あなたとの離別と、あなたとの出遇いと
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菫ちゃんは、告げたいことがそれですべてであったのか、ちょこんと頭を下げ、身を翻した。
その背中に、みーくんは篤子ちゃんへの癖で、つい「帰れる?」と訊ねた。半分ほど振り返り、彼女は駐車場の端を指した。友達が待っていてくれるから、と答える。ハザードランプを点けて停車している車が、彼の目に確かに入った。
「そう、気をつけてね」
「ありがとうございます」
ぱたぱたと華奢な足音をさせて彼女を去っていくのを、みーくんはそのまましばらく見送った。潔い子だと思ったのだ。彼に伝えたい文句を、敢えて友達を伴わず、ただ一人で告げに来た。
優しげな外見に似ず、かっこいいところのある女の子だと思った。
「菫ちゃん、可愛いな。『L』に似てるけど、可愛いな…」
本城さんが呻くように言う。そんなに菫ちゃんは『L』には似ていない。
みーくんは友人のちょっと滑稽な言葉に、相槌も打たなかった。同じく可愛らしい子だと思いはする。けれども、彼にとって、
(篤子ちゃんの方が可愛い)
と、こんなときちらりと思った。
ともかく、菫ちゃんが彼にぶつけた言葉はひどく重い。篤子ちゃんが自分との別れに悲しんで、泣いているというのだ。
わっと、別れた夜の光景が、みーくんの頭を過ぎり消え、また過ぎる。
彼にはあっさりと見えた彼女の姿。様子。
それはもしや、驚きと、「別れよう」と言った彼への配慮のためではなかったのか。みーくんは、菫ちゃんの言葉に、今になってそれに思い至る。
これまで彼は、彼女のその態度の意味を、上っ面でしか見ようとしなかった。涙も、なじる言葉もないのは、そのままそれが篤子ちゃんの彼への愛情の重さだと、早計にそう考えてきた。だからこそ、その後味気なくつまらない思いをしてきたのだ。
自分とは異なり、彼女にとっては大した事柄ではないのだと。
もしそれが、違っていたのなら……、
(まさか)
何しろ、彼にとってぶれはあるが、篤子ちゃんは「そういう気を使うタイプ」だった。
ぞっと寒気がするほど、自分のした振る舞いは、篤子ちゃんにとってひどい仕打ちではなかったのか。
みーくんは、まるで不意打ちに無抵抗の彼女を、自分の気持ちのまま乱暴に殴りつけたような気持ちにさえなる。
(あんなに小さい篤子ちゃんに)
サイズは関係ない。
(あんなに可愛い篤子ちゃんに)
容姿も関係ない。
生まれた罪悪感は、吸い過ぎた煙草の後味よりまずく厭わしく、まとわりつく。
 
『篤子だけのせいじゃないでしょう?』
 
菫ちゃんが伝えた言葉は、やはり、彼の胸に痛みをつれて重く響く。
 
 
篤子ちゃんは、ちょこちょこと忙しい日を過ごしていた。
盲腸のため入院した父の再婚相手長瀬さんの見舞いに、日に一度は病院に顔を出す。その際、彼女の家に入ることを許されているので、着替えやら必要なものを持ってきたりと、気を配ってあげた。
本来ならそろそろ退院のはずであったが、婦人科系のやや気になる診断結果があり、念のため検査入院がしばらく続くことになった。
「ごめんなさいね、篤子ちゃん、いつも来てもらって」
すまながるが、嬉しそうな様子は隠せない。化粧っけがないと案外五歳は若返って見える長瀬さんに、篤子ちゃんはいつも通り如才なく、彼女らしいあどけなさで振る舞っていた。
実際のところ、長い春休みの中、用事ができるのは気が紛れ、今の篤子ちゃんにはありがたい。それに彼女にとって、本当に大した手間でもない。父も喜ぶし、一石二鳥だ。
ちょこっと話し、花瓶の水を替え、篤子ちゃんは病室を出た。途中廊下では、足を怪我した子供が車椅子に乗っているのを見かけ、気の毒で涙がにじみそうになった。
最近の篤子ちゃんは涙もろい。花粉症の気がない訳ではないのだが、それ以上に気持ちの弱さに由来したものだ。菫ちゃんがみーくんに告げたことは、取り立てて誇張ではない。
長瀬さんの一人住まいに入り、ちょっとした用をこなしてあげては、父からも聞いていたが、近親者のほとんどいない孤独な彼女の暮らしぶりを改めて知り、それに涙が出る。
テレビを見ていても、友人と話していても、ささいな事柄に簡単に瞳に涙があふれてしまう。花粉症の気がない訳ではないが、それだけが決して理由ではないのだ。
家に帰ると、ほどなく友人が遊びに来た。昼がまだの彼女らに、ピザ生地があったのでそれを焼き、生ハムやベビーリーフを乗せて出した。
お土産にもらったいいオリーブオイルを軽く回しかければ、何だか見栄えもして、篤子ちゃんはちょっと嬉しくなる。
菫ちゃんが口にした件に、篤子ちゃんは思わずむせた。彼女に内緒で、菫ちゃんがみーくんに会いに行ったというのだ。むせつつ、あらましを聞き、顔を赤くしながら、とても興味のある質問を問うた。
「先生、何て?」
「びっくりしてた、いきなりだったから。でも…」
「でも?」
 
『そうだね、篤子ちゃんだけのせいじゃない』
 
菫ちゃんが教えてくれた彼の返しの言葉に、ほろりと篤子ちゃんの頬を涙が伝った。優しい彼らしい言葉だと思った。
彼女の涙に友人らが、ティッシュを差し出したり宥めたりと、忙しい。
「でもね、篤子、まだよかった、しちゃう前で。だって、エッチがあったら、ちょっと何か、ほら…思い出が深くなりそうじゃない」
「そうそう、ね。キスだけなら、次に行きやすい」
「小早川さんも、手を出す前にはっきりさせときたかったんじゃないのかな、大人だから、そいうところ固いのかも。一応先生だし」
篤子ちゃんの小さな嗚咽は深くなる。
とっくに「大人」で「先生」で手の早い彼とは、結ばれてしまっているのだ。「思い出が深くなる関係」であったのだ。今更友人に、それを打ち明けるのも恥ずかしく、その件については触れないことにしておいた。
「大丈夫、ごめん…」
ようやく落ち着いた篤子ちゃんに、菫ちゃんがピザをつまみ、言う。
「小早川さん、優しくていい人だけど、ちょっと大人過ぎたのかな、わたしたちみたいな女の子には」
菫ちゃんも、何も無理に篤子ちゃんと彼によりを戻してもらいたい訳で、あんなことを告げに行ったのではないようだ。ただ、友人の側だけが悲しんでいるように思えて、一言、胸のわだかまりを彼に投げてやりたくなったのだろう。
「うん…」
友達の言葉に頷きながら、篤子ちゃんは熱いカフェオレをすすった。口に淡いコーヒーの味が広がる。
最後の彼の言葉が、何度目かで彼女の耳に甦った。ごめんと前置きし、もう自分につき合い切れないと、みーくんは告げた。彼らしい柔らかな言葉だった。ひどい言い方でも、責める口調でもなかった。
でも、それにはっきりと彼女は自分が拒絶され、切り捨てられたのを感じた。もう彼にとって特別でもなく、何でもない存在になったのを、胸に何かがぐさりと刺さったように、今も思うたびずんと痛んで、それを新たに感じるのだ。
(もう、先生に要らない人になったんだ)
自分が感じていた以上に、彼女は彼の存在に依存してきたことが、しみじみと知れる。
手に余るような、気持ちの置き所のないような気分のとき、彼女は決まって彼を思い出し、その優しさに甘えたくなった。ただ抱きしめてもらいたくなった。「篤子ちゃん」と、ちょっと自分だけに甘い声で、呼びかけてもらいたくなったのだ。
そうやって、自分の心の自分でも気づかないで奥に片づけた日々の屈託を、やり過ごしてきたのだろうか。そんな自分の心のありようが、思いの他早く、彼と身体を重ねることにつながったのかもしれない。
それにしても、
(先生は、手が早かった)
との考えは依然捨てられない。
手が早かろうが、妥当であろうが、彼は彼女の口にする他愛のないねだりごとには、いつも「いいよ」と、易く頷いてくれた。のっぽで大人の彼の注意を引きたくて、篤子ちゃんはよく腕を引いた。手をつないだ。「ねえ、先生」と呼びかけた。多分に甘えの混じる声で。
その彼はもういない。
(先生に、嫌われちゃった)
その自覚は、時間を置いて、徐々に深まっていく。一人の夜がいたたまれないほど、寂しくて、切なくて……。
「ねえ篤子、明後日なんだけど…」
篤子ちゃんは、友人が誘う夜遊びにこくんと頷いた。男の子が当然いる飲み会であったけれど、それに眉をひそめる「先生」は、もういない。
 
 
授業のないその日は、春期講習の申し込み受付を兼ねた保護者説明会だった。教室の一つをその会場に充て、簡単な本城さんのシステム説明の後、それぞれ講師が分かれ、保護者や受験生の質問を受け付ける。
これが新年度の学生確保数をほぼ占うもので、毎日の授業よりよほど気を使う。ぱらぱらとだった客足も、開始時間ぎりぎりには期待通りに席も埋まり、スタッフは皆ほっとする思いだ。
あちこち予備校を見てきた保護者は、はっきりと「○×予備校は、ここがこちらと〜」などと比較した問いを投げてくる。
「そうですね、あちらは大手さんですから、うちとはもちろん異なった良さがあります。ええ、ですが、合格実績や講師のレベル、また授業内容なども決して他社さんに開きはないはずです。こちらを、ご覧下さい、去年までの合格者数なんですが…」
みーくんは、胸のシャツに挿したペンを抜き、パンフレットのグラフを示した。穏やかな口調で、頷きつつ、ときに保護者の隣りの学生に視線を向け軽く笑いかけ、的確に問いに答えていく。
「僕は、数学担当です。よかったら、四月から一緒に頑張ろうね」
決めぜりふである。他、「まず、苦手意識をなくそう」というやつもある。
ハンサムと言えないこともない青年の彼が、誠実な表情で理知的に柔らかくつなぐ説明は、保護者にも好感と安心感を与えるらしい。
本城さんなど口悪く、みーくんのセールストークの腕を褒めているのかけなしているのか、「みーくんがあの調子で詐欺師になったら、恐ろしいな」などと笑う。
ともかく、講師自ら(人手がないため)懇切丁寧に言葉を重ねるこのやり方は好評で、この場で入学申し込みを済ませてくれる保護者もある。
ちなみにアルバイトでハンサムな美馬くんが手伝ってくれ、来客にコーヒーを振る舞ったり、パンフレットを配っている。
「あ、僕もここで教わったんです。何ていうかな、大手と違ってアットホームな感じで。ええ、志望校に合格しましたよ」
などと、そつなくサクラまがいのことをしてくれる。ついでながら、美馬くんは先年、みーくんのあのセールストークに落ちたクチである。
説明会が終わると、会場の後始末だ。もちろんそれも講師がやる。もとより、予備校には講師しかいない。講師以外の人間を雇う余裕がないからだ。
事務など雑務をこなしてくれる人物が別にいれば、よほど楽なのだが、その人件費があれば、給与に回すべきだと、みーくんも本城さんも考えるのだ。
この時期には、予備校に合格した生徒が、報告とお礼に顔を出すこともちょくちょくある。その日も二〜三人連れ立って、職員室にやって来た。
「おめでとう。努力が実ったね」と優しく返しながら、みーくんはふっと思い出してしまう。
以前何かのとき、篤子ちゃんに訊ねられたことがあった。「ねえ、先生、教えた生徒が合格しなかったら、可哀そうじゃない? どうするの?」と。
それにみーくんはあまり考えず、自分の考えを包まず告げた。
「努力なり学力なり、運なりが足りなかったんだろうね。気の毒だけど、しょうがないよ」と答えたそれに、何を思ったのか、篤子ちゃんはちょっと怪訝な顔をして彼を見た。
「ふうん」と言って。
どうしてそんなことを思い出すのだろうか。喜色を浮かべ、合格を告げる教え子を見たからだろうか。
彼らが帰り、みーくんは煙草をくわえた。火を点けずに唇に挟んだまま、隅のスチールのデスクに積んだ余った今日のパンフレット類を、ダンボールに落し入れた。煙草はそのままに、喋ったりもする。
「美馬くん、残ったらいいよ。この後奢るから。亮も来るよ」
「あ、はい」
そこへ手伝いをしなかった亮くんが、今頃ひょろりと顔を出した。くわえているのはチュッパチャップスのように見えたが、煙草だった。
みーくんのまるでルパンみたいに煙草をくわえているところが、亮くんにはかっこよく映るらしく、憧れてときどきこんな風に真似をしている。
遅まきの登場に、皆にからかわれている。
(僕を冷たく感じたのかな)
ようやく火を点けながら、みーくんは思った。篤子ちゃんが、である。
自分の教師としての気持ちを、それほど酷薄とは思わない。予備校では学力以外の面で、余計な影響を教え子に与えるのはよくない、とみーくんは考える。
あまり感情を込めるべきではないと思うし、そんな熱い教師はそもそも彼がごめんだ。
(あの、前の「先生」は、鬱陶しい熱血教師だったのかな)
篤子ちゃんが前につき合っていたという高校教師に対し、皮肉にそんなことを思うのは、きっと自分が妬いているからだと知っている。
未練がましいのも承知だ。
嫌いで別れた訳ではない。
数日前、彼の前に菫ちゃんが現れた。その彼女の残した言葉が、みーくんの頭を去らない。確かに彼は、別れの原因となったものを、ほぼすべて篤子ちゃん側に置いている。それは彼女を責めているのではない。
ただ、彼の考えと彼女のそれが合わなくなった、ということで、つり合わない、と感じたのだ。
今もその考えは、根底で変わらない。
たとえて言えば、みーくんは車なら、まず国産車を選ぶ。質もよく値頃であることもあるが、何よりメンテナンスが早く便利な点に重きを置いている。だから、デザインに惹かれても、まず輸入車は選ばない。
合理的なきらいのある彼には、パーツの取り寄せなど後々メンテナンスなどで手間のかかる目に遭うのは、面倒で厄介なのだ。
その考えにも似て、現在どんなに篤子ちゃんという女の子に惹かれていても、今後を思うと、進むことにためらってしまうのだ。
(でも…)
みーくんは思い始めている。
自分の考え、思いや、望むこと。それに、篤子ちゃんが及ばないことで苛立ち、それをすっぽり彼女のせいにしてしまっていたのではないか。
自分の思いと合わない、ではなく、彼から彼女のそれへ合わせようとしたことがあったのだろうか。
いつも自分を見上げてくれていた彼女。その彼女の目線に、自分は降りてやることを考えていたはずだった。いたわっていたはずだった。
けれども、それはほしがっているものを買ってあげることや、食べたいものを合わせてあげること、怒らないでおくこと……、ほんの上辺の軽いものでしかない。
いつの間にか自分は傲慢に、彼女を見下げていたのではないか。あらゆる面で、自分より劣る存在だと。
至らなくて、
何を考えているかよくわからない、
すごく可愛いけれど、
ちょっとおかしな女の子。
そんな風な目で彼女を見てこなかったか。
それを菫ちゃんは敏感に感じ、友人のためどうしても自分へ言いたかったのじゃないか。
 
『篤子だけのせいじゃないでしょう?』
 
まったくその通りだと、みーくんはこの頃ずっと思う。
そんな自分を篤子ちゃんは、ちらりとも責めていないのだという。
劣るのは、彼女ではなくきっと自分の方であると、みーくんは思い始めている。
 
 
県外の病院に勤務していた友人の柏木さんが、帰郷してきた。みーくんは他の友人らと日曜丸々その引越しを手伝い、夕食も済ませマンションに帰ってきたのは随分と遅かった。
駐車場に車を停め、キーを抜く。暗がりで携帯を開いた。
篤子ちゃんへかけようとし、表示させては消す。車を降りてからも、漫然とそれを繰り返した。そんなことばかりしている。
その名を表示させ、眺めるだけで、いまだ彼女とつながっているような嬉しい錯覚が浮かぶのだ。
伝えたいこともある。
そして、彼女の声が聞きたかった。ちょっと焦がれるように、みーくんはそんなことばかり考えている。
その晩は三月に入ったというのにひどく冷え、路面を雪が白く覆った。ちらちらと舞う雪が、みーくんのニットだけの肩に、点々と綿のようにまとわりついた。吐く息も、白い。
エントランスのところで、ポケットにしまうつもりで、弾みで篤子ちゃんの表示のまま、みーくんはコールボタンを押してしまった。
「あ」
と気づいたときには遅い。きっとこの後でかけようと決心はしていたが、今はいけない。変に胸がどきりと高鳴った。心の準備ができていない。何から彼女に告げるべきか、優しいのか、言葉の整理もできていない。
そのとき、まったく不意に小さなメロディーが聞こえた。とても近くから、それは続き、途切れない。
(え)
彼はとっさに辺りに視線を流した。自分の目が捉えたものに、みーくんは、ガラスドアへ向かう歩が止まった。
広く取られたレンガ敷きのエントランスの隅、丸い飾り支柱に隠れるようにして、ひどく薄着の篤子ちゃんが立っていた。くりんとした瞳はちょっとおぼろげに上向き、彼を見つめていた。
彼女の手には、いまだ鳴り続ける携帯が握られている。そこから彼の発したコールの着信音が、ささやくように可愛く流れてくるのだ。



          

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