すべてが夢だと云うのなら、きっと、私という存在も、
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そろそろ新緑のころ、みーくんは篤子ちゃんを連れ、花滝温泉の実家に向かった。行楽シーズンを迎え、観光地の実家周辺は、ちらほら観光客の姿が見られる。
二人が着くと、普段忙しい温泉旅館を営む母親が家にいた。昼の時間を避けたから、案外手が空いているようだ。
最近かけ出した細いフレームの老眼鏡の目で、つんとこちらを見やる細面の美貌の母親は、職業柄の和服姿と相まって、ちょっと迫力があるのだ。
出先などでは、間違ってその筋の人々に挨拶をされることもあるという。本人は冗談めかして言ってはいたが、しっかり実話だろうとまわりは見ている。
その母親を前に、ごく簡単にみーくんは篤子ちゃんとの結婚を改めて伝えた。息子には何も言わず、彼女はその隣りにちょこんと座る、いかにも頼りなげな篤子ちゃんに訊いた。
「篤子ちゃん、本当にいいの? あれで」
「あれ」での部分は、息子を顎で示す。母親の絹子さんにしてみれば、まさか本気でつき合っていると思わなかった二人が、「結婚する」と言い出したのだから、驚く気持ちも大きいのだろう。
しかも、篤子ちゃんは二十歳になったばかり。まだ学生の身である。絹子さん自身が信じられないほど若いころにみーくんを生んだ人ではあるが、今は時代も違う。やはり訊かずにはいられなかった
「あれ…」と篤子ちゃんは、つぶやき、隣りのみーくんを見てからこくりと頷いた。
息子の方は、それで報告は終わったとばかりに、片膝を立て、のんきに煙草をくわえる。
式のこと、その後の生活のこと、決めていないこもごもは多いが、それなりに二人で話してでもあると見え、
「早くしてしまおうと思って」
あっさりと口にする息子に、「ふうん」と応じはしたものの、母親としては面白くない。重要なことを忘れているのではないか。
我がそう強くない篤子ちゃんとは、合わない感じもない。
結婚するのはいい。篤子ちゃんに骨抜きにされてしまっている様子もいい。
(でも…)
この、手間をかけない割りに優秀に育った長男には、家出して行方も覚束ない娘の分まで求めることがあるのだ。
 
居間には庭に降りられる縁があり、そのガラス戸があいているのか、太った三毛猫がのそりと入ってきた。
別に飼っている訳でもない。小早川家に人があれば、それぞれ勝手に餌をやるので居ついた。
「あ」
篤子ちゃんは猫に気を取られ、そちらへ向く。無邪気に「触ってもいい?」とみーくんに訊くから、彼には可愛い。
「いいよ」
彼の猫でもないのにそう答えてやると、彼女は「ごめんんさい」と母親に断り、猫が寝そべる縁に立った。
何となくその姿をみーくんが追っていると、母親の自分へ向けた意味深な視線に気づく。
「何?」
敢えてとぼけてそう訊いた。この母親が、結婚話の流れで当然に家業の事を持ち出すと、かねてから考えてはいた。
前の彼女は女将の仕事に興味があったらしく、それならばと止めもしなかった(そのやりようで母親と大喧嘩に発展し、絹子さんを悪し様に罵る姿を見て、みーくんはすっかり醒めてしまった過去がある)が、篤子ちゃんにはその気もなければおそらく資質もない。
彼自身母親の辛い時期も見て育っているので、か弱い(ようにみーくんには見える)可愛い篤子ちゃんには、とてもさせられないと思っているのだ。
(母さんには、悪いけど)
そう切羽詰った話でもないとも思う。母親はまだ五十前で元気であるし、また、妹の賀織がどういう気紛れのバイオリズムかで、帰ってこないとは限らない。
跡継ぎ云々は、それからでいいではないか、と彼は思うのだ。
案の定、母親は「篤子ちゃんはうちに入ってくれるの?」と切り出してきた。
「今のマンションに住もうかなって、考えてるんだけど」
「住むところなんかどこだっていいのよ。あの子…」
縁側で猫をいじる彼女を顎で示し、
「若女将、やってくれる気あるの?」
「母さん…」
みーくんはそこで母親に向き直り、はっきりと意志を伝えようとした。先制攻撃である。
けれども、息子の声を聞かず、絹子さんは彼ではなく縁の篤子ちゃんへ声をかけた。まったくの奇襲に、みーくんは口に挟んだ煙草を取り落としそうになった。
「ねえ」
気さくで優しげな声を出し、
「息子と結婚するのなら、うちは旅館の仕事をしてくれる人でないと、とっても困るのよ」
「え」
篤子ちゃんは、虚をつかれたように絶句し、猫を離すとまた戻ってきた。みーくんにちらりとくりんとした瞳を向ける。
「あのね、篤子ちゃん大丈夫だか…」
手を取り、安心させるためにかけた声を、また母親が一切無視し、彼女へ、
「うちは、そういう固い決まりになってるの。みーくん、言ってなかったのね。ごめんね、この子ときどき詐欺みたいなことするのよ、他は文句がないんだけど」
そんな「固い決まり」など、みーくんには初耳である。
「ちょっと、母さん、訳のわかんないこと言うなよ」
絹子さんはみーくんなど眼中にない。目下の標的は篤子ちゃんだ。その返答次第では、ちょっと困ったことになる。
無論、みーくんと同様、絹子さんにも篤子ちゃんが家の仕事に向いているとは見えないし、ひどく強要するつもりもない。
けれども、切実に自分の後継者がほしいのも事実なのだ。向く、向かないなど、やってみなければわかるものでもないし、時間をかけて手ずから育ててやれば、この一見おっとりとぽややんとした篤子ちゃんも、期待に応える若女将に、
(化けてくれるかもしれない)
ではないか。
といったような母親の魂胆が、みーくんにはガラス張りであるかのように見えるので、篤子ちゃんへ向け、宥めるつもりで、
「気にしなくていいよ、母さんの言うことは。妹もいるし…」
「あんな家出娘、何の役に立つの。いつ帰ってくるかも知れたもんじゃない」
「もう人買いに買われちゃったかも」などと、吐き捨てるように言う母親の声に、みーくんはちょっと眩暈がする。
(人買いって…、まったく…)
不審げに自分へ向ける篤子ちゃんの視線も痛い。彼女には変わった妹の執拗な家出癖のことなど話していない。
「母さん、いい加減にしてくれないか。僕は、篤子ちゃんにはうちの仕事をさせるつもりがないんだから」
みーくんは煙草を灰皿に押しつぶし、はっきりと告げた。
その声をはっきりと母親が重ねて無視し、またもや篤子ちゃんへ、声をにわかにトーンダウンさせ、
「わたし一人でしょう、もうずっとそれで頑張ってやって来たけれど、もう若くないし、どんどん年をとる先を考えると、不安ばかりで…。身体もきつい年頃だし…。篤子ちゃんみたいな若い子には、こんなこと言っても、よくわかんないだろうけれどね」
次は泣き落としか、とみーくんはあほらしくもなるが、本音がちらりと潜んでいないとも限らず、反論を控えた。ただ篤子ちゃんをうかがい、その手を握った。
篤子ちゃんは彼と母親を交互に見、やや首を傾げている。
(あ、引いてる)
「蛇モード」の母親にすっかり怯えているのではないかと、みーくんは篤子ちゃんの心情を思い、はらはらとする。
「みーくんだけが頼りだったのに…」
この母親には、往年の既に家族と言っても過言ではない恋人がいる。近所の内科医院をしている人物で、何くれとなく相談をしているのだから、「みーくんだけ…」というのは嘘である。
その恋人を指し、「結城先生がいるだろ」とみーくんはつぶやいて返した。
殊勝な心境を語った後で、けろりと母親が付け足した。
「みーくんには、予備校を始めるとき資金を援助してあげたわよね」
正式には援助でなく融資だ。
「返しただろ、全部」
そこでまた篤子ちゃんに戻り、
「聞いた? 「返しただろ」だって。情けないわ、本当に。苦労して育てて、楽でもないのに大金まで融通してあげたのに。返せばそれで済んだと思って…、一人で大きくなったつもりでいるんだから。親の恩を何だと…」
みーくんは、これ以上は篤子ちゃんの精神衛生上よろしくないと判断し、立ち上がった。彼女を連れて帰るつもりだった。
とにかく顔合わせは済んだ。
この母親に懲りて、「やっぱり結婚はちょっと…」などと翻意されては敵わない。
促そうとして、ぽろっとその声が聞こえた。
「やってもいい、わたしでよければ。お母さんの役に立つか、わからないけど」
「え」
「まあ」
みーくんと絹子さんの声が重なった。
その返事が、母親の気に入ったらしい。謙虚な感じが前と比べ耳に心地よかったのかもしれない。
喜ぶ母親とは裏腹に、みーくんは、彼女がしつこいセールスに屈服して契約してしまう人のような心境になったのだと思い、慌てて家を出ようとした。立ったまま、ちょっと屈み彼女の肩へ手を置いた。
篤子ちゃんはそれでもきちんと座ったまま、母親を前に朗らかに、「やってみる」と告げるのだ。
「え」
彼女には迷いも屈託も、何もないように、みーくんには見えた。
 
 
まだ明るいうち実家を出た。
帰る道すがら、みーくんは頻りに彼女の翻意を促したけれども、篤子ちゃんは、「大丈夫」と請合うばかり。
不意に出る、例のひどく冷静な声でもって、
「やってみるけど、できるとは限らないでしょう」
自分にだって、できる自信のない篤子ちゃんである。実感もない。
だから、
(構わない)
のだ。駄目だったときは駄目だったそのとき考えればいい。たとえ役に立たなくても、一応絹子さんの期待に沿うよう努力もするのだから、角も立たないし、素質がないと匙を投げてあきれれば、あの強烈な母親も自然あきらめてもくれるだろう。
「ごめんね、母さん、ちょっと独特だから」
「ううん」
篤子ちゃんは、ハンドルを握るもう片方の手で自分の手を握ってくれるみーくんに、もう一度「大丈夫」を返した。
その声は気負いがない。気負ってなどいないからだ。
ぼんやりと思うのは、それらの不安ではなく、みーくんと絹子さんが、顔や姿はそれとなく通うのに、性格や話し方などはあんまり似ていないみたいだということ。
(妹の、家出してるっていう賀織さんって人は、似てるのかも…)
そんなどうでもいいことを頭に描き、ちょっと黙ると、みーくんは彼女の機嫌が悪いのかと気を揉むらしく、あれこれ言ってくれる。
我慢しなくていいこと、
何でも、自分に言えばいいこと、
これからも、彼女の気に適うよう、何でもしてくれること……。
それが、優しくて、少し耳に心地いいのだ。
一人ではないと、嬉しくなる。
「先生と結婚するのに、必要なのだったら、頑張れると思う」
本音とちょっぴりの媚びの混じった声で、彼女は言った。返事にか、みーくんはぎゅっと彼女の右手を絡めて包んだ。
結ばった指先が、言葉がなくても何かを伝え合うようで、互いにどこか嬉しいのだ。
(先生でよかった)
篤子ちゃんは思う。その腕に、頬を当てもたれた。
(先生が好き)
そして、伝えられない思いが胸の一番深いところにわずかに残るのだ。
十分に気持ちはある、彼しかいないし、それ以外は考えられない。たとえば、みーくん以外の誰かとキスやその先へ進む自分をほんの軽く描くだけで、違和感にちょっと怖気が走るくらい。
けれども、ほんのりとした彼への罪悪感が消せない。消えてくれない。
(家から逃げたいのだ)
と、自分に気づいた瞬間から生まれた彼女のそれは、どこかで息づいて消えない。
だから、何か彼のために出来るのであれば、何でもしたかった。それで彼が少しでも喜んでくれれば、胸のちょっとだけ疼く場所が、ほっと楽になれるような気がするのだ。
(いけないこと)
だという意識が彼女にはあって、それがじんと彼へ罪の意識を疼かせる。
でも、本当に「いけない」のは、彼女から発した自然なその思いでもない。
それは伝えないことだということに、篤子ちゃんは気づかない。



          

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