幸せの色は赤い色
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それを耳にしたとき、篤子ちゃんは「なあんだ」と思った。些細なことであると。
だからその返しに、素直な様子で頷いたのだ。大丈夫、とでも言うように。
 
長瀬さんが不意に訪れたのは、雨模様の冷えた午後で、篤子ちゃんの好みでないお菓子を手に、朗らかではあるが、この日はちょっと胸に含んだようなところを見せていた。
父のいない平日の昼間に、彼女がわざわざやって来たのにはそれなりの訳があるのだろう。篤子ちゃんはそう思った。思いはしたが、重くも捉えなかった。
この先の父との再婚を考えれば、自分に早く打ち解けよう、早く親しくなろうといった、気持ちがそうさせるだろうと、彼女なりに理解もしていた。そして、そんなじれじれするような急く感情は、彼女にだってちゃんとあるのだ。
紅茶を淹れ、リビングに向かい合う。天気の話や篤子ちゃんの学校のことなどに触れ、逡巡を見せた後で長瀬さんは、ふと妙な前置きをした。
「嫌な話だと思うけど、ちょっと聞いてね」
何だろうと、篤子ちゃんは思った。ためらう長瀬さんがまず怪訝で、自分が彼女にそうさせる理由など、短いその間、浮かばなかった。
「ねえ、篤子ちゃん、彼とは、よく会うの?」
一瞬「彼」が篤子ちゃんにはぴんとこず、どこの「彼」だろうと、瞳をくりんと泳がせた。それくらい、その「彼」にはちょっとした重さがあった。父の使う「彼」とはずっと響きが違う。
のち、すぐにそれがみーくんを指すのだと、気づく。
「週に、二度ほどかな…。でもどうして?」
篤子ちゃんは、長瀬さんの前では意図して砕けた言葉を使うようにしている。
「確か、うんと年上の人だったわよね」
「うん…」
頷きつつも、その「うんと年上」にもちょっとした重さが感じられるのに、篤子ちゃんは微かに頬が強張るのだ。
「年上の彼に合わせた背伸びしたおつき合いは、…篤子ちゃんにあんまりよくないと思うのよ」
(背伸びなんてしていない)
内心、彼女にはちょっとした苛立ちがあった。長瀬さんが一体自分に何を言いたいのかも、よくわからない。
長瀬さんがその後つないだ言葉に、彼女は頬が熱くなった。以前篤子ちゃん風邪を引いたとき、彼女の着替えが少し目に入ったのだと言う。
「万が一、万が一ね、妊娠するようなことがあれば、困るのは女の子の方よ」
静かに、ためらいながらもきっぱりと告げた長瀬さんを前に、篤子ちゃんは恥ずかしさに瞳を伏せるしかなかった。そういえば病院に診察に行った際も、診てくれるちょっとハンサムな医師の前に、あのキスマークだらけの肌を見せるのが、本当に嫌だったのだ。そんなことを思い出し、
(先生、嫌い)
などと、忘れた怒りがまた込み上げて、しゅっと消えた。
「これ以上のあまり深いおつき合いは、篤子ちゃんのためにならないと思うの。その彼がいけないと言うのじゃないのよ。ただ、その彼にだけ夢中になるのじゃなくて、よそにも目を向けて、もっと気軽なおつき合いを、広く浅くする方が、篤子ちゃんの年頃にはいいんじゃないかしら」
みーくんが聞いたら、顔面蒼白になりそうなことを、長瀬さんは諄々と話すのだ。
「余計なこと言って、ごめんなさいね。気になって気になって、しょうがなかったものだから…」
実際、長瀬さんは彼女の背に情事の跡を認めて以来、篤子ちゃんが心配でならなくなったのだ。ずっと年上の男に可愛い女子大生が、いいように利用され騙されているのではないかと、不安になったのである。
素直で、ややぽややんとしたところがあるものの、可愛くて、きちんとした篤子ちゃんという娘ができることが、長瀬さんにはとても嬉しいことであるらしい。彼女の愛らしい人となりに、「こんな風に娘を育てられる人であるなら」と、自らの再婚相手となる男性に新たに満足を覚えもした。
成人式には着物をあつらえてもやりたい、一緒に買い物に出かけるのも楽しいだろう…、ささやかで優しいそんな夢を幾つも持っているのだ。
さすがに父親には事実を告げられず、それとなくみーくんの人となりを聞いてみたが、こっちはまったく当てにならない。すっかり彼を信用し、「へたな若者と一緒にいるより、みーくんといてくれた方がずっと安心できる」などと、頭から信じ切っている様子だ。
(これだから、男親は)
と、気を揉んだのだ。彼女にすれば、悪智恵の回るみーくんに上手く懐柔されてしまっているのではないか、とすら勘繰ってしまう。
それが高じて、数日前には彼の予備校へ、ちょっと様子をうかがいにも出かけた。何を言うのが妥当か判断もつかなかったが、どんな人物か、ただ見ておきたかったのだ。なかなか繁盛しているらしく、目当てのみーくんには授業中で、会うことは叶わなかった。
 
長瀬さんが帰った後で、篤子ちゃんは残ったぬるい紅茶を飲みながら、彼女の言葉を何となく反芻してしまった。
意味もわかるし、もちろん腹立ちもない。言い難いことを、自分を心配して敢えて口にしてくれたのだろう、と思いもする。
友人が母親の口うるささを愚痴るのを、聞くことはよくある。「お母さんがうるさいの」とか、「ママがまた…」とか。それにごく似たものを、自分が長瀬さんから思いがけずもらい、驚きもし、また新鮮だったのだ。母親の小言とはこういうものか、と。
篤子ちゃんには母親がおらず、これまでそれらの愚痴がどんなものか身にしみて感じたことはない。父の注意をうるさく思うことは確かにあるが、それとはやや色合いが異なるだろう、と篤子ちゃんは思うのだ。
鮮やかに生みの母の記憶があれば、長瀬さんの言葉と比較もできよう。それなりの感情もわくだろう。
けれど、篤子ちゃんにはそれもない。
ただ、不快に捉えないだけで、じんわり心の奥から浮かぶ思いもある。それはくっきりとした違和感で、父の小言とのそれではなく、友人がもらす母への愚痴のニュアンスとのものだ。
(まだ長瀬さんは、「お母さん」じゃない)
トレイのティーカップを手に立ち上がると、その辺に置いた携帯がコールのメロディを奏でた。出ると菫で、今晩出かける誘いだった。
わくわくと篤子ちゃんは、「行く」と答える。ホワイトデーの遅いプレゼントに、みーくんに買ってもらったワンピースを着ようと思った。そしてホワイトデーの遅いプレゼントに、これもみーくんに買ってもらったパンプスをはこうと決めた。
「六時に行くね」
との約束を交わし、ホワイトデーの遅いお返しに、これもみーくんに買ってもらったゲームソフトで、父の夕飯の仕度までしばらく遊ぼうと思った。
 
 
その晩は結構盛り上がって、篤子ちゃんも気分よく飲んだ。
一見そんなにお酒が強くないように見られるが、彼女はそこそこいけるクチである。この日は勧められて、冷酒をちょっと過ごしたようだ。
繁華街から外れたチェーン店の居酒屋で、最初女の子だけで気軽に飲んでいた。すると隣りの仕切りの若いサラリーマングループが、一緒に飲まないかと声をかけてきた。
「奢るよ」と言われれば、こちらに否はない。
楽しい人たちで、皆のりよく飲んだ。十時近くまで過ごし、約束通り会計はすべて持ってくれた。その代わりか、店を出ると、しつこく二次会に誘う。
「次、行こうよ。ね? まだ早いし」
女の子の方は酔ってもいて、特に篤子ちゃんの足もとは覚束ない。飲んだ量も量だが、家を出しな、寒気がするのため風邪薬を飲んできたことが関係するのかもしれない。
「今、車持ってくるから。ね、次行こうよ」と、しきりに誘う。一人が、店の前から裏の駐車場へ走るのが見えた。
ふらっとする篤子ちゃんの腕を菫ちゃんがつかんだ。「大丈夫? 篤子」
「うん…」
こんなに酔うことは珍しい。頭はまだしっかりしているようでも、足取りがひどく危うい。「帰ろう。篤子、こんなだし」菫ちゃんが鞠菜ちゃんの袖を引いてささやいた。互いに頷き合う。
ご馳走にはなったけれど、今後つながっていたい訳でもない。お義理でメールは教えたけれど、それ以上でもない。既に笙子ちゃんは、お迎えの電話を彼にしている。
「ううん、帰る。ご馳走さま」
「何だよ、行こうよ。歌えば酔いも覚めるって」
こちらも酔っているのか、歩道でまるで地団駄を踏み、スーツのネクタイをぶらぶらさせる。
一人の手が伸び、ふらつく篤子ちゃんの腕をつかんだ。「ねえ、篤子ちゃ〜ん」とふざけて彼女の腕をぶんぶんと上下に振った。
身体がその動きにバランスを崩して、彼女はころりとアスファルトに転んでしまった。勢いに、膝がすりむけた。
「きゃ」
「あ、ごめん」
女の子の手が伸びるより先に、すっと誰かがサラリーマンの男との中に割ってきた。
冷たい地面から、抱えるように篤子ちゃんを立たせてくれたのは、美馬くんだった。
「大丈夫? 立てる?」
不意に現れたハンサムな彼の登場に、女の子たちは驚いて、喜んで、わっとわいた。
そばのコンビニを出たところでこちらの様子に気づき、走ってきてくれたのだという。
篤子ちゃんを転ばせて傷をつけてしまったことや、いきなり現われた女の子と親しげな美馬くんに、興が冷めたのか、気まずいのか、サラリーマンの男性らはあっさり引き下がった。
その後、笙子ちゃんの彼が迎えに現れ、女の子はそちらに乗るのだ。開いた後部座席のドアから、ボリュームを上げた何語だかわからないレゲエ風の曲が、じゃんじゃか流れてくる。
「ちょっと、うるさい」
笙子ちゃんに叱られ、彼氏は音をぐっと下げた。
「じゃあ、ありがとう」
美馬くんに改めて礼を言いい、最後、菫ちゃんに続いて車に乗ろうした篤子ちゃんの背に、彼が声を掛けた。自分が送るという。
「え」
「バイトのついで」
「え」
「バイクで寒いけど、ちょっと我慢して。すぐだから」
篤子ちゃんの家(菫ちゃんの家も)は笙子たちとは方向がずれ、レゲエ好きの彼氏には遠回りをしてもらうことになる。悪いな、と思ってもいたから、「じゃあ」と彼女は、美馬くんにお願いすることにした。
菫ちゃんが、その彼女をじとっと羨ましそうにこちらを見ていたが、瞳で「ごめん」と謝っておいた。
 
家の前まで送ってもらい、篤子ちゃんはふらふらとバイクを降りた。ごく近い距離ではあったけれど風を気って走るバイクでは、寒さもひどかった。ヘルメットを返し、ちょっと震える声で「ありがとう」と礼を言う。
メール着信のメロディ。ご馳走になったサラリーマンの男性からかとも思ったが、きっと菫ちゃんからだろう。
美馬くんは篤子ちゃんの声にちょんと頷いただけだ。ハンドルから両手を離さない。バイクから降りず、住宅街を考えてか、エンジンだけを切った。
彼に背を向け、彼女が閉じたアルミの門扉を開けるぎいという軽い音と、美馬くんの声が重なった。
「先生のこと考えてる?」
「え」
振り返ると美馬くんはこちらを見ていて、その瞳が、夜目にもほんのり怒りを含んでいるように、篤子ちゃんには感じられた。そんなきつい目で自分を見る彼を知らないからだろう。
美馬くんの言う「先生」とは篤子ちゃんのそれと同じで、みーくんに他ならない。彼女は返事に困り、うつむいた。
「みっともないよ。先生の気持ちにつけ込んで、いい気になってるみたいだ」
彼の予想外の厳しい言葉に、篤子ちゃんは声をなくした。彼はこれを自分に告げたくて、送ってくれたのだろう。
今夜のことは、春期講習で忙しいみーくんの時間と心配性のハートを彼女なりに気遣うつもりで、何も言わずに出かけてきた。
あれこれあって、彼女なりに混乱もしていたし、長瀬さんのあの話の後では、当のみーくんに会うのが恥ずかしくもあった。だから、今夜は彼に出かけることを敢えて断らずにいたのだ。
「勘違いしてない?」
悪気はない。故意の悪意もない。けれど、それが美馬くんのようなみーくんをよく知る人の目には、「みっともな」く、「気持ちに付け込ん」だ、「いい気になっている」、「勘違い」したわがままな彼女の振る舞いに見えるのだろう。
ばちり、と頬を張られたように感じた。
また携帯がメールの着信を知らせた。きっと菫ちゃんだろう。美馬くんに送ってもらった篤子ちゃんをちょっと妬いて、次々とメールしてくるのだ。
(妬くことなんかないのに)
辻褄が合ったようにこんなときに思う。ハンサムな美馬くんが彼女に親切で優しいのは、彼女と「親しい」からではなく、「先生の彼女」だからということに。
今更こんな簡単なことに気づく自分が、惨めで馬鹿で、美馬くんが言うように本当に「みっともない」と思った。
「ごめん、偉そうなこと言って。でも、ちょっと頭にきてたから」
彼はそうぽつんと言った。手も挙げず、きれいな瞳をこちらに一瞬据えた。
「じゃあ」
篤子ちゃんは別れのそれに、辛うじてもう一度「ありがとう」を告げられただけだ。
去って行くその姿は角を折れ、すぐに見えなくなる。
(わたし……)
一つでは決してないいろんな感情が、そのときいきなり、どしゃ降りのように彼女に降り注いだ。
(わたし……)
堰を切ったようなそれは増して抑えきれないほどふくれ、その複合的な複雑な思いは、彼女の瞳に涙をあふれさせた。
悲しくもあり、切なくもあり、寂しくもあり、恥ずかしくもあり、辛くもあり……。
彼女の心に合わせたように、この夜の星のない空が、このとき大粒の雨をもたらした。髪に顔に肩に、次々水玉を作り、それは止まらない涙と混じり、にじんでいく。
寒さに震えながら、子供のように一時篤子ちゃんは、嗚咽を堪えずに泣いた。声は、勢いを増した雨音に紛れた。
言葉にもならない気持ちは、涙や嗚咽と共に強くこぼれ出して、とめどもない。
自分にも形容できない、まだらに混ざり合う形のない感情。
それが今、おそらく美馬くんの言葉をきっかけに、注ぐ雨と瞳があふれさす涙とで見えない滝をなすように、流れていく。
絡まった気持ちの陰で、今このときを、心地いいと感じた。
心がこのまま空っぽになればいいと願った。




          

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