御菓子の家の奥深く、あなたの心は見えやしない
Impressions 24
 
 
 
先生と結婚する。
 
そう決めてしまうと、篤子ちゃんの気持ちは妙な安心感を下地にした、ふわふわした昂ぶりで一杯になった。
あれこれ楽しげな想像が、それなりにふくらむ。
ウエディングドレスのデザインや式や、ハネムーンなど華やかな夢を辿るより、彼女の癖で、その想像は変に現実的なものに偏った。
(住むのは、先生の今のマンションになるのかな)
と思い、リビングのあの地味なカーテンは替えたい、と考える。
(先生って、朝機嫌よく起きる人なのかな? びっくりするほど寝起きが悪かったらどうしよう)
さっそくその辺は、本人に確認しておこう、と頭に入れる。
(仕事で、毎晩先生は遅くて寂しいから、猫でも飼いたいな。いいって言ってくれるかな?)
リアルではあるけれどふわふわとしたそれらの幸せな悩みが、彼女の中でさっと熱を冷ましたのは、その晩みーくんと別れ、父の顔を見たせいだ。
『お宮参りをするペンギン』のいる水族館から帰りは道が混むなどし、篤子ちゃんが自宅に着いたのは、既に十時を回っていた。みーくんはそれを父に詫びてくれ、その晩はそのまま上がらず帰って行った。
「せっかくの休みに、篤子がわがままを言うから、みーくん、遠出して疲れたんじゃないか?」
何も知らず、相変わらずみーくんに信を置いている父ののんきな様子を見ていると、彼女は言葉が出なくなった。勢いで、この晩寛いだころに、結婚の話を打ち明けてみようかとも考えていた彼女だけれども、その気持ちはどこかへ隠れてしまった。
結局、知らん顔で過ごした。
 
父よりも先に、彼女がみーくんと結婚するつもりであることを打ち明けたのは友人の方だ。こちらはわかりが早く、ちょっぴり心配はするもののすんなりとお祝いムードで応えてくれる。
「わたしも、うんと年上の彼とつき合っていたら、早く結婚したくなるのかな」
「すごい」、「おめでとう」の嵐が去って、ふと菫ちゃんがそんな感想を口にした。
確かにそうだろう、と篤子ちゃんは思った。仮にみーくんがずっとずっと彼女の年に近ければ、彼だって結婚をそれほど意識しなかっただろう。
そういえば、みーくんはプロポーズのちょっと後で、こんなことをもらした。
『篤子ちゃんが、こんなに早く結婚を考えてくれると、全然思わなかった』
二人でいて、どちらかが強く何かを願っていたり望んでいたとすれば、言葉にならなくても、自ずとそれは伝わるのかもしれない。それが、感じる自分にとって、嬉しくて優しいものであれば、なおさら。その方へ、愛情に沿って水が流れるように意識は傾いでいくのかもしれない。
友人らに祝福を受けたのが勇気の糧になったのか、篤子ちゃんが父に打ち明ける決意をしたのは、その晩のこと。
夕飯は考えて、父の好きなメニューを作った。アジのつみれの味噌汁にマグロの照り焼きがそう。機嫌をうかがいつつ、食事の後で「ねえ、お父さん」と切り出した。
彼女に、ひどく口にし辛い。たとえば、中学や高校のころの、散々のテストの結果を差し出すのにちょっとだけ似ていた。
(先生も、あのお母さんにどんな風に打ち明けるんだろう? 緊張するのかな)
と、ちらりと思うそばから、
(あ、でも先生はうんと年がいってるから、平気だ)
まるで車を買い替えると知らせるくらいのことだろうと、篤子ちゃんは推測する。
ともかく。
食器をキッチンに下げ、リビングのソファーに新聞を手に座る父のそばに行き、彼女は打ち明けた。
最初父は、彼女の顔をじっと見て、何かの冗談とでも取ったのか、よく聞こえなかったのか、しばらく黙ったままでいた。
それに篤子ちゃんが、もう一度「先生と…」と言いかけるや、その言葉を遮って問う。
「まさか、妊娠でもしたのか?」
父にしても、たまにある娘の外泊が、そのまますべて彼女が言う「友達」と一緒だとは思っていなかった。その何割かは、おそらくみーくんと一緒なのだろうとくらいの勘繰りはしていた。
安心して彼女を預けておけるだろうと見るみーくんだからこそ、何も言ってこなかった面があるのだ。贔屓目もあるが、可愛い娘である。どうせできる彼氏なら、まともで大人なみーくんがいい。
(たちの悪いのに引っ掛かるより、よほどいい)
と、深まった気配を見せる娘のつき合いを、大目に見ていたのだ。
篤子ちゃんは赤くなって、父親の問いを慌てて否定する。
「違う、違う」
次に父は、別の問いを発した。
「もしかして、お父さんが、再婚するからか?」
「え」
その問いに、篤子ちゃんは絶句した。ややして、首を振り、手も振り、
「ううん、そんなの関係ない。お父さんの再婚とは、全然違うもん」
今度は朗らかに否定しながら、心の底で頭のどこかで、関係がないことなどないことを、彼女は知っている。
(長瀬さんが来るから)
だから自分は出て行こうとしているのだと。ちょうどよくそこに、本当に折りよく、優しいみーくんがいてくれて、彼女を本音で求めてくれた。
だから、
(わたしは、逃げている)
はっきりとそこに意識がいった。
(嫌なんだ、長瀬さんが)
あの女性が嫌いなのではない。
本当は、父の再婚など認めたくないのだ。心の根っこでは嫌なのだ。
けれども彼女はそれをわがままで、子供っぽいと捉え、まるで自分の小さなテリトリーを侵されるように感じることは、いやらしく姑息だとすら思ったのだ。
(恥ずかしくて、…言えなかった)
幼いころ彼女が自分で懸命に作った癖がある。「お父さんのために何ができるだろう」というもので、こもごも家の事柄を考える際、彼女はまずそこから考えをめぐらす。
だから、反対するなど思いも寄らない。
父の再婚を知ってから、様々な事柄が絡み、知らず糸のように張りめぐらした彼女の見えない思考は、精緻になり込み入って、もう解けないほどにほころびがない。
答えは彼女の中でできているのだ。
(わたしが、いなくなればいい)
もちろん、そんなことは明かさない。
「先生が、好きだから…」というだけの、必死で、どこか健気な彼女の言葉が、父の側にも響いたのか、
「わかった」
みーくんに直に話を聞きたいという留保はあったが、最終的に「反対はしない」との言葉をもらった。
「娘が、将来、平均よりずっと上だろう今のみーくん以上の男を見つけられる保障は、どこにもない」ということが、決断の根にあるのかもしれない。
「お父さん、ありがとう」
篤子ちゃんは、一瞬虚脱し、どっと全身から汗がふき出す思いがした。
 
 
『お父さん、OKしてくれたの』
 
みーくんは篤子ちゃんからのメールを見て、二人の結婚の最大の難関だと捉えていた彼女の父親が、こんなにあっさりとその許しをくれることに、ほっと安堵もし、意外な結果に拍子抜けもした。
あんまりあっけないので、二人の意図とは違い、「将来的に許す」ということじゃないかと勘繰ったりもした。
けれども、そうではないという。
篤子ちゃんはどんな魔法を使ったのだろう、とも思う。みーくんの見る限り、溺愛とは違うが、彼女の父はひどく娘を可愛がっているのだ。それが二十歳そこそこで、すんなりではないだろうが、ともかく結婚を許してくれるとは、まさか思わなかった。
父親の反対があれば(当然あるだろうが)、時間を置くことも必要だろうと考えていたみーくんだけに、嬉しい誤算だった。
その週末、彼は彼女の家に赴き、直に結婚の意志を率直に告げた。父親は当然の逡巡は見せたが、それでも快く許しをくれた。
 
ウィークデイの一日、仕事明けに篤子ちゃんと会った。食事をして、彼女が観たいと言ったDVDをレンタルして部屋で少しだけ観た。
そう遠くなく彼女が自分の奥さんになるのだと思うと、みーくんは信じられないような、ちょっと面映いような、けれど間違いのない幸せを感じる。
これから、何でも彼女の好きなようにしてあげたいと思った。
「あ、先生」
おずおずと彼女がバックから取り出した英語の課題も、彼は機嫌よく受け取った。
「いいよ、してあげる」
こういった甘やかしが彼女をスポイルすると、嫌がっていたくせに、人とはまったく変わる。案外、スポイルされているのは自分の方ではないかと、みーくんはちょっと思うときがある。
(意味は少し違うけど、本城が言った『魔女っ子篤子ちゃん』は、あれで当たってるのかも)
「ねえ、先生、結婚のこと、あのお母さんに言った?」
「どうだった?」と篤子ちゃんの問いは続く。「あの」という代名詞が前に付くことが、彼におかしい。独特で個性的な母親だが、そのような印象を彼女も持ったのだろう。
みーくんは首を振った。告げていないのだ。
ためらっているのでもなく、事後報告のような形でいいと考えているだけだ。また高々と家業云々を持ち出されては敵わないが、ときどき蛇のようになる「あの」母親が、今度それを篤子ちゃんに強いても、きっぱり突っぱねてやろうと決めている。
「大丈夫だよ、反対なんてしないから」
「そう?」
なぜか篤子ちゃんが不安そうな顔をする。それが可愛らしくて、みーくんは思わずぎゅっと抱きしめた。もうすぐ自分のものになると思うと、この腕に抱いた華奢な身体が愛しくてならない。
時間を気にしながら、急くように抱き合った。
彼女を送った後、みーくんは思い出して実家に電話した。確かに篤子ちゃんが想像した通り、これは彼には大した大事ではなかった。散々のテスト結果を親に見せた気まずい過去を思い浮かべることもない。彼女は知らないが、そもそもみーくんは勉強で苦労をした経験がない。
母親に結婚の件を報告すると、
『誰と?』
誠におかしなことを訊かれる。この前「彼女」だと連れて行ったではないか。
「篤子ちゃん。ほら、この前、母さん会っただろう」
『え!? あの子?!』
「何でそんなに驚くの?」
それには答えず、母親は低いどすの効いた声で、『あんた、孕ませたの?』と、あられもない訊き方をした。
おかしいやら、そのせりふがちょっと恥ずかしいやらで、みーくんは笑いながら返した。
「そうじゃないよ。彼女もいいって言ってくれたから」
篤子ちゃんの父親の了解ももらってあると言い足した。
『ふうん。折りを見て、挨拶に行かないと』
これで承諾なのだ。
それ以上は、彼の予想通りこれといった言葉もない。「近いうち連れていらっしゃい」と命じるように言い、あっさり電話を切った。
みーくんは、これまで篤子ちゃんとの結婚へのシナリオを、ひっそりと自分のみで立てていた。
それは何か、イメージでは建造物を建てるに作業に、彼には似て思えたのだ。まず自分の彼女と結婚したいという気持ちが基礎になる。そこに彼女側の同意を経て柱が立つ。
イメージはここまでしか、できてなかった。その先が描けなかった。
彼にとっては彼女のイエスを聞くことまでが大きな難関で主眼で、そこからはまったく漠としていた。
そこからの細やかな部分を、これから篤子ちゃんの意見を容れて、声を聞いて、二人で描いていくことができるのだ。
それがみーくんに嬉しい。
ちょっとたとえる言葉が見つからないほど、嬉しい。
 
部屋のリビングの床に、抱き合った際、彼女が落としたピアスを見つけた。拾い、ローテーブルに置いた。
他、彼女が残した影のような品は、ちらほらと見える。キッチンに伏せたカップであったり、サニタリーのリップクリーム。または置いていったきりのパジャマ代わりのワンピース…。
今、当たり前に彼のそばにあるそれら。
以前、彼は自分だけの勝手な考えで、彼女を切り捨てようとした。それが正しいとさえ信じていた。
篤子ちゃんは一切それを責めなかった。自分のせいだと、逆に詫びた。少したって、そんなことなど忘れたように自分に接してくれる。
わがままなようで、優しく、気ままなようで、思いやり深い彼女。子供のようで、ときにどきりとするほど大人びて見える彼女。賢い彼女。
(一度、失いかけた)
みーくんはピアスを、思い立って、サニタリーの彼女のリップクリームのそばに置いた。もし自分が忘れても、彼女の目に付きやすいだろうと考えたのだ。
シャツのボタンを外しながら、歯ブラシを口に突っ込んだ。当たり前に自分の分の横に彼女のものがある。
自分のせいで、彼女を、
(一度失いかけた)
思い返したくもない記憶は、一瞬ざっと通り雨のように彼の頭に嫌なビジョンを刻む。
考えたくもない、彼女のいない日常と空間と、未来。
それらを消すように、彼は洗面台の蛇口を強く右へ回した。あふれ出す水に、自分の描いた不吉なものを流し去るように。



          

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