知り合いでもいたのだろう、などと軽い疑問をそれでお終いにした。
みーくんは、春の新年度まで今は比較的仕事にゆとりのある時期で、普段より時間も早かった。少しドライブでもしようか、などと話していると、二人の掛けた席に、ふらっと人がやって来た。
若い女性で、セミロングの髪が顔まわりを華やかに見せている。きれいな人だった。若いといっても、篤子ちゃんよりはずっと年上なのは、すぐと知れる。ファッションであるとか、ちょっと落ち着いた色っぽさであるとか。
そして、篤子ちゃんは女性のやや深くくったVネックの胸元に目がいった。「あ」となる。
(おっぱい、おっきい)
その彼女は「みーくん」と、篤子ちゃんのみーくんに気軽に声をかけたのだ。
「ああ、久し振り」
どうやら彼が先ほどちらりと視線を向けたのは、この女性のようだ。篤子ちゃんは箸をとめ、ナプキンを唇に置いた。
(どんな関係なんだろう)
二人は簡単な近況を交わし、その匂いで、何とはなしに、篤子ちゃんにも二人がかつて、そう遠くない過去、つき合っていたのだろうと、想像がついた。
「じゃあ」と女性が去り際、篤子ちゃんにずきんとすることを明るく口にした。
「すごい若い子と一緒にいるから、びっくりしちゃった。ねえ、教え子の進路相談?」
「まさか、違うよ。彼女」
女性の声を、みーくんはあっさり苦笑で流した。彼の言葉に、「ふうん」と女性の視線が露わに篤子ちゃんに注ぐ。
値踏みするような、ちょっと嫌な視線だった。
とっさに篤子ちゃんはくりんと、いつもの瞳を返した。けれどもその先に、立ってこちらを見る女性の、豊かな胸があり、篤子ちゃんの視線はすぐに下がった。
彼女には幾つかコンプレックスがあるが、その最たるものは自身の小ぶりなバストサイズだと言っていい。
(あんな大人っぽくて、おっきなおっぱいの人と、先生、エッチなことしてたんだ)
彼に甘えたい気持ちは、風船がしぼむに似て、しゅるりと小さくなってしまった。早く帰りたくなった。早く帰って、録画したロマンス映画でも観ていたかった。
車に戻ると、「どこ行こうか?」と明るく訊く彼に、「もう帰りたい」とぽつりと返した篤子ちゃんに、みーくんは驚いて、
「どうしたの? 具合悪いの?」
「ううん」
彼女はうつむいた。落ちた視線の先に、さっきの女性と似たVネックの自分の胸元があり、そのレースがあしらわれたささやかで可愛いらしい部分を両手で押さえた。
いかにも寂しく感じて、急に惨めになったのだ。
 
 
さすがに彼も、彼女のいきなりの不機嫌が、先ほど不意に現われた元彼女の存在が理由であろうと想像できる。
それは嬉しい想像で、きゅっと胸が痛むくらいに、妬いて拗ねている篤子ちゃんを可愛いと思った。力に任せて彼女をぎゅっと抱きしめたくなるのだ。
案の定、篤子ちゃんはくりんと瞳を彼に流し、拗ねた口調で訊く。
「先生、あの人とつき合ってたの?」
「うん、二年近く前だけど」
そこで彼女は、指の煙草の火をつけようと唇にくわえたみーくんが、ぷっとそれふき出すようなことを口にした。
「おっきな桃みたいな、おっぱいだった」
「本当にそう?」と続く、その返事に困る問いに、みーくんはもう苦笑するしかない。膝に落ちた煙草を拾うことすらせず、彼女を抱き寄せた。
抱きしめると、一瞬抗う気配を見せるものの、彼女はすぐに自分の腕の中になじむようにちんとおとなしくなる。
あまり言葉にこそしないが、こんなときみーくんは、
(なんて可愛いんだろう、この子)
とうっとりとしている。
「どうでもいいよ、そんなこと」
「…だって、先生が……」
そこで言葉を途切れさせた彼女に、「僕が、何?」と促す。しばらくして返ってきた声に、やはりみーくんは笑みしか出ない。
「だって、先生、またおっきなおっぱいの人に目が眩むかもしれないでしょう?」
まるで彼が巨乳好きであると決めつけたせりふである。
みーくんはしばらく彼女の疑念を解くのに、ちょっとばかり苦心した。あれこれ言葉を費やし、今度彼女のほしがっていたゲームソフトを買ってあげることをなぜか約束し、ホワイトデー近くにはどこか彼女の行きたい所へ遠出することも付け足し、ようやく彼女にいつもの笑顔が戻った。
とにかくみーくんは、彼女の機嫌が悪いと、気になってちょっと落ち着かないのだ。その不機嫌が自分に遠因するとなれば尚更だ。
ようやく機嫌が直った彼女は、「帰りたい」との前言を翻し、ある心霊スポットに行きたいと言い出した。
そこは、みーくんがまだ学生の頃にも耳にしたことがある地元では有名な場所で、飲んだ後のグループや、カップルが金のかからない肝試しに出かける場所だ。山あいにある持ち主も不明な古い山荘だった。
「いいよ」
易く請合い、みーくんは車を走らせた。彼女は車内で彼が煙草を吸うのをちっとも嫌がらない。けれどもあまり煙くしては可哀そうだと、みーくんの喫煙は、いつものは五割減だ。それに少し自分側の窓も開けておく。
煙をそちらへ逃がしながら、みーくんはどんどん郊外へ向かう中、興奮するのか「わ」とか「あ」とか言いながら窓辺にぺたりと張り付いて外を眺める彼女に、気になっていたことを問おうか、止めようか、迷っていた。
それは、以前彼の教え子であった美馬くんから聞いた篤子ちゃんが待ち合わせていた誰かの件だ。彼女はその相手を、美馬くんに「先生と」と答えている。
一旦は胸から消した事柄であったけれど、頭から忘れ難いのだ。一人で待つなど、皆で遊びに出かけるいつもの様子とは異なるし、誰か本当に、待ち合わせた相手があったのではないか。
そして浅はかな嘘ではあったけれど、それは美馬くんを偽らなければならない相手ではなかったのか。更にそうまでするのは、きっと男だろう、と。
徐々にそんな風にみーくんの考えは、「誰か」という対象へ、問題が絞れてきていたのだ。
軽い咳払いをした後で、みーくんは煙草を灰皿へ押しつぶした。
目当ての山荘まで、照明が落ちて暗い細くなった山道をあと少し。まばらな民家を縫うように車を進めながら、みーくんはこのところの疑問を、篤子ちゃんに投げてみた。
「この間の火曜日、篤子ちゃんが誰かと待ち合わせているのを、見たって人がいてね、…あの彼、誰?」
端折った問いかけだった。
それに篤子ちゃんは窓から離れ、顔を彼へ向けた。「ああ、美馬さん見てたの?」
すぐに問題の事柄に思い至るようだ。
「うん…。美馬くんが、篤子ちゃんが僕と待ち合わせているって言ったから、そのまま、そのつもりで何かのついでに僕に話しただけなんだ」
「ねえ、誰なの、その男?」と問いを重ねようとした彼と、彼女の声がぶつかった。
「先生のつもりで美馬さんに言ったんじゃないの。でも嘘じゃないの、つい…」
「ねえ、誰、その男?」
みーくんはもう一度、彼女がこぼしてしまった問いをつなぐ。「先生」は嘘じゃなくて、でも「先生」のつもりでもない。
意味がわからない返しに、みーくんはちょっとだけ苛立った。ちょうど大きく取った路肩がカーブを前にあり、話が複雑になりそうで彼はそこへ車を停めた。こんな問題は、早くはっきりさせてしまいたかった。
「前につき合っていた彼氏で、その人、…先生だったのわたしの高校の」
「は?」
みーくんはハンドルから手を離し、隣りの彼女へ向き直った。正直、かなり驚いていた。
(高校の先生が、元彼?)
彼女の話しでは、教え子にその男は手を出したことになる。みーくんは、
(どんな教師だ)
と面白くない。彼にも篤子ちゃんと同じ高校に通った妹がいるが、その妹に仮に恋愛関係であれ、現職の教師が手を出したと知れば、自分は黙っていなかったのではないかと思う。
その憤りの影で、もし篤子ちゃんが彼の予備校に通う教え子であり、更に教壇の自分へ週に幾度も視線を向けるという状況にあったら、どうだっただろうと、と甚だ自分のモラルへの自信が揺らぐ。
だから、その件については言及しなかった。
二年ほどつき合って、去年の春頃別れたその彼が、急に連絡をよこしてきたという。
「それで、会ったの。ほんの少しで済むって言うから、困ってたみたいだし」
実際すぐに別れたと言う。男の持ちかけた話が、おそらく篤子ちゃんとの復縁であろうと予想はつくが、一応訊いてみる。
「何て? 彼」
「ごめんなさい」
彼女は真っ直ぐにみーくんを見つめ、ぱちりと瞳を瞬いた。
「それ、先生に言わなくちゃいけない? あの人の個人的なことだから…」
「ああ…」
篤子ちゃんの答えに、みーくんは言葉を失った。その正し過ぎる、だからこそ突き放した感が拭えない冷たくもある言葉に、何を言うべきか、いっとき言葉が探せない。
(篤子ちゃんは、ときどき恐ろしく冷静で、大人っぽくなるよな)
舌を巻く思いで、彼はとにかくしばし黙った。
その沈黙を彼女はどうとったのか、彼の表情をうかがうように、
「健二くんとは、何にもなかったから、わたし。もう関係ないし…。ねえ、先生?」
「そう…」
そうはっきり言われれば、それ以上無闇に妬いて、その疑念で彼女を詰問するのもためらわれた。
みーくんは頷いて応えたのを潮に、その問題はもう葬るしかないと悟った。
篤子ちゃんの意外過ぎる過去と、いきなり見せた彼女の驚くべき冷静さとが、彼にいきなり津波のように瞬時に押し寄せた。それは目の前でぱんと大きく手を打つような驚きであり、彼はそれにまったくあっさり虚をつかれ、幾分、どこか投げやりにもなった。
これまでのこだわりを思えば、簡単に問題を引っ込めたのだ。
(もう何でもいい)
ちょっとだけ捨て鉢に思うのは、彼女が「先生」と親しんだその特別の対象が、自分以前にあったこと、それが思いの他、きつく彼の気持ちをえぐったからだ。
ほどなく彼は促され、車を出した。すぐに目的の山荘付近に着く。荒れた空き地には、他に一台のテールランプを灯した車が見えた。夜が更けるともっと車数は増える。
駐車し、エンジンを切った彼に篤子ちゃんは不意に抱きついてきた。ふわりと彼女の柔らかな小さい身体が、密接に自分に寄り添う。髪からか、首筋からか、甘い優しい香りがする。
彼が恋して、夢中で、愛おしく思い、大事にするすべてだ。
「怖い、先生。ねえ、ひっついていて」
「いいよ」
暗い闇の小さな二人の密室で、みーくんの声は、やはり幾らかのため息に混じる。
彼女を抱いて、華やいだ気分であるのに、頭のどこかが、ざらりと気味悪く疲労している。



          

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