悪い魔女よりも、醜いのはだあれ、(1)
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みーくんは、瞬くほどの間の後で、さっきささやいた自分の言葉を取り消すような台無しにするような言葉をつないだ。
それは、当分明かす予定ではなかった本音を、早計にもついほろっとさらしてしまったことの重さにまず自分が驚き、それからほんのそばの篤子ちゃんの瞳に、びっくりしたような妙なものを見つけたような驚きの色をやはり見てしまったからだ。
授業でのごく軽い言い間違いを訂正するかのように、みーくんはあっさり造作もなく、「そうじゃなくて…」とつなぎ、
「どうしようか、これから」
何事もなかったように片づけてしまうのだ。
彼にとっては適量の重さを持つものであっても、それを篤子ちゃんが同じく適量だと感じる理由も義務もない。そして彼と共感してくれるその可能性はちょっと、低い。
仮に、もし逆の立場だったとする。ずっと年上の彼女、そしていまだ彼は学生なのだ。その彼女からの結婚をほのめかす言葉を、みーくんはどう捉えるか。
単純に驚いて、そして重く感じるだろう。
男と女では捉え方も異なるし、また個人差も大きいだろう。けれど、彼には遠からず篤子ちゃんの胸の内も読めるような気がするのだ。
(きっと迷惑だろうな、彼女にはまだ)
篤子ちゃんは、しばし惚けたように見つめ、上の空なのか、ぼんやりととんでもないことをぽろりつぶやいた。
「お風呂」
みーくんはそれについふき出した。おかしさと堪らない可愛らしさと、不思議な充足感。篤子ちゃんがそばにいる空間は、彼に心地よくひたひたとした幸福感をくれる。
(これでいい)
 
 
篤子ちゃんは頭を去らない言葉について、考えている。
それはみーくんが先日口にした、プロポーズのような言葉だ。
『ねえ、いつか、結婚しよう』
耳に入りすうっと頭にしみこんで、その言葉がなぜか胸を離れない。軽い言い方だった。冗談であるかのように、すぐに紛らせてしまった。
でも、篤子ちゃんにはそれがどれほどの真実味を持つものか、わかる気がするのだ。
(多分先生は、わたしでいいんだ)
思い上がりでもなく、自惚れでもなく彼女はそう気づいた。
いつか父親が、年のつり合わない彼女とみーくんとの仲を不思議がっていた。「どういうつもりで彼が篤子とつき合ってるのか」と首を傾げていたのだ。
それに篤子ちゃんは今なら、正解に遠くなく答えることが出来るだろう。彼が何年か先の自分に求めているもの、けれど彼女への優しさと年の差の迷いがあり、それを露わにしないのだ、と。
軽口に紛らせたようなあの言葉、
『ねえ、いつか、結婚しよう』
は、
(きっと先生の本音だ)
それに気づいてから、自分はどう感じただろう。まず驚いて、それからしんみりと納得し、ちょっと頭がぼうっとなった……。
篤子ちゃんは自分の気持ちを探ってみる。
けれど、心根の一番深く不意に切なさで満たされる場所が、彼の気持ちにしっとりと潤んだのを感じたのだ。ひどく、自分の奥で嬉しかったのだ。
彼女は自分のことを極端に過小評価もしないが、決して過大評価もしない。だから、「あんなに大人」で、「あんなに優しく」て、「あんなに頭のいい」(ように彼女には見える)彼が、幼くて小さな自分を大事に大事に考えてくれることに、心も身体も女らしく満たされる気がするのだ。
(先生が好き)
一人のときには、頬が火照るほどそう感じることがある。
ふと、「先生の奥さんになるって、どんなだろう?」などと楽しくのんきに思いをめぐらすこともある。「夜遊びに行ったら、やっぱり怒るかな?」などと。
けれど、彼女にそれはやはり先の先の話であって、当たり前に現実感はわいてこないのだ。
 
その日、篤子ちゃんは短大の履修登録日だった。専攻科に進学を想定して、友人たちと合わせ、ちょっと大目の授業を履修しておく。幸い一年次で単位を落とした科目はなかったから、若干それでも時間割に余裕が出来た。
無事登録を終え、学内の明るいカフェテリアで、お喋りが始まる。オープンキャンパスの予備日となっており、学生服を着た高校生がちらちらと見えるのだ。
暖かな陽気に、蕾を膨らませほろっと花をこぼれさせた桜とその学生服姿が混じると、春のうららかさが篤子ちゃんの目にまぶしいほどだ。
「この国文学概説の先生、かっこいいらしいよ。福山に似てるって」
誰かが時間割を指して言えば、誰かがそこに赤丸をぐりぐりと。適当なことを喋って、笑い合う。篤子ちゃんが焼いてきたジャムを混ぜ込んだクッキーをつまみながら、授業のことやバイトのこと、彼氏のこと、家のこと、諸々取り留めなく話す。
ちょっと違和感があって、篤子ちゃんはトイレに立った。下腹部が痛む生理痛に似た感覚があったのだ。けれどもその予兆もない。
予定日より数日遅れていて、「あ、来た」と思ったのに、拍子抜けがする。
けれどもそれもあれこれに紛れ、頭の隅に行ってしまう。
それが、思いがけず彼女の中で大きくなったのは、その後十日も過ぎてからだ。
ちょっと可哀そうなほどうろたえて、あまりの事の重さに友人にも気軽に打ち明けられないのだ。
(どうしよう、生理がこない)
 
 
昼休み前から、篤子ちゃんは気分が悪かった。吐き気が込み上げてくるが、実際には吐けない。
もやもやとした胸の不快感が粘ついてあって、その昼はジュースの他、何口に出来なかった。
横になっていたいと思うほど堪らなくなって、昼イチの授業をさぼった。友人が付いてくれると言ったけれど、出席のうるさい先生で、迷惑も掛けられない。
このまま帰ろうと、駐車場へ向かいかけて、今日は菫ちゃんと便乗していて車がないことに気づく。ハンカチで口許を押さえつつ、ふらふらとキャンパス内のベンチに掛けた。
(悪阻って、辛い…)
そう思い、けれどもおなかにいるかもしれない命を思えば、何も食べないのもいけないと考え直し、売店で食べたくもない巨大な頭脳パンを買った。
バックには他に、妊娠に関係した一冊が入っている。
またベンチに戻り、うつむいてため息をつく。違うかもしれないし、そうでないかもしれない。実は内緒で簡易にチェックが出来るキットも買った。買ったけれど、勇気がなくて封も解けないでいるのだ。
もし仮に、妊娠していなければそれでいい。でも万が一そうでなかった場合、自分はどうしたいのか……。
(堕ろすことも、考えなくちゃ…)
自分の年齢や、自立していないことなどを考えれば、そうすることも選択肢だ。考えつつ、自分に出来るのか不安になってくる。たとえば病院に行く、要件を告げる、診察を受ける、そして処置を受ける……。それら一連の重大事に、自分が耐えられるのか、篤子ちゃんは不安で怖くて、泣き出したくなるのだ。
みーくんには告げていない。それどころか、ここ二週間近くも会っていない。彼が忙しかったのもあるが、篤子ちゃんの体調が悪く断った日もある。会ったのは、一緒にお風呂に入ったあの夜が最後だ。
(あの日は…)
優しくはあったけれど、好き勝手に自分の肌を辿った彼の仕草を思えば、あのとき感じたとろけるような甘やかな気分などは消え、今は、ちょっとした腹立ちが大きい。
(先生、すごいエッチだった)
けれども、彼のことを思い出すと、会いたくて抱きついて泣きたくなってしまうのだ。
何とかしてほしくて、今の自分の辛さを理解してほしくて、共有してほしくなる。
(先生以外には、いないもの…)
篤子ちゃんは口許に置いたハンカチを膝に落とし、代わりに携帯を取り出した。慣れた彼の番号を拾い、コールする。メールでもなくあっさり電話するのは、多分彼が出ないと知っているから。
昼にかけたことはほぼないけれど、篤子ちゃんには彼の日常が丸ごと忙しさに埋もれている印象があって、こんな電話には出ないと信じていた。
かけるのは、それでもその行為で彼に甘えているから。気づいて、時間のいいときにかけ直してほしいからだ。
「あ」
思わずそんな声がもれたのは、意外にもみーくんがほどなく電話に出たからだ。
『どうしたの? 篤子ちゃん』
その声を聞くと、篤子ちゃんは堪らなくなってしまう。
どこかにぎゅうぎゅと隠していた涙が、ほとばしるように瞳をあふれた。頬を伝い、唇の端に留まり、涙はしょっぱくて切ない言葉を紡ぐ。
「先生に会いたいの、辛いの…」
 
 
ちょうど昼休み。空き時間とつながって、みーくんには二時間ほどの時間があった。
そんな折にかかった篤子ちゃんからの涙声の電話に、みーくんは少し射していた眠気がかき消えた。
癖でくわえていた火のない煙草を抜き、事情を聞けば、学校で急に気分が悪くなったのだという。そして車もないから帰れないのだという。迎えに来てほしいとは言わなかった。
『…ごめんなさい、忙しいのに。先生の声が聞きたくなったの』
「ねえ、篤子ちゃん、僕が行ってあげる。迎えに行ってあげるから、ちょっと待ってて。すぐ行くから」
久し振りの篤子ちゃんの声、しかも泣き声に、みーくんは胸が痛いほどの愛らしさを感じて、そのままかけていた椅子から立ち上がった。半分寝ぼけ眼で彼と将棋をさしていた本城さんへ、「悪い」と断り、予備校を出た。
篤子ちゃんの短大まで、片道十分ほど。信号待ちにちょっと時間をくって、着いたのは、予備校を出て十三分後のことだった。
彼女は門の前にちょこんと頼りなげに立っていた。可愛いオフホワイトのミニスカートが、春風にふわりと揺れる。
篤子ちゃんは彼の車に乗り込むと、彼に抱きつき、しくしくと泣き出した。
「しんどいなら、病院行こうか? 連れて行ってあげるよ」
それには「ううん」と首を振るのだ。
「大丈夫、横になりたいだけ」
そして、「先生のおうちで寝ていたいの」などとちょっと甘えた声で言うから、ごく軽い眩暈を誘うのだ。みーくんは昼っぱらから、不謹慎にも彼女のそのオフホワイトのミニスカートのジッパーを、いつか自分が確かに下ろした日のことが、ちらりと頭に浮かんでしまう。
額に手を当てると、微かに熱い気がする。けれどもひどくもなく、彼は彼女の言うまま、自分の部屋に連れて行った。
「帰りは、ちょっと遅くなるけど送って行ってあげるから、待っててくれる?」
どこかしどけなく、ソファに緩く身を横たえた彼女に、みーくんは腕時計をちらりと見ながら告げた。
篤子ちゃんは彼を見上げ、なぜか瞳を涙であふれさせる。瞬きと共にそれは頬を伝う。
みーくんは彼女へ屈み、
「しんどいの? 大丈夫? 篤子ちゃん」
彼女はそれに答えず、泣き顔のまま彼にしがみついた。「先生、わたしが好き? 絶対好き?」と涙の混じる甘い声で問うから、みーくんには可愛くて仕方がない。
「大好きだよ。篤子ちゃんだけ」
それに、心にしまって普段は口にすることのない、「愛してる」と言う言葉がついて出た。
言葉の響きの照れ臭さはいかんともしがたく、彼は瞬いてちょっとそれをやり過ごした。
「先生が大好き」
少し脱いだ彼女を、自分の乱れたベッドに寝かせ、何度かキスを重ねると、もう時間になる。
ほんのり色っぽく、可愛い仕草で彼を見送る彼女に、みーくんはしまいようのない彼女への愛情を感じた。
それにほどよく浸りながら、けれどどこかで彼は、ここのところの篤子ちゃんの自分へ向ける姿態に仕草に、以前とは微かに異なる匂いを感じているのだ。
(女らしくなったというか、大人びたというか…)
それは自分に対する彼女の大きくなった甘えや、気持ちが左右するものであろうと易く片づけてしまえる。それ以上の意味を探る意図を彼は持たない。
そしてそれは、彼にかわゆくて、ひどく好ましい変化ではある。
『先生』
そう彼を呼ぶ彼女の声。それが、ほんのりと優しげに、そしてちょっとだけ悩ましく香るように感じるのは、
(僕の気のせい…)



          

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