悪い魔女よりも、醜いのはだあれ、(2
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何度も寝返りを打った。
みーくんが仕事へ戻り、篤子ちゃんは眠られない冴えた頭をベッドの中で持て余していた。
ベージュのカバーのかかった布団を、何となく鼻まで引き上げた。顔を半分も隠して眠る癖が、彼女にはある。そうすると、自分の寝具とは異なる匂いが喉の奥に入っていく。
それは篤子ちゃん感じる、彼の髪からや抱き寄せられるときに香るものだ。多分、彼のそれでなかったら、他人の異性の匂いの残るシーツであったり、ピローケースであったりは、彼女に耐え難い。
(先生だから、いい)
しんと静かな室内で、眠られないままに彼女は瞳を閉じた。ふっと小さな眩暈が起こり、すぐに消えた。
妊娠の不安や、これからのこと、父の再婚のこと、その相手の長瀬さんのこと……。結論も何もないそれらの彼女を取り巻く事柄が、くるくると頭を過ぎる。
そのいずれが悲しいのか嫌なのか、どうなのか、彼女は身を横たえながら、静かに泣き出した。先生がいなくてよかった、と思い、またすぐ、
(先生がいたら…)
とその逆を思うのだ。
みーくんがどこかでちらりと感じる気配。一度途切れてまた戻った二人の関係が潮か境い目か、篤子ちゃんは、ときに彼への甘えや依存を抑えきれないでいる。それはいつもある訳ではない気持ちの流れで、わがままな猫のように、彼の優しさや温かさがほしいとき求め、するりとまた離れ、次の機会にまたけろりと求める。
大人な彼に甘え過ぎずにいたいと願いつつ、知りながら、彼女はそれを抑えられない。それは多分に、みーくんのめろめろな甘やかしが原因となるのだけろうれども。
胸を寂しげな何かが過ぎると、すぐに彼を求めてしまうのだ。どうしてほしい訳でもなく、何を伝えたい訳でもない。ただ、
(そばにいてほしい)
とろんとろんに甘やかしてくれるみーくんのその優しさが、彼女の折りに悲しい胸に心地よくて、しんみりと嬉しいのだ。
そして、彼以外に、自分へそんな深い愛情を注いでくれる人がいないだろうことを、彼女は知っている。
(先生が好き)
彼が帰ったら、迷惑を掛けたお詫びとお礼、それから、秘密にしている大事な大事なあの件を伝えなくては、と考える。
(先生、何て言うだろう…)
 
 
みーくんが仕事を終えて急いで帰ると、篤子ちゃんはリビングのソファにちょこんと座っていた。
気分もよくなったのか、昼間に比べ顔色もいい。あちこち片づけや掃除を済ませてくれていたようだ。
気分を訊くと、「大丈夫」と答える。
「先生、ごめんなさい、忙しいのに、迎えに来てもらって。ありがとう」
そんなこと、みーくんにとって、何の造作もない。
時間も遅く、彼はこれから自宅へ送ると促した。
そうしょっちゅう、深夜に近く帰宅させては、幾ら彼に理解のある彼女の父親といえども、いい思いは決してしないはずだ。
それに、週末また会う予定もある。
「うん…」
彼女はソファから立ち上がり、ちょっと大き目のバックを手に持った。先にリビングのドアノブを引いた彼のシャツを、どうしてか篤子ちゃんはちょんと引いた。
みーくんがそれに振り返ると、篤子ちゃんはすぐにうつむき、なぜか困ったように頭をゆらゆらと振るのだ。
「どうしたの?」
「うん……」
それきり、口を閉ざしてしまう。唇を噛み、ちらっと彼を上目遣いに見つめ、また瞳を逸らす。言葉をためらう仕草に、みーくんが「何?」と促しても、なかなか声を出さない。
そんなことが五分ほどもたてば、みーくんはちょっと不安にもなる。
「ねえ、篤子ちゃん、何があったの? 僕のこと? ねえ?」
背を屈め、彼女の肩に手を置き、なるべく優しく問う。
「どうかした? ねえ…」
篤子ちゃんはぽろっと涙を見せた。指でそれを拭いながら、「先生…」とつぶやき、続けて驚くことを口にした。
「わたし、赤ちゃんができたかもしれないの…」
みーくんはその言葉に、まず唇をわずかに開き、ちょっとの間、ぽかんとした。
「え」
にわかには信じ難いのだ。彼女とのセックスでは、彼は必ず避妊をした。
(そりゃ、完全って訳じゃないけど…)
何となく彼の頭に、ゴムのパッケージの注意書きが浮かんだ。『性交に及ぶ際、予め挿入前の装着を…』。
(あれ、きちんと守ってる奴いるのかな)
彼の思考がそんな危機感のないところをさまよっているわずかな間に、篤子ちゃんははっきりと泣き出してしまっていた。
「あ」
「ひどい、先生」
彼女は彼を涙声でなじった。確かに悩める彼女に、ちょっとだけひどい。
慌てて、みーくんは彼女を抱きしめた。
「ごめん、ちょっとびっくりしただけ。本当にごめん」
「先生のせいなのに…、関係ないって顔して、ひどい」
「ごめん、篤子ちゃん。ごめんね」
篤子ちゃんの機嫌はなかなか直らず、泣きながら彼を突き飛ばした。「嫌い」、と「先生のエッチ」を繰り返して罵る。
もうみーくんには降参で、ひたすら宥めて謝るしかない。
「ごめんね。そうだね、僕のせいだから…、ごめんね」
「嫌い」
彼女が身をよじったため、手のバックが床に落ちた。弾みで、閉じないそこから大きな頭脳パンと、徳用の都昆布と、それから一冊の本が彼の足もとにこぼれた。本は『ベビーのお名前辞典』と表紙にある。
また篤子ちゃんに、ひどいと怒られそうだけれども、みーくんはほろっとその三つを目にして、ついふき出してしまった。
(この子…)
おそらく食べもしない巨大な頭脳パンを、彼女は「赤ちゃんのための栄養」と買ったのだろうし、妊婦は酸っぱいものを好むという単純な発想から、好きでもない都昆布も買ったのだろう。
(なぜ、徳用?)
極めつけは、『ハッピー・ベビーのお名前辞典』だ。普通彼女の不安な立場なら、まず何より妊娠についてを説明した本を選ぶだろうに、なぜ一足飛びに『ハッピー・ベビーのお名前辞典』なのだろうか。
みーくんにはそれがおかしくて、またそんな発想を頭のどこからか引っ張り出してくる篤子ちゃんが、またとびきりに可愛くてならなくなるのだ。
そのいずれにも、知ってか知らずか、悩みつつも、妊娠を前向きに捉えている彼女なりのサインを感じ、彼にはやはり堪らなく愛らしくて、そして嬉しい。
(篤子ちゃん、本当可愛い。堪んない)
思いが募って、ぎゅっと抱きしめた。
「先生のせいなのに、笑ってひどい」
「ごめん、ごめん」
ようやく怒りを引っ込め、落ち着きを取り戻した彼女へ、みーくんは、
「どのくらい、確かなの?」
「…わからない、調べてないし……。でも、生理がこなくて…、怖くなって」
そこで、彼女はさっき突き飛ばした彼の胸にぴたりと頬を寄せ、
「どうしよう、先生、わたし…」
また不安げな涙の混じる声で言う。
大きな問題だ。それを一人で抱えて、これまで心配していた彼女が可哀そうで、気の毒でもある。けれども、今もみーくんは漠として、切迫した現実感がわいてこないのだ。
(ぎりぎりがまずかったかな、ゴム)
とそんなことを、優しい表情の下でやっぱり思ったりしている。
心の不安を彼にさらし、ようやく息をついたように少しだけ楽な気分でいる篤子ちゃんと、彼女を「大丈夫だよ」と慰めながらやんわりと抱くみーくん。
(いや、ゴムのタイミングの問題じゃなくて、二度目が原因だろ)
やっぱり彼は、まだそんなことを考えたりしている。
「篤子ちゃん、ねえ…」
彼女が不安がるのは理解できるが、今の段階で確たることはなにもない。結果も知らず、いたずらに悩むのは早計だろう。みーくんはするりと問題をそちらへ移し、彼女への言葉を選んだ。
「大丈夫、僕がいるから」
ねえ、きちんと調べよう。杞憂かもしれない、そうでないかもしれない。でもちゃんとした結果を見てから、篤子ちゃんがどうしたいか、一緒に考えよう……。
みーくんの落ち着いて優しい言葉は、説得力をもって彼女に届いた。
「うん…」
しばらくして、涙をしまった彼女を、自宅へ送る。
ふと、みーくんは思い出す。篤子ちゃんの可愛いバックから飛び出してきた、そろうとちょっと滑稽な品々を。
あれらが指すものは、彼女の潜在的な命への思いだろう。それを感じるからこそ、彼は、一瞬の驚きこそあれ、自分が穏やかな気分でいられるのだろうと思った。
そして、もし仮に、篤子ちゃんの中に命が芽生えていたとする。その結果により、彼女が何を望んで、何を選択したとしても、彼にはそれを大事に受けとめて抱いてやる愛情も覚悟もある。
だから、妊娠がポジティブでもネガティブでも、本音で、彼にはどちらでも構わないのだ。
切実に思いつめる彼女には、もちろん言えるものではない。
代わりに、だから手を握る。大丈夫だと、優しくキスをする。
「僕がいるから」
 
 
みーくんに自宅に送ってもらう頃には、篤子ちゃんの瞳の涙は乾いていた。
彼がすっぽりと彼女の切羽詰った問題を受け止めてくれたようで、心が和いでいた。
(先生に言って、よかった)
一人で抱えるには重過ぎ、そして大き過ぎる。それから、これはもちろん二人の問題でもあるのだから。
風呂に入っているのか、リビングに父の姿はなかった。テーブルには彼女にも見せるつもりか、リフォームの青写真が載っている。この日の昼過ぎ、施工業者が下見に訪れることになっていた。父と長瀬さんが対応することになっていたのだ。
だから、彼女は体調が悪くなっても、気が乗らず自宅に帰ることをしなかった。
ちらりとまだラフな見取り図をのぞくと、新しく取り付けるキッチンの大型の棚であるとか、増築する部屋だとかが、そこには見えた。
「お父さん、帰ったから」
脱衣場から大声を出し父に帰宅を告げる。いきなり朝からろくに何も食べていない胃が、途端に空腹を訴え始めた。巨大な頭脳パンを細かく砕いて、パン粥を作ることにする。
鍋の中のふにゃふにゃになったパンが、スープに絡んで彼女が回すレードルにくるくると踊る。何となく、その緩い渦の中心に吸い込まれるような錯覚を感じながら、篤子ちゃんは、みーくんに打ち明けるまでの悲壮感を抜いた感情で、自分の妊娠の可能性についてを考えるのだ。
つれて、先だって長瀬さんの苦言が思い出される。
『万が一、万が一ね、妊娠するようなことがあれば、困るのは女の子の方よ』
自分が妊娠していたら、それを知ったら、長瀬さんはどんな顔をするだろう。ほら見なさい、と困ったようなやっぱりというような、悪い不安が的中したと得意顔を見せるのだろうか。
(何を言うだろう)
何も言わず、ただ適切な処置を丁寧に勧めてくれるだろう、母親のように。そして、注意を聞かない馬鹿な女の子だと思いはするだろうが、これまでの親身な人柄から、それで自分を蔑んで切り捨てることはないと思う。
その容易く頭に描ける長瀬さんの優しさが、篤子ちゃんにはちょっと、重い。苦しい。
(ごめんなさい…)
また、父は娘の問題を知れば、どう思うだろう。きっと一人で抱え込まず、パートナーとなる既にそれに近い長瀬さんに、厄介な相談を持ちかけるに違いない。
耳にした長瀬さんはどんな顔をするだろう。二人は何を交し合うのだろう。
想像する二人の困惑が、もう伝わるようで、篤子ちゃんはそれだけで胸がぎゅっと痛むほどだ。信頼を裏切るような真似をして、申し訳なくて、ちょっといたたまれなくなる。
自分の居場所がないようにも感じるのだ。
父が風呂から上がる頃には、篤子ちゃんは、ふうふう言いながら熱いパン粥を食べていた。
「みーくんと一緒か?」
「うん」
「彼にも、長瀬さんを紹介しといた方がいいかな」
「まだ早い」
「そうか」
父はぬれ髪を拭きながら、機嫌のいい顔で、テーブルの青写真を篤子ちゃんへ突き出した。長瀬さんが再婚を機に、長くしているガラスエッチングの教室を自宅に開きたい希望があるということ、間取りを考えて、それなら増築した方がいいということになったこと…。
「すごい」
自宅の一部が彼女の教室になるなんて、篤子ちゃんにはびっくりの初耳だったが、それは素敵で面白いように感じた。大人の女性がそんな風に趣味を仕事に結びつける様は、篤子ちゃんには憧れの領域だ。
壁に並んだそれ用の器具やガラス瓶。それらは生活する上で、きっと教室から、意図せずいつしかぽろぽろはみ出してしまうだろう。
それは窓辺に並ぶ彼女の作品であるとか、たとえば玄関のランプショードが、じき彼女の手の入ったガラス細工のものに変わっていく……。今当たり前に篤子ちゃんが棚に納めてしまう幾つもの保存瓶にも、ラズベリーや、麦や、ぶどうなどの可憐な図案が、きっときっと現れるようになるのだ。
まるで見るように鮮やかに目の裏に描くことができる。
それらは父の幸福であり、それに欠くことのできない長瀬さんの幸福でもある。
素敵だと思い、そのうち絶対教えてもらおうとも、のんきに思う。けれど、それらの思いつきの下で、篤子ちゃんは感じている。
作ったオニオングラタンスープ風のパン粥を口に運びながら、ひたひたとした思いが、胸に頭に満ちてくる。
(わたしの居場所がなくなっちゃうみたい…)
 
その夜、眠る前に篤子ちゃんは気づいた。
待ち望んで、訪れないことが不安の種であった、生理の間違いないしるしを見た。
「あ」
ほっとした。
安心もした。
けれども、彼女はそれをすぐみーくんに伝えなかった。会う日まで伝えないでおこうと思うのだ。
それは彼への甘えの気持ちの端であるし、また不安に包まれた彼女を絶対に受け止めてくれた、数時間前の彼の言葉がしみじみと心の芯に嬉しいからだ。
ベッドに潜り込み、少し身体をくの字に折る。そうして膝を抱える。当たり前に自分の髪が流れるピローケースから、彼の髪の香りはしない。
そんなことが、ちょっと切ない。
『僕がいるから』。
『大丈夫だよ、僕がいる』。
そして、以前は聞き流した彼の言葉、それがほしいから。
『ねえ、いつか、結婚しよう』。
その言葉が、篤子ちゃんはもう一度彼の口からほしいのだ。



          

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