君と僕とを捕らえる呪文
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その夜は、十時半くらいまで同じ店にいた。
平日とあって、客足もそう多くなく、ちょっと手の空いた美馬くんが、マスターに背を押されて、仲間に加わってくれたのが大きいだろう。
外見に似ず、とっつきにくくもなく、優しくて気さくな彼と話したり笑ったりするのは、篤子ちゃんも楽しかった。菫も鞠菜も笙子も、これまでのマイナス分をようやく取り返したようににこにこしている。
ついでながら、菫のオーダーした『あつあつ、夢中になれる大根もち』もきた。ふんわりと柔らかくて、おもちなのにあっさりしている。
「どういうレシピなの?」
料理好きな彼女が、興味で訊ねると、「千切りにした大根に、上新粉を混ぜてね…」
覚えるように、教わったレシピを篤子ちゃんは幾度か頭でそらんじてみた。料理などしない笙子も、同じような顔をしているのがおかしい。
ビールのグラスを片手に、意地悪な声が割ってきた。ピンク色のピンで前髪を留めた亮くんだ。ダックスフンドのように唇を尖らせている。
「美馬の前だと、なんか女って料理好きになるよなぁ、不思議だよなぁ。美馬ってそういうのわかるのになぁ」
篤子ちゃんはその声に、かちんときたものの、とり合わないでおいた。実際そういうケースを、彼は知っているのだろうし、目の前のちょっと憮然とした表情を見れば、案外これで、面白くなくて拗ねているだけなのかもしれない。
(第一わたし、明日、きっと大根もち作るもの)
放っておくと、さすがにちょっと失言だったと感じたのか、随分とたってから、「ごめん」と詫びがあった。
それは、篤子ちゃんが菫と分け合っていたシャーベットのお皿から、ぽろりとマスカットの粒がテーブルに飛び出したときだ。自分の前に落ちたそれを亮くんはつまんで、つぶやくように「ごめん」と言ったのだ。
そのままぱくりとマスカットを口に放り込んだ。酸っぱかったのか、顔をしかめた。
彼なりの、ちょっとした照れ隠しだったのかもしれない。
 
篤子ちゃんたちが立ち上がると、それが潮なったか、隣りのボックス席も「そろそろ帰る?」などというのが聞こえた。
会計を済ませ、マスターと美馬くんに「ご馳走さまでした」を告げる。店の前では、菫が兄上に電話をかけている。中村くんが鞠菜に何か話しかけた。彼女はそれに気づいていない。寒そうに首をコートに埋めながら、笙子と話している。
実は笙子には彼がいる。じき迎えに現れてくれるのも、その彼だ。方向が近いので、鞠菜も便乗するらしい。篤子ちゃんは菫と方向が近く、こういう場合はセットになる。
(もう一度くらい、お礼を言った方がいいんじゃないかな)
ほんのりまだ「みーくん」らのいる店に、後ろ髪を引かれる気がするのだ。彼は気になどしていないだろう。大人であるし、単なる親切に過ぎない。
けれど、言わなければ、自分が後味悪い思いをするような気がして、彼女は落ち着かなかった。
ふと菫を見ると、渋い顔で兄上との電話の内容を教えた。
「男の声がするって怒ってる。どんな聴覚してるんだろう? あのお兄ちゃん、もう嫌になる」
笙子たちが帰り、中村くんが、もう一度店に入っていった。「僕、美馬に送ってもらうから」とか。
菫のお兄さんを待つ間に、「みーくん」たちが店を出てきた。見やると、いつの間にかいなくなっていた亮くんが、その中にいる。
篤子ちゃんと目が合い、彼は「じゃあな」とだけ言った。どうやら「みーくん」と一緒に帰るらしい。並ぶ二人を見ると、亮くんの裄丈の合わないスーツは、「みーくん」が着ればちょうどいいサイズなんじゃないか、と気づく。
(あ、借り物だ)
店はやや小路に入っているので、大通りまで出てタクシーを見つけるようだ。その自分を置いていく背中を見ながら、やはりどうにも引っ掛かるのだ。とても助かったのだから、そしてこんな偶然に会えたのだから、「ありがとう」は、もう一度言っておくべきなのだろう、と。
そこで、本当に不意に、前を行く彼が振り返った。「大丈夫?」と訊く。
何が「大丈夫?」なのか。酔っているようにでも見えるのか。気分が悪そうにしているのだろうか。寒いだけなのに。
首を傾げて彼を見る篤子ちゃんに、
「帰り、大丈夫?」
こちらの帰りの足を心配してくれたようだ。その優しさが、彼女はずきりと嬉しかった。「友達と一緒に…」と言いかけたのと、彼が「亮もいるから、何だったら、送ってあげるよ」が被さった。
「え」
意外な申し出に、篤子ちゃんは言葉を失った。おろおろした。
そこへ、どんな手段を使ったのか、思いがけない速さで菫の兄上が到着した。スモークを貼った真っ黒な高級セダンは、ちょっと見腰が引ける。
菫が仏頂面をしつつも、それでも、駆け寄った。ウィンドウを下ろした窓から、厳しい声が聞こえるのだ。
「何時だと思ってる?」
「お兄ちゃん、ごめん」
「門限は九時だろ、こんな夜中に、何か遭ったらどうするんだ」
相変わらずの心配振りが、ちょっとおかしい。篤子ちゃんの知る限り、遊びで出かけ、菫が九時だという門限を守ったことなどない。
「篤子」
と手を引いた菫に、篤子ちゃんはとっさに口にしていた。
「ごめんね、わたし、あの人に送ってもらう。お礼も言いたいし…」
「そう?」
不審げで不安げな菫にもう一度「ごめん、明日ね」と返し、お兄さんにもちょっと挨拶して彼女は振り返った。
やっぱり「みーくん」は、そこで待っていてくれた。煙草に点けた火が、そこだけ赤く、蛍みたいだと思った。亮くんは先に通りへ行ったのだろう、姿がない。
「すみません」
駆け寄り、彼の隣りに並ぶと、彼女はまず、もう一度以前のお礼を口にした。
「いいよ、いいよ。そんな大したことじゃない」
済むと、会話が途切れた。アパートの前を過ぎ、営業か廃業か、見分けのつかない古びた店の前を通る。二人と同じような人が追い越していった。
「亮と友達?」
「違います」
慌てて否定した彼女がおかしいのか、みーくんは煙と一緒に笑い声をもらした。
(この人こそ、亮さんと、どういう関係なんだろう)
兄弟のようには見えない。似ていないし、何となく雰囲気が違う気がする。親しそうではあるけれど。
そんな篤子ちゃんの疑問を感じるのか、言葉の接ぎ穂にか、「みーくん」は、亮くんを、友人の弟だと教えた。
「ああ」
それで納得がいく。「みーくん」らの仲間が、亮くんを「ジュニア」と呼んでいた訳も、しっくりとくる。
「あいつ、今うちでバイトしてて…」
そこで初めて彼は、自分が駅の西口のこの辺りで、大学進学向けの予備校を経営していると告げた。
「友人と…、先帰ったけど、本城と共同でね」
「先生?」
「そう。人手がないし、何でもするよ」
亮くんには「みーくん」らの予備校で、電話番と簡単な応対をしてもらっているのだとか。
「それで、あのぶかぶかな…」
おかしさで、ぷっとふき出した。みーくんも笑い、「あれ、僕の貸したんだよ」とつないだ。
何だかほろほろと、つながりも見えなかったものが見えてきた。
通りでは、ガードレールに腰掛け、寒そうに腕を組む亮くんの姿があった。
「酔いが醒めた」と文句を言う。どこか胡散臭そうに篤子ちゃんを眺めている。「みーくん」と一緒なのが、不思議なのだろう。
「みーくん、超過勤務だよ。残業代出るの?」
「バイト明けに、勝手に女の子と飲んでたくせに」
折りよく来たタクシーに乗り込み、「みーくん」は篤子ちゃんに住所を聞いた。
「先にそこ、お願いします」
あっさり運転手に告げる彼に、今頃彼女は気づく、
「あの…、遠回りなんじゃ…」
「そうでもない。大した距離じゃないよ」
ほどなく、助手席に座った亮くんの、猫のようなか細いいびきが聞こえた。
ちょんと「みーくん」が前の亮くんを顎で指した。
「あいつ、気になる子の前だと、いつもぶっきら棒になるんだ」
「え」
まさか。自分に気があると言いたいのか、と、篤子ちゃんは胡乱な目で隣りの「みーくん」を見た。
(止めてよ)
大人の人は、すぐそうやって年下の身近な男女を、ごく簡単な理由でくっつけようとするものだ。彼女はそう信じている。
篤子ちゃんに、今恋人と呼べる人はいないが、いたとしたら、おでこをあんなピンクのピンで全開に留めない人であってほしい。
ぶすっとした顔を作ると、いきなり前のシートからも、
「論外、圏外、絶対ない」
とぷりぷりした反応が返ってきた。「みーくん」はそれに、「起きてたのかよ」とまたちょっと笑った。
結局、タクシー代は「みーくん」持ちで、篤子ちゃんは、どこかやっぱりしっくりいかない思いが残った。
けれども、相手は大人であるし、あっちから「送ってあげる」と申し出てくれたのだ。このまま甘えた方が、可愛げのある態度なんじゃないだろうか。
(まあ、いいか)
考えても仕方がない。そんなところに気持ちは落ち着いた。
 
 
シーズンはクリスマス前で、とんとんと予定が詰まっていった。
父は娘のあまり夜歩きが頻繁になると、ぶっすりとするものの、いつも以上のうるさい注意はしなかった。
篤子ちゃんの手でリビングには庭のゴールドクレストが持ち込まれツリーに飾られて、大きくとった庭を眺める窓辺には、キャンドルや柊のリースがあり、
どことはなく室内がクリスマスのそれらしく彩ってあるのを見ると、気分が和んでしまうらしい。普段と変わらず、生活をおろそかにしない彼女の様子に、安心もしているようだった。
そもそも無断外泊もなく、決まった彼氏の姿も娘にはないようなのだ。よくやってくれている娘だと、思ってもいる。
(あんまりうるさく言っても、な。年頃でもあるし)
そんな気持ちになるのか、お小言もそう降ってこない。
手抜かりなく、その忙しい日々に彼女は父の好物を絶やさず作ってあげた。
散らし寿司、ぶり大根、ローストチキン、鰯のつみれ揚げ……などなど。そんなところも、父のご機嫌を取り結ぶ一助になっているのだろう。
その日曜は、ぽかんと空いた予定のない日で、父はつき合いで出かけておらず、手持ち無沙汰な篤子ちゃんはふと思い立って、買い物に出かけた。デパートの地下にある菓子店の蒸したミルク饅頭がおいしいので、それを買いたかった。
食べ切れなかった分は、翌日蒸し直せば、出来たてみたいにおいしいのだ。ミルク饅頭の前に、切れかけた紅茶も、一つ二つ買っておく。
退屈になったら誰かを呼ぼうと思い、ぶらぶらと輸入食品を見て歩きながら、冷蔵庫の中身を思い返し、その晩の献立を考える。
お目当てのミルク蒸し饅頭を五つ買い、紙袋を手に振り返ると、どんと顔が何かにぶつかった。黒いジャケットだ。
背の高い男性だと気づいて、腹立ちより何より、恥ずかしくなる。
「すみません…」
急に振り返った自分が悪いのだろう。当たり前に詫びると、本当に不意に、声が降ってきた。
「篤子ちゃん?」
それは果たして「みーくん」で、そのいきなりの偶然に、篤子ちゃんは目が点になった。
「先生?」
彼はその日は休みらしく、スーツを着ておらず、ニットにジーンズの普段着だった。少し印象がそれで変わる。
「母親に頼まれ」て、ミルク饅頭を買いに来たらしい。二十個も買っている。どれだけ食べるお母さんなのか、大家族なのか。
途端に、自分の買った五個が、いかに寂しい数字かに気づいて、店を離れつつも、惜しくなる。
何となく連れ立って歩き、地下から階上へエレベーターで上がった。フロアを歩き、ガラスのドアを開けるところで、「みーくん」が、何か言いたげに、自分を見ている。
そこで慌てて、彼女は先日のタクシーのお礼を述べた。「何だか、どんどん迷惑ばっかり掛けてる気がして」
「ねえ…」
「今日は大丈夫、一人で帰れます。明るいし」
半分本気で、半分冗談。そう言って彼を見上げると、目が合った。ぱちぱちと彼が瞬きし、軽い咳払いの後で、言った。「よく会う。すごい、偶然だね」
「うん…」
人通りの邪魔になるので、外へ出て脇へ退く。エントランス前で、そばにデパートの大きなもみの木のツリーがある。篤子ちゃんの顔ほどもあるベルが、幾つも電飾と絡まりぶら下がっている。
「よかったら…」
そこで、彼の声を遮るように、定時の時計のチャイムが派手にメロディーを奏でた。十二時だ。
「何?」
見上げた彼女は、一瞬で誰かの小犬に気を取られて目をそちらへ向けている。「みーくん」は背を屈め、その彼女の耳もとに近く訊いた。

「僕、昼まだなんだ。よかったら、一緒にどう?」
びっくりして篤子ちゃんは声のほうへ振り向く。思いがけなく近い距離にあった彼の鼻に、こつんと自分の鼻がぶつかった。
それに「きゃ」と身を引いた。驚いたのだ。彼も同じようで、目をぱちぱちさせている。
「ごめん、驚かせた?」
「ううん…」
確かにぎょっとなるほど驚いたが、そのとき彼女の頭には、このちょっとしたトラブルの気まずさよりも、もっと大きくてささやかな計画が芽生えていた。
それが叶えば、これまでのお礼も借りもいっぺんに返せるような気がするのだ。
「先生、うちに来ませんか? お昼なら、わたしが作るから」
「え」と言ったきり、「みーくん」はちょっと固まったように言葉を返さない。
(迷惑だったのかな)

家で手料理を振舞うくらいのことならば、友人たちも来るし、父の伴ったお客にももちろん出す。篤子ちゃんにとっては、ごく当たり障りのない出来事で、しょっちゅうあること。
けれども、「みーくん」のその様子に、食事に家に誘った自分の言葉が、変に重過ぎて響き、返事に困っているのでは……。
と、じわじわと篤子ちゃんが悩み始めた頃、「みーくん」が軽く頷いた。笑顔を向けながら、
「じゃあ、ぜひ」

その笑顔に、彼女の気持ちもぱっと晴れた。
車に乗ってきたという彼と、地下の駐車場に向かう途中、好みを訊き、献立をあれこれ繰る彼女の耳に、「みーくん」のつぶやきがほろっと聞こえた。
「何で.…、『先生』?」
そう言ったような、そうではないような。



          

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