この唄を聴いて、どうか、私がここにいると、
Impressinos 23
 
 
 
天気のことなどまったく気に留めなかったけれども、朝からどんよりと曇った空を見れば、みーくんも、
(晴れたらよかったのに)
と、ちらりと思う。
今にもぱらぱらと雨が降り出しそうだ。そして少し気温も低い。
日曜の篤子ちゃんとのデート。この日は、かねてから彼女が見たいと言っていた『お宮参りをするペンギン』がいる水族館へ、出かける約束をしていた。
いつもの日曜より早い時間、彼女の家へ迎えに行く。自宅には彼女の父親がいて、庭木の手入れをしていた。
みーくんが挨拶をすると、「篤子」と、リビングの窓へ大きな声を向け、娘を呼んでくれた。
他愛のないちょっとしたことを話す。車のことや仕事のこと、ねだられても篤子ちゃんに運転をさせないでほしいこと。
「必ず、どこかにすり傷をつけて返すよ」
「本当ですか?」
その短い時間のうちに、篤子ちゃんが玄関から出てきた。
お弁当を用意してくれたようで、バックの他紙袋を提げている。「おはよう」よりも先に、彼女は父とみーくんへ交互に、じろっとした視線を流した。
車に乗り込んですぐ、父親と何を話していたのかを訊く。
「大したことじゃないよ。車のこととか…」
「ふうん」
今日は彼女から妊娠の疑いを聞いて、初めて会うことになる。その結果について、彼女が何も語らないのだから、多分まだ不明なのだろう。不安なままいるのだとすれば、落ち着かない気分の彼女が、ひどく可哀そうになる。
みーくんはもし、彼女が妊娠していても構わない。
だから、動揺もない。けれど、それは彼側の勝手な思いで、彼女が同じである必要はまったくない。
ただ悩ましく感じるのは、今回の件が契機に、篤子ちゃんとの仲に何か微妙な変化が生じはしないかだ。
たとえば彼女が、限られた選択肢の中から堕胎を選んだとする。それを責める気は、みーくんにはこれっぽっちもない。
それを経験し、篤子ちゃんは彼女自身へ、または彼へ、何を思うのだろう、感じるのだろう。これまでとまったく同じではあり得ないのではないか。
(ときどき、びっくりするくらい大人びたところがあるから…)
そのことがみーくんには、一番気がかりで、不安でもある。
そして、先ほど話した気のいい彼女の父親に、事の結果如何によって、とても嫌な思いをさせることになるだろうと、それがやや胸に痛いのだ。
当たり前に詫びる覚悟もあるし、それをためらう気持ちもない。
高速道路に入る頃、フロントガラスを雨が叩き始めた。
「雨、止まないかな」
「もし降ってても、水族館は屋内が多いから大丈夫だよ」
「そう…」
「僕の友達で、ペンギンを見たことがない奴がいてね、そいつ、ペンギンが飛ぶって勘違いしてたらしいよ。あんな、ちっこい羽でどう飛ぶのか、ちょっと考えたらわかりそうなのに」
ちなみにそれは聡こと柏木さんで、事実を知り、かなり驚いていた。
篤子ちゃんは偶然にも、医師の彼に風邪を診てもらったことがあり、その際肌に付いた忌まわしいキスマークの嵐を見られている。
しかし、それが同一人物だとは知らない。
「ふうん…」
彼女の返事はちょっと覚束ない。上の空のようで、何か他に気を取られているようで、また眠そうでもある。
みーくんは篤子ちゃんの様子が気になり、シフトレバーから手を離し、彼女の髪に触れた。指で頬をちょんと撫ぜ、
「気になるの?」
ならないはずがないだろう。愚問だと思いつつ、みーくんは彼女の髪をいじる。
「…怖いの?」
くすぐったいのか、篤子ちゃんは軽く彼から身を引いた。答えの代わりに彼の手を取り、甘えるように自分のそれに絡めたりしている。
不安で一杯にしている彼女の心を思えば、まったく自分のせいであり、みーくんは気の毒で可哀そうでならなくなる。
「ねえ、一緒に調べようか? 僕がいれば、少しは気持ちが楽? 怖くない?」
彼女はそれに返事をせず、嫌々とするように首をゆらゆらと振った。
「結果がわからないと、不安なだけだよ。もし妊娠していても、僕がいるから、一緒に篤子ちゃんに一番いいことを考えよう。何でもする」
「先生…」
篤子ちゃんは泣きそうな顔をした。みーくんは代われるものなら自分が代わりたい、と思った。残念ながら、男は妊娠ができない。
彼はそのまま、うつむく彼女の肩を抱き、自分へ引き寄せた。ほどなく訪れたサ−ビスエリアに入り、車を停める。少し、話そうと思った。
その頃、不意に雨足が強まった。
雨を避け、店舗から駆け足で車やバスに戻る人々が見えた。
「…してないの」
「何が?」
サイドブレーキを引き、助手席の彼女へ向く。うつむいたままの彼女が涙声で告げた。
妊娠はしていないという。
「え」
「生理になったの、あれから…」
「そう」
みーくんはちょっと言葉に詰まった。この場合、よかったね、と言うべきなのだろうが、なぜか涙ぐむ彼女を前に、ためらわれた。
それに、わずかな肩透かしのような、自分でも今頃に気づく些細な落胆があって、それらに引きずられた。
代わりにだから、やんわりと抱きしめた。
「ごめんね、嫌な思いをさせて」
篤子ちゃんは抱かれながら、額を彼のニットにこするようにして、「ううん」と首を振った。
「怒ってる? 僕のこと」
「ううん…」
漠然と彼女の涙の訳を、みーくんは、大きな安堵とそれから自分への甘えだと捉えた。
ややして、彼女はハンカチに涙をしまい、ほんのり赤くなった鼻を恥ずかしそうに背けた。
「行こうか?」
ほどなく、シフトレバーに戻ったみーくんの手がギアを変えるとき、
「先生」
ボーダーのワンピースの胸に、篤子ちゃんは指を置き、くりんとした瞳で彼を見上げた。
アクセルペダルを踏み込む足をそのままに、みーくんは彼女へ視線を向けた。「何?」と問う。
単純に、
(買ってほしいものがあるのかな)
程度に思った。たまに篤子ちゃんは、そんなに高価でないものを彼にねだることがある。ゲームのソフトや、そのコントローラーなどだ。
それは、身体を重ねた後抱きつきながらこっそりささやくこともあれば、何かに拗ねたときであったりした。とにかく、彼女がひどく彼に甘えた気分のときにそうさせるのだろう。
そんなところも、みーくんにはとっても可愛い。
(何でも買ってあげる)
促すと、彼女は神妙な声で言うのだ。
意味のあるだろう上目遣いは、やや睨むに近い。微かに、彼を見つめる彼女のまぶたの端が、ぴくりと痙攣を起こした。
「先生、わたしが妊娠していたら、……結婚、してくれた?」
「え」
何を言い出すのか。
みーくんは彼女の意図を、何となく自分への拗ねのようなものだと考えた。それで、ちょっと困らせてやりたくなったのだろうか。
若くて自由な篤子ちゃんが、結婚など、まだまだまともに考える訳がないじゃないか、と。
「したよ」
彼は優しく、あっさりと答えた。
実をいえばみーくんは、彼女との結婚の時期を「できれば二年後。欲を張れば一年半後」と、密かにこっそり設定している。その辺りから準備を始めてもいい。この願いを思うと、楽しくて嬉しくなるが、それは彼だけの話。
自然に彼女の気持ちがその方向へ、上手くシフトしてくれるよう、常に考えている。たとえば…、
年の差や、様々な彼女とのギャップ。容易に埋まらないそれらのデメリット面は、裏返せば、当たり前に利点になるはずだ。
ときに気ままな彼女の甘えでも拗ねでも、気紛れでも、易く自分は受け止めてやれる。完全なフォローこそできないが、それなりのアドバイスもできる。守ってやれると思う。
それらは、彼女の同年代の男どもにはおそらく、まだできない。気性や性格も関係しようが、絶対的な人生経験の差というものは大きいのだ。
(それを、ちょっとずつ印象づけていけばいい)
(余計なことはしなくていい)
そんなことを静かに、穏やかに、焦らず、聡明なみーくんは考えている。ときに自分のその思惑を、ちょっと嫌らしく感じるほど。
みーくんの返事に、篤子ちゃんは落ち着かない様子で唇を噛み、瞬いてからまた彼を見上げた。
どうしてか、ちょっともじもじとしているようにも見えた。
「どうしたの?」
彼は癖で、煙草を口にくわえた。火も点けずそのまま問う。
それに彼女はためらう様子を見せたが、「ねえ」と彼が促すと、小さな声で、可愛らしいことを告げた。
「先生が、わたしと結婚してくれるんだったら、…妊娠していればよかったのに」
「え」
冗談だと彼は思った。ほんの気紛れで口にしているのだと。
だから、すぐに返事はしなかった。
(まさか…)
そのわずかな間に、篤子ちゃんはさっと頬を真っ赤にした。恥ずかしいのか、ぷいっと窓へ、彼から顔を背けた。
その仕草に、刹那、みーくんは彼女が持っていたおかしな物を思い出した。巨大な頭脳パンと、都こんぶと、『ハッピー・ベビーのお名前辞典』だ。
(まさか)
とは思う。そんなはずがないじゃないか、とも。
けれど彼女が見せるこの恥じらいと、どこか思いつめた声。それらに先の三点が加わり、おぼろに彼女の意図が浮かぶのだ。
(まさか…、篤子ちゃん)
「先生の嘘つき」
恥ずかしさからか、顔を背けたままそんな憎まれ口を言う。
みーくんは彼女の肩に手をかけ、自分の方へ振り向かせた。「ねえ」と。
こちらへ向いた篤子ちゃんは、ほんのり瞳に涙を溜めていた。ぱちりと瞬いて、それがまだ赤い頬に伝う。それはみーくんに、言葉を失わせるほど愛らしく心に映えた。
返事も忘れ、彼は彼女を引き寄せて抱きしめた。
「嘘つき」
そう言うものの、彼女は抵抗もしない。腕の中に優しくちんと納まるのだ。
「…じゃあ、……篤子ちゃんは僕と結婚してくれるの?」
それでいいのかと、彼は念押しの問いを重ねようとして、止めた。
こくんと、彼女が小さく息を飲み込む音がした。微かにそれが、腕に抱いた彼には伝わる。
 
「…うん、先生の奥さんにして…」
 
そうささやく声は、耳からでなく、ちょうど彼女が指を置く彼の胸から、それは届くように、みーくんには思えた。
「篤子ちゃんしかいない」
「先生が好き。だから…」
「うん、僕も篤子ちゃんが大好き」
ちょうど見えない互いの求める気持ちが、このとき重なって触れ合うのだ。
早計に進めていい事柄ではないはずで、簡単に決まることではないはずで。
けれども、どうしようのないほどの大きな波のような渦のような幸福感は、不思議な作用で、どこかで冷静な彼の感情をのんでしまう。
堪らなく彼女をほしいと思った。
このまま離したくないと思った。
「ねえ、結婚しよう、早く」
みーくんは、何も考えなかった。省かず、繕わず、ストレートに、そのまま彼の心から出た言葉だ。
篤子ちゃんは「うん」と頷いた。
 
 
さやさやと春の雨は冷たく降る。
昼ちょっと前に、目的の水族館に着いた。雨のためか休日なのに広々とした駐車場は五分ほどの入りで、すぐに傘を取り出した。
みーくんがビニール傘を持ち、片方の手で篤子ちゃんの手を握った。
目当てのペンギンのショーは雨天のため中止とゲート前に案内がでていた。篤子ちゃんはそれに、がっかりとした顔を見せた。それでも「せっかく来たから、ね」と、彼は彼女を促して入場券を二枚買った。
ゲートから館内入り口へ歩を進めながら、
「また来ようね」
みーくんは優しい。そんな風にして、すぐ彼女の気持ちを宥めてしまう。
自分へあっさり当たり前に優しさを向けてくれる彼が、彼女は好きだ。その彼の一番であるという思いは、嬉しく、幸せで、彼女のほのかな自尊心もふっくら満たされる。
みーくんは、広い水族館の案内図の前で立ち止まった。
整ったその横顔を、くりんと彼女の瞳は見つめる。
(先生と…)
自分は結婚を決めたのだ。その事実が、ふわふわとした高揚感と、喜びと、女の子らしい華やいだ気分を作り上げる。
見上げると、のっぽの彼の右肩はしっとりと雨にぬれてしまっている。それは彼女を傘で雨から庇うためだ。
(先生、優しい)
篤子ちゃんは、お弁当の紙袋と傘を持つ彼の左腕にくるんと自分のそれを巻きつけた。「何?」と顔を向ける。
(先生が好き)
つい一時間ほど前、二人きりで結婚を決めた。
それを彼女は早過ぎるとは思わない。どこか客観的にひどく冷めたところのある彼女は、そういうごく個人的なことは、本当に人それぞれであるべきだと考えている。
(だから、間違ってない)
静かに高鳴る胸の奥で、やはり忘れられないのは父のことだ。彼女の決断をどう取るだろう、どんな顔をするだろう。
そして、胸の同じ場所で、彼女は父を驚かせる申し訳なさも、ちくんと感じている。
また胸の別の場所で、ひっそりとささやかに思うのは、不思議な開放感だ。何か重い荷物を手放したのに似たそれは、しんみりと彼女に心地いいのだ。
また彼の気を引きたくて、篤子ちゃんはみーくんの腕を引いた。
「先生、早くお弁当食べよう」
「うん、そうだね」
肩越しに彼女へ瞳を向け、彼が頷く。
 
(間違ってない)



          

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