ああどうか、この両の足を落として下さいな、
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一日何気なく過ぎる。その最後には決まって、何となく胸をさっと暗いものが射して、篤子ちゃんはこのところ落ち着かなかった。
パジャマに着替え、寝起きがいいことで始めたヨガをちょっとだけ行う。あくびも出すっきりと、いつもなら、このままベッドに潜り込めるはずだった。
気になることは、幾つかある。
大きなもの、小さなもの、その間くらいのもの。様々なそれらは、色合いも雰囲気もちょっとずつ異なり、彼女の手に負えるものの他、そうでないものも含まれている。
篤子ちゃんは、何か問題が生じたときの、誰にも明かしていない自分なりの解決法を持っている。
たとえば口にすることで、そのとびきりの効果が薄れてしまうのでは、と訝るほどごく些細なそれに信を置いているのだ。
(何でもいい、何ができるだろう)
手近なことでいい、自分に叶うことで、ちょっとでも前に進められることを考えてみる。そして余計なことを考えずに、積み重ねていく。
気がつくと、「あれ」と思うほどあっけなく気がかりが消えていたり、大したことでないと気づかされたりする。ポイントは、
(ちょっとずつ)
一つそれは見つかり、篤子ちゃんは時計を改めてみた。十一時ちょっと前。ぎりぎり大丈夫だろうか、日を改めようかとも思い、駄目なら駄目で、また次の機会を考えればいい、と思い直した。
(くよくよしているのが、一番よくない)
おそらく、この問題は彼女の胸の中のもので、小さな部類に入るものだ。
どこかで、すべての彼女の中の厄介がこの方法で消えるとは、彼女も思っていない。ただ、
(これが一つ消えたら、ちょっと楽になるかも)
そんな気持ちで考えてみることなのだ。
彼女はパジャマのボタンを大慌てで外し始めた。これから美馬くんに会いに行くのだ。彼のバイト先であるバーへ出向けば会えるだろう、と篤子ちゃんは粗く思う。
 
 
バー『ルル』の閑散とした駐車場は、そろそろ閉店が近いことを示していた。篤子ちゃんは車を白線をはみ出させて停め、降りた。
扉から明かりはもれるものの、取っ手部分に『Close』の札が下がっていた。その扉を開ける。
店内は、カウンター部分を残して照明が暗く搾られていた。そう多くないボックス席に、目当ての人物がいた。閉店の準備中で、椅子をどかしながら、床にモップをかけている。
美馬くんは、いきなり現われた篤子ちゃんに気づき、びっくりしたような顔をした。
タオルを頭に巻いた彼は、ちょっと目をぱちくりさせると、
「もう閉店だよ」
「うん、知ってる…。あの…、わたし」
篤子ちゃんは、そこで言葉を途切れさせた。うつむいて、今さっき彼が磨いただろうぬれた床を、何となく見つめた。
勢いでここまで来たものの、当の美馬くんを前に、何を何から話していいのやら、軽く混乱していたのだ。
以前、彼からみーくんのことで厳しい注意を受けたあの夜、彼女は何も返せなかった。ただあふれた自分の気持ちの始末に大わらわで、それどころではなかった。
彼の目に、自分はみーくんの気持ちをもてあそぶ、嫌な女の子に映ったのだろう。それが、みーくんをよく知る美馬くんには、不快だったのだろう。
きっとわがままだった自分も認める、慣れて、優しいみーくんに甘え過ぎたときも、きっとあった。
けれど、その彼が自分にくれる気持ちに、
(つけ込んだりも、もてあそんでもいない)
もう会うことのないような人になら、篤子ちゃんだって、敢えての抗弁はしない。誤解のままは不愉快ではあるものの、しょうがないとそのうち紛らせてしまえる。
けれど、美馬くんは(亮くんいわく)「みーくん信者」で、親しくもあり、今後会う機会だって、絶対にある。
何しろ、この『ルル』とときに掛け持ちで、みーくんらの予備校でバイトをしているのだ。
その彼と、ぎこちない感情を持ち合ってまた会うことが、彼女にはとても気が重かった。みーくんの隣りにいる自分を、誤解したままの目で見てほしくなかった。
(それだけ)
思いがけず現われた篤子ちゃんと、その彼女が言葉を途切らせたままでいるのを、美馬くんはどう思ったのか、モップを持ったままの手を持ち替え、
「何?」
とだけ促した。
彼女は、ちらっと美馬くんを見上げた。やはりみーくんと同じで、自分よりずっと大きいのだ。
ちょっとまぶしいほどにハンサムな彼は、表情に不快さも怒りも見せず、モップの柄を軽く握ったまま、篤子ちゃんの言葉を待っている。
(変な子だと思って、呆れてるだろうな)
早く何か言わないと、と気持ちばかりが焦り、結局「わたし…」と先が途切れてしまう。
辛抱強く彼女の言葉を待ち続けた美馬くんは、篤子ちゃんが「あの、わたし…、美馬さんのこと…、あの…」とまどろっこしく何かを話し始めたとき、
「困るんだ。その先、言わないでくれる?」
と、なぜか遮ったのだ。
彼女は、顔を上げた。そこで彼と目が合った。素っ気ないほどにその表情は冷たくなり、はっきりと彼女を面倒がっている様子が浮かんでいる。
篤子ちゃんは急な彼の変化に怪訝な思いで、
「どうして?」
「どうしてって…。わからないの?」
こちらの瞳を避ける美馬くんを、彼女は怖じずに追って視線を合わせた。その最中、ふと篤子ちゃんは気づいたのだ。
「あ」
まるで今のこのシュチュエーションは、彼に恋の告白をしているみたいではないか、と。しかも、自分は妙に思わせぶりなことを口にしかけた……。
彼女は慌てて首を振り、「違うの、違うの」と繰り返した。
「わたし、前の美馬さんに、先生のことで言われたことの言い訳をしたくて」
やっと聞けた彼女のまともな言葉に、美馬くんは「ああ」と頷き、硬かった表情がほどけるように笑い出した。
「ごめん。そんな訳ないよな。ごめん、勘違いした」
「ううん、わたしも、変な感じだったし…」
「ああ、今のかっこ悪いな。自意識過剰みたいだった」
モップの柄の側に顔を伏せ、美馬くんが言う。実際今のような状況を彼は多く経験しているのだろう。
(だから、間違えるんだ)
ちょっと照れた美馬くんを前に、篤子ちゃんはほろほろと、さっきまでの言葉のつかえがまるで嘘のように、言いたいことを告げた。
先生のことは大好きなこと。
遊んでるつもりも、彼の気持ちをもてあそんでいるつもりも、さらさらないこと。
「先生、優しいから、ついわがままが過ぎることは、あるけど…。美馬さんには、あんな風に見えたのなら、それはわたしのせい」
美馬くんは最後まで聞いて、頷いた。
「勘違いしてごめん」
「ううん」
何となく、目が合うとさっきの誤解がおかしいのか、二人ともに笑みがもれた。
そのとき、不意にドアを開ける音に続き、声がした。
「美馬くん、いる?」
二人が顔をそちらへ向けると、そこに立っていたのは、いまだネクタイのままの本城さんだった。「さっきさ、僕ファイル、忘れていかなかった? 白いA4サイズの…」
そこで彼の声はぴたりと止まった。篤子ちゃんに気づいたからだろう。
美馬くんは、本城さんの問いに、見かけなかったと答えた。
「全部見たから…。ここじゃないと思いますよ」
それでも、一応か、ぐるりと店内を見回している。
「いやいや、いいんだ。いいんだよ。全然。じゃあ、あいつの車の中かな…」
言葉尻をおぼろにさせ、本城さんは「じゃあ」となぜか慌てた様子で、ちらちら手を振ると帰って行った。
闖入者の登場とあっけない退場に、篤子ちゃんも美馬くんもちょっと顔を見合わせた。
「変だったよね、本城先生、ちょっと…」
美馬くんは篤子ちゃんに視線を流し、同意を求めた。彼女は首を傾げ、それに、
「そうかな、いつもと変わらないんじゃないかな」
と答えた。篤子ちゃんにとって、本城さんはどこか少しおかしみのある人であるのだから。
店を出て、篤子ちゃんは夜風の冷たさに、薄手のニットの上から巻いたストールをぎゅっとかき寄せた。また風邪を引くといけない。
ともかく、懸案が一つきれいに片付き、胸の中がふわっと軽くなった気がする。
(来て、よかった)
早く帰って、ビールを飲もうと思った。今夜は一杯飲もうと、彼女は思った。
 
 
授業の狭間、予備校の職員室でみーくんは、テキストを手にパソコンに向かっていた。
春期講習中の授業の予定の組み立てのデータが入っていて、日を重ねときにちょっとした修正を加えていく。
ぎーと床を椅子を滑らせ、本城さんがみーくんのそばに来た。勢いが余って、どんと彼の肩にぶつかった。
「わ」
何だよ、と振り返ると、ぶつかったことには触れず、本城さんは深刻な顔を寄せ、
「いい話と悪い話、どっちが先に聞きたい?」
「仕事のことか?」
「それもある」
みーくんが悪い話、と言うと、本城さんはビルのテナント料が上がることを伝えた。さっき連絡があったという。
新たに聞いたテナント料について、ちょっとみーくんが頭で何か考えていると、本城さんが不気味に付け加えた。
「悪い話はもう一個ある」
「言えよ」
本城さんが声をひそめて口にしたのは、夕べ、深夜行きつけのバー『ルル』へ忘れ物を捜しに行った際のことだ。
篤子ちゃんと美馬くんが、そこには二人きりでいた。
「あんな時間、あんな所で、二人で仲よさそうにしてたぞ」
みーくんはそれを聞き、軽く咳払いしてから、煙草を引き寄せた。予想を超えた話で、にわかに信じ難い。しかし本城さんがそんな嘘をつくとも思えない。
(何で、篤子ちゃんと美馬くんが?)
口にくわえ、火を点けかけたところで、フィルター部分に火を接していることに気づいた。ライターの火を消し、改めてくわえ直す。すぐに火をつける気が、彼には起きない。
みーくんのおかしなミスを、本城さんは目を細めて眺め、ぽんと肩を叩いた。励ましたつもりなのだろう。その力で、みーくんのくわえた煙草がぽろっと膝に落ちた。
「いい話は?」
聞けば、本城さんの実家のうどん店が、幹線道路沿いに三号店を近く出店することらしい。彼は粗品のライターをみーくんにくれた。
篤子ちゃんと美馬くんが「二人で仲よさそうにして」いたという話を聞いてから、みーくんの中で、
(まさか)
と、
(何で?)
が、ほぼ交互に浮かんでは消えた。
美馬くんは、数年前の彼の教え子になる。友人の弟(亮くんのこと)絡みで、会うことも多く、この予備校にも折りにバイトにきてくれている。
行儀のいい、真面目な子で、ちょろちょろ自分勝手な面のある亮くんとはまた別の、可愛げと「弟っぽさ」を感じてもいた。もちろん好ましい。
目立って容姿がいいのが特徴にもなるが、それを鼻にかけたところのないごく気さくな好青年である。亮くんいわく、女の子に非常にもてるようだ。
(まさか)
授業五分前に仕掛けた腕時計のアラームが鳴った。テキストを持ち、もう一度パソコンの予定表にざっと目を走らせる。飲みかけのミネラルウォーターを一口だけ飲んで、教室に向かった。
靴が何か踏んだのに気づいて下を見ると、先ほど自分が落とした煙草だった。拾うことも忘れていた。
みーくんはそのまま靴先であちらへ蹴って、職員室を出た。
(何で?)
 
 
その日はみーくんの予備校の春期講習の最終日で、仕事の後で篤子ちゃんは、彼と会う約束をしていた。
(先生と会うの、久し振り)
思えば、彼の実家にお邪魔した日曜以来である。
忙しい彼は、春期講習が終わったからといって暇になる訳ではない。間もなく新年度の準備に続き、通常の授業体勢に移っていく。
ただ今の時期は、ほぼ夕食時には終業時刻を迎えるため、一緒にいられる時間も多くなる。
「朝から晩まで、喋りっぱなし」というみーくんは、いつもより声が掠れていた。
予備校を出てから、篤子ちゃんの意見でオムライスの夕飯を一緒に食べた。
店を出て、車を置いたやや離れた駐車場へ歩く道すがら、篤子ちゃんは彼の手を取り、それをときに振り、とりとめなくあれこれと喋った。
さっきのオムライスのこと、じき短大が始まることや、父親が言い出した家のリフォームの計画の話、二人を通り過ぎて行った野良猫の様子……。
つらつらと続いたそれらに、みーくんは、どこか心ここにあらずといった「ふうん」を返すばかりだった。
無口な人ではないが、お喋りという訳でもない。
(あ)
不意に篤子ちゃんは気づいた。その考えに、思わず彼の手を離してしまった。歩が止まる。
みーくんは気候がもう肌に合うのか、上着を腕にし、ワイシャツだけになっていた。ネクタイは緩めたため、結び目で曲がっている。
くりんとした瞳で、彼女はそばのすんなりとした背の伸びた彼を見上げた。
急に立ち止まった篤子ちゃんに、みーくんは声をかけた。小首を傾げ、彼女に訊く。
「どうかした?」
「…ううん」
篤子ちゃんは首を振り、何でもないと答えた。
にわかに、泣きたくなった。
(つまんないんだ、先生)
彼女の話す事柄が、大人のみーくんには幼稚過ぎて、面白くも何ともないのだろうと思ったのだ。退屈なのだろう、と。
かといって、急に大人びたことなど言えるはずもない。
ふにゃふにゃと気分が滅入り、とぼとぼと篤子ちゃんはまた足を動かした。
ふと見下ろしたアスファルトに、どこから来たのか大きなガマガエルが跳ねていた。
(トノサマガエルかもしれない)
篤子ちゃんはそれをじろりと横目でやり過ごし、つい「ねえ先生、今おっきなカエルがいて」と腕を引きかけたが、その手を途中で止めた。
こんな話も、みーくんには子供っぽく、興味を引かないつまらない話題だろうと考えたのだ。
(どうしよう)
何を話していいのかも、このままいつものように自然に振る舞い続けていいのかも、ほんのり迷い、ためらってしまう。
(わたしに何が、できるのだろう)
 
ふつっとラジオが消えたように、篤子ちゃんが黙り込んだのに気づき、みーくんは慌てて頭を巡り続ける余計な詮索を、横に押しやった。
離れた手を自分から握った。
詮索とは言わずもがな、篤子ちゃんと美馬くんの深夜の密会についてだ。
何もないだろうと、頭では理解してる。美馬くんは人の彼女に手を出すような人間ではないのは、彼もよく知っている。
気にかかって、詮索したくなるのは、篤子ちゃんの側の気持ちだ。美馬くんは抜群のハンサムであるし、性格もいい、そして更に年もつり合っている。
彼女の気持ちが、もしやゆらゆらあちらへ揺れることがあっても、仕方がないと思う。思いつつも、じりじりと納得のいかない何かが胸のどこかでこすれ続け、そこからぶすぶすと、美馬くんへごく小さな嫉妬のようなものが芽吹いているのだ。
それらを横にやり、さっき目の端に捉えた、トノサマガエルのことを口にした。
「見た? 久し振りに見たな、あいつ」
なぜだか篤子ちゃんはその話に言葉でなく、笑顔を返した。嬉しげに彼へ身を寄せ、つないだ手をまた振った。
その可愛い彼女の仕草に、みーくんはとろんと心が和いだ。
やっぱり自分だけのものだと思う。その気持ちも、愛らしい姿も。
「ねえ先生」
その後に彼女は、「何か、わたしにしてほしいことある?」と訊いた。
いきなりのその問いに、みーくんは面食らい、首を傾げた。互いの誕生日でもない、二人の記念日でもないだろう。
「どうして?」
「ふふ、わたしに出来ることなら、何でもしてあげるから。言ってみて」
「え」
車高の高い彼の車に、篤子ちゃんがよじ登るように乗り込んですぐ、「早く、早く」とせかすので、みーくんはちょっと考えた。
そして、イグニッションを回しながら、ほんの冗談のつもりで、あることを軽く口にした。
耳にし、篤子ちゃんは一瞬返事に詰まったように見えた。それを知り、みーくんは急いで、打ち消す。とんでもない「スケベ」だと、引かれては堪らない。助手席の彼女へ向き、
「冗談だから。びっくりさせて、ごめんね」
「先生がそうしたいなら、いい」
「え」
「いいから、そうしても」
思いがけない返事がほろりとこぼれて、みーくんはちょっと呼吸も忘れた。篤子ちゃんはくりんと彼を上目遣いで見ていたが、さすがに恥ずかしいのか、すぐに瞳を伏せた。
それから、ふわりと彼へ身を預けてくるのだ。
「先生が好きだから、いいの」
一日中喋りっぱなしの彼のややかすれた声が、「本当に?」と問う。
「先生の髪を洗ってあげる」
小さな可愛い声が、甘くそんなことをささやく。
もうみーくんは、彼女が愛しくて嬉しくてならない。詮索していた自分が滑稽になる。既に過去のまったくの些事だ。
やんわりと優しく、彼女を抱きしめた。
(僕だけの篤子ちゃん)
彼は彼女へ口づけて、その狭間、
「ねえ、いつか、結婚しよう」
と、胸の一番痛む部分でためていた言葉が、不意に今、せり上がってこぼれた。



          

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