助けなんて要らないわ、これは喜劇。
Impressions 17
 
 
 
目覚めた途端、頭痛がした。
ずきんとくるものではなく、頭の全体にぺたりとへばりついたようなじっとりと鈍い痛みで、篤子ちゃんは顔をしかめた。
ずぐに覚醒する性質で、自分の今の状況にたちまち合点がいく。夕べ、どうしてもみーくんに会いたくてやって来たこと。そして謝ることができたこと。それから、思いがけず、彼の優しい言葉が聞けたこと……。
そして思い出すのも頬が赤らむことらも、一瞬に頭に甦り、隣りに既に彼の姿がないことに、ちょっとほっとしたのだ。
カーテンを開けると、まぶしい午前の光が、わっと射し込んでくる。頭は痛むものの、篤子ちゃんはベッドを抜け出し、リビングの壁掛け時計で今の時刻を知った。
もう十時を過ぎていた。
(もっと早く帰るつもりだったのに。お父さん、朝ご飯、どうしたのかな)
それがちょっと気にかかる。突然、気分で外泊などして、悪いことをしたと思った。
それにしても、何だか調子が悪い。身体もだるいような物憂い感じがする。寝足りないのか、寝過ぎたのか、ともかくしゃっきりいつもの目覚めがやってこず、もう一度シャワーを借りて、服を着た。
散かった部屋を軽く片付け、ちゃっと掃除も済ませる。そのときダイニングテーブルの上のハンバーガーの袋と、みーくんのメモに気づいた。
すっかり冷めたハンバーガーは、その匂いにとても食べる気にはなれず、彼女は温いコーヒーを少しだけ飲んだ。
メモにあるように、キーを持ち部屋を出た。その頃には十一時を回っていて、昼の強い日差しが彼女に注いだ。
ゲーム機を部屋に置き忘れたことに気づいたけれど、とても取りに戻る気にはなれない。とても気分が悪く、へろへろしながらやや蛇行しつつ、何とか車を家に向けた。
幾つか友人からのメールがあり、それに返信をしてしまうと、どうにも身体のだるさが耐えがたくなった。
念のため熱を測ってみる。電子音が鳴り、それが三十九度をやや越えた数字を示すのを見て、途端にねつ気が頭に上がってくる気がする。おそらく、夕べ薄着でみーくんを長時間待っていた、あの行為が原因だろう。
少し寝れば、すぐに治ると思った。多分、夕方までにはすっきりしているだろう…。
ここ数年風邪も引いたことのない彼女は、薬も飲まず、ちょっとのんきに捉えた。身体全体が激しくぞくぞくする奇妙な気分のまま、パジャマに着替えると、篤子ちゃんはベッドにもぐり込んだ。
頭が重く痛み、身体がひりひりするような嫌な高熱の感触は、じりじりと続いた。眠れるどころではなく、夕刻前には、とても今夜の食事を用意することができないと判断した。そう決めるまで、それでも癖で冷蔵庫の中身で何とかちょっとだけ楽をしたものができないかと、考えていた彼女である。
仕事先の父にそれを断り、「何か食べてきて」と頼んだ。長瀬さんも退院したことで、ちょうどいい。
「お父さん、デートしてくれば」
などと父に軽く告げ、そのあっさりけろりととした様子に、父も安心したのか、頷いてくれた。
その父も、十時近くに帰宅し、いつも元気な娘が、自室で熱にうなされている様子に気づき、腰を抜かしそうになるほど驚いた。
 
 
幸福な気分で一日のスタートを切ったみーくんだが、昼にはその気分にも、ほんのりかげりが現われた。
昼に電話するとメモを残したのに、篤子ちゃんが電話に出ないのだ。念のため自分の部屋の固定電話にもかけてみた。もちろん出ない。
(電話の調子がおかしいのかな)
などとも思う。
幾度かかけても、『電源が入っていないため、かかりません』という、冷たい音声が流れるのみだ。
間近くなった春期講習の準備で遅く帰宅したが、残業の間も携帯が気になって仕方がない。相変わらず、篤子ちゃんからの連絡はない。
代わりに、『明日、泊めて』と、友人の柏木さんからメールが届いた。
部屋に入り、明かりを点けた。ざっと見て、その辺りが片付いているのが目に入る。篤子ちゃんの手によるものだと思えば、それだけで嬉しい。
キーをリビングのローテーブルに放り投げ、上着を脱いだ。それもソファに放る。緩めたネクタイを外しかけたとき、それが目に入った。
テレビの前に置いた紙袋。
それは、夕べ篤子ちゃんが彼に「返したい」と持ってきたものだった。返す筋合いの物でもなく、よりの戻った今、そもそも返す意味がない品だ。
「じゃあ、本当にもらったままでいいの? 先生」と、シャワーの後で湯だった温かい身体をベッドにもぐりこませた彼女が、甘えたように彼に訊いた言葉も、ふっと思い出される。あんまり可愛くて、そして愛らしくて。新しいソフトも買ってあげるよ、とみーくんは大甘に応えたのだ。
それが夕べのまま置いてある。
(忘れたのかな)
と単純に思いもする。
けれども、つながらない電話、忘れられた約束。それらが重なれば、ちょっと嫌な気分も胸に広がっていく。
もう一度かけようと、携帯を取り出し、少しためらって結局コールする。この日で八回目。これ以上はしつこいだろう。やはり出ない。
代わりに、柏木さんからまたメールが来た。『夜、メシ、食おう』と、実にわかりやすい。それにメールを返して、みーくんはぽんと電話をソファに放った。その側に腰掛け、脚を伸ばした。
煙草をくわえつつ、メールくらいはいいかと、再び携帯を手に取った。けれども、メールは今日で五回目。いっそ自宅にかけてみようとも考えて、
(しつこいよな、これ以上は)
まだ夕べの今日である。みーくんもあれこれ気を回す。何しろ、今度からは彼女をあまり束縛しないよう、自分に言い聞かせているのだから。
(でも…)
また男と遊びに行ってるのだとしたら、それで自分を忘れているのかと思えば、その想像だけで嫉妬もするし不快である。
そういう根拠のない勘繰りも、立派に束縛なのだと、どこかで理解しつつ、実行できないみーくんである。
けれど、「まさか篤子ちゃんだって、夕べの今日で、男友達と遊びに出かけはしないだろう」、と楽観もしてみる。そのすぐ後で、
(でも、「篤子ちゃん」だしな…)
とも思い直したりして、彼も忙しい。
結局、鳴らない電話を手のひらでもてあそび、ほんの短いメールでもいいから、送ってほしいと切実に願うのだ。
 
 
篤子ちゃんの熱は翌日も下がらなかった。
食欲もなく、口に出来たのはりんごジュースくらいだ。ある理由でためらっていたものの、何より自分がしんどい。この際、背に腹は代えられない。心配する父に頼み、病院に連れて行ってもらうことにした。
携帯の電源がいつの間にか切れオフになっていることなど、ちょっと頭にない。ついでながら、みーくんとの約束もしかり。
病院では、診察の後で点滴を受け、薬の処方箋をもらって帰ってきた。
どうしてだか、篤子ちゃんは病院から帰ってきて以来、どこかむっとしている。高熱でぽっと赤い顔をむっつりとさせ、毛布に包まり、父がガラスの器に盛ってくれた白桃の缶詰を、まずそうに食べているのだ。
気遣って、「辛いのか?」と父が訊ねても、「ううん」と首を振るだけ。桃を食べ終わると、何も言わず自室に戻った。
しばらくしたら、彼女の謎な不機嫌も、忘れたようにからりと元に戻っていた。
夕暮れには、父から聞いたのだろう、再婚相手の長瀬さんが見舞いに現われた。篤子ちゃんへは手際よく消化のいいおいしい食事を用意してくれ、父の夕食も作ってくれる。
二日連続で、父に外食を強いるのは気の毒だと思っていたので、大助かりだ。
「まめに着替えないと、汗で冷えるから」
そう促され、篤子ちゃんは気も緩んでもいて、長瀬さんが自室を出る前に、背を向けてパジャマを脱ぎ始めた。ドアの閉まりしな、見る気もなく、長瀬さんはちょこんとこちらに背を向け着替える篤子ちゃんの肌を、ふと見てしまった。
(まあ)
背に残る幾つかのキスマークを目にし、思わず唇を指で覆った。そうでもしなければ、声がもれていただろう。
 
 
カーキ色のジャケットの腕を寒そうに腕を抱く柏木さんが、仕事の終わったみーくんに、鍋が食べたいとリクエストした。「寒いから」と。
別に否もなく、空いた仲間と連れ立って、柏木さんが強く押す「かき鍋を」食べた。
食事の後で、みーくんの部屋に向かう。彼の車の助手席で、バックパックを膝に、まだ柏木さんは寒そうにしている。
その様子に、「風邪でも引いたのか?」と訊きながら、みーくんは煙草の煙を逃がすため、自分の側の開いたウィンドウを下ろした。煙に気を使うことが、篤子ちゃんを乗せるようになって以来の彼の癖になっている。
「風邪引いた患者、多いからな。もらったかな」
鼻をくずくずと言わせつつも、「みーくん、ビールある?」と飲む気でいるらしい。途中コンビニでビールを買いに寄り、部屋に着いたら、もう十時をやや過ぎていた。
みーくんへ篤子ちゃんからの連絡がなくなって、今日で丸二日になる。
これまで篤子ちゃん以前の恋愛では、その程度のブランクなど、大したことがなかったはずだ。
けれども、今回は気になって気になってしょうがなく、手の空いたとき、自宅にもかけてみた。誰も出ず、何かあったのじゃないかと、心配にもなり、それから彼女のひょっとして、の心変わりでは、との疑念も浮かび、彼にはとっても不安だったりもするのだ。
みーくんにとって篤子ちゃんは、気紛れではないが、ちょっと不思議なところのある子である。皆が言う「天然」に、まったく賛成ではないけれど、かなりそれに近いと。
銘々ビールを飲み、好き勝手な適当なことを、テレビを見ながら話す。にわかに「菫ちゃん、可愛い」を口にし出した本城さんのこと。その本城さんが、今つき合っている彼女と「危ない」らしいこと。
「無理っぽいこと、言ってたぞ」
「長いのにな、結婚すると思ってた」
「それでもあいつ、いつもとテンションが変わらないのがすごいよな、「イチロー並みの精神力」だとか言ってるけど、実際すごいよ」

「でも、イチローには及ばないだろ」

「そうだな」
それに付け足すように、ひとり言めいて柏木さんが「僕はそういうの、無理。割り切れない」と言ったのが聞こえた。
ふとみーくんの頭に、本城さんが冗談にしていた柏木さんの元彼女のメールに添付した写真のことが思い出された。元彼女の顔の部分だけ、どうしてか黒く消したようになくなっていた、奇妙で薄気味の悪い画像。
でもそれは、頭に浮かんだだけで、彼の口から言葉になって問うことはなかった。
「割り切れない」彼のまだ癒え切らない傷口に触れるのが気の毒なのと、みーくんにとって、それはやはり電子的でちょっとした不具合であるのと、結局大して興味を引くことでもないのとで、落ち着いてしまうのだ。
ちらちらと、それとなく携帯を気にしている風なみーくんを、柏木さんが、
「みーくんがな…、意外だな…、人ってわかんないな…」
と、しんみりとした口調でからかう。彼らにとって長いつき合いみーくんは、冷静で、穏やかで、器用に何でもこなす、スマートなところのある人物である。
その彼がぐっと年下の、まだ学生のちょっと頼りなげで天然な女の子に、すっぽりしっかり絡めとられて振り回されている様が、おかしくもあり、そして信じ難くもあるのだ。
本城さんなど、先の食事中も、「一度殺して埋めた篤子ちゃんの亡き骸を、みーくんは自分でまた掘り返しに行った」などと、たとえになるのかならないのか、とにかく口悪くからかった。「篤子ちゃん、生き返ったんだよ、それで」と続き、「ゾンビ篤子ちゃん」という落ちだ。それにみーくんが彼のふっくらとした頬を、みゅうっと伸びるほど強く引っ張って、そのネタは終わった。
それにしても、携帯は鳴らない。
話題は、互いの仕事のことや野球のことなどあちこちに飛ぶ。缶ビールを一本空けたところで、
「あ、風呂借りていい?」
柏木さんの部屋の風呂は、越して間もなく調子が悪いらしい。「いいよ」とみーくんは答え、自分もネクタイを首からとり、二三シャツのボタンを外した。
柏木さんは今日、所属の救急センターが割りに暇でもあり、頼まれた内科外来の手伝いに出た。
実はそこに篤子ちゃんが、父親に伴われてやって来たのだ。大勢の患者の名前は特に気にも留めない。面識もなく、友人が溺愛する彼女だなどとも、まさか思わない。
緩いワンピースの前ボタンを彼女が開け、開いた胸の下着の中に聴診器を差し入れようとして、柏木さんはちょっと「え」となった。乳房の上からその谷間、目に付く跡が点々と散っている。ほんの一瞬、虐待痕かとも思ったそれが、すぐにキスマークであると彼には気づいた。
患者も身に覚えがあるのか、ひどく恥ずかしそうにしていた。背中にもそれがあちこち見られることに及び、
(馬鹿な彼氏だな、考えてやれよ。可哀そうに)
彼女が出た後で、思わず軽く側のナースと目を見合わせてしまったという、そんなエピソードがあったのだ。
まさか、こんな近くにその「馬鹿」がいるとは思わないから、柏木さんも何も言わない。
 
 
みーくんの不安がどんどんふくらみ、限界点に近くなった四日目の夜。篤子ちゃんからメールが届いた。
『おやすみなさい、先生』
何もかも省き切った、シンプルな内容に、みーくんはちょっと怒り、訝り、何より安堵した。
詰問調にならないよう、気をつけつつメールを返した。
『ゲーム機、置いていったよ。今度持って行ってあげる。おやすみ』
返事があるかと期待しながら寝入ったが、朝になっても彼女からの着信はなかった。
(何なんだろう、あの子)
自制はしても、やり場のない思いがぷくぷくと湧いてくる。
彼女なりの理由があるのだろう。けれどそれが自分に伝わらなければ、不安で不快なだけだ。
仕事の終わりに電話して、話してみようと決めた。訊きたいこともある。そう思い、やはり直接会って話さないとこじれてまずいか、と考え直し、仕事の合間にメールしてみた。
『今夜、会える?』
そう送ってしまうと、何だか無性に彼女に会いたくなってくる。デートが叶わないのなら、ひどく詰まらない夜になりそうだと、みーくんはぼんやり思った。
幾らなんでも問いかけだ。返事はある、と踏んでいたメールにも、篤子ちゃんからの返事はない。終業時刻も迫る。
もうみーくんには、意味がわからない。
匙を投げる思いで、ペンと一緒に携帯もデスクに放った。
(訳がわからない。理由くらい教えてくれたって…)
ぐるぐるともっともな愚痴が、言葉にならずに彼の頭を回った。
残業続きであったが、春期講習は明日からだ。今夜ばかりは早々と仕事を切り上げ、テキストを数冊抱えて予備校を出た。担当授業の組み立ては済んだが、さらう程度のことは毎回やる。
月のきれいな晩で、うっすら紺色をした空に点々と星が散って輝いている。どことなく、夜風が春っぽい。冷たいものの、柔らかで優しい。
駐車場へ向かい、同僚とちょっと手を挙げて別れ、車の施錠を解いた。片手の上着とテキスト数冊を、助手席に投げ込んだ。
そこで後ろから声がかかった。
「先生」と。
とっさにみーくんは振り返った。他の車の影からひょっこり姿を出したのは、夢にまで見た篤子ちゃんの姿だった。
今夜は前の夜とは打って変わり、ダウンジャケットを着込み、厚手のタイツのロングブーツと、なぜか季節を逆行したようなスタイルだ。
手に提げた紙袋をやや持ち上げて見せ、
「お弁当作ってきたの。ちょっと頑張った」
と微笑むのだ。ビルに入ろうかと思ったところで、彼が出てくるのが見え、待っていたという。
「篤子ちゃん…」
告げたかったこともある。訊きたかったこともある。しまい込み難いぶくぶくした怒りもあった。
「ごめんなさい、メールしなくて。先生を驚かそうと思って」
そう無邪気な答えが返れば、もうそれでいいじゃないかと、落ち着いてしまうのだ。彼の中の色々な感情が混ざり合って溶け合って、彼にも説明し難いシナジーで、きれに透明になってしまうような気持ちになる。
その思いは不思議に彼に作用し、この刹那、自分を真っ直ぐに見上げてくれる篤子ちゃんへ、大きな寛容と、大きな優しさをあげられる気がするのだ。
これまでのような、上辺怒りを堪えた小言ではなく、思いを込めた注意と、「こうしてほしい」という願いへ変わっていく。
「ねえ、先生、おなか空いてるでしょう?」
そう自分へ注ぐ、優しい言葉や愛らしいまなざしがあれば、もういい。何もかも、多分自分は彼女の自由を認めて、そして許していける。
みーくんは無意識に腕を伸ばし、彼女を引き寄せた。きつく抱きしめ、頬を胸に押し当てた。
ちょっと抗い、シャツの胸に手のひらを押し当てる。彼女はそのあえかな抵抗の後で、けれどすぐにちんとおとなしくなるのだ。
「先生に会いたかった」
つぶやくような可愛いささやきに、みーくんは「僕も」と返した。幸せなひとときは、甘くてまあるく彼の気持ちを包んでくれる。
早い春の柔らかな月あかりが、ふんわりと降り注ぐ。



          

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