鏡よ鏡よ、この世が美しいと云うのなら、真実を見せて、
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楽しさの果てがない時間があるとして、ちょうどそれは、今のみーくんの心境が当てはまる。
篤子ちゃんとの念願の結婚が叶う。その事実は単純に彼を喜ばせたし、これからの二人の未来を描くことは、本当に嬉しい。
そのみーくんも、篤子ちゃんの幾つかの要望のあっけなさには、驚いて目を瞬かせた。
その日、仕事明けに彼女と待ち合わせ、ファミレスで食事を取りながら話した。
何となく気持ちが盛り上がってしまい、結婚を「できるだけ早くに」を決め、こもごもを詰めていく。
みーくんの本音では、何も要らない。早いうちに籍だけを入れ、一緒に暮らし始めたい。式やあれこれは、都合を考え、その後でも彼にはちっとも構わないのだ。
もちろん、自分のそれとはまったく違い、篤子ちゃんには結婚へ、女の子らしい夢や希望もあるだろう。叶う限りそれを叶えてあげたいと、彼は思う。
けれども、式や旅行の段取りなどに簡単に見積もっただけでも、どれほど急いても三ヶ月はかかるだろう……。春の今からでは、
(夏ごろかな、急いでも…)
篤子ちゃんを前に、みーくんは胸の中でつぶやいた。その案外の時間の量に、高まって熱くなった気持ちに、ちゃっと冷水をかけられたように感じた。
それに、夏になればますます自分は時間が取り辛くなる。彼らの予備校の講師は、まるでスターのように替えがない。しかも夏場は夏期講習や集中講座などがあり、とても休暇など取れそうにないのだ。
自分で作って経営しているのだから、そのぎりぎりっぷりは、肌で感じられるほどだ。そのぎりぎりが望外の利益を生んでいるのだけれども、
(そろそろ、一人二人求人をかけてみようか…。七年も、無理してきたしな)
自分や本城さん、経営者はまだいい。我慢が効く。けれど、他のスタッフにこれと同じようなことがあれば、今の状況では不意の休暇も認めてやれない。
みーくんの頭がそんなことをちらりと考え出したとき、篤子ちゃんが彼の手を取った。
「要らない」
と言う。一瞬、彼は彼女が何を言っているのかわからなかった。食べあぐねているオムライスを、彼にくれるというのかと思った。
「どうしたの?」
「先生、忙しいでしょう? 披露宴とか、旅行とか、そんなの無理でしょう?」
「無理じゃないよ、篤子ちゃんのしたいようにしよう。でも、ちょっと時期が…」
てっきり彼は、時間の融通が効かない自分に彼女が拗ねているのだと思った。不満に思っているのだと。
慌てて、握られた手を握り返し、彼女の瞳を見つめ「大丈夫だよ、何とかする」と告げた。
言いながら、敢えて実行している薄氷を踏むかのような時間割とそのスタッフ配置が浮かぶ。
(できる…、かな…?)
甚だ覚束ない答えがひっそりと出たとき、篤子ちゃんが意外なことを言い出した。
今度のゴールデン・ウィークの連休を利用して、短い旅行を兼ねた式をどこかで二人で挙げればいいじゃないか、と言うのだ。
「え」
みーくんは呆気にとられた。「今度のゴールデン・ウィーク」と篤子ちゃんはごくさらりと言ったが、今から十日ほどしかない。
「急なキャンセルとかあって、探せば、今からでも大丈夫なんじゃないかな」
ちょっとだけ照れるのか、彼からさっと目を逸らし、持て余していたオムライスをまた口に運んでいる。
みーくんはちょっと舌を巻く思いで、彼女を見つめるのだ。
確かに篤子ちゃんの提案は、瑕がない。まず忙しい彼のスケジュールに適い、式も挙げられる、そして式を兼ねて新婚旅行も付いている。
それから何より、希望通り早く彼女と結婚できる。
みーくんにとってベストの解決策だといっていい。けれど、それでいいのか、篤子ちゃんは自分を気遣って、無理をしているのじゃないか。そんな不安が浮かび、
「いいの? 篤子ちゃんはそれで」
彼女はこくりとうなづき、やっぱり要らなくなったのか、スプーンに乗せたオムライスを彼の口へ運んできた。
何となく、食べてやる。
みーくんがそのあんまりおいしくないオムライスを喉にやると、篤子ちゃんは「バリがいいな。あそこの花嫁衣裳がきらきらしてて可愛い」などと、微笑みながら言うのだから、彼にはもう愛らしくて堪らない。
バリでもパリでも何でもいい。
「お父さん、賛成してくれる?」
みーくんの心配の種はそこにもある。こんな急では、さすがに許可がもらえないような気がするのだ。
「大丈夫だと思う」
篤子ちゃんが言うには、彼女の父親は「みーくんなら安心」と随分と彼を信用してくれているらしい。だから、今夜にも自分から話しておくと、請合ってくれた。
みーくんに異論などない。
ただ、あんまり易く決まり過ぎ、ちょっとどこかぴんとこない気もするのだ。だから、それでいいのかと、みーくんは重ねて問う。
彼女はふふっと笑みを浮かべてうなづいてくれた。
「披露宴とか、どうしようか?」
海外ウエディングを済ませ、帰国後に時期を見て披露宴を開いた友人もいた。そのパターンを頭に思い出し、口にすると、
「あ」
と、篤子ちゃんは、瞳を瞬いてからくりんとすくい上げるように彼を見た。いいアイディアがあると言う。
「だったら、『花のや』で、したらいい」
それはときに出る、彼女のあのとびきり冷静な声で、このときみーくんは、どうしてかずっと昔テレビで見た大河ドラマの戦国武将を思い出したのだ。床机に座り、全軍に迷いなく下知する武田信玄だとか上杉謙信のような卓越した名将だ。
(うまいな)
と思う。
「いいの? それで」
「うん、先生のところがよければ」
確かに母親の経営する『花のや』で披露宴をするとなれば、稀にそういう使い方をするお客もあり、自分の息子もそれに倣うのだ。まずあの母親は大喜びするだろうし、言い出しっぺの篤子ちゃんへの心証も、きっとずっとよくなる。
先の戦国武将などと、可憐な篤子ちゃんの姿かたちはもちろんちっとも重ならない。なのに、そんな場違いでおかしなイメージを思うのは、何かの拍子にほろっと彼女が垣間見せる、ひどく落ち着いた、こちらが驚くような聡明さだからだろうか。
彼女には思いつきを口にしているだけのことであろうし、気負いもない。
彼自身がちょっと、目から鼻に抜けるように頭の働く人である。若干意識もしている。けれどもそれを意味なく表に出すことに、変な照れと居心地の悪さを感じる性質だ。
賢さをやたらとひけらかさないことが、何よりの教養だと思っているみーくんに、だから、彼女の控え目な素振りは接していて心地がいい。
また篤子ちゃんの新しい部分を見つけ、また好きになった。
 
 
みーくんから早まった式の連絡が行った母親の絹子さんが、日を置かず、挨拶に篤子ちゃんの家を訪れた。
いつもの仕事着のような和服姿で現われた。この日、みーくんは平日でいない。
何度目か会う篤子ちゃんは、絹子さんの姿を見ると、そばの父親へ、「ね、すごいでしょう、先生のお母さんきれいでしょう?」と、自慢げに言い小突いたりなどしている。
あどけなくもあるそんな彼女の素振りが、大抵自分の意見が通った絹子さんには微笑ましい。
それは可愛らしいけれど、子供っぽく、幼い。ついでに言えばみーくんが好むはずと見ている巨乳でもない。
とっても失礼な思いだが、一体我が息子は何に血迷って篤子ちゃんに決めたのか、どこに惚れたのか、いまだに絹子さんにはよくわからないのだ。
今日の挨拶を、絹子さんは軽く考えていた。篤子ちゃんの父はもう二人の結婚を認めている。後は先方に彼女が結婚後、自ら進んで小早川の家業の旅館を手伝ってくれるという件を、女将の絹子さんからオブラートに包み説明するだけのことだった。
客間に通され、机を前に向き合ったとき、絹子さんはお茶とお菓子を運んできた、自分とそう変わらない頃合の女性を、誰だろうと訝った。
その女性は当たり前に、篤子ちゃんの父の隣りに座るではないか。
(叔母さんとか、そういうのかしら)
篤子ちゃんの家は、父一人娘一人の父子家庭だと聞いている。
小早川家にはありがたいことに、一人っ子ではあるが、嫁にも出してくれるという。
「早過ぎるとは思いますが、みーくんなら、大丈夫だと安心しています」
「息子は、篤子ちゃんとは年が離れているのが、わたしも不安でしたが、二人の気持ちが固いようなので…。こちらのお父さまにはその点もよくご理解いただいて、本当にありがとうございます」
美しく結った頭を下げながら、絹子さんは「当たり前だ」とちょっと思っている。
息子は見目好く頭よく、性格もいい。ついでながら空手も有段者だ。稼ぎも悪くない。どこに出しても恥ずかしくないはずで、そう信じている。
会話は最初から和やかなムードで、絹子さんは「やり易い」と思った。今後のつき合いも、おそらく気楽なものになりそうだと。
そこへ、すっと女性の声が割って入った。父親の傍らに座る例の女性である。
「篤子ちゃんから聞いて驚いているんですけれども、お宅さまのお仕事を手伝うという件ですが、確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
それに絹子さんは丁寧に答えた。自分が付き添い、彼女にゆっくり仕事を覚えてもらうつもりでいること。
「もちろん、学校が最優先ですから」
と微笑んだ。これはリップサービスのつもりである。本当に忙しくなれば、ちょっとくらい彼女には短大の融通をつけてもらうつもりでいる。
「ゆくゆくは、強いてでもないですが、篤子ちゃんに継いでもらいたいと思っているんですが…」
以前たっぷりと強いて、意見を通した後で、けろりと温和な顔でこんなことを言う絹子さんである。
「はあ」
と女性は父親と顔を合わせている。再び女性から、「お仕事の内容なんですけれど…」と前置きがあり、お客の酒の相手をさせないでほしいと注文がついた。
「そういうの、うちの篤子ちゃんにはさせたくないんです」
鷹揚にうなづいて応えながら、心中絹子さんは舌打ちをしている。
女将であろうと若女将であろうと、挨拶程度のお酌はするもので、お客にもよるが常連の場合、しばし席に付き添うこともある。その際杯やグラスが空になれば、勧めてお酌をするのはこちらの当然の仕事だ。
内心、上品な雰囲気のある謎の女性に若干苛立ちを感じながらも、絹子さんは、
「ほんの少しのお酌程度はあります。けれど、それ以上の接待のような仕事は、決してしてもらうつもりはありませんから、ご安心下さい」
その声に、また女性は「ねえ」と父親と顔を見合わせている。
それに、
「大丈夫、お母さん」
と篤子ちゃんが声をかけた。それに、絹子さんは自分が呼ばれたのかと思った。彼女を見れば、その瞳はあの女性へ向いている。
(お母さん?)
まったく虚をつかれた。幼いころ死別し、篤子ちゃんには母親がいないはずだ。そう息子は言っていたではないか…。
「反対はしたくないのだけれど、やっぱり心配なのよ。お父さんも、あなたはアルバイトもしたことがないって言うから…」
「お母さん」と呼ばれた女性は、ちょっと弱ったように眉をしかめ、しかし優しく篤子ちゃんへ答えている。
「あの…」
絹子さんはとっさに篤子ちゃんを見た。彼女はけろりとした朗らかな顔で、「何?」と、自分を見返すばかりだ。
絹子さんの不審の気配がようやく伝わったのか、父親がこちらも穏やかな様子で教えた。
「こちらの長瀬さんと、近く再婚するんですよ。篤子はなついて、もう母親のようなものです」
「左様ですか…」
絹子さんはちょっと驚きに呆然とした。
その後、短く式の件などを確認程度にやり取りし、それでいとまを告げた。
 
 
昼休みに、いきなり珍しく母親から電話があり、みーくんは仕事帰りに実家へ向かった。
そのときの声が変にぶっきら棒に尖っていたのを思い出す。この日母親が篤子ちゃんの家へ挨拶に行くことは知っていたから、そのことを訊くと、
『いいから、ちょっと寄りなさい』
それきりで、ぶつりと電話が切れたのだ。
十時ちょっと過ぎに、実家へ着いた。
あまり時間がない。以前篤子ちゃんが予想したように、旅行会社に問い合わせると、バリでの式を含めた企画の旅行プランに思いがけず空席があることがわかった。
ファックスで資料を送ってもらってあり、それについて篤子ちゃんの意見を聞きたかったのだ。その旨をメールもしてあるが、電話で直に話しておきたかった。
母親の話など大したことではないと思った。今日の篤子ちゃんの家での挨拶に緊張したの、仕事の合間に手間だったのと、愚痴って彼へちょっとした恩を着せたいのだと思った。
話が済めば、すぐにここから篤子ちゃんへ電話するつもりだった。帰りの時間が億劫で、みーくんは「泊まるから」と、冷蔵庫からビールを取り出した。ネクタイを外し、シャツのボタンを緩めながら母親の前に座った。
母親は帯を解き、襦袢姿の、こちらもビール缶を手にしながら、煙草をくわえている。彼には見慣れた仕事を終えた母親の姿だ。
「あんた何か食べたの?」
みーくんが首を振ると、母親はちょっと立ち、ダイニングテーブルから小ぶりな寿司折りを持ってきた。用意してくれてあったようで、礼を言うと彼は早速食べ出した。
「どうだった? 今日、篤子ちゃんち行ったんだろう?」
「ふん」
一つ二つつまんだところで、紫煙ばかりをふかす母親が、おかしなことを言い出した。
挨拶に敦子ちゃんの家に行った際、彼女の母親がいたというのだ。
「え」
みーくんは、口に含んだひらめの握りの咀嚼も忘れた。母親の不機嫌そうな顔を見つめる。
「再婚するんですって、近いうち」
だから、いるはずのない母親格の人間がいて、よほど驚いたと絹子さんは愚痴った。
「上品そうな人よ。篤子ちゃんも、もう「お母さん」って呼んでたわね。仲がいいみたいよ」
みーくんはようやく寿司を喉にやった。ちょっと言葉が見つからない。
唇へ煙草を戻し、息子によく似た癖で、その隙間から、少しつぶれた声を出した。
「あんた、篤子ちゃんから何にも聞いてないのね」
みーくんは、やはり声が出ない。
家族が増える、または減る。大きな事柄だろう。
母親の話にひどく驚いたのと、これまでその気配すら感じさせなかった彼女の行動は、正直なところ、ちょっと彼に薄気味悪かった。
(何で……?)
箸が止まった。
軽く咳払いをしてから、彼はビールを少し飲んだ。炭酸と苦さが合わさって喉を過ぎるとき、母親の声がした。「家を出たいのかしら、あの子」と、それは小さく、ひとり言めいて聞こえた。
「話を壊したくなかったら、あの子に何も言いなさんな」
篤子ちゃんをほしいんでしょう? と問う形でつなぐ。
それで話は終わったと、絹子さんは襦袢のまま立ち上がり、居間を出て行った。風呂にでも入るらしい。



          

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