糸車のまわる音がカラカラと耳に残るので残るので
Impressions 19
 
 
 
雨が激しく降る音は、誰かの声と笑い声に押され小さく、気づかれなかった。
予備校の終業前に一人が言い出して、本城さんの部屋にゲームをしに集まった。
休み前でもあって、興も乗って変に盛り上がり、朝食を賭け昼食を賭け、夕飯を賭け、ついでに本城さんの恋の行方も占い、深夜になっている。
みーくんが、脱いだ上着のポケットの中で携帯が鳴るのに気づいた。メールの着信で、ちらりと確認した表示から、篤子ちゃんだと知れた。
テイクアウトのピザをかじりながら、本城さんが彼のちょっと手元をのぞく。
「この前の合コンの損保OL? ビューティだったよなあ」
「行ってない」
返しながら、届いたメールを見る。多分今の時刻なら、毎晩送り合ういつもの簡単な「おやすみメール」だと思った。瞳が文をなぞるほんの一瞬で、みーくんが眉をひそめた。
メールには、
『先生、ごめんなさい』
とだけある。何が『ごめんなさい』なのか、その理由はない。
ときに意味不明なのは、篤子ちゃんの特徴成分でもあるが、こんな意味深な短いメールをぽんと送ってきたことなどない。先生、とあるには、誰かと間違えたのでなく、自分へのものだ。
咄嗟にみーくんは、嫌な予想が頭に浮かんでしまう。つれて、気持ちはどどんと暗く沈む。メールは、彼女の自分との別れの意思の切れっぱしではないか、と感じたのだ。
まさか、と思う。明日は彼女と会う約束もある。
でも、気になって、気にかかって、心配で、似たそれらがぐるぐると頭を連なって回り、どうしようもない。
「悪い、ちょっと」と断り、リビングの外に出た。みーくんは篤子ちゃんに電話をかけた。なかなか出てくれない。
彼の足もとに、本城さんの読む英雑誌のバックナンバーがまとめておいてある。縛られたそれを、コールを聞きながら、壁にもたれ、みーくんは爪先で、とんとんといじっている。
長いコールの後で、ようやく篤子ちゃんにつながる。
『…あ、先生…』
「どうしたの? メール見たけど。何かあった?」
篤子ちゃんははっきりとした返事をせず、代わりに、『先生、何しているの? 仕事終わったの?』
みーくんは、仲間と仕事帰りに本城さんの部屋にいる、とまでは答えた。途中、わざわざ一人が近所の実家に取りに行ったボードゲーム『人生ゲーム』を今まで三順もやっていたとは、明かさなかった。これからその四順目に入ろうということも。
「ねえ、どういう意味? あのメール、ねえ…?」
『そのまんまの意味……』
言いにくそうに彼女が口にしたのは、これだけ。後はなぜか、電話の向こうでちょっと涙の気配がするのだ。
みーくんはもう胸がざわめいてどうしようもない。つい、足先で本城さんの雑誌を蹴り転がした。
「何が、ごめんなの? 教えて、ねえ篤子ちゃん」
『だって…、先生に迷惑ばっかり……、わたし……、もう嫌になっちゃった…』
「迷惑なんかじゃないよ。どうして急にそんなこと思うの? 篤子ちゃん」
それには、しゅんと小っちゃく鼻をすする音の後で、
『何となく…、思ったの…』
そんなこと、原因もなく「何となく、思う」ことじゃない、とみーくんは思う。自分の知らない何かが、彼女にあったのだろう、とも。訳はわからないままも、泣いている彼女が可哀そうで、痛々しくてならない。
『ごめんなさい…、先生』
そのフレーズは、電話越しの声で聞くと、更に凄味を増す。まるでアイスピックのような鋭利なものが刺さったかのように、ちょうど心臓が痛いのだ。その後で、絶対耳にしたくない言葉が続きそうで、怖くなる。
「篤子ちゃんは、悪くないから。ねえ、明日会えるよね?」
それ以上、理由について何も言わない彼女に、方向を変え、明日会うことを確認した。会って話した方が、ややこしくなくていい。何があったのかも、聞き出しやすいだろう、と思った。
篤子ちゃんはそれに、涙混じりの小さな声で、『うん』と返事をくれた。
電話を終え、また気持ちの入らない四順目の人生ゲームに戻る。春期講習の打ち上げ代の50パーセントが賭けられていたが、そんなの、この際どうでもよろしい。
みーくんが『台風でスタートに戻る』の目で、びりになった頃、またメールが鳴った。開くと篤子ちゃんからで、
『わがままで、ごめんなさい。先生の声が聞けて嬉しかった。おやすみなさい。』
とある。
(あの子…)
その文は胸にしみて、虚脱しそうなほど彼に嬉しくて、知らず頬が緩んだ。ぱっと気分に花が咲いたように、暖かさが戻るのだ。
(可愛い、篤子ちゃん)
みーくんはしげしげと、メールの文を何度も見直したりした。
彼女の気ままな言動に、自分の気持ちがふらふらと右往左往に動かされているのは、彼も自覚している。
けれど、それは、実に些細なことに過ぎない。大したことでもない。それで彼女の気が晴れるのなら、十分の価値があるのじゃないか……。
何を糧にか、とうとうこの辺りのレベルにまで達した、最近のみーくんは思うのだ。二人の間で、彼がこだわるべき重要なことは、きっと他にある、と。
そして、明日篤子ちゃんに会うのが楽しみで、堪らなくなる。
 
 
翌日は春めいて晴れた空が広がる、気持ちのいい日曜だった。
この日は、篤子ちゃんを実家に連れて行くことになっていた。ついでに時間が合えば、母親に紹介もしておこうと。
十時頃、彼女の家に迎えに着いた。父親はゴルフに出ていないという。
篤子ちゃんは、春らしい色のワンピースを着て玄関から出てきた。少し広めに開いた胸元が、ほんのり色っぽくさえ感じる。みーくんの目に可愛くて、ひどくまぶしい。
夕べのメールもあり、彼は会った途端に手を握った。
「あ」
引き寄せられて、篤子ちゃんはいつものくりんとした瞳で、彼を見上げる。その目に涙の色はない。ただ、恥じらうのか、握られた手を軽く引いて、すぐに彼から顔をやや背けた。
みーくんの実家のある花滝温泉に向かう道すがら、彼は夕べのメールの件に話を振る。けれども、やはり篤子ちゃんからは、はかばかしい言葉は返らないのだ。
本当に、何となく、揺れがちな女の子らしい気分で、ふっとあんなことを思ったのだろうか…。みーくんの気持ちがそんな風に落ち着いた頃、篤子ちゃんががらりと話題を変えた。
彼女の通う短大で、春休み中も行われる就職セミナーについてだ。もう二度も出席してきたらしい。
「出席取るんだもん」と、篤子ちゃんはあっけらかんと言う。「そう」と返しながらも、みーくんはここのところ彼を徐々に悩まし始めた、篤子ちゃんについての新しい問題に、気持ちが傾いだ。
『彼女の就職』問題である。
今一年生の彼女は、当たり前に翌月の四月から二年生になる。来年度の卒業後に向け、いまだ彼女の口からそんな話は出たことがないが、これも当たり前に、就職活動も行うことだろう。
(学生の間は、まだいい)
どこでもいい、卒業後の彼女がいずれかの企業に就職する。彼が危惧するのは、そこでの新しい環境や出会いのことだ。
取り囲む環境が変われば、大なり小なり自ずと人の気持ちは変る。
同期の人間や、または数年上の先輩。みーくんには面白くもない男どもが、うじゃうじゃ彼の彼女を取り巻くだろう。そして、日常長く側に接し、彼女の困った仕事のトラブルをアドバイスしてやるのは彼らである。
固まったパソコンを直してくれる身知らぬB先輩の方が、欠片も役に立たない微分積分を教えている自分などより、篤子ちゃんにとって、はるかに頼もしく、かっこよく映るだろう。
(多分、彼女の三つ四つ、年上の男かな。危ないのは)
押して考える。
これまで彼女の周りには、異性の大人はほぼ自分しかいなかった。僻みでなく、みーくんは冷静に思う。彼女の自分への愛情の一端には、その新鮮さも必ずあるはずだと。
それが、就職すれば、大人の男など、まわりにわんさか増えるのだ。珍しくもなんともない。
そういったこれからの彼女の実際の、それから気持ちの変化が、みーくんには、心配でならないときがあるのだ。
ちらりと隣りの彼女をうかがう。ふんわりとしたセミロングの髪を揺らし、窓へ向いたところだった。動きに、髪からか、瞬時柔らかくて甘い風が散る。
「篤子ちゃんは、どんな仕事がしたいの?」
みーくんの問いに、彼女が振り返った。さあ、と頼りなげに首を傾げ、「まだわからない」と言った。
(そりゃそうだろう)
ほんの一年ほど前まで、セーラー服を着た高校生だったのだから。
たとえば、みーくんが将来を考え出したのは大学の四年の頃で、今の篤子ちゃんより三年も後だ。だが実際、現実的に考え出したのは、実はその後の院に進んでからになる。
母子家庭で、出奔を繰り返すハレンチな妹のいる彼には、転勤の可能性が高い企業に勤めることはためらわれた。そんな事情が、今の仕事を選ぶ大きな理由にもなった……。
「お父さんが、どこも雇ってもらえなかったら、うちの事務所に来ればいいなんて言うの」
篤子ちゃんの父は、設計事務所を営んでいる。みーくんはその言葉に頷き、
「そうしたらいいじゃない、お父さんのところなら。それが楽でいいよ。しんどい就職活動なんか、敢えてすることないじゃない。ほら、働き出したら、僕もお小遣いをあげる」
ほろほろと、本音がもれた。
(ぜひ、そうしてほしい)
彼にとってベストだ。
篤子ちゃんは、彼女の重大事にそんな適当なことを言う彼を、じろっと横目で見た。いやらしい大人を見る目をしている。実際、みーくんの発言(特に後半)は、いやらしかった。
「お父さんのところは、やっぱり嫌」
彼女はふくれて、きっぱりとそう言った。
でもその後、意外なことを口にする。
「まだ決めてないけど、多分進学すると思う」
短大付属の専攻科に、おそらくあと一年通うことになるだろうと。そういう学生は多いらしい。
「え」
お菓子の学校に行きたい気持ちもあるんだけど、とちょっと前置きし、
「皆もそうするって言うし…」
「…そう」
何とも主体性のない虚弱な進学理由だ。しかし、進学予備校を経営する身でありながら、篤子ちゃんは特別で、みーくんにはちっとも気にならない。
学生でいてくれるのなら、ありがたいのだ。
真っ暗闇に光がさしたような嬉しい言葉である。少し前、彼女に英語課題を解くのを頼まれて、眉を寄せていた彼とは、まるで別人のようだ。
彼は、ちょっとの咳払いの後で、なるべくあっさりとさりげなく、を努め、
「篤子ちゃんが決めたのなら、間違ってないよ」
篤子ちゃんは、先ほどの彼の失言を、敏く冗談に流してくれたらしい。にっこりと笑う。
「先生がそう言ってくれると、安心する」
みーくんの悩める内心など知らない彼女は、可愛らしくそう告げ、彼の左腕にちょんと触れた。そのまま手を留め、甘えた仕草で身を寄せるのだ。
「先生のお嫁さんになりたい」
「ポッキー食べよう」とでも言うように、そんなことを軽く言う。彼女との結婚を、密かにしっかり夢見るみーくんには、その夢を他愛のない冗談にされたようで、どこか寂しくなる。
「いいよ、篤子ちゃんなら」
ちょっとしんみりと、彼は少しだけ思いをめぐらせた。
この先の未来に起こる小さなこと大きなこと。さまざま数多のそれらに遭い、自分は通り抜けたり、または選択をしたり、日々繰り返していくのだろう。
そのこれからの自分の一番そばに、誰でもない、やはり彼女がいてほしいのだ。
ときに共有する何かを一緒に選んだり、考えたりする。彼女の甘えにわがままに、自分は譲ることが多いかもしれない、それでちょっと悩ましく思うこともあるかもしれない。
それでも、たとえば、今の自分と同じくらいの年になった篤子ちゃんを知っていたいと願うのだ。彼女がこの先、生活を重ねて迎える当たり前の変化を、知っていたい。
(大人になっても変わらず、僕を「先生」と呼ぶのかな…)
知りたいと思う。そして切にその声を聞きたいと思った。
 
実家には、昼過ぎに着いた。
今頃は旅館で忙しいはずの母親が、その忙しさを縫って在宅していた。ちょっと仕事を抜けてきたなりらしく、すらりとした身に、渋い地に桜の裾模様の訪問着をまとっていた。
挨拶をした篤子ちゃんを、上から下までしげしげと眺め、「お寿司取ったらから、食べなさい。ゆっくりしていってね」とお愛想を口にするものの、美人で貫禄もあり、ちょっと睥睨したように見えなくもないのだ。
確認は済んだとばかり、
「みーくん、ちょっと」
と息子を呼んだ。「ちょっと」でない大事でも、この母親は「ちょっと」と彼を呼ぶ。
居間と続いた台所のダイニングテーブルに母親は座り、その辺に載った煙草を引き寄せた。
みーくんは母親に外せない用を頼まれていて、今日来たのには、そのためもあった。彼は株式会社化している家業の旅館の一応の名ばかり取締役になっている。ちなみに代表取締役は母親だ。
それなりの役員報酬もあるが、ほとんど実務はない。それでもたまに書類上彼の名が必要な折もあって、そんな際、名目『上司』の母親に呼び出されることになる。
「あ、食べてて」
みーくんは篤子ちゃんに促し、幾枚かの母親の差し出す紙を、指でつまんだ。
篤子ちゃんは普段から着物を着ている人間が珍しく、ちらちら彼女の姿を目で追ってしまう。春と言っても冷える日が多く、家の中もひんやりとしていた。寿司の折の載ったこたつに彼女が足を入れると、何足先に触れ、ぎょっとなる。猫でもいるのかと思ったら、そうではない。
亮くんが寝転んで潜んでいたのだ。起き上がるなり、寝起きのむっとした顔で篤子ちゃんをやや睨むように見た。いーっと歯を見せ、敵を見つけた猫のように威嚇するからおかしい。
篤子ちゃんもなぜか負けずに、唇を尖らせ、ふくれっつらをして見せた。
 
みーくんの母親絹子さんは、欠伸混じりにそれぞれ紙にペンを走らせる息子を、煙草の煙越しに眺める。
自分と父親のいいところだけを集めてできたような、親の贔屓目もあるが出来のいい、手のかからないみーくんは、彼女の自慢であった。
人に紹介するときも、ちょんと彼の肩に手を置き、「息子ですの」と言う瞬間は、誇らしい思いだった。
(妹の方はいけない。悪い子ではないけれど、あれはわたしが忙しさに、甘やかしてしまった)
兄妹側の見解とは違う意見を母親は持っているようだ。それは置いて。
その母親自慢の出来のいいみーくんの欠点の、大きなものは、女を見る目がないということだと、絹子さんは感じていた。
これまで息子が家に連れてきた彼女は、数人いた。
どれもそこそこ見栄えはするけれど、相手を立てることも知らない我の強そうな女の子ばかりだった、と見るのだ。
そしてこれは誤解だが、これまでの例から、みーくんを「グラマー好き」だと決めつけている。
若いからしょうがないけれど、彼は「その手の女にころっと参る」のだと、思い込んでもいる。
(「そっち」にばっかり目がいって)
と、やや歯痒く思うこともあったのだ。
(乳はでかくても、特に前のは、駄目)
篤子ちゃん以前の彼女のことで、絹子さんとその彼女は結婚に絡んでの家業ついて意見が噛み合わず、互いに譲歩も出来ず、険悪になってしまった過去がある。
亮くんやその兄の河村さん、そのお嫁さんのゆりさんなどからみーくんの新しい彼女の噂は、ちょこちょこ耳にしてはいた。
「小っちゃくて可愛い子」だという、「まだ学生のすごく若い子」だという、「おっとりしてる」のだという、それら篤子ちゃんを示す言葉を聞き、どんな子だろうと、母親らしく興味をかき立てられていたのだ。
その彼女に「みーくん、めろめろになってるんだよ、小母さん」と冷やかすように口々に言うのだから、ぜひ会いたいではないか。
実際会い、びっくりしたのが、その若さもそうだが、何よりも、服の上からも控え目なのが知れる篤子ちゃんのバストサイズだった。
(あの子、デカ乳から、乳ナシに、いつ宗旨替えしたのかしら?)
そんな下世話な想像を凝らしながら、自分を見ているだろうとはまさか思いも寄らないみーくんは、書き上げた書類を母親に返し、すっきりとした様子で煙草をくわえた。
「これでいい?」
ゆらりと立ち上がる。
さっきまで睨み合うかのように向き合っていた亮くんと篤子ちゃんは、ちょっと親しげになってゲームの話をしていた。自分の方のスコアがいいとか、自分の方のエンディング数が多い、と張り合っている。
みーくんは母親愛用の物置兼マッサージチェアに掛け、煙草をくわえたままそこでうんと伸びをし、眠いのか欠伸をした。
「馬鹿だからな」
篤子ちゃんへきつい言い方をした亮くんに、「こら」と注意する。
「みーくん、お母さん行くわ」
「うん」
みーくんは首だけ母へ向け、頷いた。母は立ち上がり、マッサージチェアのそばの姿見で、髪と帯の具合を確かめている。
平静な表情の下で、絹子さんは、息子の趣味の意外過ぎる方向転換にやや戸惑いながらも、これまでと違うタイプの篤子ちゃんという一見子供っぽい女の子の何が、みーくんに魅力的に映えたのだろうと考えた。
いずれにしろ、まだ若い篤子ちゃんを相手のこの恋愛を、彼がそう重く捉えていないのだろうと、想像するのだ。今は結婚など視野にも入れず、恋愛を楽しんでいるだけなのだろうと。
(まだ十九歳じゃね…)

お話にもならないではないか。
内心、そう結論づけながらも、息子の若い彼女へ微笑んだ。
「ゆっくりしていきなさいね。篤子ちゃん、またね」
急ぐので、書類を持つや、絹子さんは簡単に言葉だけかけ、家を出た。
篤子ちゃんと次会うときなどもうないかもしれない、と何となく思った。母の目から見て、いかにも不釣合いな二人に見えたのだ。
(長続き、しないわね、あれじゃあ)



          

Impressionsご案内ページへ

お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪

ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪