この泡が消えたとき、どうか、すべてを忘れて欲しい
Impressions 14
 
 
 
その夜、みーくんの車を降りてから、篤子ちゃんは目の前に靄がかかったようにぼんやりと覚束なかった。
玄関のポーチを通り、鍵を開け家に入る。逆向きに脱がれた父の靴を揃えて置き、自分の脱いだブーツはその隣りに立てて並べた。
見えてはいる。それが何なのかも理解はしている。これまでの癖や習慣で、機械的にいつも通りに振る舞えてはいる。
リビングで、風呂上りの寛いだ様子で父が、長瀬さんの急の入院について話した。不意の堪らない腹痛に、長瀬さんが父に知らせ、急遽父が彼女を病院に運んだのだという。
「そう、大変…」
明日にでも、病院に見舞いに行ってほしいと父は言う。それにも篤子ちゃんは、素直に頷いた。自然に、頭の明日の予定に組み込んだ。
素の自分に向き合ったのは、一人になってからだ。
洗面所で鏡に向かい、クレンジング剤を使う。くるくると肌に指を滑らせながら、普段なら鼻歌でも出そうなそんなのんびりとした時間、鏡の中の自分の顔が、みっともなく歪むのだ。溶け出した化粧が混じり、表情はみっともなくそのままくしゃりと崩れた。
(先生に、嫌われちゃった)
今さっき、みーくんから突きつけられた別れが、彼女の気持ちを台風のように揺さぶった。
クレンジング剤に化粧と、そして涙でぐちゃぐちゃな顔のまま、彼女はシャワーを浴びた。最初びっくりするほど冷たくて、じき適温に温まる。
涙はなかなか尽きなかった。
彼が自分を突き放した理由を、彼女はそのとき考えなかった。ただ、自分が悪いのだろう、と思う。
ずっと年上で、大人で、優しくて、頭のいい(ように篤子ちゃんには見える)みーくんが、「別れよう」と決めたのだ。きっと自分のせいだ、とごく当たり前に思った。
(先生には、悪いところがないもの)
自分の何かがきっと、彼の目に、気持ちに、つり合わなくなったのだろう。
篤子ちゃんはこれまでのつき合いで、彼女の言葉に何でも易く頷いてくれていた彼が、彼女を切り捨てるようなことはないだろうと、どこかで考えていた。
大人で優しい「先生」は、いつだって自分のそばにいてくれると。自分に向けてくれるあの優しさが、変わることなど、およそ考えもしなかった。
それは思い上がりというより、慣れに近いだろう。たとえば最初おっかなびっくり接していた珍しい種類の大型犬が、親しむうち、自分へ絶対に牙をむいたり吠えたり、噛み付いたりしないことを知り、徐々に耳を引っ張ったり、尻尾を引いたり、または背に乗ったりしたくなる気持ちに似ている。
篤子ちゃんには、ただ背伸びなく自由に、軽くじゃれているだけのつもりだった。それには多分に、彼の自分への愛情を踏まえた甘えも含まれる。
彼女の静かな嗚咽は、蒸気の散る風呂場にうっすら響いた。
どんなときも、彼は彼女に優しかった。ほんの少し眉をひそめたことはあった。一度ならずあった。二度ならずあった。
(でも、許してくれたのに…)
『ごめん。篤子ちゃんに、もうつき合い切れない』
彼の別れに選んだ言葉に、篤子ちゃんはちょっと息が詰まるほど驚いて驚いて、そして今は、息を詰めて、それが呼んだ次の失恋の傷みに耐えている。耐えようとしている。
自分がいけないのだと思う。自分のせいだと思う。
「ごめんなさい…」
もう自分は、あの人の隣りにいられないのだと、二人で過ごせないのだと思い知り、涙がとめどなくあふれた。
(先生に、嫌われちゃった…)
悲しさと切なさで、彼女は目の前が暗くなった。これからへ、何の考えも浮かばない。
ただ、湯にうだるまで、このまま泣いていたいと思った。
 
 
その日の昼休み、空き時間に合わせてみーくんには結構余裕があった。
「ちょっと出てくる」
同僚に言い置いて、彼は予備校を出た。コートを手の取るほど、寒さを感じなかった。
車に乗り、手近な銀行のATM機で、少しまとまった金額を下ろした。そのままほど近い駅の西口ターミナルに向かう。
目当ての人物は、手持ち無沙汰に軽いコートのポケットに手を突っ込み、ぶらぶらとその辺りを歩いていた。みーくんは近くに車を寄せると、短くクラクションを鳴らした。
すぐに気づいたのか、駆け寄ってくる。それは手足の長いすらりとした女性で、肩を覆う黒髪のロングヘアが、風にふわっとなびいて揺れた。当たり前のように助手席にするりと乗り込んできた妹の姿に、みーくんは少し痩せたか、と感じた。
「お兄さん、ごめんね」
そう言いつつ、悪びれもせず彼女は、「おなかが空いた」とランチをリクエストする。この後予定のあるらしい妹は、「適当でいい」と、そばのファミリーレストランを示した。
空いた席の目立つチェーン店の店で向かい合うと、みーくんは妹の賀織(かおり)に、ポケットに突っ込んであった銀行の名の入った封筒を差し出した。三十万ある。
「ありがとう」
彼女は中を検めもせず、それをバックにしまった。
今朝早い時間に、彼女から二十万円の無心をされた。「新しく部屋を借りたいの」と言う彼女に、兄はそれ以上何も訊かず、十万を余分に足し渡してやった。
この妹は、小早川の家を家出同然に飛び出して、もう四年になる。初めそれは家庭のある恋人との駆け落ちで、みーくんは母親に泣きつかれ、自身も慌てて捜し回った記憶がある。興信所にも捜索を頼み、その足取りがついたときは飛んで行った。
二人が隠れ住んでいた部屋には、先着して男の妻がおり、その父親なる人物も同席していて、ちょっとした修羅場だった。あの場面はちょっと彼に忘れがたい。
その後も彼女は家に戻るを良しとせず、またいなくなった。よくないのは、不意にいなくなることで、そのときも母親はちょっとどころではないヒステリーを起こしたが、好きに仕事をしつつ友人の許に身を寄せていること、たまに、家ではなく兄のみーくんへ連絡を寄越すことで、何とか収まっている。
みーくんにしろ、最初こそ心配もし、痩せる思いで捜し回った。
しかし、自発的であること、妹は成人もし、未熟であるかもしれないが大人であること、その彼女が自分の考えで自分なりの生き方を選ぶことへ、そうでない方へ強制させる権利は家族といえどもないことなどを、徐々に理解してやるに及んだ。
「母さんに、じゃなくていい。僕にたまには電話しろ、いいな?」。半年に一度程度、または今回のようなねだりごとがあるときは、彼へ連絡がある。その約束が守られている限り、みーくんは気ままな妹の勝手をのんでやっている。
妹はぱくぱくと旺盛な食欲を見せ、母に似た秀麗な面差しを微笑ませながら、ごく簡単に近況を語った。今の仕事のこと、一緒に住んでいる友人のことなどなど…。
「お兄さん、ママはどう? 相変わらず、きゃんきゃん吠えてる?」
「静かだよ」
みーくんは咀嚼しながら、この妹に対しては自分のそれとは異なり、母親もひどくあれこれ口うるさかったのを思い出した。次の女将として家業を否応なく背負うはずであった彼女へ、母親のそれなりの期待もあったのだろうか。
男の自分には感じ得ない感情もあったはずだと、みーくんは漠然と妹を思いやってもいる。
笑いながら、
「でも、たまに言うな。「何で、あんたが賀織を見張っとかなかったのよ」とか、酒が入ると青筋立てて。二十歳過ぎた妹を、何で僕が見張んなきゃならないんだ」
「大変ね、お兄さんも」
誠に他人事で、妹は軽く受ける。
食事の後で、みーくんはこれから学生時代の友人に会うという彼女を、その待ち合わせ場所まで送ってやった。
「これ彼女の趣味? 可愛い」
からかう口調で、妹は車のルームミラーにぶら下がった太ったクマのぬいぐるみを指で弾いた。
みーくんは一瞬それに目をやり、その滑稽なマスコットの姿に、篤子ちゃんを思い出した。彼女がくれたものだった。外すことに、思いが及ばなかった。思い出がわっと広がり、胸の奥がじんと疼くように深く痛んだ。
答えてやる気も起きず、代わりに携帯番号を変えてないかと、訊いた。これで二度目だった。
「お兄さん、何度訊くのよ。変えてないって」
妹と別れ、みーくんは予備校へ車を返した。その道すがら、ルームミラーにぶら下げたクマを、そこから外した。ダッシュボックスへ突っ込もうと思い、それを止め、上着のポケットに結局押し込んだ。
篤子ちゃんに別れを切り出して、これで一週間になろうか。彼女からは当たり前に何の連絡もない。
当初は、本当にやり切れなかった。仕事中は気が紛れるものの、手が空くともう駄目で、つまらないことばかり考えて過ごしているのだ。
彼女と寝なければよかったと悔やみ、もし深い仲に進んでいなければ、もっと忘れやすかったろうと悔やむ。けれど、身体の関係がなければ、そもそも自分はこれほど深みにもはまらなかった、とも思い直す。
そして、彼女の愛らしい仕草や肌やあれこれが甘く思い出され、みーくんの思考は、まったくぐるぐると取りとめもない。
誠につまらなく、繰言めいている。
(今もあんまり変わらないか…)
あの彼女と別れた夜。切り出した自分へ、篤子ちゃんは何の不満も反論も見せなかった。唯々諾々とは言い過ぎだけれども、易く、彼の言葉に従ったように見えた。
別れ際、彼女は「ありがとう」と言い、家まで送り届けた彼に、ぺこりと他人行儀に頭を下げた。
自分で口にした自分で決めた別れであるのに、彼女がそれに何の意見も告げなかったことが、彼にはこんな今になっても、胸に居心地悪く、納得がいかないのだ。
(何か言い返してくれたっていいのに)
たとえばそれは彼への文句であるとか、愚痴であるとか、喧嘩につながるようなものでもよかった。なのに、悄然とはしていた。寂しげでもあった。けれど、彼女からは何のリアクションも返ってこなかった。
(それほど、好かれてなかったってことかな)
もう無理だと、もう振り回してほしくないと、怒りを押し込めて、彼は別れを決めた。こんな恋愛関係に、この先、何の展開があるのかとも思った。少なくとも、自分の望む将来へは、つながらない。
その考えは、その後も揺らいではいないはずだ。
なのに、別れた今でさえ、彼の頭の中心はこんなにも篤子ちゃんに占められて核を成し、もう何の意味もなさないはずのそれらに関する細々な事柄が、くるくるとその核のまわりを取り巻き回っている。
くるくると、止まらない。
 
「セレブレーションだよ、それは。コングラッチュレーションで、サプライズ・シンクロニティーだ。祝うべきだよ」
仕事の終わり、本城さんは、ここのところどこか虚脱した感が否めない友人の背中に、そんなおめでたい言葉をぶつけ続けた。
篤子ちゃんとの別れを言っているのだ。元来が、本城さんは上手くいきっこない、と年の差のある彼女とみーくんがつき合うことをよしとしなかった。だから、「厄逃れを祝うべきだ」と。
彼なりの励ましや慰めの意味もあるのだろう。
予備校も、春休みを目がけた春期講習までは余裕があり、授業も少なく上がり時間も早い。一年の内、一番のんびりとできる時期だ。自然、休暇も取りやすく、少ないスタッフが毎日大概一人二人、今は欠けている。
「ベリーハッピー、ロスト・ラブを祝おう。恐るべき魔女っ子篤子ちゃんの呪縛から、僕らのみーくんがリリースさ…」
癖の椅子に片膝を立てテキストを繰るみーくんは、椅子を回転させ、ぺらぺら陽気に喋る本城さんに、その辺の消しゴムをぽんと投げた。
「お前のいんちきイングリッシュは、ときどき恐ろしくむかつくな。何が「魔女っ子」だ、馬鹿」
まわりの同僚も、くすくす笑う。「やれやれ、みーくん」と面白がってはやす。いつも冷静で穏やかなみーくんが、女の子と別れたことに、これほどダメージを受けているのが、つき合いの長い彼らには珍しい。珍しく気の毒がってはいたが、一週間も経てば、しょげたみーくんも、気の毒は気の毒なままでも、新鮮味がなくなる。
「なあ、みーくん」と本城さんは彼の肩を叩いた。
「みーくんには、損保会社勤務のOLが似合う気がする。とっても似合う気がする」
今週末に合コンの話があるという。
みーくんはデスクに向かい、落としたパソコンの上で肘枕し、欠伸混じりに「パス」と答えた。
そんな気分には、とてもならない。なれない。
おそらく、そう遠くない未来、誰かに出会って自分は新しい恋をするだろう。今の滅入った気持ちへも、そのうちけりがつく。けれども、それにはまだ、当分時間がかかりそうだった。
「何だよ、みーくん、そんな落ち込むなって。だから僕が前に予言してたじゃないか、このバッド・エンディングは。早くカタが着いて、むしろこっちにはラッキーな展開だった」
だから、「損保OLが、みーくんの不思議系に疲れた心を癒してくれる」と話は戻る。返事をしないみーくんに、本城さんは「晩メシ奢るから。な、みーくん」と宥めに入る。
みーくんはちょっとぶすっとした声で、寿司をたかった。
フロアを閉めて、ビル前駐車場へ向かうと、並ぶ車の間にこじんまりとした影が見え、みーくんは一瞬、そのシルエットにどきりと胸が躍った。
(篤子ちゃん?)
それは彼女ではなく、彼女の友人の菫ちゃんの姿だった。寒そうにコートの腕を抱く小柄な身体が、とことことみーくん方へ向かって来る。それに、はっきりここで彼を待っていたことがわかる。
(え)
みーくんは彼女の登場に、やや虚をつかれた。篤子ちゃんの友人が、今自分に何の用だろうと、訝った。何にせよ、彼女絡みの件であることは確かだ。
「すみません。小早川さん、ちょっといいですか?」
「何?」
「あの…」
言葉を途切れさせた菫ちゃんは、ずっと背の高いみーくんを篤子ちゃんのように見上げた。しばし言葉をため、意を決したのか、意外な気強い声で切り出した。
「篤子、小早川さんと別れてから、可哀そうに、ずっと泣いてるの。本当に元気もないし…。可哀そうで、見ていられない」
「先生のせいじゃない。わたしが悪かったの」と、彼との別れの理由を篤子ちゃんは口にしているという。
「え」
「二人でつき合ってきたのに……。だったら、何かあっても、篤子だけのせいじゃないでしょう…? 一人だけのせいじゃ、ないでしょう?」
「え」
だから、自分が来たのだと菫ちゃんは言う。寒さか、ちょっと鼻をすすり、じろりと上目遣いに彼を睨むように見つめ、
「篤子だけ、悪者にして放っておかないで。小早川さん、ひどい」
「あの、菫ちゃん…」
みーくんは菫ちゃんの言葉に、ひどく驚いたのだ。篤子ちゃんが彼との別れに、彼女自身を責めていることがまず驚きで、それが彼の想像の埒外過ぎて、ちょっと言葉がすぐに見当たらないほど、戸惑った。
ひどい捉え方だが、少々の痛みは抱えたかもしれないが、今までの印象からか、彼女は彼よりよほど今回の別れに、
(けろりとしていると思って)
いたみーくんである。
その篤子ちゃんが、自分との別れに泣いて悲しんでいるのだ。
「そう」
としか、言葉がすぐに見当たらない。
耳元でいきなり風船を割られるようなショックの後で、胸をぶくぶくと彼女への罪悪感がふくれ上がってゆくのだ。
「篤子だけのせいじゃないでしょう?」
みーくんの二歩ほど後ろで、二人のやり取りを見守る本城さんが、菫ちゃんに和して、声も厳かに非難口調で、
「みーくん、ひどいぞ。女の子を泣かすなよ」
などというから、みーくんにはあほらしい。さっきまで散々「魔女っ子篤子ちゃん」との別れを、美化して笑っていたくせに。
ともかく、彼は自分をいまだ上目遣いでじろりと見上げる菫ちゃんに、幾つかの瞬きののち、ちょっと頷いて見せた。
いつもの穏やかで落ち着いた彼の声が、告げた。
「そうだね、篤子ちゃんだけのせいじゃない」




          

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