本当に欲しかったのものは
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おかしなことに、互いに何も言えなかった。
ただコールのメロディだけがちょっと続き、ほんの条件反射のようなかたちで、みーくんが先に自分のそれを消した。
彼は篤子ちゃんへ踏み出し、「いつからいたの?」と訊いた。薄手のロングカーディガンをくるりと巻いただけの彼女は、ひどく寒そうで、自然緩く肩を抱いた。
彼の問いに、彼女は「八時過ぎかな」とぼんやりと告げる。
「八…」
先ほど見た携帯の表示では確か十時をいくらか回っていた。それでは寒空に二時間も、彼女はここで彼を待っていたことになる。
「先生に、謝ろうと思って…」
ごめんなさい、と続くその涙のにじんだ声に、みーくんはすぐには何も返せない。彼の方こそちょっと目の奥が熱くなるくらいじんと嬉しくて、胸が一杯になり、そして今の彼女が堪らなく可愛らしかった。
彼が返事をくれないことで、篤子ちゃんははっきりと泣き出してしまう。そのまま「ごめんなさい」とつぶやく彼女の頭を、みーくんは自分の胸に押し付け、
「謝らなくていいよ、篤子ちゃんのせいじゃない」
「ごめんなさい、だって、先生、わたしのこと嫌いになったんでしょう?」
そこで篤子ちゃんが、くしゅんと小さなくしゃみをした。それに慌ててみーくんは、彼女に「僕も、篤子ちゃんに話がある」と、部屋へ促した。
嫌った訳じゃない、という言葉の代わりになるだろうか。彼は彼女の手を握った。華奢で小さなそれは彼の指にすっぽりと包まれ、きんと冷えた指先が、少しぎこちなくその中で動いて留まる。
エレベータの中で篤子ちゃんは、みーくんの手を解いた。解いたそれでハンカチを取り出し顔を押さえ、そして片方の手が提げた紙袋を持ち替え、彼へ差し出した。
それは以前彼が、つきあい出して間もない頃、彼女に贈ったクリスマスプレゼントの人気ゲーム機だった。それを彼女は彼に返すという。
「もらったままじゃ、何だか…」
そんな思い出の詰まった物を返されたって、みーくんには迷惑以外の何ものでもない。
律儀であるけれどもちょっと滑稽な発想で、みーくんの頬が緩んだ。
「篤子ちゃんにあげたんだから、篤子ちゃんの物だよ。返さなくっていい」
大して値の張るものでもなく、クリスマスプレゼントに初めて贈るには、彼にとって拍子抜けのした彼女のリクエストだった。どうせならもっと高価な指輪なりネックレスなり、普段身に着けてくれるものをあげたかった…。
そんな記憶が甦って、みーくんはやや眠たげな瞳を瞬いた。
(随分前のように思うけど、そんなに経ってもないんだな。たった三月程度にもならない)
篤子ちゃんは一旦解いた手を、もう彼の方へ伸ばさなかった。ゲーム機の入った紙袋を、両手で握り締めている。
自分は、あれこれ急ぎ過ぎたのだろうか。
早く、結果がほしくて。
早く、結論がほしくて。
いつしか、自分は焦れていたのだろうか。
しばしの別れのブランクの後で、彼女を前にして、省みてそんなことを思う。だとすれば、そんなものをずっと年上の、たった三ヶ月程度の彼氏にじりじり押し付けられれば、若い篤子ちゃんにとって自分は、
(重たくて、鬱陶しい)
に、まったく他ならないだろう。
みーくんはそれに思い至り、自嘲して苦笑するのだ。
部屋に入り、彼はヒーターを強めた。篤子ちゃんはちょっと落ち着かない様子で、腕を抱いてじっとしている。
この日は日暮れまで、春めいた陽気だった。だから篤子ちゃんの薄着も、そうおかしな格好ではない。
寒そうにしている彼女を、彼は抱き寄せた。やんわり抱きしめても、抗いもせずちんとおとなしい。そんなことが、またみーくんにひどく可愛い。「寒い?」と訊ねると、「ちょっと…」と声が返る。
しゅんと鼻をすするのと、涙の気配が伝わった。
「ごめんなさい」
「篤子ちゃんのせいじゃない、僕がいけなかった」
自分の腕がすっぽりと包み込んでしまう小さな篤子ちゃんは、みーくんの目に子猫のようにいたいけで愛らしい。
抱いていると、自分の心がぴたりと彼女のシルエットに添うような、不思議で感覚的な密着感がある。
わがままだとも思ったし、つき合い切れないとも感じた。何を考えているか読めず、ほのかに気味悪く感じたことも認める。
けれど、やはりどうしても手放せない。彼女を抱く腕が解けない。
「先生に、嫌われたままいたくないの。だから、謝りたくて…」
そう告げる彼女に、みーくんは言葉尻にほぼかぶせるように、「嫌ってなんかいないよ。ほんのちょっと…、怒ってただけ。けど、それも篤子ちゃんだけのせいじゃない」
「え」
篤子ちゃんの声がそれで途切れた。くすんと涙声がちょっと続く。
みーくんは、彼女に「もう一度、篤子ちゃんとやり直したい」と言った。その言葉に、微かに彼女は腕の中で身じろぎした。驚いたのか、もしくは案外、猫が座り心地をよくするため、もじもじと動くあの仕草かもしれない。
謝りたいと、こんな夜まで自分を待っていてくれた。その健気な気持ちは、彼への愛情以外では割り切れないだろう。
決して一方通行でない互いの思いのありようが、みーくんに嬉しい。ほどなく、小さな「うん…」という了解が彼に届いた。
こんなときちょっと彼の頭を過ぎるのだ。自分はこれまで大きな何かを選ぶ際、ベストではなく、ベターを選んできたことが多いのだと。一番ではないかもしれない、けれどベストに近く、納得がいく。
理由は性格的なものもあるが、多分に家庭の事情がある。進学や進路の他、その考えはいつしか恋愛にも作用してきた。
(でも)
みーくんは篤子ちゃんの髪をやんわり指に絡めながら、確信に近く感じ、心に決めている。
年の差や、ちょっとした不具合、行き違い、諸々篤子ちゃんとの関係には、どっちがいけないという次元でなく、溝やかけ違いがある。それは小さくなっても、決して消えないだろう。
それでも、これほど愛情を持ってほしいと望み、そして彼女からも不釣合いのないほどのそれが自分へ注がれるのであれば、それで十分ではないのか。多分他はスペアが利く。何とかなるのじゃないか。
(大好きな篤子ちゃん)
その紛れもない「大好き」に、これからを賭けてみる価値はきっとある。
「また、僕と一緒にいてほしい」
それに彼女はこくんと頷いた。ぎゅっと背に回した手で彼にしがみつくのだ。「先生が好き」と。
みーくんにはもう、とろけそうなほど可愛らしい篤子ちゃんの仕草だった。
それから、彼は彼女を抱く腕を緩め、その顔をのぞきながら、「もう遅いから、送って行こうか?」と問う。
「帰りたくない」
と言うから、嬉しいけれど、みーくんはやや困ってしまうのだ。いきなり彼女を泊めなどしたら、彼女の父親の自分への心証が悪くなる。先々の障害になりかねない。
「先生と一緒にいたい」
みーくんの考えも、これでは易い方へ傾いでしまう。
友達と出かけると出てきたという彼女に、彼はじゃあせめて家へ連絡をしてほしいと言う。とにかく連絡もなく、外泊はさせられない。
「お父さん、篤子ちゃんの帰りが遅いと、心配してるから」
優しく説いたはずだった。
彼のその声に、篤子ちゃんが応じた声の鋭さは、みーくんに眉をひそめさせた。父親っ子の篤子ちゃんらしくない声音だった。これまで彼女のそんな声を、そもそも彼は聞いたことがない。
「お父さんなんて、どうでもいい」
喧嘩でもしたのか、と彼は思った。
それでも再度促すと、彼女は素直に携帯を出し、いつもの可愛いらしい声で父親に応じていた。
 
 
篤子ちゃんもさすがに彼氏の家に泊まるとは、あからさまには言えず、友達の家に泊まると嘘をついた。
「ごめんね、急で…。うん、明日朝には帰るから…」
父はいきなりの外泊に渋い声を出したが、了解してくれた。
気持ちがふわふわとしている。つい、普段にない声を出してしまったほど。
この夜、篤子ちゃんは友人と約束した飲み会に出ていたが、それを中座して彼のマンションに来た。どうしても落ち着かず、どうしても彼に詫びて許してほしかった。嫌われたままいたくなかったのだ。
みーくんが、もう一度自分を受け入れてくれることは、おそらくないだろうと思った。彼女にとって、彼ははるかに自分より「大人」で、「頭がよく」、「何か難しくて偉い考え持っ」ているように見える。たとえて言うなら、まるで国や行政機関のような確かな存在で、一度決めた物事を、翻したり、撤回したりなどしないと考えていた。
篤子ちゃんはニュースも新聞もあまり見ないから知らないが、最近の国も行政機関も、執行の撤回だの翻意をしょっちゅう露わにして謝っているのに。
だから、思いがけず彼がやんわりとすんなりと自分を受け入れてくれたことに、ぼんやりとしてしまったのだ。どこかで「先生でも、こんなことあるんだ」などと、遅まきでおかしな発見をしている。
嬉しくて、涙がこぼれた。
またそばにいて、一緒にこれからを過ごせるのだという予想外の展開は、彼女の胸を希望や喜びでぽんとふくらませる。
もうあんまり甘え過ぎないようにしようと、もう重荷にならないようにしようと、心に思うそばから、
「帰りたくない」、「先生と一緒にいたい」などと早速彼を困らせる彼女である。自分のそのややぶれのある気持ちに気づいてはいるが、離れたくないのだ。
久し振りに、長身の彼が小柄な自分をくるんと腕に抱いてくれた。ちょっと眠たげな目を優しく自分に向けてくれる。
それが嬉しくて、彼の大きな存在に安堵して。
きゅっとみーくんに自分からしがみついて、身を寄せてしまう。
「先生が好き」
更に彼にとっては殺し文句を、さらりと口にする。
「僕も篤子ちゃんが大好き」
身を屈めた彼が、彼女の頬に指を添えキスした。ダイニングの椅子がそばにあり、少したじろいだ彼女は、すとんとその椅子に腰がおりた。それでちょうどバランスがよくなる。
みーくんが彼女の肩と椅子の背もたれに手を置く。彼のニットを、篤子ちゃんの指がきゅっとつかむ。
煙草の匂いのする彼のキスは、ちょっと深まり、篤子ちゃんはどきどきする胸と陶然となる心に、やっぱりぼんやりしたままだ。
長く口づけて、そして抱きしめ合う。
いまだ、身体の芯が冷えた彼女が求めたのが先。
「…して」とささやいた声は、ほろっと自分で口にしてから、その言葉の重さ恥ずかしさに、ぱっと顔が赤らみ、泣き出しそうになる。
「やだ…」
なぜ、いつになくこんなせりふが口をついて出たのか、それが自分でもわからない。
緊張、恐れ、悲しみ、憂い、憤り、そして驚き、喜び、恥じらい……。この夜、彼女が抱えてきた色んな感情が、交じり合って溶け合って、ときに形を変え、最後に辿りついたものだろうか。
堪らない恥ずかしさに、顔を彼の胸に押し付ける彼女へ、
「僕も同じ」
彼の変わらない落ち着いた声がする。
「あ」
それにほんのり救われるようにも思い、けれどやっぱり彼女ははにかんで、ぎゅっと彼にしがみついたままだ。
 
 
白々と夜が明け、みーくんは小さな電子音で目が覚めた。目覚ましにかけた携帯のアラームだ。
枕元のそれを止め、そばにある存在に改めて気づき、眠気の残る頭が、それですっと覚めるように思う。
篤子ちゃんは、彼の方をやや向き、両手を重ね、それを頬に当てて眠っている。確か、こんな格好で眠るクマのぬいぐるみを、彼の妹が持っていたのをひょんなときに思い出した。
腕に押され、キャミソールの胸元に谷間ができている。無防備に愛らしく眠る篤子ちゃんの姿態に、みーくんは、ちょっと時間も忘れて見とれてしまう。
頬をなぜ、髪に指を流し、ふっくらとした胸元にほんのり触れた。
そのとき、篤子ちゃんの唇が微かに開いた。起こしたかな、とみーくんは指を止めると、彼女の口からはささやくように、
「まっく…」
と聞こえた。起きた訳ではない。またすぐすうすうと小さな寝息が続く。
(マッキントッシュ?)
みーくんはまずそう思ったが、篤子ちゃんに似つかわしくない語彙を捨て、
(ハンバーガーが食べたいのかな)
と思い直す。
本当は、もうちょっとこうして彼女を眺めていたいけれど、みーくんはベッドから静かに抜け出た。篤子ちゃんに、ハンバーガーを買ってきてあげようと思ったのだ。
みーくんが部屋に戻ると、篤子ちゃんはまだ眠っていた。夜更かしをさせてしまったので、まだ眠いのだろうか。
もう時間がないため、みーくんはダイニングのテーブルにハンバーガーの袋を置き、そばにメモを残した。
昼頃電話をすること、鍵を持っていてほしいこと。それらを書いて、とっても名残惜しいが、仕事に出かけた。
通勤の街の気色が違って見えるのは、春めいてきからだけではない。彼の気持ちがはっきりと明るいからだ。いつもなら、急くときは遅い前方の車に少々の苛立ちがあるのに、今朝はそれもない。
うっとりと夕べの篤子ちゃんを思い出し、今朝のあの可愛く眠る彼女を頭に描く。
彼女と別れて以来、味気なくつまらなく感じていた日常が、世界が変わったようにわっと鮮やで、香るようになったのを彼も感じている。
大切にして、彼女を尊重し、できるかちょっと自信がないが、あんまり束縛もないように、と思っている。とにかく大事につき合っていこうと、みーくんは真剣に考えているのだ。
そしてその先に、できれば三年後、贅沢を言えば二年後ぐらいに、彼女との結婚へ辿り着ければいい、と。
(やっぱり、篤子ちゃん以外は考えられない)
絶対あり得ないが、みーくんに今、アンジェリーナ・ジョリーが恋してくれたって、彼には「お断り」できるだろう。
彼女も、これまでの行動を、素直に反省してくれているようだった。彼が可哀そうになるくらい、泣いて「ごめんなさい」と謝ってくれたのだ。
あれは今思っても、胸が痛い。ひどい思いをさせてしまったと、悔やまれる。
みーくんは、何となく上着に突っ込んできた、一旦は外した篤子ちゃんのくれたマスコットをポケットから出した。捨てられず、部屋のその辺に置き去りにしていたものだ。
信号待ちの狭間、それをまたミラーに取り付ける。ぶらりと揺れる太ったクマに、ちょっと笑みがもれた。再びこれが戻ったことを、友人らに見つかれば、またからかわれるだろうなどという些事は、浮かばなかった。
(篤子ちゃん、まだ寝てるのかな)
代わりに、とびきり甘い物思いが浮かんでしまうのだ。自分の部屋に、大事な秘密の宝物を隠しているような、そして置き去りにしてしまったそれが、ちょっと気になってしょうがない……。
そのまるで少年ぽいたとえに、自分でもおかしくなる。
けれど、そんな自分を今、確かに幸せだと、彼は珍しく感じていた。



          

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