愛してはいけないひとでした
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夕食後のリビング、食事の後片付けを終えた篤子ちゃんは、父がテーブルに広げたパンフレットを前に、ぱちぱちと目を瞬いた。
それはキッチンとやバスルームなど水まわりのリフォームのパンフレットで、父はそれを彼女の前に差し出し、「どれがいいと思う?」と訊くのだ。
それだけで、篤子ちゃんには話の流れが読める。以前、ちらっと聞きもした。父が再婚の際、家のリフォームを考えていることを。それで、のパンフレットなのだろう。
三年前に、キッチンに不具合があり、その際システムキッチンを入れた。ごくシンプルなもので、篤子ちゃんはそれを大事に使いきれいに保ってきた。
けれども、せっかく寝室やバスルームなどを直すのなら、ついでにもっとキッチン部分を充実させるのもいいと、父は考えたのだろう。篤子ちゃんも喜ぶだろうと。
(長瀬さんの意見もあるかな)
おかしなことではない。彼女には、そんなことを口にする権利はきっとある。そんな風に、自然に思う。
数度会った、父の優しい再婚予定の相手を頭に思いながら、篤子ちゃんは適当にテーブルのパンフレットをめくった。
「あ、これきれい」
など他愛もなくはしゃぎ、ざっと簡単にページを繰ると、
「お父さん、…わたしより、長瀬さんと相談した方がいいと思う。好みだってあるだろうし」
「それでいいのか? 何か注文とか…」
娘がわかりがいいのは毎度のことだが、料理上手な彼女のキッチンへの希望やわがままを期待していた父には、ちょっと拍子抜けもするのだろうか。
「別に構わない。あの人、そういう生活のセンスのいい人そうだもの」
「あ、お風呂はスチームサウナの付いたのがいいな」と笑顔で付け加え、立ち上がった。お風呂に入ろうと思ったのだ。
あれこれ決め事や相談などあって、リフォームを業者に依頼するのはまだ先のことだ。実際の工事などは、夏頃にもなるのではないか。
風呂場の蒸気で湿った脱衣場で、ぽいぽい服を脱ぐ篤子ちゃんの背中を、寒さの悪寒が走った。
(お風呂にはヒーターもほしい)
そう思いつつも、すべてではないが、新しくなる家を彼女はどうしても頭に描けなかった。そして、自分に母ができることも。
ちょっとおかしなほど現実感がない。理解はしている。納得もできている。
けれども、あの長瀬さんの隣りに立ち、真新しいキッチンで、たとえば唐揚げを揚げるといった、当たり前の日常が彼女には想像できないのだ。
タイル張りの湯船に身を浸し、温かな湯の中で肢体を寛がせる。そのうち、冷えた身体も、ほてるほどに温まってくる。
(嫌ではない)
気持ちのいい女性だったし、父に相応しく身の丈の合った取り合わせでもあると思う。
(不満もない)
今でこそ、父の営む設計事務所は順調な経営を続けているが、まだ篤子ちゃんが子供の頃、数年ほどひどく経営が思わしくない時期があった。
帰宅した父は、それを敢えて娘には明かさない。明かさないけれど、顔色の冴えないこと、寡黙になりがちな父を見て、何か外で父が自分の知らない問題を抱えていることなど、知れる。
二人きりの家族で、懸命に仕事をして自分を育ててくれる父に、彼女は幼いながらも胸にためた、何がしてあげられるか、どうしたら父が喜んでくれるか、どうしたら明るい父になってくれるのか…、そんなことを、やはり娘も言葉にはしない。
代わりに小さな全身を頭脳のようにして、篤子ちゃんには考え続けた幾年かがあった。
それがおいしいものを料理し、食べてもらうことであり、居心地のいい空間を家に作っておくことだったりした。
自分の手にまかなえる範囲のことで、父に笑顔になってもらえることを、彼女は自分なりに工夫し工夫し、毎日を重ね、過ごしてきたのだ。
その後、幸い父の仕事は難儀な時期を脱し、篤子ちゃんが望む父の寛いだ笑顔が見られるようになった。それに、彼女は自分のささやかな行いへ、ほのかな自信を得もしたのだ。
それが今の篤子ちゃんの基礎を成す部分にもなり、考えを大きく影響させるものになっている。
(今だから、なのかな)
最近になって篤子ちゃんは気づいたのだが、彼女が子供の頃には、父には再婚をする精神的なゆとりも物質的なゆとりもなかったのだろう、と。
仕事も堅調を続け、そして篤子ちゃんも大人といえる歳になった。ようやく父に、自身の幸せや今後を考える心の「あそび」ができたのかもしれない。
そう思うからこそ、反対などできない。そして、反対してはいけないとも思う。そもそもそんな理由などもない。
だから、家族の大きな変化に、微かな違和感を拭えずに、どこかで抱き続ける自分を、篤子ちゃんはわがままだと思った。
(わたし、嫌だ)
ちょっとしたもやもやした気分は、軽い苛立ちに似て、楽しい気分転換がほしくなるのだ。それで紛らせるはずだと、思った。
お風呂上り、昨日もらった、返事を保留にしていた友達との明日の夜遊びの予定に、つい篤子ちゃんは「行く」とメールを返してしまう。
みーくんとの「男の子と飲まない」と交わした約束が、頭になかったとはいえない。
けれども、あれには「なるべく」と彼側の譲歩が付いていたはずで、やましい気持ちなどのまったくない彼女には、この際、その約束を反故にしてしまうことを、それほど重く捉えなかった。
(先生には、内緒にしておこう)
翌朝、父に出かけることを告げ、その際「また?」とちょっと眉をひそめそうになったところを、すかさず、
「先生と会うの」
とつないでおく。
みーくんに信を置いている父は、どうせ遊びに出かけるのなら、安心できる彼と一緒にいてほしいと考えている。篤子ちゃんもそのことを承知で、父の信頼を逆手に取った偽りだった。
相変わらず、篤子ちゃんに罪悪感は乏しい。それでもほんのりあるものは、父へついた嘘と、その嘘に父があっさり騙される様子を見た、自分の心の痛みだった。
 
 
その晩、みーくんは仕事明けのミーティングを兼ねた食事会に出かけていた。
食事会と言っても、場所は予備校近くの美馬くんのバイトするいつものフードバー(ちなみに店の名を『ルル』という)であるし、ミーティングと言っても、話し合うべき事案も特になく、適当なことばかり喋っている。
同僚の彼女なども参加し、既にもうミーティングの形すら成していない。
「僕の友達のSくんの話なんですけど、正式にはS一朗くんなんですが。職業? 医者です。前に、その彼がのろけて彼女の写真をメールしてくれたんです。いや、もう別れちゃったんです、その彼女とは、はい…」
テレビのモザイクのかかったインタビューを意識して、本城さんが妙な声音で、最近のねたを披露している。
みーくんはその「友達のSくん」が、友人の柏木さんのことだと知っているから、苦笑しながら隣りの本城さんの足をちょっと蹴った。
本城さんはそ知らぬ風で、話を続ける。
「びっくりしたんですよ。何かの拍子に、ふっとそのメールをもう一度見ることがあって、そしたら、もう驚くじゃないですか…、いや…」
きわどいところで間を置くから、女の子も「何、何があったの?」と引き込まれているよう。
みーくんはその話をちょっと前に本城さんから聞き、実際にそのメールに添付された画像を見て、ぎょっとしたのを覚えている。けれども、どうせ何か電子的な不具合だろうと思い、流してしまっていた。
「その元カノの顔だけ、…顔だけ消えてたんですよ。いやあ、びっくりしましたよ」
最後はもうモザイクのインタビューではなく、稲川淳二を意識していた。その落としに、「きゃあ」と声が上がる。柏木さんと親しい仲間も「え、マジで? それ本当に聡にあったこと?」などと食いつきがいいから、本城さんも嬉しそうだ。
「これもまた、新たな都市伝説として広まっていくんですかね〜」
「お前が広めてるんだろ」
そんなとき、みーくんの電話が鳴った。見ると相手は篤子ちゃんの父親だ。以前、何かあったときにと、番号を訊かれ、伝えてあった。
しかし、実際に電話があったのは今が初めてで、その意外さに、どきりとなる。「篤子ちゃんに何かあったのか?」と、一瞬嫌な予感が頭を過ぎった。
みーくんは座を外し、店の出口近くでその電話に出た。
篤子ちゃんの父親が、『篤子の電話につながらないから』、彼の方へかけたと言った。『「先生と会う」、と言って出かけた』からと。
(え?)
『みーくん、篤子を出してくれないか? あいつの電話、なかなかつながらないから』
「あの…、お父さん…」
『今、一緒にいるんだろう?』
みーくんは篤子ちゃんのついた嘘に、何と対処してよいか、ちょっとだけ迷った。けれどそれは瞬くほどの間でしかなく、すぐにいつもの落ち着いた声で、
「篤子ちゃん、今友達と電話してて…。僕から、お父さんの電話があったことを伝えます」
『ああ、何だそうか、困った奴だな』
明らかに安心した声音になる。
何か、他に伝えることがないかを問うと、『ナガセさんが盲腸で入院することになった』と伝えてほしいという。
「はい、わかりました」
通話を終え、みーくんは店の外に出た。
冷たい夜風が吹く中、シャツのままだったが気にならなかった。彼は元々寒い方が好きな性質だ。それで頭も冴えるように思え、そして煙草が旨くなる気がするのだ。
彼はすぐに、携帯のメモリーから篤子ちゃんの番号を拾ってかけた。こちらは、ほどなく電話はつながった。
人声が混じるざわざわとした騒がしい音が、受話器からする。
「ねえ、どこにいるの?」
篤子ちゃんは、
『なあに、先生?』
誠にとぼけた返事をよこした。酔っているのか、はぐらかしているのか、電話の様子ではうかがい知れない。
また、がやがやと声が背後からする。それに「ねえ、篤子ちゃん」と彼女の名を呼ぶ男の声が混じるから、みーくんはちっと、普段出ることのない舌打ちが出るほど気分が削がれた。
今夜、彼女がいつか彼とした約束をすっかりどこかに忘れ、遊びに出かけているのことが、嫌でも知れた。
(この子は、まったく…)
その不快さを何とかしまい、彼は変わらぬ声音で、
「お父さんから、僕に電話があったよ。篤子ちゃんに伝えてほしいって、言われてる」
その内容を告げると、彼女はしんと沈黙し、『わかった』と返す。
「僕と一緒にいるって、言ったの? お父さんに」
それに彼女は「うう」だか「ああ」だか、返事にならない声をもらした。今頃自分のついた嘘の稚拙さに気づき、慌てているのか。
それとも、父親の言う誰かの入院に戸惑っているのかもしれない。
彼はもう一度、「どこにいるの?」の問いを重ねた。とうに十時は過ぎている。
これから迎えに行くつもりだった。送り届けてやらないと、彼女は父親についた嘘の辻褄が合わない。みーくんはそこまでくんでやる。
『もう、帰るところだったの、遅いから…』
篤子ちゃんは、それにぼそぼそと場所を答え、『ごめんなさい』と最後に小さく告げた。あまり夜更かしもしない、毎日の生活習慣を乱したがらない彼女らしいせりふで、それは本音に聞こえた。
それにちょっとだけみーくんは気を和らげ、「すぐに行くから、待ってて」と、電話を切った。
店に戻ると、中座することを断った。水瓶座の本城さんは文句を言う。
「おい、みーくん、何だよ、僕のミーティングを兼ねたバースデイ・パーティーに」
「いつ本城の誕生会になったんだ? 何、みーくん、篤子ちゃんがどうかした?」
みーくんはコートと上着を腕にかけ、問いかけた同僚に、「…まあ、そう」と答えた。
「篤子ちゃんは、手がかかるのう」
本城さんがふざけてそう揶揄るのに、いつもならちょっと頭にかちんと来るものの、今夜はそれがない。
彼自身、本気でそう思うからだ。
 
約束した場所に、篤子ちゃんはぽつんと一人で待っていた。私大の近くの住宅街で、彼女には待つ間、危ないからコンビニにでも入っていて、と言ってあった。
彼が着いたことを電話した後、ひょこひょこ店から出てきたらしい。聞けば、他の友達は皆帰ったという。
車に乗るように促すと、ふわりと彼女から、吸わないはずの煙草の香がにおった。そんなことも、みーくんには腹立たしい。
「お父さんに、電話した? 心配してたみたいだよ」
「うん、した」
みーくんは、彼女の父親が口にした「ナガセさん」という人物が、篤子ちゃんにどれだけ影響するのかなど、わからない。きっと親しい知人なのだろうと、想像できるくらいだ。
自分の醸す抑えても硬い雰囲気が、自ずと彼女には伝わるようで、篤子ちゃんも普段ののんきな様子とは異なり、こちらをうかがうように、ちんとおとなしく助手席に座っている。
彼女の家に送る道すがら、借りてきた猫のような彼女をちらりとときに眺め、みーくんは努めて穏やかに切り出した。
「篤子ちゃん、前に約束したよね、僕のいないところで…」
そこで彼女の携帯が鳴った。瞬時、みーくんは彼女の父親からのものだと思ったが、それはメールを知らせるメロディで、短く切れ、続いて二度ほどそれはあった。
都度篤子ちゃんは、携帯の表示をちらりと確認している。友人なら、「先生、菫から」などと、彼に示したり、言葉にすることが多いのに、今一切それがないのは、見せたくない相手からなのだろう。
そんなことにも、彼は否応もなく苛立ってしまう。

(また、男か)
「覚えてる? 前にした約束」
苛立ちつつも、何とか紛らし、途切れた問いを繰り返すと、彼女は「うん」と可愛く頼りなく頷いた。こんなときにも彼の目に、ちょっと小憎たらしいほど、彼女はちんまりと実に愛らしい。

もし、この後の篤子ちゃんの言葉が、もっと彼の心に沿う優しいものだったら、展開は変わっただろう。
たとえば彼に甘えるなどし、素直に謝るのならば、みーくんはきっと折れ、今夜の件も以前と同様、許してしまったに違いない。それほどに、彼は彼女に甘いのだから。
「じゃあ、どうして?  嘘までついて」
それに篤子ちゃんは答えない。しばし、スカートの裾を伸ばしたり、髪をいじってみたり、何かを彼女なりに咀嚼しているのか反芻しているのか。
たっぷりと間を取った後、彼女が不意に出す、あの妙に冷静な声が、彼の耳に届いた。
 
「先生も、遊んだらいいのに、女の人と。わたし、構わないから」
 
(え?)
みーくんは絶句し、言葉の驚きに思わず、指示器も出さずにカーブを曲がってしまう。
「遊んでもいいから、女の人と。だったら、いいでしょう?」
その言葉に。その声に。
彼の中の何かが限界点を越えたのを感じた。胸の深い場所が、きりりと嫌な音で痛む。
それは、自分の気持ちのいつも、彼女へ向けて開けていた窓が、強い風にぴしゃりと閉じたのに似ている。

もう彼には、彼女がわからない。理解が及ばない。
(無理だ、もう)
みーくんは、少し車の速度を緩める。ちょっとの咳払いの後で、自分でも知らぬ間に堪えてきただろう本音に気づいた。だからか、それはひどく自然に発せられた。
 
「ごめん。篤子ちゃんに、もうつき合い切れない」
 
別れよう、とつなぐ。
彼女への何かが、気持ちの中で閉じたとき、彼の心に一瞬浮かんだそれは、本当はもっと乱暴な言葉であった。
けれどもいつもの彼の優しさで、よりずっと柔らかいものにするりと変えたのだ。
篤子ちゃんは驚いたのだろう、瞳を見開いて彼を見た。けれども、少しのそれらしい沈黙の後で、頷いた。
了解のしるしに、バックから彼の部屋のキーを出し、ダッシュボックスの上に返した。

始まりに比して、終わりはこんなにも、実にあっけない。



          

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